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赦しこそ聖書である。その2

http://okwave.jp/qa/q7053741.html 上記質問の後を継ぎます。 前回は題材が見つかって一人で思索する時間を必要としたので早めに締めました。 回答を検討された方には失礼だったかもしれません。 でも謝りません。 さて。 聖書の物語とは、神に懇願し神の降臨が待望された、一部の部族社会で、神が使わした待望の救世主が現れる。その救世主はいかにもっともらしく振舞ったが、結果的に何一つなさないまま彼に取りすがった人々の眼前で処刑されてします。 このような背骨の元、もう救世主はこないとか、または再臨するとか、見捨てられたこの世界は審判の日を迎え滅亡するとか、そんな事も書かれています。 よって聖書は真摯に神を考察していると言う、彼らの信仰を尊重しても神についての噂話を書いた童話です。 私は特にキリスト教徒では無く、アマテラスさんと愛し合っています。信仰の在り方についてこの故事には考察するのみですが、誰かの願いをかなえようと意図したからこそ処刑されたともとれるイエスさんの生きざまについては、そのようにイエスさんなる人物が歴史上、何らかの形で存在したと認めるだけで、聖書から学ぶ正しい信仰の(聖書なりの)理想を理解できます。 聖書から学ぶその信仰姿勢では、神からの赦しと言うのが重要ではないかと考えたため、その点に関して思索の材料募集です。 私は自分こそは一番であり最高だと思ってますから、ぶしつけにも対話に発展しないで途中で締めるかもしれません。実際に前回もそうしておりますが、できるだけ、それなりの結論を導くまでは、次にもつなげたいと思いますのでよろしくお願いします。 それからサル踊り品評会は余興とわきまえているなら阻む事はありません。

みんなの回答

回答No.6

 でたらめ ってことだね?  分かった。返答の必要もないよ。  あばよ。

回答No.5

 即答できないですって?  ★(No.4お礼欄) ~~~   >もはや仮面の下も 悪魔である――そういう想定である――のだから 愛すべきところがない  これが問題ですね。  すぐにはどうこう言えません。  ~~~~~~~~~~~~  次のように言ったのは 誰だ?  ★★ (No.3お礼欄)~~~   ★( f ) 私はその〔* 悪魔を愛する〕コツをつかんでいる。   ☆ よかったですね。  その通り。幸いですよ。よく生きられる。  ~~~~~~~~~~~~~  

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 人間の復活では無くて、滅びの子の復活を寡作している。 だからこそ一人で進めるつもりでいたが説明するよ。 長年の対話に自分なりに区切りをつけたこれが参考になる。 神を知る事こそ世界を知ることだ http://okwave.jp/qa/q7013949.html 生まれ変わりはないといくら理性的に促したところで信じる者はかたくなだ。 彼らの神と分かつ滅びを告げた事になるからだ。 だからそこに信仰をくみ取った。 唯識的に種子と言うが、滅びの種子に水をやり大輪の花を咲かせよと潤したのだ。 そうすれば人はその信仰の道を、立ち止まったり崩れたりしないで歩めるだろう。 滅びはいかなる花をつけるか。 転生への結論だけではないだろう。 その人の唯一の信仰と言う大輪だ。 これが人の歩みは見送るのみ。 滅びの子こそ救うと言う考え方だ。 手を引いて導くなんておこがましいよ。 そこで今回は滅びを吐き出す聖書の魔物に極めて友好的に話を持ちかけた。 それが悪魔風の体裁であり、本当なら本物がやる事だろう。 私はただ聖書由来のポケモンをゲットしようと遊んでいるだけ。 テレビゲームピコピコじゃないポケモン遊びだ。

回答No.4

 ご返答をもらいました。  そうだとすると けっきょく   ○ 悪ないし悪魔とは そういう悪という仮りの姿を採っているだけだ。   ○ すべては 善である。善が ときには 悪の仮面をかぶることがある。  と結論づけられるようです。     ○ 悪魔を愛するというのも その悪魔という仮面の下の善を愛することだ。  こうなります。  果たしてそうでしょうか?  1. 悪は 善をむしばむハタラキとして 現象としてははっきり悪としてあるのではないか?  2. 善をむしばむハタラキであるだけのすがたかたち これとしての悪魔 そういう悪魔も 実際に想定されるのではないか?  もしこういう場合であれば 悪や悪魔を愛することはできない。  悪という事象に対しては その仮面の下の善を捉えて愛することはできるかも知れないけれど 悪魔というハタラキについては もはや仮面の下も 悪魔である――そういう想定である――のだから 愛すべきところがない。  こういう――仮説としてですが――問題があります。

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 > もはや仮面の下も 悪魔である――そういう想定である――のだから 愛すべきところがない これが問題ですね。 すぐにはどうこう言えません。

回答No.3

 No.1&2です。  ★(No.2補足欄)( a ) 悪の観念はそもそも善の性質を備えています。  ☆ もしそうなら では 悪魔はどうですか? 悪魔も 善の性質を備えていますか?  ★( b ) だからころころ入れ替わる。  ☆ 悪魔も 同じくそうですか?  ★( c ) それが言わば善の両立や善の統合に至る事が出来ます。  ☆ もし悪と善とが互いにあたかも同等に両立するのなら  ◆ 神の義によって〔悪魔の権能に引き渡された〕  ☆ という見方は まちがいです。その見方を見落としたときでないと ( a )のように《悪が善の性質を備える》といった考え方は出て来ません。  ★( d ) そのためには悪を避けたり恐れてはいけない。  ☆ 善の性質を備えているから ということでしょうか?  ★( e ) 奥に理解を及ばせようとすると、悪魔を愛する事になる。  ☆ 神の悪義によって――悪義によって です―― 悪魔の権能に引き渡されたのではないはずですが どうでしょう? 《奥に理解を及ぼす》と 《神の義によって》という部分は消えてしまうということですか?  ★★(No.1お礼欄) ~~~   ◆ 人類は神の義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。  回答内容は、そりゃーその通りだという印象を持つ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 印象がゆるんで来たということでしょうか?  ★( f ) 私はその〔* 悪魔を愛する〕コツをつかんでいる。  ☆ よかったですね。  ★( g ) 悪の話はここまで。  ☆ 質問者が 振っておいて 途中で自分で中止と決めるって手はないでしょう。  あとは  ★ 実際のところ聖書の物語は健全な信仰心に理解を及ばせるいい教材で、信仰する者を冒涜するつもりはありません。  ☆ と明らかにされていますから そしてそれが基礎にならなければおかしい性格の見解なのですから 触れません。  同じ内容のお応えが返ってくるようでしたら あとは やめます。

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 まとめてくれたので返事がしやすくなったよ。 >もしそうなら では 悪魔はどうですか? 悪魔も 善の性質を備えていますか? そもそもミラーニューロン機能として、混沌とした悪を、悪、罪、嘘、の三色に分解する事から始めている。そうするとうかがい知れるのは、悪だから嘘をつくのではなくて、悪であると嘘をつくと言う実態です。嘘は簡単にばれるでしょう。そうすると悪でないと言う事になる。それが悪魔とは神のあらぶる姿と言う見解です。 ★( b ) だからころころ入れ替わる。  ☆ 悪魔も 同じくそうですか? 私にとって、悪魔だよと言って寄ってくるあいさつは長続きしない。善を成そうとする姿がそこにある。 ★( c ) それが言わば善の両立や善の統合に至る事が出来ます。  ☆ もし悪と善とが互いにあたかも同等に両立するのなら  ◆ 神の義によって〔悪魔の権能に引き渡された〕  ☆ という見方は まちがいです。その見方を見落としたときでないと ( a )のように《悪が善の性質を備える》といった考え方は出て来ません。 これは入れ替わりではなくて、今の善を損なわないまま、悪が本来は善である正体を現すか見抜くかする。そして等しく善として並び立つ。 ★( d ) そのためには悪を避けたり恐れてはいけない。  ☆ 善の性質を備えているから ということでしょうか? そうです。 悪態をつくのはツンデレ状態でかまってほしいだけだ。 ★( e ) 奥に理解を及ばせようとすると、悪魔を愛する事になる。  ☆ 神の悪義によって――悪義によって です―― 悪魔の権能に引き渡されたのではないはずですが どうでしょう? 《奥に理解を及ぼす》と 《神の義によって》という部分は消えてしまうということですか? この場合は悪魔の嘘はかわいいはったりだと踏まえる事です。 ツンデレです。 ☆ 印象がゆるんで来たということでしょうか? 神の自作自演とでも解釈すればいいかなー。 ★( f ) 私はその〔* 悪魔を愛する〕コツをつかんでいる。  ☆ よかったですね。 その通り。幸いですよ。よく生きられる。

Flareon
質問者

補足

中間報告その2 > 聖書の物語とは、神に懇願し神の降臨が待望された、一部の部族社会で、神が使わした待望の救世主が現れる。その救世主はいかにもっともらしく振舞ったが、結果的に何一つなさないまま彼に取りすがった人々の眼前で処刑されてします。 そこからはじまり神との向き合い方について考察したのが聖書でしょう。 審判の日なんぞは、編纂された当時の葛藤だ。 深刻な飢餓や貧困になすべきの無かったのが、救おうとした立場に立った者たちだったのだろう。

回答No.2

 No.1です。  ◆ 人類は神の義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。(三位一体論 13・12)  ★ ~~~~  回答内容は、そりゃーその通りだという印象を持つ。  その悪魔をいかにするかが問題だが、  ・・・  したがって「悪魔を愛せ」が主張となる。  ~~~~~~~  おそらく 《愛せ》というときの愛するがどういう内容であるのかが問題ですが お応えについては  ◆ 神の義によって  ☆ という部分を見落としているのではないか。そう考えます。  ★ 悪魔を愛せ  ☆ にはならないという考えです。  ですから もしくはこの《愛する》とは どういうことを言うのか? これが問題になります。    たとえば《相手を自分と同じように愛する。しかして 相手がその持前の力を十二分に発揮するように 出来ることがあれば お手伝いをする》という意味での愛なら 《悪魔を愛せ》という主張は 《神の赦し》にはならないでしょう。  神を盾にした恣意放縦となります。

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 ムムム、考えてみるよ。

Flareon
質問者

補足

中間報告です。 悪の話はこの質問で注目するつもりはなかったのですが最近の私は悪人なんでしょうね。 悪の観念はそもそも善の性質を備えています。 だからころころ入れ替わる。 それが言わば善の両立や善の統合に至る事が出来ます。 そのためには悪を避けたり恐れてはいけない。 奥に理解を及ばせようとすると、悪魔を愛する事になる。 私はそのコツをつかんでいる。 悪の話はここまで。 キリスト教に関しては終末信仰とまでこきおろしていますが、実際のところ聖書の物語は健全な信仰心に理解を及ばせるいい教材で、信仰する者を冒涜するつもりはありません。 仏道もそうでしたが信仰の困難に直面するのではなくて、生きることの困難が信仰とダブるのでしょう。 赦すことに特別な意味が有るのではないかと考えていますが、まだよく判りません。

回答No.1

 こんばんは。  ★ 聖書から学ぶその信仰姿勢では、神からの赦しと言うのが重要ではないかと考えたため、その点に関して思索の材料募集です。  ☆ つぎの命題は どうでしょう?  ◆(アウグスティヌス:神の義)~~~    人類は神の義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。        (三位一体論 13・12)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 空々しい挨拶だが容赦してくれたまえ。 回答内容は、そりゃーその通りだという印象を持つ。 その悪魔をいかにするかが問題だが、私はその愛を全うし、ついには悪魔を陥落させたお自負しておる。 実際は悪魔がまづ私に求愛したのだよ。 おかげで私は悪魔の統べる(この)地獄で魔王であった。 そろそろ祝福される婚姻を迎えたいがために、この質問を投げかけておる。 祝福を分かち合いたいのだが、猿相手ではそれは困難だ。 したがって「悪魔を愛せ」が主張となる。

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