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ADHD 多動性・自己正当化 の複合

ADHD多動性・衝動性優勢型。男性。50代。精神遅滞がある。自己正当化が非常に顕著。支援者への心理的依存度が強いが、単に自己正当化のためではなく、孤独の軽減を純粋に悦ぶ。異性の支援者を好みで選ぶ。このような場合があるだろうか。また、躾が効を奏さず改善が全くない場合でも受容を継続すべきだろうか。

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noname#163132
noname#163132
回答No.1

結論から言いますと、発達障害を専門とする精神科医や臨床心理士に相談する必要を感じます。 そのぐらい、その人と関わることは困難なことだと思います。 専門家からはマニュアルと心得を教えて貰い、一般人からは共感を得ることで支援者は自分を保ち、その人と折り合いを付けていくしかないと思います。 ***** 私は、精神遅滞のない不注意優勢型のADHDとLDのある中学生の親です。 子供はおっとりしていますが、空気を読む能力は人並みにありますし共感力もあり、人を傷つけない子です。集中力は長くは続きませんが、うるさく騒ぐことはしません。また、以前は自分が話したいことがあると、先に話をしている人がいても割って入るようなところがありましたが、今はそのようなことは殆どありません。また、我が儘なところはなく、親思い友達思いの優しい子です。 まさか本人やご家族、先生には聞けないので臆測ですが、子供の同級生に、ADHDと精神遅滞の両方があるとみられる男の子がいましたが、ご質問にあるような人物像とは程遠い子に見えました。 決して我が儘な子ではなかったと思います。 その子も、人を傷つけるような失言を重ねるような子ではなかったと思います。 ADHDがあろうと精神遅滞があろうと、性格は千人いれば千通りの性格になると思います。 ADHDの当事者自体、性格は千差万別ですので。 そのことは、不注意優勢型、衝動性優勢型、混合型とタイプが色々あることからも想像に難くないと思います。ですから、形式上同じタイプに分けられたとしても、皆が皆、依存度の高い自己正当化が非常に顕著な人物になるとは思えません。 その人の場合は、ADHDと精神遅滞を免罪符のように考えているのでしょう。 障害者認定の手続き上、実際には無理だったと思いますが、診断名を伝えずに済むのなら、その方が良かったケースなのかもしれないですね。 ご質問を見る限り、その人は自分には二つも診断名があるのだから、周囲は自分を庇護するべきだと単純に考えているのでしょう。 実際、人に頼らねば生きていけないことが解っているのでしょうけれど、一歩引くとか、感謝の気持ちを伝えるということが身に付かなかったのでしょうね。 異性の支援者を好みで選ぶというのは、年齢的なものもあるでしょうね。 そのぐらいの年齢であれば、妻帯者が圧倒的に多いものですよね。 支援者女性を選り好みするのには、子供の障害者とは違い、性欲との結びつきは切り離せないものでしょう。根底にはパートナーが欲しいという気持ちがあるんだと思います。 また、他人に対して遠慮がないので、感情表現がストレートということなのでしょう。 >単に自己正当化のためではなく、孤独の軽減を純粋に悦ぶ。 人間は社会的動物ですから、帰属意識が強いです。 その人は、自分でも自分がみんなとは違うことはよく解っているから、孤独を感じているし、貪欲なまでに周囲には愛情を求めるのでしょう。 結局はみんなとは同じにはなれないから、そのことで何時までも癒されないし、そのことを上手く伝えることも出来ないというジレンマを抱えているのでしょう。 >躾が効を奏さず改善が全くない場合でも受容を継続すべきだろうか。 冒頭で触れましたように、専門家からのアドバイスは不可欠だと思います。 そのぐらい難しい話だし、支援者には負担が多すぎると感じました。 私の話は一般人が支援者に共感して、正解ではなくアドバイスを述べているのだと捉えていただけたらと思います。 ―― ですから、この文章を投稿するにあたり、失礼な表現、感じ悪く聞こえた部分はあるものと思います。そのことをここでお詫びしたいと思います。 その人と深く関わる人たちには、余程、包容力・忍耐力がなければ、その人が本能でのみ生きているように見えることでしょう。 また、滅私奉公とはこのことを言うのだろうと実感するのでしょうね。 身内でも大変だろうに、血の繋がりなしで世話をするのは大変なことだと思います。 だからこそ、その人には礼儀が備わっていなければ、本人のためになるとは、どうしても思えません。そうでなければ、支援者の心が持たないからです。 支援者側は忍耐力を付けつつ、「人間はマナーを守ることで人間関係を良好に保つことが出来るし、このことは生きて行く知恵であり、一生を支えるものなのだ」と諭し続ける姿勢を貫いて良いと思います。 その人の場合、療育が遅すぎたのではないでしょうか。 ヘレン・ケラーの伝記を理解できる心を持っていれば、自分には、どれだけの可能性が残されているのか、恵まれているのかが理解できそうなものですけれど…。 嫌味にならないように折に触れ、障害を持ちながら自立して行った偉人の話をする分には、何も問題ないと思います。 少しでも共感を示すようなら、まだ改善の余地はあると思うし、甘えと出来ないということの区別について、自分でも真剣に考える様になるのではないでしょうか。 自分で考える力、感じる力、それをどうやって身に付けていってもらうのか、そのことを専門家に相談なさると良いと思いました。

EWIG-DS
質問者

お礼

thx.

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