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藩の勤務時間

藩にいる武士の中に仕事が終わったら長時間歩いて、城下町から農村の自宅まで帰ってた人がいたみたいですが、勤務時間ってどれくらいなんですか? それと藩は住居場所を指定はしなかったのでしょうかね 農村に帰るのは、何らかの理由で百姓から武士になった人たちなんでしょうけど長時間歩いて疲れますよね、過労死してしまいそうです

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回答No.6

No.5です 補足を頂戴しました。 補足に疑問やご意見がありましたので追加の説明をさせて下さい。 >私のご先祖は藩が来る前の郷士身分から藩が来てからは藩勤務になった武士です 以前の御質問からしますと「藩」と言われているのは土浦藩でしょうか。 土浦は古代の常陸国に属していて常陸国は親王任地国でした。 この関係で土着の名門の領主が数多くいた地域です。 郷士だの武士だのと分けて取り扱うようになったのは江戸時代以降のことです。 元はといえば支配地が広いか狭いかの違い程度でした。 江戸時代に入りこれ等を取り纏めて大名に統治させたのが土浦藩の発祥です。 つまり徳川氏によって任命された大名が着任する以前から規模は狭くても名門の地方領主がいたということです。 後から入ってきた大名はこの土着の領主から無理矢理土地を取り上げずにそのまま統治させて家臣に組み込んでいったのではないかとおもわれます。 この手法は家康が関東へ移封された際に取った施策でした。 >藩勤務になってからも農村の屋敷に住んだままで土地を藩に取り上げられなかったみたいです おそらくご先祖様は上記の土着の名門の一族だったと思われます。 従って郷士から武士に取り立てる際にも旧来の領地はそのままにしておいたのかと思われます。 大名というか藩庁としても新たに禄を支給する必用がないので財政に負担をかけずに済みます。 >城で勤務もして、休みの日は16キロ離れた自宅に帰り農作業の手伝いしてたんでしょうかね 小なりと言えども領主ですから農作業は土地の百姓にやらせていたかとおもいます。 自ら出向かなくても親族なり配下の人を差し向ければ管理監督はできます。 >藩で何の仕事をしてたのか?とか疑問だらけです 土浦藩に限らず、百姓と直接折衝する代官や手代、手付けなどには地元の地形や人間関係に詳しい地方巧者という人をあてました。 年貢を滞りなく徴収するには不可欠でした。 ご先祖様はおそらくこの地方巧者と看做されていたのではないでしょうか。 年貢の徴収すなわち藩の財政を預かる勘定方に努められていたのではないかと思います。 >因みに藩主は、ほとんど江戸屋敷にいたみたいで、城にはあまりいなかったみたいです 。 土浦藩の藩主は頻繁に変わっていますが最も長く統治していたのは土屋氏でした。 江戸時代を通じて土屋家は老中をはじめ代々重責を担う名門でした。 江戸幕府の重臣ですので下級官僚とは違い常時登城する必要がありました。 領国の経営は家老など自家の重臣に任せていたのでしょう。 地理的に江戸に近いことから緊急時には馬を飛ばせば充分対応が可能だったと思われます。

その他の回答 (5)

回答No.5

>それと藩は住居場所を指定はしなかったのでしょうかね 家臣には土地と屋敷が支給されていました。 中国やヨーロッパでは町全体を取り囲む城壁で守られた城塞都市でしたが、日本では城主が住む城の周囲を掘と城壁で囲むだけでした。 城の堀の外に町が作られていました。 町の区割りを工夫することで敵の侵攻を遅らせて防御するレイアウトでした。 街道から直接城へ向かわせずに交差点はすべてT字路になっていました。 城に近い地区に重臣の住まいを設け後は順次身分に応じて配備していました。 それぞれが集団で暮らすように配備されていました。 この居住地は全て主君である大名から支給されたものでした。 勝手に引っ越すことはできませんでした。 >農村に帰るのは、何らかの理由で百姓から武士になった人たちなんでしょうけど そうとも限りません。 領内を統治するために農村部には代官所が設けられていました。 この代官所に勤務している人達もいました。 必要があればこの人達でも登城することがあったかと思います。 城下町に暮らす家臣でも毎日登城していた訳ではありませんでした。 元々戦闘集団として召し抱えられていましたので平和な時期には人余りの状態でした。 結果として些細な業務でも輪番制で交代で勤務していました。 一日勤務すれば二日休みでした。 重臣の場合は早朝に寄り合いがある日と無い日があり登城時間はそれによって違っていました。 いずれにしても退出するのは午後2時前後でした。 一般の藩士は 朝四ツ, すなわち午前 9 時~ 10 時ごろに出勤して, 昼八ツ, 午後2時前後に退出していました。 遅くても午後4時には退出していました。 この他に24時間城内に留まって警備に当たる日がありました。 ようするに月に10日程度働いていただけだったということです。 大名家(藩)によっては月に5日程度というところもありました。 武士は戦闘要員であることから外出していても暮れ六ツまでには帰宅していることが求められ外泊は禁止でした。 総登城の太鼓が鳴れば即刻登城するのが最大の義務でした。 平和な時代が続き実態はだいぶ弛緩してはいたようです。 とは言え町人のように家族ずれで旅行などということは夢の又夢でした。

sokoo0823
質問者

補足

私のご先祖は藩が来る前の郷士身分から藩が来てからは藩勤務になった武士ですが、藩勤務になってからも農村の屋敷に住んだままで土地を藩に取り上げられなかったみたいです 親の話しを聞くぶんですと由緒書に藩勤務という内容のことが書かれてるんじゃないかと思います 城で勤務もして、休みの日は16キロ離れた自宅に帰り農作業の手伝いしてたんでしょうかね しかし、藩勤務が忙しい時は城下町の宿に泊まったのか?とか、藩で何の仕事をしてたのか?とか疑問だらけです 因みに藩主は、ほとんど江戸屋敷にいたみたいで、城にはあまりいなかったみたいです

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6878/20342)
回答No.4

百姓から武士になった人ではなく 領地として農地を持っていたということでしょう。 藩の土地が全て藩主のものではなく 個別に領地を持っていた藩士もいたのです。

  • takuranke
  • ベストアンサー率31% (3923/12455)
回答No.3

どこの藩も勘定方以外の登城勤務は 約3時間で。 この時間は役職の上の人で、 登城お役目が有る下っ端は、 1時間とか2時間程度。 出勤は10時~11時くらいで終了が大体13時~14時、 昼休憩含めてこんな感じだったそうです ちなみに待機していて殿様に呼び出されなければ、 部屋で待つことだけで仕事終わりと言う人もいたとか。 参勤交代で殿様が江戸に行くとゆるくなったそうです。 (殿様の衣装係はやることが無くなるけど出仕しなければならなかったそうです) 勘定方は1日の収支報告が必要なので、 他の役目と出仕時間帯が異なり、 昼に出仕し報告書が出来るまでで 暗くなるまで仕事していたそうです。 (合わないと報告書に印をつけてそのまま上げて帰宅し 翌日調査と言うのもあったとのこと) 夜勤は月に数回、役目に関係なく回ったそうです。 月の休みは6回程度までは保証されていたそうです。 >城下町から農村の自宅まで帰ってた人がいたみたいですが、 小さい藩だと、 藩内で与えられた領地から登城する人もいたらしく、 1時間以上かかかる藩士もいたようですね。 大きな藩だと 江戸と同じように、 城下町に住まわせることが可能でしたが、 小さいと城下町を築くのも大変で、 城下町の外がすぐに農地で商業地域が小さいなどもあったそうです。

sokoo0823
質問者

補足

本百姓が藩の武士に取り立てられたのは、藩の石高加増によるものもあるらしいです 百姓は田んぼや屋敷をもってたましから、それらは、どうするのかなと思いました

回答No.2

百姓武士は、戦への参加義務はありますが、登城の義務はありません。 登城の武士は城の周辺に住まいがあり、そこで暮らしてたのでは? 勤務時間は、朝7時頃から夕方3~4時頃ではと思います。 町人もそれくらいの時間働いていでしょうし。 要は日が暮れるまでに夕餉の仕度ができ、日が暮れた時には食事ができる時間帯だと思います。

  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2764)
回答No.1

特定な勤務時間等は、藩それぞれの決まり事でしょう、藩の自由意志的な事。 出仕するのは、特定の”お役目:仕事が有る方だけが、朝?から夕方まで。 出仕不要な方々の方が多くて、歩く事・武芸を嗜み常に常在戦場の立場だから、稽古欠かさず”過労死等と言う言葉では”武士とは言えない身分な方々でしょう。

sokoo0823
質問者

補足

ようは下級武士は藩に必要な兵力の数合わせのためいるということでしょうか

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