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自己肯定と自己正当化
門外漢です。わたしの見聞が偏っている可能性もかなりありますが、臨床心理学の人は自己肯定と自己正当化の区別がついていないのではないかということが、常々気になっていました。そこで伺ってみたいのですが、確固とした区別があるんでしょうか?それともそんなことは問題にはならないのでしょうか。よければお話聞かせてください。
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- aster
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「自己肯定」と「自己正当化」は別のことです。 >臨床心理学の人は自己肯定と自己正当化の区別がついていないのではないかということが 臨床心理を勉強している学生で、区別がついていない場合は、まだまだ勉強や経験が足りないということでしょう。また仕事をしているサイコセラピストで区別がついていないとなると、そういう人は失格だと言えます。 「自己肯定」というのは、自我または似たようなことですが、パーソナリティの「安定」に関する自己認識・自己評価のありかたで、健全な人は自己を肯定しています。 自己肯定が、成長途上の心の発達で、十分に確立されていない場合や、心に何かの問題があって、何かの出来事を契機にして自己肯定が崩れる場合、神経症の症状になって出てきます。過剰な不安や強迫観念を抱いたり、また身体症状となって現れたりします。 発達心理学的には、「自己肯定」は、最初は、母親またはそれに相当する保護者が、自分の存在を肯定して受け入れてくれた、という事態から確立します。この最初の自己肯定を基礎に、成長途上で、発達課題を達成して行く段階で、自己肯定も重層的な構造になるのです。 人間が自然に、自分として生きていけるには、基本的自己肯定あるいは自分に対する「自信」がないとなりません。 「自己正当化」は、パーソナリティの「防衛機制」から発動される行動でしょう。自分の行為や態度がある場面、状況で不適切であった場合、または他者に受け入れられなかった場合、自己肯定を維持するため、程度によりますが、不自然な理屈で、自己の態度や考えが妥当だと他者に向け、自分自身に向け主張するものです。 自己肯定のなかに自己正当化が含まれる場合もありますが、ひとつの文化のなかでは、文化において許容された自己正当化は、自然的な態度としての自己肯定になります。 別の文化との出会いとか、文化のなかで移行や変動が起こる場合、簡単に図式化すれば、古い文化の自己肯定の根拠が、新しい文化の視点からは、自己正当化と見える場合があり、その場合、当人も自己正当化だと意識し受け入れる場合もあれば、受け入れない場合もあります。 分かりやすい日常的場面では、他の人から見て、ある人のやっていることは、他者をだまし、詐欺のようなことを行い、あるいは詐欺そのものであるのに、その人に、そのことを指摘しても、利己的としか思えない理屈を述べて、自分の行動や思考や価値観を「正当化」し、自己を肯定する場合というのがあります。 詐欺などを行い、訴えられ、逮捕され、裁判になった人が、自分は世のなかのためにこういう事業をしているのである、と主張することがありますが、それの主張の根拠が、屁理屈というか、勝手な理屈で、自己正当化のための一面的な理屈である場合があります。 こういう場合、本人も無理な理屈だと分かっていて、なお裁判に勝つためにこういう理屈を言っているのか、または本人自身、自分の主張がおかしいことに気づいていない場合もあります。どちらの場合も、外部から見ると、自己正当化の屁理屈だと映ります。 屁理屈や一方的な議論で自己正当化し、自己肯定を行っているということになります。 しかし、常習的・確信的な詐欺師でない場合、屁理屈やうそで自己正当化を論じても、段々心が苦しくなってきて、実は、嘘だった、屁理屈だった、済みませんでした、と自分の偽りや過ちを認める場合があります、こういう場合、基本的自己肯定が、嘘などで自己正当化していると、危うくなるので、自己肯定を維持するために、無理な自己正当化を放棄するのです。 こういう風に、自己肯定と自己正当化は別のことなのです。 臨床心理の場合、臨床で治療に当たるサイコセラピストは、クライエントの心の安定が崩れているかもろくなっていて、自己肯定の心理機構が危うくなっているので、治療目的で、世間では通用しないような主張でも、「受容」という形で、肯定することがあります。 無理な自己正当化の主張で、世のなかで否定され、心理的安定、つまり基本的自己肯定が危うくなっている人に対しては、「受容」を通じて、相手のパーソナリティに自信をもたせ、と同時に、問題を自分で考えてみるようにという形で課題として与え、本人自身が、自分の自己正当化の主張がおかしいということに気づいたり、または別の形の心の発達や気づきが生じるように、クライエントの「自己正当化」主張を肯定するのです。 しかし、文化における「常識」というものを弁えていないと、サイコセラピストは無理なのであり、臨床心理学では、「自己肯定」と「自己正当化」は明確に区別されるのです。区別していないように見えるのは、上で述べた「受容」という方法を使うからでしょう。 しかし、臨床心理学も、「受容」を行うのは、非指示型の臨床心理学で、指示型の場合は、自己正当化は受容しません。現代では、日本では、そして世界的にも、非指示型の臨床心理学が、一般になってきているので、「受容」によるクライエントの自覚的気づきによる心の発達の過程という手順が、あたかも、臨床心理学では、「自己正当化」と「自己肯定」の区別がないような外見を与えるのでしょう。
臨床心理学ですよね? 社会心理学とかでなく。 であれば、「違うのかもしれないが、ほとんど問題にならない」ってことなんじゃないでしょうか。 臨床心理学は、主に神経症を治療するための学問です。自己肯定や自己正当化といった行動は人間の正常な反応ですし、ぶっちゃけあんまし関係ないんじゃないでしょうかね。 あんまり寄り道で凝ったこだわりとかがあると、本道の方がおろそかになったりしますし。
お礼
お礼が遅くなりました。ありがとうございます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 極端な自己否定から自己正当化へ飛び移ったあげく、自分は自分の弱さを克服した、自己実現を果たした、と主張する人をオンラインで見かけるにつけ、一つのゆがみから別のゆがみに移っただけなのに、あれを「治った」というんだろうかと不思議に思っていましたが、いわばああいう事例は「治療過程」とされるわけですね。
補足
わたしは自己正当化を自己欺瞞の一つの形と捉え、特殊なものではないと思っています(つまり自分も含めて)。 >臨床心理の場合、臨床で治療に当たるサイコセラピストは、クライエントの心の安定が崩れているかもろくなっていて、自己肯定の心理機構が危うくなっているので、治療目的で、世間では通用しないような主張でも、「受容」という形で、肯定することがあります。 というご指摘が急場しのぎとして有効であろうことはわかります。しかし、現実の場で、正当化していると気づいてもいない人に >本人自身が、自分の自己正当化の主張がおかしいということに気づいたり、または別の形の心の発達や気づきが生じるように というのは、実際にはどのくらい可能なものなのでしょうか。自分自身のことを省みると、かなり難しいのではないかと思うのですが。