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なぜ混住?
藤堂高虎が伊予から津に入った際、伊予から追従してきた人のために伊予町をつくったのですが、そこは武士と町人の混住地だったんです。なぜ混住地にしたのか理由がわかりません。教えてください。
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旧城郭図を見ると、城の周囲を武家屋敷が取り囲み、その外側に町屋があるとか、城下町の川をはさんで城側に武家屋敷、反対側に町屋などの例が多い(町屋の失火で武家屋敷が焼けぬよう)。 しかしこれ等は築城後に城下町が整備された場合で、城主が移封された場合はこうはいかない。 旧犬山城城郭図を見ると、町屋と武家屋敷の混在がある。 城主の力が強ければ町屋を潰して、武家地にする事も不可能ではないが、領民の評判を考えればやらないだろう。 津はとくに「伊勢は津で持ち、津は伊勢で持つ」といわれた位で、町人の力は無視できない。 藤堂高虎はとくに城下町の繁栄を願い、商人の誘致に勤めたそうで、武家地と町屋を分ける余裕がなければ、混住でも良いと考えたと思われる。
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- at9_am
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回答No.1
> なぜ混住地にしたのか理由がわかりません。 というのは、当時は混住地ではなにか不都合があった、ということを前提としているように思えますが、当時の大抵の町が混住であったことを考えるとそう不思議でもないと思いますよ。 江戸なんかは違いますが、同時代に建てられた城である彦根城の城下町は、かなり町人と武士の屋敷が入り交じった構造をしていることが分かります。 因みに参考urlの地図の一番左下にある堀まで、わずかに1km程度です。
質問者
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ありがとうございます。参考になりました!
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ありがとうございます。とても勉強になりました。