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聖書を正しく読まなければ意味が無い?
聖書の内容を知りたいと思いつつ 手をだせないため今回質問させて頂くことに。その正確な歴史なども全く知らない、旧約って・・新約って・・のレベルです。 その内容を知らないまま 中途半端な資料等だけが増えていき http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0174.html http://www.bk1.jp/product/02570575 http://www.tokyo-lgff.org/99/Japanese/festival99+j/99films/bachiatari.html http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/Jesus.html http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4401621891.html マンソン自伝あたりで このまま聖書じたいを全く知らず、こんなことをしていて良いのか・・?その内容を全然知らないままとは、*諸外国のカルチャーの半割を誤解していることに・・?と思い クリスチャン(になろうとした?)人に質問してみたところ 「神父のもとで読まなきゃ、無理。」と却下されてしまいました。 自分でも開いてみると無理だな.と確信するのですが(詩的な比喩など???&歴史も???) 講義をとった時 創世記の部分が面白ろかった記憶があります。 内容が次第に預言者等の話に及ぶにつれ???に。 ヨブ記(あまり理解していなかった)と、小説:クムラン(こういうのは聖書の理解の深い人にはいらないカルチャーなんでしょうか)はすごく面白かったです。 聖書じたいを読むのは確かに大変そうで また色んな説とか謎があるようで複雑すぎてよく分かりません。 遠藤周作などの入門などを読んでみましたが少し退屈して途中でやめてしまい・・・・。 信仰・宗教的な立場というより、mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。 <*これらは所詮、正しく聖書を読まなければ、意味がない理解なのでしょうか。> 最後の↑特によろしくお願いしますm(_)m
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最初に掲げられた松岡正剛の『クムラン』評を読んで 信仰とは何の関係もないと見限りました。(文学としては別であるけれども 信仰と関係あるとも ないとも 決められないというものです)。あとの参照サイトは 読んでいません。 キリスト信仰について わたしなりに解説します。 旧約聖書の『詩篇』でその詩作者は述べます。 主はわたしに言われた。 ――きょうわたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ。わたしは もろもろの国を嗣業としておまえに与え 地の果てまでもおまえ の所有として与える。・・・ (『詩篇』2:7-9) 所有権が勝手に決められることは めちゃくちゃですが まづは 表現じょうの問題だと思ってください。 ただ このような事件――単なる神がかり? あるいは 自己満足?――に出遭って《主を父とした人間》は その後たとえば 預言者イザヤとしては この《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。 これは主がわたしに油を注いで 貧しい者に福音を宣べ伝えることを ゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を 告げ・・・(中略)・・・るためである。 (『イザヤ書』61:1-3) すでに時は飛んで イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。 すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ る箇所が目に留まった。 《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。主がわたしを 遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放 を・・・告げ知らせるためである。》 (つまり『イザヤ書』61:1-2) イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに 実現した。 と話し始めた。 (ルカ4:17-21) 人間と神との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 これで(――つまり その後まもなくのイエスの十字架上の死と復活というふうに伝えた人類の井戸端会議をとおしたあとで――) われわれ人間は ひとり残らず 神の息吹きが吹きかけられているというかたちだと思います。 ということは その限りで キリスト・イエスのお蔭だというその反面で その神は こころ根に霊として宿るとはいえ もはやわれわれが詮索する必要がなくなっている――そういうことだと考えます。 ついでと言うといけませんが 三位一体について たとえだけでしたら 次のように捉えるとよいのではないでしょうか。 神は光と言いますから そのたとえですが 父なる神は 光源です。これから出る光は 子なる神です。光の源にせよその発耀にせよ 光が持つ明るさや暖かさ これが 聖霊です。それぞれ位格(ペルソナ)が違いますが 光として一体です。 そして このとき神にあっては 光の発出などに伴なう時間的な隔たりは何もないというわけになります。 イザヤ書の巻き物を読んで講解したナザレのイエスなる人間は この光耀としての子なる神が 肉に作られた存在であると言います。 詩篇の作者やイザヤらが 父なる神の子となったと表現したのは 神(その存在は 人間にとって つかみ所がないので 霊と呼びます)のちからを分有しているという意味だと理解します。 子なる神がイエスという人間となったというのは ふつうの人間であると同時に まったき神であったと捉えるようです。特にこの表現内容は いわゆるドグマです。論証不可能です。(ゴータマ・ブッダも同じようだということですが)。 最後に 『エレミヤ書』の次の箇所が端的に表わしているところは 重要だと思います。 しかし 来たるべき日に わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれ である と主は言われる。 すなわち わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれ を記す。わたしはかれらの神となり かれらはわたしの民となる。その とき 人々は隣人どうし 兄弟どうし 《主を知れ》と言って教えるこ とはない。かれらはすべて 小さい者も大きい者もわたしを知るからで ある と主は言われる。わたしはかれらの悪を赦し再びかれらの罪に心 を留めることはない。 (『エレミヤ書』 31:31-34) 《来たるべき日》が 歴史上のイエスの出現を表わし キリストは《あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい》(『マタイ福音』28:19)と言うのですから エレミヤの《イスラエルの家》も 全世界に広がったものと思われます。 面白いところは キリスト・イエスが《弟子にしなさい》と言うその反面で このキリストの後では もう《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ようになっているということです。 やや論理に過ぎて 詭弁のように感じられるかと危惧しますが 骨組みは以上のようだと思います。 松岡を読む限りでは 『クムラン』は この信仰の問題とは 別だと捉えました。
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- kigurumi
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>信仰・宗教的な立場というより、mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。 まず、創世記の部分ができたのが、バビロン捕囚以降という見方が有力なんですね。 天地創造の部分は日本の古事記にそっくりですが、日本に住んでいた人々が、中東に伝えたってことは無さそうな気がしますが、どこから天地創造を考え出したのかは、今のところわかりません。 ですが洪水の部分は捕囚先の神話が基礎になっていると思えました。 源流はどこだろうと思っていたんですが、やはりエジプトかなぁ・・・と思えます。 最近知ったのがアテン教というもの。 モーセという名前なんですが、エジプトではモスという語彙は王の息子を意味するらしいですね。 モーセがもたらした偶像崇拝禁止の宗教はアテン教だったのかなぁ・・・って思います。 アテンと対抗したのが偶像を崇拝するアメン教だったようです。 ユダヤ教が同意という意味で使うアメンと同じ発音のようです。 モーセが山に登って神と対話しているとき、麓では待ちきれなくてアロンが人々にせっつかれて、子牛の彫像を作り、下りてきたモーセが激怒したというエピソードがあるんですが、、、、アロンはアメン教の礼拝をやることで、人々を沈めようとしたのか。 モーセに率いられてきた人々がアテン教を選んだため、アメン教に追い払われてしまい、「こんな苦労をするくらいなら、モーセについてこなくて、アメン教を信仰していればよかった」という人々をなだめるため、アメン教のシンボルである子牛の彫像を作ったのでしょうか。 アロンは祭司ですよね。 宗教的リーダーとして神に選ばれたんだったような気がします。 でもそのアロンは偶像を作った。 謎です。 何故神はアロンを選んだのか。 モーセが政治的リーダーだったが口下手だったので、アロンが補佐に回ったんだったと思います。 で、旧約聖書の最初の方に、宗教的儀式のやり方と、民衆を導く法律みたいなものを制定していますよね。 民数記の方は宗教的規定が書かれており、これはレビ人に対するもの。 申命記の方がレビ人以外の民族でにおいて、政治的リーダーの成り立ちが書かれているというのが私の印象でした。 だから、○○記とされているものは、だらだらと内容が書いてあるのではなく、この書は何について書かれているのかと知った上で読むとわかりやすいと思います。 一度 アダムとイヴからの系図を、聖書を読みながらエクセルで作ったことがあるんですね。 しかし、おかしいんです。 繋がらない。 ある箇所で書かれている内容が、別の箇所で別の名前になっている。 嫡子全員が書かれているのでなく、第二夫人とか第三夫人が生んだ子供も、別の箇所に書かれていて、それで繋がらないように思えるのか?とか推理しましたが、どっちも書いていっても、やはり繋がらない。 で、どうしてこんなことが起こったのかと頭をひねったんですが、ヤハウエストとエロイストでしたっけ? 派閥があり、ずっとどっちか一方が宗教的リーダーだったわけではなく、入り乱れてどっちかが宗教的リーダーになり、そっちの解釈された内容が残っていて、今度はもう一方が支配的立場を取り、その人々の視点からみた内容が書かれ、それも残ったようなんですね。 で、どっちの解釈も残り、1世紀に聖書を作るとき、どっちが正しい伝承だかわからず、どっちも入れたようなんです。 だから矛盾が残ったままになっているようなです。 新約聖書ってものができた理由は、自分達の解釈が正しいとする派閥が、他の派閥を消そうとしたから。 自分達の解釈以外の解釈をする人たちが「これがイエスの人生」ともっともらしく伝えてもらっては困るとして、それで聖書を作ることになったらしいです。 新約聖書が成立するまでは、福音書は200以上あったらしいんですけど、新約聖書が選んだのはその中のたった4つだけ。 他を退けたんですね。 焚書命令を出して、他の200近い福音書はこの世から消された はずだったんですが、20世紀になり出てきています。 今でもキリスト教はたくさんの派閥がありいろいろな解釈が違いますが、2000年前は今とは比べ物にならないくらいイエス伝承が多岐にわたっていたことがわかってきた。 だから、200ほどの話のうちのほんの一つが新約聖書の内容で、それが真実を伝えているとは誰もわからない。 勝ったほうの主張が今に伝わる新約聖書なわけです。 クムラン 私も読みました。 虚実入り乱れてを嘘がほとんど という言い方をする人もいますが、確かに創作の部分はありますが、詳しい内容で、調べると実際そういうことが歴史上あったとわかり、筆者の空想の内容じゃなかったんだと結構勉強になりました。 さすが高名なラビを持つ哲学者が書く小説ですね。 内容はすごいです。 >内容が次第に預言者等の話に及ぶにつれ???に。 この民族というかユダヤ教の成り立ちがまず書かれていますよね。 人々を統率するには、正しいルールが必要とされ、それは神から与えられた義の法律とすることで(預言者は神の言葉を授かるものって意味)、法律が制定され、人々を統率していく経緯が書かれています。 イエスってヘブライ語でイエシュアみたいな発音で、ヨシア記のヨシアがイエスなわけで、だったらヨシア記って書かずにイエス記って書けば紛らわしくなくっていいのに、、、って思いました。 力強いヨシア王が現れ、人々をひっぱっていったわけですよね。 ちなみにモーセがヨシアを自分の後継者に選んだ。 ヌンの子。 で、エジプトにヌンって神がいまして、それは旧約聖書の天地創造のあの初源のような存在とされた。 となるとヌンの子ヨシュア=神の子ヨシュア??? 新約聖書作家はこんなことろでひっかけている? (ヨシア記の後半の他民族を絶滅させ土地を奪ったって部分は、後世の加筆という見方が有力のようです。) そしてついに12支族全体を統一する王の存在が求められ、神がそれを許して、民族全体のトップに立つ王サウルが誕生した。 そして新しい王が古い王を倒すというバビロン神話をモチーフにし、ダビデがサウロを倒し、王の座についたという話になった。 殺したとは書いてありませんが、情況からして殺すよう刺客を出したと推測されます。 で、ソロモンの時に栄華を極めたわけですが、何故崩壊したのかという理由として、ソロモンが他の神をも信じたからとされ、それで神が怒り、バビロンに捕囚させたとなっている。 で、連れていかれたのが、王国の支配階級の人々で、彼らの頭脳は徴用され、そこそこ高い位についていたそうですが、アイデンティティーの喪失を体験し、それでユダヤ教というものを確立していくことになった。 それで創世記が作られたわけです。 ですが、ヘレニズム文化の影響を受けることは避けられず、ヨブが書かれた頃は、かなりヘレニズム思想の影響を受けたそうです。 このヨブの内容は、他の神話に既に書かれていたとかうっすら記憶があります。 それをユダヤ民族は自分達の文学として保有したんだったと思います。 遠藤周作さんは、必死にキリスト教という洋服を着ようともがいた人だったようです。 なんとか納得したつもりでも、どうしても自分の体にぴったり合わず、自分の体が洋服に合うよう もがいてもがいてもがいて。 そして晩年は仏教に帰依し、やっと安らぎを得たそうです。 >mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。 私は趣味で神話を調べているので、結構 どっからそういう話になったのかリンクできるんですね。 他の文化の影響を受け、自分達の文化に取り入れていっているとわかってきます。 これは人が交流するから仕方ない。 ガリラヤ湖は、のどかな田舎町ではなく、シルクロードの拠点のひとつで、あっちこっちの異文化がそこに流れ込み、エキゾチックな活気ある場所だったそうです。 ちなみにガリラヤって琵琶って意味らしいんですね。 で日本の琵琶湖と形が似ているそうです。 で、その近くに平安京があった。 平安はヘブライ語ではシャローム。 え?平安京ってエルサレムって意味?って思ってちょっと笑ってしまいました。 ミステリーな歴史ですか? ミステリーさではモーセが一番怪しいです。 彼はエジプト人だったんじゃないかって説があります。 しかもエジプトの王の息子。 彼はアテン教を信仰していて、アメン教に破れ、信者を連れてエジプトの植民地であるカナンに向かったんじゃないかと。 ピラミッドを建築していた石工職人を引き連れていったので、エジプトの叡智が外国に伝わってしまうと自分達が逆に攻めこまれるとして、彼らを連れ戻そうとした。 しかし 何かが起こって、彼らを追うことをやめてしまった。 ってストーリーを読んだことがあります。 で、モーセがエジプトから持ち出したのがアテン教だけではなく、叡智 建築技術とその石工職人達も持ち出した。 その子孫が中東の地に子孫を増やし、巨大神殿エルサレム神殿を建てた て説なんですね。 で、ユダヤ戦争がひきおこり、石工職人は奴隷として各地に売り飛ばされ、やがてその人々の子孫が、天を突くような教会を各地に作っていった。 で、それがフリーメイソンとなっていった。って説なんです。 もちろん 歴史のテストでそんなこと買うと×ですが 笑。 ミステリーでしょー。 ><*これらは所詮、正しく聖書を読まなければ、意味がない理解なのでしょうか。> いや 正しくも何も、どれが歴史的事実なのか、誰も知らないんです。 おまけに外国の思想をもろに受けてきたので、そうなると 何をもって純粋なユダヤ教の実際にあった話なのか、歴史なのか、わからなんですね。 影響を受けながらも続いたイスラエル人の歴史ってのなら、聖書を読み内容を知ることで、イスラエル人の大まかな歴史がわかります。 イスラエル人って、12+1支族ですよね。 ヤコブがイスラエルって戒名し、アブラムがアブラハムって戒名し、イスラエルの子らがイスラエル人ですよね。 で、一つの王国だったが、ユダ族とベニアミン族がそこから分離し、南ユダ王国を築き、北と南とでそれぞれ王国を築いたが、北がアッシリアに捕囚され、南はバビロンに捕囚され、くっついたと思ったらバラバラになり、各地に散っていくわけです。 イスラエルの子じゃないヘロデがローマにより王位をもらったわけですが、イスラエルと戒名したヤコブの兄はエサウ。 エサウのずっと後の子孫がヘロデ。 こういうのって、読むだけじゃ 「あっそうか」ってなかなかわからないと思います。 どうして私がそのことを知ったかというと、古代の長子権について調べていて、「あ、、、、」って気付いたわけです。 レンズ豆とひきかえに長子権を奪ったのがヤコブ、後のイスラエル。 ヘロデにしてみれば、祖先の長子権を奪ったイスラエルの子らの王国で自分がそのトップに立ってなにが悪い、返してもらった ってことでしょうか。 面白いでしょ。 長子権って初子が関連していて、最初の子は神に捧げるって考えが古代にあった。 殺すって意味じゃあないと思います。 宗教専門職のレビ人の儀式をやるにあたっての準備とかをやっていたんじゃないかなって思います。 ほら、聖書に書いてあるでしょ。 レビ人以外を幕屋に近づけてはならないって神が言ったって。 だから レビ人以外は宗教関係の仕事をしなかったわけですが、移動民族ですから、移動の時くらいは幕屋を担いでもらっていたんじゃないかと。 ただし、ただの人じゃだめで、12支族の中でも初子だけって限定だったのかも。 クムランの蘇る神殿までは読んだんですが、その3作目はとっくに外国では発売されていますが、日本じゃ翻訳されていないですよね。 しびれきらせて英語でもいいやって注文しようとアマゾンを覗いたら、英語では発売されていなかった。 フランス語か?って思ったら、なんかフランス語じゃないみたい。 イタリア語かスペイン語のような感じ。 どうして?ってすごく不思議でした。 日本では発売禁止になったんでしょうか。 翻訳者の人は3作目は日本が舞台ですって言うのだから、ついにアリーは日本で活躍するのかってわくわくしたんですが、神道が発売を阻止したのかな?って疑惑が・・・・。 日本人に知られてはならないものを、エリオットは暴いてしまったのでしょうか。 虚実の虚だらけって言われてもいいから、読みたいです。
お礼
大変丁寧なご回答有難うございます(_) 圧巻の内容を理解できたか曖昧ですが; アテン教の部分興味深く読ませて頂きました。ユダヤ教の前はアテン教か?という仮説、ということですよね、アテン教というのは「一神教」・・??ですか? >だから、○○記とされているものは、だらだらと内容が書いてあるのではなく、この書は何について書かれているのかと知った上で読むとわかりやすいと思います 参考になります(_) モーセのお話とバビロン捕囚から創世記が作られた経緯 勉強になりました。 >いや 正しくも何も、どれが歴史的事実なのか、誰も知らないんです。 おまけに外国の思想をもろに受けてきたので、そうなると 何をもって純粋なユダヤ教の実際にあった話なのか、歴史なのか、わからなんですね。 影響を受けながらも続いたイスラエル人の歴史ってのなら、聖書を読み内容を知ることで、イスラエル人の大まかな歴史がわかります 了解です・・自分は探求するのは無理そうですが そういう視野をいれつつ読ませて頂きます; クムランは二作目も読んでいないですが amazon検索してみると、フランス語で la derniere tribu というのがあるようで多分これではないかと思います。翻訳されないで自国出版のみ?になってるようです 2000年に京都の聖域で男の殺害された遺体が見つかって、その遺体がヘブライ文字で書かれた写本の一部を握ってて この男は誰か?→アリー登場、調査を進めるうち イスラエルから日本へ、果てはチベットへ(!)導かれていくアリー。徐々にアリーは 日本の神道が直接的にヘブライ教?に由来している(イスラエル族分散の時に その中の一つの族が 日本に辿り着き亡命の中で自らの文化を保存させたから。)ということを発見していく・・!!? というような内容のようでした;
- nabayosh
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正しく聖書を読むことなんて、本当にできるのでしょうかね。 1.正しく聖書を読むとはどういうことか。 読む、というのが音読黙読のレベルならことは簡単です。深く極めたいなら原語を学んで、正しいイントネーションと発音で読むという域まである奥深いことでしょうが、そんな音読や黙読をしたところで、理解とはなんの関係もない。棒読みと変わらないからです。 そこで読解となります。読解するにしても、その地域の気候や風土、そしてそこから生まれた文化や言い回しをもある程度知る必要があります。これは全く知らないよりは情報として知っているに越したことはないのですが、これを極めたところで、ただ単に聖書の背景を理解したにすぎません。それはそこまで大事なところではありません。 また、ある程度ユダヤの民に何が起こったのかとか、ユダヤ人の風習とかは知っておく必要がありますが、そういうことをこと細かに知識として持っていても、これも単に背景にすぎません。そのへんは多少大雑把でいいのです。腑に落ちなかった時に調べればよいのです。 つまり問題なのは、「これは何についてどのように言っているのか」ということです。正しく理解するというのは、この一事です。 2.解釈の多様性 聖書はいろいろな解釈ができます。とんでもない解釈やその解釈を作った人にばかり都合のいい解釈は放っておくとしても、多くの解釈ができます。それらの解釈すべてを収集して研究しようとしたら、それこそ本体の聖書以上にふくれあがることでしょう。そしてさらに解釈の解釈などが必要になって、キリがありません。 それなら、素直に聖書に向き合って、じっくり考えながら取り組む(もちろんわからないことは調べたり人に聞いたりしてもよいでしょう)のが一番です。 イエスが厳しい人という感覚をお持ちのようですが、それは(宗教的)権力をもって他人を圧迫する者(ファリサイ派・律法学者)たちに対してであって、聖書のイエスは弱者に対しては非常に優しいですよ。「私のくびきは負いやすく私の荷は軽い」と言っていることからもわかります。権力者は「こうせねばならぬ」と人に重荷を背負わせます。その容赦ない様相に対してイエスは「ゆるし」を説きます。 あるいは、キリスト教というのが信者に「こうせねばならぬ」と背負わせる宿命を持った宗教になってしまったから、イエス像が歪められたということもあるのかもしれませんが。 本当のイエス像はわからないものです。私に言わせれば、正しく読解するなんて、それ自体が(自己満足に終わる)意味のないことだと思います。
お礼
改めて丁寧なご回答有難うございます。 >1.正しく聖書を読むとはどういうことか 全文とても参考になりました。 >つまり問題なのは、「これは何についてどのように言っているのか」ということです。正しく理解するというのは、この一事です はい・・でもそれが難しいので・・例えば他の回答者さんに「来るべき日」とはイエス発現の日ですが、と解説していただきましたが そういわれなかったらわからないレベルなので・・苦笑 >2.解釈の多様性 >素直に聖書に向き合って、じっくり考えながら取り組む >それこそ本体の聖書以上にふくれあがることでしょう 了解です。何か反発しようとしてるかのように受け取られてしまったように全体として感じましたが 真面目に読もうとした時期もあるのです。 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 このマタイの部分にすごく惹かれました でも 契約、信じる者しか受け入れてくれない、暗喩的、厳しい、という印象はぬぐいされなくなりました 異教徒がキリストを迫害するところで その時、イエスは言われた、「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。」 とあります 本来感動的な部分がなぜひっかかってしまったのかよく分かりませんが 対等でない遠いところから話されているような 何か究極的に放置されたような気がしました。逆に、キリスト側を見て、「彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と言ってくる異教徒がいたとしたら 自分がキリスト側であったらどのように感じるだろう。そんなことを考えてしまいます。 >聖書のイエスは弱者に対しては非常に優しいですよ よくよんで考えたいと思いますm(_)m 今はまだ契約をはずれるもの→×のイメージを拭い去れません
補足
丁寧なご回答有難うございます。お礼はのちに考えた上にさせて頂きたいと思っておりますが 「正しく読みたい」とは 上記のように つまみ読み・サブカルチャーの影響・歴史を知らないレベルのものが 普通に聖書を読もうとしてる というくらいに考えて頂ければ幸いです。 >正しく読解するなんて、それ自体が(自己満足に終わる)意味のないことだと思います。 それらは一応、当然の前提であるとの上で質問させて頂きました。 書物・歴史・人間の物語に想像をはせる能力の限界は 個人に任せる.ということで・・ いちゃもんをつけるのが意図ではなく丁寧なご回答に深く感謝しており、他の回答者様にも 「正しく読む」と書いたことについて説明したく補足させて頂きました。
- a-feline
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聖書はもっとも新しい記述でも、約2000年前に*信仰を伝えるために*書かれた書物の束です。 聖書よりもっと現代に近いはずの古事記や源氏物語でさえ、歴史的背景を学ばなければほとんど意味がわからないのですから、ましてや全然文化が違い、もっと古い書物である聖書は、ただ読んでもわからないものです。読み方を教会で習わなければ意味がない、とおっしゃるご友人の言葉は、残念ながら正しいです。 カトリック教会では無料で勉強会や講座をしていますので、通うことができれば、無理に洗礼を薦められることもないので利用したらいいと思います。 でも無理であれば、三浦綾子さんの「新約聖書入門」「旧約聖書入門」が読みやすいしポイントが絞ってあるのでお勧めいたします。以前、私は1回これを読んでから聖書を読み、だいぶ意味がわかるようになりました。 山本七平の「聖書の常識」も基礎的な入門書としてわかりやすいでしょう。 昨今、ダヴィンチコードなど歴史に関わる小説や仮説の発表が人気を集めています。センセーショナルでよく売れる本ほどトンデモ本のことが多く、知識を持っていればおかしな箇所がわかり騙されずに済むのですが、たいていの人はすっかりその気になってクリスチャンにチャレンジしてきたりするので困りものです。丁寧に説明すればわかってくれるのですが、大衆は圧倒的にセンセーショナル本に魅了されているので、キリがありません。 質問者さんのように勉強しようと志をもってくださる良心的な方がいてくださって、嬉しく思います。 >mysteriousな歴史を興味深く学ぶ センセーショナル本の意図するところは、信仰という旧式のパラダイムへのチャレンジです。宗教の価値観や理解に疑問符をつけ、人々に別の価値観を植え付けたいという意図ですから、信仰的の立場での歴史理解を知っていないと2つの対立構図の醍醐味が味わえないと思います。 信者でも歴史や聖書理解には長い時間を要しますので、気長に楽しくいろんな本を読まれたらいいんじゃないかと思います。
お礼
丁寧なご回答有難うございますm(_)m >読み方を教会で習わなければ意味がない、とおっしゃるご友人の言葉は、残念ながら正しいです その人じだいが神父の教えがピンとこなかったとかでやめてしまいました、よっぽど読解が大変なのですね 独学になると思うので余計大変かもしれません・・ >三浦綾子さんの「新約聖書入門」「旧約聖書入門」が読みやすいしポイントが絞ってあるので お勧めしていただき有難うございます!本のお勧めは助かります >センセーショナル本の意図するところは、信仰という旧式のパラダイムへのチャレンジです。宗教の価値観や理解に疑問符をつけ、人々に別の価値観を植え付けたいという意図ですから、信仰的の立場での歴史理解を知っていないと2つの対立構図の醍醐味が味わえないと思います 納得いたしました; 気長に楽しくやっていこうと思います
- ANASTASIAK
- ベストアンサー率19% (658/3306)
>正しく聖書を読まなければ、意味がない理解なのでしょうか。 当たり前すぎて絶句です。 クリスチャンでもないのにクリスマスをし、街で若者が 「メリークリスマース!」と叫んでいるまことに愚かな ことをしているのは日本くらいのものです。 私は英国にいましたが、向こうは教会での厳かなバロック 音楽が流れ、静かで神聖なものです(パーティはしますが)。 聖書を読むなら、コーランも読まないとね。 あと、仏教だからもちろん、法華経とかも。
お礼
ご回答有難うございます、絶句させてしまったようで、これはこれは。失礼いたしました。 ロンドン・12月に教会の催しを拝見。確かに厳かで神聖でした。年配の方が多いようでしたけど。内容はよく分かりませんでした(・д・|||) 街の若者が赤いサンタの帽子をかぶって仲間で集い 電車の中で「メリークリスマース!」とやっていた無邪気な姿も同時に思い起こされます。 A very Merry Xmasーー♪
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
う~ん、所謂「トンデモ本」と「本当の研究書」を見極める目を持つことだと思います。 『聖書』は旧約であれ新約であれ、一朝一夕に理解することは出来ません。 多分、一生かけても理解出来ないでしょう。 何故なら、宗派や研究者の数だけ解釈があるから。 なので#1さんの「時々、辞書のような読み方をします。」は上手い使い方だと思います。 西洋は、キリスト教が底流に流れていますから、それらの文化を理解していると、宗教色の全くない映画や小説などでもシーンやセリフのそこかしこにキリスト教文化が見て取れます。 共同訳の聖書を一通りそろえておくと良いでしょう。 http://www.bible.or.jp/online/kyoudou01.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8 あと、以下の本も参考になります。 『キリスト教文化の常識』 (講談社現代新書) (新書) 石黒 マリーローズ (著) http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%B8%B8%E8%AD%98-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3%E9%BB%92-%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4061492225/ref=sr_11_1?ie=UTF8&qid=1198054839&sr=11-1 さて、本題に戻りますが、キリスト教の歴史や聖書には多くの「謎」があるため、その「謎」を利用したファンタジーや空想モノが多々あります。 (例・『ダ・ヴィンチ・コード』) 中には、あたかも真実であるかのように吹聴して、政治的・思想的イデオロギーを広めようとする人も居ます。 所謂、「トンデモ本=疑似科学に基づいた荒唐無稽な内容の書籍」であるか、しっかしりした「学術研究書」であるかを見極める目が必要な分野と言えるでしょう。 見極め方としては、本屋で並べられている場所(ライト本の所に置かれていたり、隣にUFOとかカルト宗教についての本があったら、要注意。)、著者の履歴、評論があれば参照するetc,,, 他にも幾つか基準はありますが、自分で養ってみてください。
お礼
丁寧なご回答有難うございますm(_)m 聖書の参考URL有難うございます、のせて頂いたものの中の一つを持っています。 >所謂、「トンデモ本=疑似科学に基づいた荒唐無稽な内容の書籍」であるか、しっかしりした「学術研究書」であるかを見極める目が必要な分野と言えるでしょう そうですね、よく見極めます 本書の前にサブのものばかり手をだすのはよくない気がしてきました。 参考書のお勧めは嬉しいです!!!!読ませて頂きます。
- j_nishiz
- ベストアンサー率26% (183/697)
えせクリスチャンです。 結構何度も読み返してますが、おもしろいですよ。 NO.1さんの >もうじきクリスマスです。立派なお方の誕生を素直にお祝いする心で よいと思います。 激しく同意です。
お礼
クリスチャン(?)の方からのご回答有難うございます。 つまみ読みの時点で申し訳ないですが 厳しい・・(><)と思ったのは 曖昧で無意識なものであれ 老獪で中庸な仏精神で生きてきた無宗教の日本人からすると、イエスの<<厳しさ>>を素直に受け入れていくのは非常に難しく・・・・・ 三浦綾子や曽野さんの本を読むたびに その厳しさと品格に、<ああ、異なる・・気風が違う・・>と心が離れてしまう感があります
- daitei
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私はクリスチャンでは有りません(曹洞宗です(笑))が、聖書は 西洋の文化、歴史を理解するのには、欠かせない要素と思い、 時々、辞書のような読み方をします。西洋の演劇や映画に引用される言い回しやエピソードがわからないと、全体の興味が薄れるので、できるだけは調べて読むようにして、「ああ、こういう箇所を引きあいにだすのか!」と感心していたりします。「正しく読む」という表現はよくわかりませんが、聖書研究をするのではなければ決して通読する必要もないと思います。信者でも全部を通読し理解できているとは思いません。 (想像ですが、理解しているならごめんなさい) 書かれている内容は、歴史的背景がわからないと、理解が出来ないことが多く、私の考えですが、比ゆと思われる事柄も、事実かと思われるような書き方がされていて、物理的事実とは思えない記述があります。 あえて無理に解釈しなくてもフアンタジーのレベルで読んでもバチは当たらないでしょう。キリスト文化圏の人が源氏物語や忠臣蔵を理解できているとも思えませんが、歌舞伎は面白いと感じる人もいるでしょう。 その程度の「異文化理解」でよいと思います。 二千年の長い歴史をくぐってきた書物として、楽しめばよいと思います。エピソードが多くて結構面白いよみものでもあります。 キリスト教を扱った映画を見るのも面白いと思います。 「ベン・ハー」「聖衣」「天地創造」「偉大な生涯の物語」など鑑賞したあと、読むとまた違った味があるものです。堅苦しく考えないで教養の一つと割り切ってみてはいかがでしょう。 二千年前に遥か遠くの国でお生まれになった偉大な方を理解するのに ちっちゃなこだわりはいらないとおもいます。 もうじきクリスマスです。立派なお方の誕生を素直にお祝いする心で よいと思います。
お礼
丁寧なご回答有難うございますm(_)m >聖書研究をするのではなければ決して通読する必要もないと思います >時々、辞書のような読み方をします そうですか!背景を回答者さんのように理解していれば こういう読書法も良いのですね! >書かれている内容は、歴史的背景がわからないと、理解が出来ないことが多く 歴史をザっと学べるものを探そうと思います; ご紹介頂いた映画の「天地創造」「偉大な生涯の物語」を観ていなく参考になります、鑑賞させて頂きます(..;)/
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お礼
丁寧なご回答有難うございますm(_)m 聖書を引き引き;読ませていただきました。 こういった解説をして頂くと是非読みたくおもいます。 >人間と神との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか 全体として納得いたしました。 >所有権が勝手に決められることは めちゃくちゃですが まづは 表現じょうの問題だと思ってください 反発をする意図ではないのですが この点だけでなく言葉の節々に 表現上の問題であれ 暗喩的で指導的な、厳しい、契約の宗教という印象を受けます. 読むときには ご回答参考にさせて頂きます.
補足
すみません、 >面白いところは キリスト・イエスが《弟子にしなさい》と言うその反面で このキリストの後では もう《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ようになっているということです ここの前後関係が分からなくなりました。 主を知れといって教えることも・・→<弟子にしなさい>とイエスが・・ ということかと思ったのですが