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東浩紀氏がいうスノビズムの定義って一般的なスノビズムの定義とは違いますよね?
東浩紀氏によると「与えられた環境を否定する実質的な理由が何もないにも関わらず、形式的な価値に基づいてそれを否定する行動様式のことをいう。」 (東浩紀著:動物化するポストモダンより抜粋)とありますが、一般的なスノビズムにいう俗物根性のようなニュアンスはないですよね。 なぜ、こんな用語の混同が起こるのでしょうか? 御回答よろしくお願いします。
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すいません。遅くなりました。 ちょっと時間がないんですが、いまを逃したらまた遅くなっちゃうんで。 簡単に。 > 「富や地位に対する憧れ」が形式的価値といえるかどうかが疑問です。 何を「富」とし、何を「地位」とするか、というのは、個人が主体的に意味づけを行ったものではありません。すでに決まった価値に依拠して、主体が判断するものにほかならない。だから「形式的」な価値という意味で、わたしはこの言葉を使いました。 『動物化する…』の本文には「名誉や規律」とありますが、「富や地位に対するあこがれ」は「名誉」に含まれるもののひとつでしょう。もちろん、コジェーヴがあげている「切腹」の例にはあてはまりませんが。 たとえば「規律」は、主体が社会化されるプロセスにおいて、むしろ外から押しつけられるもの、という印象が強いかもしれません。 一方、「名誉」というと、主体が進んで求めるもの、自発的に欲望するもの、と誤認されるものかもしれませんが、これも教育のたまものです。 教育というと学校で教わるもののように思われるかもしれませんが、それにとどまるものではありません。 たとえばボードリヤールはそれを「日常的ルシクラージュ(再教育)」と呼んでいますが、わたしたちは常に携帯電話の最新機種や車の最新モデル、ファッションの流行などの情報にさらされ、情報の更新を迫ります。わたしたちはこうやって学習し、「新しいもの」「価値あるもの」の情報を得たところで、自分の欲望を「主体的に」形成していくのです。そこでは「もの」を買うことは、その機能を使用すること、私有することではありません(東さんのこの部分はボードリヤールの「コミュニケーションと交換のシステムとしての消費」ということとは関係がないので、これ以上はふれません)。 ただ、ここで言う「名誉と規律」で質問者さんが出しておられる「炊飯器」はスノビズムの例にふさわしくないんです。 もちろん、現在「米を炊く道具」として利用している炊飯器がまったく壊れていなくて、日々の使用に十分耐えうるものであっても、白く、大きくて、場所を取る。最新型の銀色のIHジャーではない、という「価値」において否定する、それがスノビズムである、といって言えないこともないんですが、それだと結局は消費行動に収斂されてしまう。「動物」ということになってしまいます。 コジェーヴのあげた「切腹」の例にしても、以降のジジェクのシニシズムとの関連づけ方を見ても、ここで言われているのは、もっと実体のないもの、あらっぽくいうと(東さんはこの言葉を使うのを避けていますが)イデオロギーというふうに理解していいんじゃないかと思います。
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- ghostbuster
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snob をいきなり日本語にしちゃうとわけがわからなくなるかもしれませんが、オックスフォードにはこうあります。 snob: a person with an exaggerated respect for high social position or wealth who seeks to associate with social superiors and dislikes people or activities regarded as lower-class. これをもとに、もう少し本に即して見てみましょう。 この部分はコジェーヴの定義に依拠しているところですよね。 もう少し、ここに出てくる「否定」ということを、ヘーゲルに戻って理解しておくと、「動物化」「スノビズム」ともに理解しやすくなるかと思います。 まず、ヘーゲルは、動物はなにも「否定しない」と言います。 たとえばジェスチャー・ゲームを想像してみて。 「食べる」「歩く」「話す」なんでもジェスチャーで表すことができますよね。 ではこんど、この「否定形」をやってみてください。 ここには「いない」。あるものが「ない」。それを動作で表現することは不可能なんです。言葉を使う人間だから、初めて「否定」できる。 言葉の機能は、否定においてその真価を発揮するのです。 「わたしはここにいます」というのは、普通の状況では言う必要がない。その人が実際にいるのだから。 けれど、「そのときわたしはそこにはいなかった」というのは、言葉にしかできないことです。 「言葉」とは、何よりも「否定」ということなのです。 そしてこの「否定」の能力はどこから生まれたか。 ヘーゲルは、それは〈死〉からだ、というのです。 動物は、〈死〉を理解しません。人間のみが〈死〉を恐れ、嫌悪し、不安を抱くようになる。そうして、恐れと不安に引き裂かれつつも、それに耐えて正面から見つめることで、〈死〉を〈否定の力〉へと抽象する能力を持つ。 だから、この「否定」ということは、人間と動物を分かつものとなるわけ。 さて、なんでこのヘーゲルの『精神現象学』を講義したコジェーヴは、戦後アメリカで台頭してきた消費者を「動物」と呼ぶのか? それは否定しないからです。この点は東さんの本に簡潔にまとめてありますね 「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる」(p.97) じゃ、スノビズムはどうなのか。 もういちど、オックスフォードの説明を見てください。 この "a person" は現実には "lower-class" なんです。だからこそ、高い社会的地位や富といったものに、必要以上のあこがれを抱く。もしかしたら貴族にあこがれを抱いている中流階級かもしれませんが、ともかく、なんにせよその人が置かれた環境に決して満足していないのです。 だけど、そんなことができるのも、その人が現実には満たされていることが前提となっている。明日の暮らしにも事欠くような人、生存が脅かされているような人が、社会的地位や富にあこがれたりはしないでしょう。 だから、 > 与えられた環境を否定する実質的な理由が何もないにも関わらず というのはそういうこと。ではつぎの > 形式的な価値に基づいて はどういうことかというと、その "a person" があこがれているのは、すでに評価の定まった中流階級的な、もしくは上流階級的なライフスタイルであり嗜好である、ということです。 > それを否定する行動様式のことをいう そうして、その人は自分が現在置かれている環境を否定する。 " dislikes people or activities regarded as lower-class" っていう部分がぴったり当てはまりますね。 まさに辞書的意味における「snob」ときれいに一致しているといっていいでしょう。
補足
御回答有難うございまます。 コジェーヴ風味の雑談になるおそれが多分にありますが(汗)。 以下「動物化するポストモダン」p98の記述に基づき補足します。 「富や地位に対する憧れ」が形式的価値といえるかどうかが疑問です。 「名誉や規律」を東氏は形式的価値として挙げていますよね。 たとえば、炊飯器、掃除機、洗濯機等の3S、カラーテレビ、クーラー、クルマ等の3Cが既に揃っているマイホームという環境があるのにも関わらず、 (だからこそ)(過去にそれらを得るために獲得した名誉や規律を重んじるというエートスが未来に向けての行動をも規定してしまい)、毎朝目覚まし時計で跳ね起きるように仕事に行く・・・。 そして、ボーナスが出たら新しい炊飯器その他を買い求めるけれども、それはもはや手間をかけずに米を炊くためのものではなく・・・。 そんなことを言っているのではないでしょうか。
補足
再度補足です。雑談にお付き合いください。 炊飯器は例としてイマイチでしたね・・・。 「動物」とは消費者の姿を現す用語なのでしょうか? 同箇所で歴史の終わりの時代の後になっても(動物的)人間は記念碑や橋やトンネルを造るとありますが、橋やトンネルをつくる行為は環境を否定する行為ですよね? 九州から上京した一青年が、命をすり減らすような激務の果に、道路公団総裁まで登りつめ、自分の技術者魂の結晶のような高速道路を建設する・・・。 この場合、彼はスノッブと呼ぶべきでしょうか?動物と呼ぶべきでしょうか?