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戦国・幕末時の鉄砲
戦国・幕末時の鉄砲についてお聞きしたいです。 1、「鉄砲に使う火薬が当時日本では希少で、堺を押さえた織田や島津といった貿易が強い国以外は鉄砲の数自体はかなり持っていたが、火薬がないため工芸品・美術品のような扱いになっていて、戦いには使うことは少なかった。」 という話を聞いたのですが、これは本当なのでしょうか。 2、長篠の合戦で織田軍は武田軍に大勝するわけですが、武田軍はただ騎馬軍に頼ったから、織田軍は革新的な鉄砲隊を組織したから(=騎馬vs鉄砲)なのでしょうか。武田は鉄砲を戦争で使わなかったのでしょうか。また、これは家臣ではなく、信長の考案(鉄砲への先見性、鉄砲隊組織)ですか。 3、幕末大二次長州征討で、幕府軍は長州軍の洋式鉄砲の軍に負け、「飛び道具とは卑怯なり」的なセリフをはいた武将もいたと聞きましたが、長き平和の時代が続き、長篠の合戦を忘れてしまったのでしょうか。
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#1です。 火薬について、ソースを示しておきます。
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- YUZURU
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1.の火薬がないので工芸品に・・・は、江戸時代の話ですね、江戸に入って火薬を扱えたのは、岡崎と江戸だけです、それ以外の藩は扱ってはダメだったので、美術品扱いになったようです、ただ役職としては大砲方や鉄砲方というのがあり、大阪冬の陣で大阪城の天守閣に弾を打ち込んだ青銅製の大砲を、幕末に大砲方の役人が伝えられていた製法で火薬を作ったが爆発せず、独自に研究し発射に成功した話や、物資に乏しい長州軍がお寺の床下から煙硝を集めて使った話は有名です。 3.幕末、幕府軍にも近代兵装の部隊はいました、ただ、幕府はフランス陸軍の援助で近代化を進めていましたが、薩長はアメリカから兵器を輸入していました、当時のアメリカは南北戦争が終わった直後でだった為、銃火器がとても進化していました、例えば、フランス式の銃の弾は、丸い弾でしたが、アメリカから入ってきた弾は椎の実型の現代の弾に近いものでした、又、大砲の威力も大きく進化しており、薩長が持っていたアームストロング砲は破壊力、射程距離で世界一の性能でした、もちろん、幕府側にもアメリカ製の兵器は、入ってきており長岡藩と会津藩は、ガトリング砲持っており、長州征伐時と戊辰戦争でそれぞれ威力を発揮してります、会津では、仙台藩がこっそり送った援助物資を夜陰に紛れて、川から運んでいた際にそれに気がついた新政府軍が送り狼になってついて来たのを、城の水門で、藩主の松平候自らガトリング銃を撃って撃退した話もあります。あの新撰組でさえ、砲術方指南役が近代兵法の導入で、居場所を失い脱走して局中法度により切腹しております、鳥羽伏見の戦いも確かにゲーベル銃とアームストロング砲で一方的にやられましたが、それも錦の御旗が有ってこそであります。 ただ、盲目的な部隊もいなかった訳ではなく、旗本の子弟で組織された京都市中見回り組等はかなり刀にこだわっていたようですし、戦国時代の兵装のまま大阪に集まっていた武士も多かったのも事実です。
- nozomi500
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2:「長篠の戦い」で3000丁の鉄砲隊、というのは創作で、じつは織田軍は全軍あわせて1000丁しか鉄砲を持っていなかった。したがって、長篠に3000丁持っていけるはずがなかった。 当時の戦闘は、夜明けとともに戦いが始まり、午前中に決着がつくものだったのが、この戦いは午後3時ごろまで続いたそうです。天下分け目の関が原の戦いより戦闘が長い。近代的な鉄砲が主役ならそんなに長くかかるはずがない。 弓矢と鉄砲の差は、「素人が練習して撃てるかどうか」にあります。 武田の場合、地方の実力者が頭数をそろえるのに農閑期の百姓を引っ張り出しますが、戦闘で死んだり負傷したりすれば、百姓仕事にかかわる。 これに対し、雑兵を織田軍は戦闘力として練習させた。 のちに「検地・刀狩」で身分確定させたように、百姓は農作業に専念させ、年貢を供出させて、あまった労働力を農作業からはずして戦闘兵にしたてた。 この分業制が後の封建制度の確立に大きな役割を果たしているでしょう。 武田も、勝頼の人望のなさは致命的だったでしょうね。 「人は石垣、人は城」それでなりたっていた武田軍だから。 しかし、もし、当時上杉謙信が病死しなくて、武田と組むことができていても、結局は織田・徳川軍に敗れる運命なのでしょうが。
- snowbees
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#2の補足です。2)武田滅亡の理由は、種々言われますが。武田の内紛と裏切り;勝頼は信玄の側室の子で人望が無かった;織田と違って、武田は国人の寄せ集めで、まとまりが無かったと。私は、名門意識が最後まで邪魔したと思います。 3)幕府軍の大名は、自費参加で、かつ紀州藩を除いて、戦意が乏しいと。
- oka123
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結論だけを言えば、「財力」だと思います 武田も幕府も、近代で言えば日本帝国陸軍も すぐれた武器を大量に使用すれば勝てる ことはわかっていたはずです それを実現可能するかどうかが新兵器採用の財力です 信長は、楽市楽座、濃尾平野の農産物、堺の商業・貿易、 長州(薩摩も)、貿易、藩内産業育成、有力商人の財力 によって、新兵器やそれを運用できるための費用負担が 可能であったから、と思います 武田、幕府、帝国陸軍はそれに関する費用負担する 財力が無かったため、新兵器への切り替えが 遅れざるを得なかったと思います (幕府はフランスから借款までして武器を買うように 小栗上野がすすめていたのですが慶喜により中断) 帝国陸軍は総合国力がアメリカよりも圧倒的に 不足していたので、結局は貧弱な装備しか用意でき なかった
お礼
財力の違い、なるほどもっともな話だと思います。 経済力で戦国時代を比べるとどうなるんでしょう。 ゲームでしか見たことないので。 織田はずばぬけていたんでしょうか。
- snowbees
- ベストアンサー率22% (173/760)
1)戦国時代は、火薬の原料である硝石は、日本で産出しないので、主として中国から輸入した。この結果、堺の今井宗久などが、信長や秀吉と提携して、成金になった。下記のサイトを: 2)鉄砲の数よりも、織田・徳川連合軍の兵力が2:1か3:1で圧倒していた。 武田の作戦ミスや勝頼の指導力不足も敗因でしょう。 3)「幕府歩兵隊」によれば、幕府も新式銃を揃えていたが、指揮官が実戦経験がなく、作戦ミスも多かった。長州・薩摩軍は、英国相手に負けたとはいえ、実戦経験があり、作戦が優れていたと。 http://webcatplus.nii.ac.jp/tosho.cgi?mode=tosho&NCID=BA59654191
お礼
2、3については初耳です。 幕府は長州軍の10倍くらいの軍勢だったとか。 しかも新式銃を持っていたと。指揮官の良し悪しだとすると、大村益次郎や高杉晋作がいかに優れていたかとなりますね。
補足
ところで長篠の合戦の敗戦一回で武田は滅亡しますよね。(ちがったらすみません) なぜそこまで大敗してしまったんでしょう。 武田軍も鉄砲を持っていて威力は知っていたのに。そこまで武田軍は愚かな作戦だったのでしょうか。
- 100Gold
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1、について 「陽精顕秘訣」には古い山家の縁の下に、必ず煙硝があると書いて在るそうですので火薬はそれほど貴重品ではなかったのではないかと思います。むしろ鉄砲の筒の部分を作るのには高度な技術を要しますので、鉄砲の方が貴重だったはずです。その意味では「数は持っていたが工芸品」と言う点は真実かもしれません。筒の部分を正確に製造する技術がなければちゃんと玉が飛びませんから。 2、について 信長はもともと本願寺の鉄砲に苦しめられていた経験から鉄砲隊を編成したそうです。 3、について 忘れたというよりは武士道が実戦よりも様式を重んじるものになっていたことが理由ではないでしょうか?剣術では強い者が偉いのですが剣道になると卑怯な勝ち方をしたのでは評価されなくなります。茶道もそうですね。味のうまいまずいは関係なく「結構なお手前です」ですから。
お礼
3の答えはなかなかなるほどと思いました。 そうですね、形にこだわるということですね~。
お礼
参考URL見ました。 なるほど!伝来初期は硝石をいちいち輸入していたが、それを自前で作れるようになったのですね。作ったのは本願寺ですか? すごい技術力(発送力)ですね・・・。 ゲームではそんなに強くないのに(笑)