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「安濃津」が何故「津」に?
以前から気になっているのですが、何故伊勢安濃津は単に「津」と呼ばれるようになったのでしょうか。 安濃津はかつて博多津・坊津と並んで「三津」と呼ばれるほど港として栄えていたものの、明応の大地震によって遠浅になってしまい衰退してしまったとか。そうすると近世以降は特に「津」といえば「安濃津」を連想するような感じでもなかったのではないかと思うのですが、どうして略した呼び方が定着したのでしょう。 またいつ頃から単に「津」と呼ばれだしたのかも気になります。藤堂家三十二万石の津藩もものによっては「安濃津藩」と書かれていますし、明治四年七月に「津藩」が「津県」となっているものの、その年の十一月に桑名・亀山・長島・菰野・神戸各県と合併した際には「安濃津県」と名付けられていて結局その辺りまでは併用されているような印象を受けます。 ご存知の方、お教え頂ければ幸いです。
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お礼
>この地方以外の人々は安濃津と呼んでいましたが、近地の人々は面倒だから省略して単に『津』と呼んでいたのではないでしょうか。 確かにそうなのかもしれませんね。そうしますと讃岐多度郡の津である「多度津」なども地元では単に「津」とのみ呼ばれていたのでしょうか。そうであった場合全国各地に「津」になったかもしれない地名はあった筈なのに安濃津のみがそうなったというのは、単に「早い者勝ち」ということなのでしょうか。それとも県庁所在地となったことが大きいのでしょうか。 >なお、NHKの時代劇『鍵屋ノ辻の決闘』で仲代達也扮する荒木又右衛門が『大和高田・・・・』という台詞を口にしていましたが、ヘンだと思いました。 確かに伊賀の出である又衛門がわざわざそうは言わないかもしれませんね。視聴者へのサービスでしょうか(笑) 今ふと思ったのですが、江戸時代以前にはダブった地名をどのように区別していたのでしょう。江戸初期に松江の堀尾忠晴が「丹波亀山」の天守を解体するという幕命を「伊勢亀山」と取り違えて行ってしまったというくらいですから、やはり国の名を冠するようなことは一般的ではなかったのかもしれませんね。勿論生活圏が今よりずっと狭いですからそれで十分という人々は大勢いたと思いますが。 ご回答ありがとうございました。