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「べっ国使」と「剽劫」の意味
今読んでいる歴史の本の中に、「文武天皇二(698)年、政府はべっ国使 (「べっ」は私のパソコンでは出てきません。「采」の字の「木」の部分が 「見」になった字です)を派遣し、…(中略)…べっ国使を剽劫するという 事件が起こっており、…(後略)」という記述があるのですが、 さっぱり意味がわかりません(^^;) 「剽劫」は「ひょうきょう」とふりがなが振ってあります。 辞書などで調べてみたのですが、古い言葉のせいか、見つかりません。 意味をご存知の方、教えてください!お願いします。
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「国覓」または「覓国」と書いて「くにまぎ」と訓むようです。 > 日本国語大辞典で確認しました。意味として「すむのに適するよい国土を探して歩くこと」とあり、日本書紀に「不見(上下に並べて一字)国、此をば矩弐磨儀(クニマギ)と云ふ」という文があります。
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- kimosabe
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「国覓」または「覓国」と書いて「くにまぎ」と訓むようです。 したがって、 「覓国使」は「くにまぎし」か「くにまぎづかひ」でしょう。
お礼
ありがとうございました(^0^)
- shoyosi
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補足します。コンサイス世界年表では「798年4月13日使を南島に遣わす」とあり、前述の続日本紀の剽劫の主語は「肥人等」となっていますので、具体的には現在の熊本、長崎県に属する天草などが有力だと思います。
お礼
補足ありがとうございます。中央政府が影響力を持つ地域を拡大しようとして 南九州に使者を派遣し、土着の民がそれを脅かして追い返そうとしたのでしょうか? 「肥人」が天草あたりの人々を指すのだとしたら、薩摩・大隅(キモツキは大隅の地名です)と 熊本・長崎周辺の人々が協力して政府に抵抗した、ということになるのでしょうね。 おかげさまでこの分を含む段落全体が理解しやすくなりました。 ありがとうございました!
- Eivis
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【覓・べき・みゃく】・・・探し求める、もとめる。 【剽劫・ひょうきょう】・・・脅迫、脅かす。 「文武天皇二(698)年、政府は覓国使を派遣し、・・・覓国使を剽劫するという事件が起こっており・・・」となりますが、、、 「覓国使」は国名なのか、個人名なのか、肩書きなのか、「探し求める国司」なのか、このままでは前後関係共々分りかねます? ・・・私は5時半過ぎには出かけてしまいますが、今判る事はここまでです。
お礼
長くなるので省略したのですが、し過ぎましたね(^^;)すみません。 「派遣し、」の後に「南九州において令制国設置と南島路の開拓を進めようとした。 しかし、翌三年には薩末比売(さつまのひめ)、衣評督(えのこおりのかみ)である 衣君県(えのきみのあがた)、肝衝難波(きもつきのなにわ)らが、肥人(ひひと)を 従えてこのべっ国使を剽劫するという事件が起こっており、…」 と続くので、おそらく政府に任命された肩書きだと思います。 「剽劫」は「脅かす、脅迫する」に間違いなさそうですね。 ありがとうございました!
- shoyosi
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続日本紀文武4年6月庚辰の条を例文として、日本国語大辞典は「おびやかすこと。おどすこと」と意味をつけています。
お礼
「剽」という字からなんとなく「馬鹿にする」という意味かな、と思ってたんですが、 ぜんぜん違いましたね…お聞きしてよかったです。 私の手元にある辞書には載っていなかったもので…ありがとうございました!
お礼
初めて目にする言葉だったのですが、おかげさまでよくわかりました。 3度も回答していただいてありがとうございました(^0^)