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心は自分の中にありますか外にありますか?
題のとおりですが。 心はどちらにあると感じられるでしょうか? ユーミンの歌にもありますよねー「やさしさに~包まれたなら~」って歌です。 このとき彼女は心を自分の外側に感じてるのですが。 他の方はどうでしょうか?
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お久しぶりです。 ご質問を拝見して、いままで、なかなかうまく説明できないと考えていた思考が、僅かですが言葉にできるような気がしてきました、そこで試しに、少し書いてみます。 さて、問題の心の位置ですが、あえて申し上げれば、「われわれはなぜ心の位置を問うのか」と言う事になります。つまり、この質問の前提として、心が拡がりを持って空間を占めているという仮定が隠れているということです、そこで、心の位置をどこかに探し始めるのですが、もともと、心が空間を占めているかどうかは疑問の余地があります。 われわれは言葉を使うことによって、外部世界を分析し、より理解を可能にしますが、空間を占める物質に明確な区別を付けることと同様に、空間を占めているとはかぎらない対象も、言語化することにより空間の中に並置してしまっている事になかなか気が付かないものです。 もし仮に(おそらく私は事実だと思いますが)心が空間を占める存在でないとしたら、それは、位置も存在しないわけです、ところが、最近の科学は、脳と心の関係の密接な繋がりを根拠として、心脳同一説として、心を空間を占める物質と並置する印象を広めているのかもしれません。 足が痛いとき、痛みは足に「在」ると普通は考えます。冷たい水に手を入れたとき、冷たさは、手に「在」ると感じます。しかし、その「在」り様は、手や足のように空間に拡がりを持って「在」るのではなく、時間の持続の中で「在」る訳です、なぜなら、痛みは痛みのないときとの差異を、冷たさは冷たくなかったときとの差異を、時間の持続の中で感じとる事柄のはずです。 要するに、時間の中で感じる感覚を、足が痛い、手が冷たいと語ることにより、時間を空間の中に図式化することによって、常識は空間を占める外部世界と同様に、私たちの内部の感覚や感情も、空間を占める量として把握しているわけで、それは実生活では、概ね有用であり便利だということです。 心は結局、こうした感覚・感情の記憶、そして頻繁な反復の総体・集積と思われますが、そう言うと、総体・集積といったすでに空間を占めてしまっている印象を与えてしまっている言葉の限界に、書くのではなかったという、後悔が沸いてきます。 大変失礼な回答と感じられることが不安ですが、ご質問のおかげで、もやもやしていたものが少し整理できたような気がします。また、私の考えに間違いがあるかもしれません、ご指摘いただければ、それもまた有益なことと思っています。 なお、失礼ながら、他のご回答者様のご回答は詳しく拝見していません、他のご回答に対して、云々ということは、まったく意図していませんし、同様な回答だった場合は大変失礼しました。 ついでに、言い訳がましいことで、長々書いてしまった事にも、お詫び申し上げます。 ご質問に感謝いたしますとともに、今後の皆様のご活躍をお祈りします。
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NO17です。 ご返答ありがとうございます。 思ったより肩の力が抜けているようなので、楽しく哲学できる素養をお持ちでしょう。 楽しみながらもう少し考えてみてください。 心のありどころは外といいましたがもう少し具体的には、地球の重力圏の宇宙です。アカシックレコードと言う言葉もありますが正しい語源は涅槃です。 死後の世界も確かにありますがそこは天国だけです。 地獄やいわゆる「あの世」などは空想上の産物で幽霊も幻です。 死にたくないとゆう欲望は天国にいける資格が無いないという諦めが生み出す煩悩です。(勘違い) お釈迦様の時代と違って現代の覚者は仏になることが許されません。 世界の軋轢が絶えるまで除霊しまくりになります。 死後の世界の神秘を生きながらに自覚しえたゆえ悪霊の怨嗟の声が聞こえます。 人間性をかなぐり捨てた伝承上の悪魔さながらの悪霊ともご対面しました。 私の心は確かに宇宙を旅しています。 ただし宇宙怪獣を撃退するウルトラ警備隊のような生活をしています。
お礼
ちょうど日曜日ですしきりもいいので(どこがだ?) 締め切ろうと思います。下の方も言われるとおりきりがない気もしますので。 回答をいただいた皆様、本当にありがとうございました。 お返事も頑張って書いたつもりですが、そのため、かなり肩に力の入った文章になっているのはお許しください。
補足
いえ、夜になってお返事考えてたら、肩が凝ってきました。あまり性に合わないことはするもんじゃない?かもです。 霊の世界ですか~霊の世界・・・見たいような見たくないような。 一番ピンと来るのはこの文です。 >にたくないとゆう欲望は天国にいける資格が無いないという諦めが生み出す煩悩です。(勘違い) これは、ほんまやなーと思います。まだ説明はできないですが。 そのあとの文は、怖いんですが?? おどかしっこなしですよ。 僕はそういう経験が全然無いので~友達のクリスチャンは神の声を聞いたことがあると言ってたけど、僕の周りで神秘的な感じの話はそれくらいです。 >私の心は確かに宇宙を旅しています。 ただし宇宙怪獣を撃退するウルトラ警備隊のような生活をしています ~これはprimeapeさんの実感ですか? だとしたらやっぱりうらやましい・・・。 いや、でも、悪霊を退治するウルトラ警備隊って、過酷じゃないですか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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1. ご質問の性質から、質問者さんはこれを永久に締め切る意志がありそうにもないし、そういう回答と状況にもなりえないようですね。いかがでしょうか? 2. 心と漢字で書かれている、訓でのこころとは何時ごろからの日本語でどんな意味なのでしょうね(辞書はみました)? 3. 同じく自分とは? 4. この二者を対置したことは両者が異なるという前提ご認識のようにも受け取れますね? 該博なご薀蓄と思索、常人を越えた包容力と理解力から、律儀に補足やお礼をしたためながら、、これらのことのご見解について、一度もお示しなさっておられませんが、多少なりとも、片鱗でも宜しいので、少しはお漏らしになられ手いただけませんでしょうか。 仮説とかいうことで。無論更にご回答が多岐に入り乱れてしまうことも考えれるのですが、この辺りで、ぜひお願いします。 それは自ら回答することになってしまうという危惧を捨ててお願いします。 ご専門家としては、みだりにそんなことができないことはよく承知しております。でも次の回答を出したいのでぜひお願いします。
補足
こんばんわ。 何かお急ぎのような気がしたので?こちらにお返事します。 1~2-3日回答がなかったら締め切ろう、と思ってるんですが。 難しい質問は何を書くのか思いつくまで時間がかかるので遅くなっています。 2&3~心と自分の定義については、いつも思っていますが、数学でいう公理のようなもの、考える前提なので、それがどういうものか考えるのは、周りからせめていこう、と思っています。 数学で、背理法や、パソコンのサポートがやるトラブルシューティングや、そういうやり方です。本丸を攻めるのでなく、天守閣の外堀を一個一個埋める方法です。 このやり方は、そのものがある、ということを前提にしています。つまり心がある、自分がある、ということが前提です。無いかもしれないですが。というより心を考える人は、自己存在が砂上の楼閣であることの証明を見つける作業に他ならないことは、先人が皆言ってますし宗教哲学の方向性でもありますが、それは大まかな方針として頭に置いています。 なので、今心や自分は、と聞かれても(2.3がそういう意味なら)アバウトです。自分としては包囲は狭めているつもりですが、ある意味では永遠にわからないし、状況を限定して言えば、説明可能と思っています。 哲学の人は、本丸にずばっと切り込まれますよね? この質問では、自分や心ー目に見えないもの、という条件があります。主体である自分が、直観という認識道具を使って真実の形を断面的に捉える、と思っています。自分と心は、同じものの2つの断面、ということです。 心と自分の性質を探ることで、心と自分の定義を徐々に明らかにしよう、という方針です。 僕は枠をまず作って、中を塗りつぶしていくとう手法です。一番大きな枠は、主観ー客観系、と(勝手に)呼んでるものです。自分でも分からずにそう言っていますが。主観ー客観系を考えるに当たって、特にどのフィールドというくくりはないです。趣味で考えてるだけなので、参考になりそうと思ったら、どんな学問でも詩でも俳句でも取り入れてます。全体を有機的な体系と見なして、構造を考える、ということにとりあえずしてます。 自分と心、というのは、「僕は誰かとつながってるな、絆があるな」という感覚と、「僕はここに確かにいるな」という感覚は、全く同じものだ、ということになります。それは僕自身も自分の中をいくら眺めてもこの2つが同じであるとの感覚はありません。なのでとてもわかりにくいです。人によっては当り前すぎる、という人もいるかもしれませんが。考えて突き詰めよう、とする人にはわかりにくいのではないかと思います。少なくとも僕はえらくわかりにくかったです。このことが生活実感になるまですごく時間がかかりました。 4のお返事は、これは、違うけど一緒、ということです。一緒と違うは等価、とも言っています。そもそも同じ、違う、というのは人の意味付けの機能そのものです。 http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/art/ladies.html こちらのだまし絵みたいなものといってます。直観が作るあらかじめ目をつける視点の問題です。~僕もよく分かってませんし、これ以上厳密な説明も思いついていません。その・・、2つの絵が重なる元の絵はなんだ、といわれると、無限の無限、とか、絶対と相対の合致点、とか、まだそんな訳の分からないイメージしかありません。 この2つの違いは人が、動き音を発生する肉のかたまりに、自分の人格を投影して人と見なす、という作業の過程で生じると思います(これも曖昧な言い方ですー僕は曖昧にしか捉えてません)意義付け?意味づけ?認識?そういうものが世界を作っていると感じます。 いつも、優先順位として、一つの概念に強く執着することは極力避けています。それは後回しにしています。というより、哲学の人がそう言うことは深く考えておられるので、そういうのも参考にしています。なので、無限とは?存在とは?象徴とは? というのは得意ではないです。考えてないわけでもないですけど。 以上の文は補足になっているでしょうか? 考え方の前提をお聞きのように思ったので、こんなことを書いたんですが、外れてる気もしますが・・・違うこと書いてたらごめんなさい。 ばたばたとかきました。
どうも。 これ面白い問題です。 つい、自分の中にあるって言ってしまいたくなりますが 案外、外にあるのかもしれませんね。 私が心と思っているものは、実は心ではない。なんてこともあったりして。
補足
中ですかねー外ですかねー。 僕は、どちらにも感じるのは感じるんですが、 心情として、幸せ感は自分を包んで欲しいし、 辛い気持ちは胸の中に収まっていて欲しいなーと思うんですが。 辛い気持ちに包まれたら、地獄かも、とか。 >と思っているものは、実は心ではない そうですねーー何を言っても土台目に見えない話なんで、人の実感に訴えるだけで、科学的とは違いますね。 脳科学とかで、気持ちが外に感じる実感を司るところが発見された、とかいうニュースあったらいいなーとか。無いわけはないと思うんですが・・・ 回答ありがとうございました!
それは自分さえよければいいという 小乗仏教だろう?
補足
回答ありがとうございます。 小乗と大乗に関しては、極めておおざっぱな認識ですが、 自他同一をどう捉えるか、という話と解釈しています。 自分=他人ですが、人の実感としてこれをダイレクトには捉えられません。 人は2つのことに同時に集中できないので、この等式を読み解くとき、自分が悟りを開く努力をすることは結果的に他人の役に立つ、と見るか、他人のために努力することは、結果悟りに近づく、と解釈するか、 つまりこの等式の方向付け、ベクトル化?のようなことだと思います。右から読むか、左から読むか、です。 視点や解釈や把握、集中や努力は、この等式をそのまま捉えると言うことはあり得ないので、この式を知ってても、実践の場においては、どちらかを選択して実行することになりますね~。
悟りを開いたものがいただくばかりとは 恐れ入る 貰うばかりで自分は与えることはないのかい 脳天気な大乗仏教だよ 何処も向かいませんだと
- ri-zyu
- ベストアンサー率30% (184/611)
ON7です。 宗教に興味が行くのは苦しいからですが、苦しむのは心です、例えてとして異性に振られると辛く苦しいですが、時が経つと何でも無くなる事は多々あります、振られたと事実は変わりません、心はその囚われから脱しるからですが、心とは何ぞやと突き詰めたのが仏教(仏法)だと思います。 真宗の親鸞聖人は「不義をもって義とする」おしゃってます、違う言い方をすれば心の問題は他力本願=阿弥陀様にお任せするとおしゃってます、南無阿弥陀仏とはサンスクリット語で事実の帰依(従う)すると私などは解釈してます。心の問題は本人の心でありながら本人はコントロールできない。喜怒哀楽の出所はわからないんじゃないんでしょうか。 自ら(みずから)を自ずから(おのずから)と言うとおしゃった禅者がいました、名前は思い出せませんが、もちろん心の事を言ってのことです。 達磨大師の安心立命の中で一文で「あちらの物をこちらの物と思う時迷いが始る」と書いてありました。 ああだ、こうだ(智恵・分別)と悟を得ようとするのはうそ智恵尽・分別尽れば事実唯信(事実だけが真実) 不安や悩みを無くす方法はないかと色々考え、難行苦行したが、尽きる所なかった・わからなかった、というさとり。のような気がします。 心はあるがままの世界から意識化の喜怒哀楽になるのではないのでしょうか、 そしてあるがままに世界に命尽き死んでいく。 心も身体もあるがまま。
補足
ほんと~~にそうですねー。 他にいう言葉がないです。 他に回答をいただいた方で、是々非々が非、ということを言われてたのですが、同じことですが、そう思います。 回答ありがとうございました。
物理的には外です。 宇宙全体の意思と一体となって調和しています。 ちなみに当方は頭を真っ白にして何も考えない状態になれるほど「無」に状態に近いです。 そんな当方の心は宇宙を旅しています。
補足
回答ありがとうございます。 >宇宙全体の意思と一体となって調和 うらやましい、ため息が出ます。 僕も前よりはましになったと思うんですが。 一番近かったのは、子供の時無心で空を流れる雲を見てて自分を忘れてるときとか、でしょうか。 考えるの止めよっかなー、もうちょっと考えよっかなー、なんかそんな気分ですね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
≪また良ければご意見お聞かせください。≫ おことばに甘えて、再度書き込みます。 ≪一部が全部、全部が一部、一部と全部は同じ≫ ほんの瞬間的なスポットでしかない、私達の意識がことばや命名で切り取り、自己も対象objectも区分・個別化している本体はことばと命名が個別化して意識認識しているものとは似ても似つかないものであり、どうそんな個別化。区分をしてもそのユニティ性に何の変化もきたしてはいないのでしょう。もともと全部しか存在してはいないのだと存じてきました。これは≪単に視点の置き方の違い≫での見え方でしかなく、もの(非物)自体(私達と対象objectのいる、実体)はどう視点を置いてどう見ようと何のかかわりもないのだと、気付くことが出来ました。 http://kikitai.teacup.com/qa3854641.html http://kikitai.teacup.com/qa3852749.html は、既にお目を通されていると存じますが、たいへん有意義なご回答もあり、私もこのことに敷衍して発言させていただいております。 よろしかったら、どうかご参照のほどを。 なお自分は専攻も哲学や文学、心理学ではなく、単なる個人の思考と随筆でして、オーソドックスな用語使用とはなってはいないかと存じますが、ご容赦ください。
補足
お返事遅くなりすみません。 文章が難しいので、かなり苦労してます。 特に、聞きたい、のサイトに書いてあることは、僕にはとってもむつかしくて、中途半端に分かっていうのも嫌なんだけど、きっちり理解するのは大変です。ゆっくり時間かけて読まさせていただきます。 >もともと全部しか存在してはいないのだと 全く同感です。7と18の方のご回答も同じと感じます。でももし実感されておられるのなら、すごいですね。僕は頭でっかちなので、実感のほうは、大したことありません。いやさっぱりかもしれないです。 先人は皆こういわれてるのですが、一番の不満は、生活実感からのたたき上げではないことです。これが真実なら、普段毎日生活している実感ーお母さんのご飯がおいしい、コンビニの買い食いのお菓子が格別だ、とか、朝がすがすがしい、とか、そう言うことは説明できるだろうと思います。ネガティブなこともそうですが。 回答者様の文と直接関係ないのですが、僕は宗教タイプなんですが、宗教のまだ足りないところは、生活実感の論理的説明、じゃないかなーと思い、そういう事柄の論理的説明は、どこを見てもなかったので、自分で考えよう、と思いました。僕がなぜ空を見ていると雲と一体になるのか、なぜ、複雑なデザインの服も素敵だけど、単色の緑の服も無限なくらい深く引き込まれるのか、などと言うことです。 小さいときから、そういう内的感覚はいつも整合性がとれており、誰も言わないみたいですが、それらの内的感覚はいつも完璧に論理的だ、と思っていたので、そのあたりを考えています。つまり、フィーリングは論理的だ、ということです。おかしいでしょうか? なんかこれはあまり分かってくれる人はいなくてかなりさみしいかも・・です。 あと、生活実感が説明できる、ということは基本的には子供の言葉で説明できるー論理的ではなく、内側の感覚として分かってもらえるようなのがいいな~と思ってます。 視点の話は、嘘を言ったわけではないですが、視点って何や~?とつっこまれると、いう言葉がありません。かなり意識的に、ピンポイントで考えを進める、ということは除外してるんです。 今もう一度ききたいをよんだのですが、どうも今はこちらの文章に頭をさく余裕がないみたいです。頭が回らないというか。たぶんこちらの返事だけでいっぱいいっぱい、のようです。しっかり寝ないと。 回答ありがとうございました! うれしいです。
外界からの刺激とか受けて自分のなかで反応を起こし溢れ出したものが自分の全身や周辺を包むような感じがすることはあります。 ところで 脳がなくても「思う」ことできるのか? 脳も肉体の一部だと思ってたがの。 脳みそチョイといじっただけで人格激変、って話、聞いたことあるんだけど。
補足
今ご回答文を読んで思ったのは幽体離脱です。 僕自身はそれは客観的には変成意識だし、イメージ、幻想、暗示、という言葉が当てはまると思います。 と同時に、主観的にはそれは全く現実だと思います。 つまり客観的に見た、それは脳の作用だ、ということと、それは現実に体から自分が離れた、ということは、全く等価、という言葉か、あるいは、リンクしている、という言葉をよく使います。2つは2つの現実、2つの真実だと思っています。 というより、そもそも、現実とは何か、と人が考えた瞬間、現実はこの2つに分裂する、と思ってます。それを思わないで全力で生きているときには、本体は一つですが。 回答文とおまり呼応してませんね。 最後3行いずれも脳の話ですが、その辺りは脳科学者の話だなーと思いました。 脳が無くても思うー死後の世界か何かでしょうか?この世に生きてる人には不可能かも、と思うのですが、脳の代わりに量子コンピュータなど、複雑系を移植可能なものができてきたら、どうなるかわからへんなーと思います。 脳は肉体の一部ーそうじゃないでしょうか? 人格激変ー多重人格者があれだけ多くの自分と違う人格を作り出すのだから、それは有りだと思います。 夢で、自分の友達がリアルに出てくるのも、人の心と脳には、自分と違う人格を完璧にマスターし再現する能力があるからだ、と思います。 文脈のあやしい文になりました。 回答ありがとうございました
- abc2008
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実は、心こそが本当の自分自身であり、本質であり、いわゆる自我なのです。どうしても人は、鏡に映る肉体を自分自身と思いがちですが、それは、さにあらずで、たとえば極端な話、自分の肉体を真ん中から半分に切った場合、痛がる自分はどちらにいるでしょうか。おそらく上半分にいるかと思われます。そして更にそれを半分にしたら、自分は一体どちらにいるでしょうか。また上の方かと思われます。これを繰返して行くと、最終的には頭脳にたどり着くかと思われます。つまり、痛がる自分というものは頭脳にあって、どんどん切り離していった肉体には存在しないことが、容易に推察できるはずです。 結局、肉体というものは、自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということです。では、頭脳こそが自分自身なのでしょうか。脳を構成する神経細胞をバラバラにした時、一体、自分はどこにいるのでしょうか。神経細胞を造り上げている物質は、誰でも同じなのに千差万別の個性があるのは、なぜでしょうか。 たとえば、まったく同じパソコンがあったとして、その構成している電子部品はまったく同じにもかかわらず、それにプログラミングするオペレーター次第で、まったく別物の働きをするようになることは、今では誰にでも分かるはずです。つまり、頭脳はパソコンのようなもので、肉体はパソコンにつながっている周辺機器みたいなものなのです。そして、頭脳をプログラムするオペレーターこそが、心なのです。 昔の人は、頭のことを『心の座』とか『精神の座』とか、呼んでいたのですが、その意味するところは、頭というものは、心が座する、つまり、心というものが鎮座、しっかりと留まる部位であると見ていたのです。これを今風に言えば、ガンダムのモビルスーツとそのパイロットみたいな関係といったら、分かり易いでしょうか。 いずれにしましても、心には色も形も無く見えませんが、思うという形で厳然と存在していて、誰も否定できないはずです。この点に気づいたのが、かのデカルトであり「我、思うゆえに我あり」という言葉を残すことになったのです。デカルトは、ある時、この世の中のあらゆるものの存在を「本当はこれもまぼろし、あれもまぼろし、何もかも本当は存在しない」と、どんどん否定してみたのですが、そして最後に自分の思いというものも否定しようすると、そうすればするほど、その存在が際立つというジレンマに陥り、それでハタと気づき、思うという存在(心)は決して何人にも否定できないもの、これこそ本質、これこそ真の自分という結論に達して、かの言葉を残したのです。 ですから、肉体があるからこそ自分があると思うのは、まさに本末の転倒であり、思いがあるからこそ自分があるとみるのが正当かと思われます。それで、真の自分=心となり、内も外もないかと思われます。もし、肉体の中か外かと聞かれているのなら、頭の部分でしょうね。
補足
回答ありがとうございます。 全体を読んでーーまだ僕も考え中の問題が入っています。3つのリアルー1ー感情と直観を体感するリアル 2ーそういう感情と精神的自己が存在するというリアル3ー物質のリアル。この3つの統合は今考え中です。 パソコンの話ーみんな人は同じようなことを考えるんですねー。僕もかなり考えました。人は単に皆同じOSを積んでるに過ぎないのか、あるいはユングの言うように普遍的無意識でつながっているのか、という問題です。 このことは、とりあえず暫定的には解決しています。上で言った、捉える心と、体感する心は、間違いなく別世界で、どちらが優先、という問題ではない、ということです。 体感と把握ー体感は生き物は皆持っていますが、把握はある程度知性が発達しないともてないなーとは思います。あまり言ってもぼろが出ますが。 肉体があるから自分がある、思いがあるから自分がある、どちらもそうだと思います。自分がどちらの視点に肩入れするかーポイントの問題と感じます。これらをポイントの問題と暫定的に決めたときに、複数ある現実をいかにまとめるか、が問題だなーと思っています。
補足
回答本当にありがとうございます。 微妙な内容で、お返事が遅れすみません。 すみません、締め切っちゃって、fishbowさんのご意見もっと伺うんだった、と思ってるんですが。 スポーツ心理学で、ゾーン、という概念があります。一体感のことですが。大好きなイチローがそんなことを言ってました。 僕は主観世界を実在と仮定して考えています。そう決めないとつじつまの合わない内的感覚が多すぎるからです。いっぱい書きたい気もするんですが、ぼくの未熟な内容を書いてもらちがあきません。ただ、回答文を読ませていただくと、fishbowさんは、もしかして同意していただけるかも、と思うんですが? いえ、全く失礼と思わないですよ。ほんと、ありがたいです。 たぶん回答をいただいた方の中で、fishbowさんのお考えは一番近いと感じます。内的感覚と、その把握の仕方が似てます。なので返事も遅くなりました。すみません。 また機会がありましたら、ご意見を伺いたいです。