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壬申の乱と大海人皇子など
1. 国栖は服ろわぬ民と存じておりました。しかし吉野の国栖の里のひとが、大海人皇子を助けたとのお話をある新聞の記事で知り、国栖が服ろわぬ民というのは間違いであったのかと存じましたが、いかがなものでしょうか。 2. その新聞の見出しでは国栖を国楢と書いていましたが、両者は併用されるのでしょうか?両者はおなじでしょうか。 違うなら、どんな使い分けがあるのでしょうか? どうかご教示ください。(いうまでもなく歴史には門外の自分でして)
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1.半分神話のような話なのでよくわかりませんが、神武天皇が熊野から大和へ入るときの、途中の吉野に住んでいた先住民なんだろうと思います。 早く服従したのが国栖で、土蜘蛛という先住民ははなかなか服ろわなかったという話ですが・・・。 http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-68-3.htm 2.栖と楢は違う字ですね。 栖:セイ、す、すみか 楢:シュウ、なら(木の名前) 字が似ているから間違えたクサイですね。 国栖が正しいでしょう。 今でも吉野地方に国栖という地名があります。 こんなページもありました。いろいろあります。 http://kamnavi.jp/jm/kuzukami.htm なにせ大昔の話ですから・・・。
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- tono-todo
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時代が違う話を、並列に並べて論じても意味があるとは思えませんが、 神話の時代は、大王家に抵抗した。 壬申の乱の時は、内紛の大王家の片方大海人皇子に味方した。 それ以上のことではない。
お礼
tono-todo様 ありがとうございました。やはりそういうことでありましたか。 壬申の乱の“乱”という名称もいつから、誰がつけて、どう通用しているのかわかりませんが、興味津々ですね。は 大海人皇子が、地域の抵抗より、味方されたとか、ご自身のがわとしても戦略の通則である、「後顧の憂い」である背後に残していく人たちに何も手を下していないのも興味津々ですね。 有難う御座いました。
補足
欄をおかりしました。すみません。 prius99様。たいへん貴重なアドレスをご紹介賜り、心よりお礼申しあげます。有難う御座いました。 tono-todo様 神話の時代は、大王家に抵抗し、壬申の乱の時は、内紛の大王家の片方である大海人皇子に味方したのですか。 やはり、元の大王家に対しては、服さなかったわけですね。 ということは大海人皇子の出自というのも、お名前も何か示唆てきではありますね。 有難う御座いました。
お礼
早速有難う御座います。 http://www.asahi.com/national/ は昨日のアサヒ・コムの社会面ですが、ここには国楢という字と解釈できる字が使われています。 http://azby.search.nifty.com/cgi-bin/search.cgi?select=41&cflg=%8c%9f%8d%f5&htmltype=2&Text=%8d%91%93%e8 では1.asahi.com:国楢の里(吉野町)-マイタウン奈良 ものづくり担う誇り 吉野町東部の5地区からなる「国栖の里」の魅力は、古事記や日本書紀に登場する古い歴史と、美しい自然。そこには700年を超す伝統の和紙、吉野杉の 端材を材料にした割り箸など、http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000130802120001 というのが上がってくるのです。 そんなことで、質問させていただきました。 有難う御座いました。
補足
歴史には定年7年ほどたってからの関心ですが、この服ろわない民というのに興味を持ち始めました。 やはり国楢はごじだったのですね。 有難う御座いました。