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日本人は生ぬるいですか

 設問した主題をめぐって 遠藤周作が 次のように書いています。つまり《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはづです。これを批評・批判してください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。  あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。  こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。  最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)    我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)    (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたし自身の考えは どうも 遠藤のこの人間の性格(?)を三種類に分けた設定じたいが ぴんと来ないので そのことを問題にしたいと思っています。ですが もしこの設定に沿うならば どういう反応や評価がありうるでしょうか。ぜひ おしえてください。  * 変な感じの高みの見物のように みなさんの回答を見てみようとしているのではないかとお叱りを受けるかも分かりませんが どういうふうにこの文章を一般には捉えるのだろうか それが知りたいです。  →この中庸でいいのだと ある意味で開き直るのか / いやいや開き直りですらない いまのままでいいのだとなるのか / そもそも 設定がおかしいだけではなく 生温いという規定じたいが まちがいだとなるのかなどなどです。  * 遠藤周作のキリスト信仰は 発表された限りでは まやかしだとわたしは思っています。  * 次の質問と姉妹関係にあるはづです。   ・《Q:〈絶対〉の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?    = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3738300.html 》   ・《Q:男と女= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html

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回答No.23

いいお話をありがとうございます^^ 今でも日本人にはこういう優しいところがあるように思います。 >司馬が言うには この日露戦争までの日本人は立派だったそうです。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であったと言います。どうなのでしょう。もし そうだとすれば どうして そうなったのでしょう。・・・ 司馬遼太郎は読んだことが無いのです、でも明治期の日本人に能動性と気概があったのは侍精神がまだ残っていたからだということを何かで読んだことがあります(誰だったか忘れました)ロシア革命、中国の状況が日本にとって都合の良い状況だったということもありますけど、戦略性とビジョンをもっていたのだと思うのです。戦略性というのは負ける戦はしない、ということですよね。 なぜ太平洋戦争では泥沼の戦いに引き込まれてしまったのか? 「なまぬるさ」を個人のこととして考えて見ます。こころほどあてにならないものはない、善良な市民でも状況によってはとんでもないエゴイスト、悪人になることもなるって漱石の小説にありますね。それから、危ないとわかりながらもずるずると流されることもあります、ずるずると落ちていくのがわかりながらもどうしようもないような状態です。日中戦争から日米開戦にそれからひたすら泥沼の戦い、それから敗戦に。魔に魅入られたというか引きずられてしまったというか、人間というものってすごく弱いものだと思うのです。善かれと思っても結果が悪になってしまうことだってよくあります。 人間ってもしかしてみな「なまぬるい」悪をもっているのでしょうか? それからまた、たとえばパッとしない人が状況によっては驚くような善を成すこともあります。 私はそれを決定するのはなんだろうか?といつも考えるのです。 信仰なんだろうか?それとも何か違うものなのだろうか? そこで思考停止になってしまうのですが。 いつも話を拡げてしまって申し訳ありません^^;学生のとき「君がすぐ飛躍するのは論理的じゃないからだよ」と友達に注意されたことを思い出しました。

noname#80116
質問者

補足

 《飛躍》癖なら負けない自信があります。 ★ 人間ってもしかしてみな「なまぬるい」悪をもっているのでしょうか? ★ 魔に魅入られたというか引きずられてしまったというか、 ☆ ここから飛躍します。遠藤にちなんで 引用のみ します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この小説は今まで私が書いたエンターテインメントとは非常に趣を異にしていると思う。新聞連載中も読者からその疑問を手紙にもらったことさえあった。  私はこの小説をユングの影の問題から刺激をうけて書いたことを率直に告白したい。我々の心の奥には世間でみせる我々の顔とは別の秘密の顔がある。それを当人さえ気づかぬこともある。その秘密の顔は無意識に抑圧された ある意味で本当の顔だが しかしそれを表面に出すと我々は社会的に生きていけない場合もある。ユングはそれを影といった。  《ジキル博士とハイド氏》の話は有名だが しかしこれは人間誰にも存在する命題なのだ。この小説はある意味で私の《ジキル博士とハイド氏》である。   (遠藤周作:『悪霊の午後 』 〈まえがき〉の全部)   ――それで私は英子さんはそのような潜在欲望を人の心に触発させる能    力をもった女――これを学問的にはネクロフィラストと言うのですが    ――そんな女ではないかとあの時は考えたわけです。   (前掲書 〈渦〉の章)   悪霊の最大の詭計は悪霊などこの世に存在しないと人々に思わせることにあります。   (同上 〈慶子〉の章)  いわゆる世間でいう悪女というやつですな。悪女というのは悪いことをする女とは限りません。悪運をまわりにばらまく女という意味です。しかし彼女が意識的にそんな行為をやるんじゃない。彼女がいるためにまわりのものの何かが狂うと言ったほうがよい。  ・・・  一言で言うならば その女性は まわりのものが日常生活で抑制しているものをよび起こす力があるのでしょうね。つまり我々は自分の意識下にいろんな本能や欲望をかくしているでしょう。・・・そういう抑えつけたものが 彼女に出会うと噴出してしまうのです。噴出したもので その人は目茶苦茶になるのです。   (同上〈過去〉の章) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《Q:男と女》のほうに出すべきだったかも知れません。ただし 男と女の対等性なる原理〔のほう〕について疑うものではありません。現象については いくらか解明したきところありという意味です。 ★ 善かれと思っても結果が悪になってしまうことだってよくあります。 ★ それからまた、たとえばパッとしない人が状況によっては驚くような善を成すこともあります。 ☆ と重ねて確認しつつ。

その他の回答 (23)

回答No.24

どうやって回答したらいいのかわからない難問でしたので、お返事遅れました^^『悪霊の午後』は読んだこと無いんですが、美人で非常に魅力的な女性、いわゆる「破滅させる女」なんですね?自分の美貌で男の人を操作してしまうような。うーん…私の周囲の美人とか魅力的な女っていうのはおとなしい受動的なタイプよりも、積極的でわがままな人が多いです(笑)若いときから周囲からちやほやされればわがままにもなりますし、他人からもあまり悪意を受けたことが無い、対人関係でもあまり苦労したことがない、それゆえ人を信じやすくお人よしというか、私の経験では美人とか魅力的(見た目)な人ってわりと不器用な人が多いと思います。 男の人を死に至らしめるというのはよほどの魅力が無いと不可能だとは思いますし、おそらく実際にそういう魅力的な美女も世間にはいるんだろうとは思いますが。「相手を死に至らしめる」も明らかな意図であれば、それは無意識とは違うんじゃないでしょうか?女性の場合、無意識と意識の間の線引きが困難であるのはわかるんですが。 女性の受動的な支配欲って言うのはあると思います、男の人を完全に操作してしまうような。 それほど目立たない、魅力的でもないような女性が力のある男の人を完全に精神的な支配下においているというか掌握してしまっているのを見て驚いたことはありますけど。 男の人を軽々と操作できるってそういう才能、資質もあるんでしょうけど、育つときに苦労してきたような女性も多いんじゃないかしら、そういうやり方が自分の処世術になっているような。ただ操作されてしまう男の人にも問題あると思いますから一方的に女性が悪いかというとそうも言えないようにも思うけど。 とりとめのない回答になってしまいました^^;

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  議論は 遠藤周作にちなんで いいところまで来たように思います。    今回は 《男に対して接触によって 潜在欲望の触発を引き起こすというような 言ってみれば特殊な女性》 これの存在が果たしてどうかでした。そしてまた 《男に対して受け身の姿勢で 地味な形でいながら うまく 男をあやつるというような それでも一般的にも見られる女性》 これについても触れていただきました。  単純に思っていたことは 男・女に限らず 会っていると 潜在していたむしろ自分の能力や夢や心が 触発されてくるといった事例というのは ないものだろうかです。ひとこと覚え書きとしてです。  あとは せっかく遠藤を出しているので かれの キリスト・イエス像を やはり覚え書きしておきたいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  よし これ(キリスト教)が日本人としての自分の肉体に合わない洋服ならば 自分の後の半生を 自分の体に合う和服に仕立て直してみよう。仕立て直せるかどうかはわからないけれども そういうトライだけはやってみよう。  そういうふうに考えた。   (遠藤周作:『私のイエス――日本人のための聖書入門』1章)  〔その仕立て直した像として〕  ガリラヤで育ち エルサレム城外で殺された 痩せた 手脚のほそい男。犬のように無力で 犬のように殺されながら 息を引き取るまでただ愛だけに生きた男。  彼は生前 現実のなかで無力であり ただ愛だけを話し 愛だけに生き 愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の徒に変え 人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく 人間の永遠の同伴者と変っていったのである。・・・    (遠藤周作:『キリストの誕生』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これと対比させる意味で 河合隼雄の言説を掲げておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神と悪魔とを完全に分離し 三位一体の絶対善の神とそれに敵対する悪魔との戦いのなかで 人間がいかに神にのみ従おうとしても無理である。人間の心理的現実を直視するならば われわれが悪をいかに拒否しようと努めても それに従わされることを認めざるを得ないであろう。  人間は絶対善のなかに立ちすくみ それに耐える強さを持たねばならない。そのとき われわれの意識的判断を超えた四位一体の神のはたらきが われわれを救ってくれることを体験するであろう。・・・  ユングは 父-子-聖霊〔なる三位一体〕に対して 第四者〔すなわち悪魔〕を加えることによって 全体性が形づくられるとするのである。  このとき 父-子-聖霊という側面が 男性原理によって貫かれているように 父-悪魔-聖霊の側面は 悪を包含しつつそれを高めるものとしての女性原理に支配されている とも言うことができる。従って 四位一体の神は 父性と母性 男性と女性の結合によって成立することになるのである。  従って 《結合》ということが高い象徴的意義をもつことになり 聖霊はそのような結合を行なうものとして 時に両性具有的なイメージを背負わされたりする。また 悪魔と女性が重なり合わされたりすることもあり いずれにしろ 男性と女性の結合ということが キリスト教の三位一体の神との関連において 高い価値をもつことになるのである。  (河合隼雄:『昔話と日本人の心』 8・5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《生ぬるさ》とかかわっていないでしょうか。

回答No.22

jd8hnshuahさん、お返事ありがとうございます。 >よくテレビに出てくるような沖縄の人らは何故何時までも忘れようとしないんでしょうね。 沖縄の方たちが民族的には微妙な立場にあるということ。(日本人はみな同様ではないと思います、国家が個人の集合体である以上、沖縄の人たちのような民族としてのマイノリティも当然そこには含まれると思います)それから唯一本土決戦があった場所であるということ。アメリカの基地として提供されているということ。そういう微妙な立場にあると思うのです。 >その実自分で終わらせられなかった他者との軋轢を下の世代に引き継がせているだけなのに…真実を知らない中でそんなものを負わされる者に対して何も思わないのでしょうか 仰るように実際に戦争を経験した人たちにはそれぞれの真実があると思います、経験したことのない私(たち?)に知りうるのは事実だけで、それは不公平であろうと東京裁判の判決を受けたことと、サンフランシスコ条約も受諾した、ということです。 ドイツはアウシュビッツのような明らかな罪を背負わなければならなかったんじゃないかと思うんですが、日本の場合、南京虐殺にしても真実は霧の中みたいなところがあります。(昔、知人から、フランスの田舎あたりではいまだにナチスの密告屋は村八分扱いにされてるというのを聞いたことがあって、人間というものはそんな簡単に水に流したりできないもののなのだと思ったことがあります) それからアメリカの中学校で真珠湾攻撃についての授業で同級生にからかわれてカッとして取っ組み合いのけんかした男の人も知り合いにいたりするんですけど、なんというか、いやでも歴史って背負っていかなくちゃならないということってあると思うのです。個人とは別のところで、なんですけど。 うーん、戦争責任問題も私の中ではなかなか結論の出ない問題なのです、歯切れの悪い回答で申し訳ないです^^;

noname#80116
質問者

お礼

 日本人の歴史として 明るい話しを掲げておきます。  《日露戦争における上村彦之丞とリューリック乗組員救助》の中の話です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  出雲(軍艦)に収容されたリューリック乗組員の一ロシヤ将校が    ――艦内に飼われている小鳥は前々からここにありしか。 と問うた 日本人通訳が   ――いやいやあれはリューリックの溺者を救助にいったものが 救い漏   れは最早ないかと 救助艇をあっちこっち漕ぎ廻していると 浮いて   いた板にあの小鳥がとまっていた。大海の中だし放って置いては 小   さい翼では飛べまい。可哀そうだと捕えてきて ああして飼っている   のだ。 と答えると ロシヤ将校は涙をうかべ   ――あれは私の飼っていた小鳥でした。われわれは北海で奈古浦丸を撃   沈して以来 金州丸・常陸丸・和泉丸と撃沈し 佐渡丸も破壊したの   だから その報復を今こそ受けると思いの外(ほか) かくも優遇を   うけつつある。日本人はどうしてかくまで義侠なのか。 といい 神に黙祷を捧げた。   (長谷川伸:『日本捕虜志』 上 (1)。昭和37年版 p.169    山折哲雄〔および司馬遼太郎〕:『日本とは何かということ―宗教・歴史・文明』p.217) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  司馬が言うには この日露戦争までの日本人は立派だったそうです。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であったと言います。どうなのでしょう。もし そうだとすれば どうして そうなったのでしょう。・・・

回答No.21

どうもこんばんは、早速始めさせて頂きます。 2 ですから、神でなく自問でも遠藤氏の言う温い人を相手取ってでも構いません。 自己による自己の認識と批判。 そしてその上に成り立つ温きことへの反省。 自己批判とはこういうことでしょう? 1 私は虎ノ門事件の詳細は知りません、ですが…見る限りでは異常ですよ、この処罰やらは… まぁ、私は当時の価値観を知らないので確実な批判は無理ですがね。 >わたしも まったく あなたと同じく あくまで責任ある個人が 責任を負うべきだという原則を持っています。 としながら >ただ 旧い慣習が あたかもわれわれの身体に刷り込まれています。それが 出るか出ないかに 個人差がありますが 歴史の負の遺産を やはりわたしたちは みなが共に 引き継いでいるし 負っているのではないでしょうか。 と理由づけして >みなが 連帯責任を 自由に 負うのだと考えて 互いに知恵を出し合い これを精算していく。 と言う風に自身を納得させようとする姿勢は、個人的には生ぬるいと言わざるを得ません。 だってそんな変な理由がありますか。 自身の知恵を振り絞って、己の思考が変化しない所までいってから他人の知恵を求めてくださいよ。 そして負の遺産、負いたければ勝手に負ってください、日本人としてではなくその中の一個人として。 その上でその姿勢に共感・理解する人は共に負ってくれるでしょう。 しかし少なくとも私はそんなものを負いたくはありませんし、下の世代にも負わせたくありません。 正直な話、歴史から学ぶことの出来ない者が歴史を学ぶのは危険ですから。 mystisism2様 よくテレビに出てくるような沖縄の人らは何故何時までも忘れようとしないんでしょうね。 (他にも戦争について五月蝿いどこぞの国の人々も…ですが) 辛く、悲しく、虚しいだけなのに。 何時も尤もらしい文句をつけてきますが、その実自分で終わらせられなかった他者との軋轢を下の世代に引き継がせているだけなのに…真実を知らない中でそんなものを負わされる者に対して何も思わないのでしょうか。正直馬鹿馬鹿しいです。 見てる中にそういう人が居るなら一言。自分一人で終わらせる覚悟がないなら下に引き継がせるな、覚悟と行動の末に駄目だってから資料なりの形で残して引き継がせて、迷惑なだけだから口頭で伝えるのはやめろ。 今回は随分と熱くなってしまいましたね、反省です。 《悪魔についてのノート》の批評はこの次にでも…

noname#80116
質問者

補足

 jd8hnshuahさん ご回答をありがとうございます。  だんだん jd8hnshuahさんのお人となりと言いますか お考えになっているところが分かってまいりました。字面でかなり思いきった発言をしておられる割りには わたし〔たち〕とそれほど 中身が異なっているわけではない こう感じられました。  おそらく 推測なのですが 人との余計な・余分な・必要以上のつきあいを とうぜんのごとく 要らないと考えておられる。ひとことで言えば 独立主観の問題だと考えます。ほとんどすべては そこから 出て来ているのではないかと 大胆には 推し測りました。  そうですね。どうも 一つひとつ 細かいことで反論するよりも 大きく物事を捉えて その姿勢の問題として 対話をしていくほうが 実のり多いようにも考えました。  そこで いまは 遠藤周作を取り上げていますので かれにまつわるさらにあらたな主題を追加して そこでさらに総合的に どう捉えるかを 論点とすればどうでしょう。  遠藤は 基本的に 次のような姿勢でいるようです。    カトリック者は本来東洋的な神々の受身の世界を拒絶するものである   こと 神でもない 天使でもない自分の存在条件を自覚しながら 死や   罪や悪魔とたえず闘っていく存在だという事を少し考えてみました。    そこで こういういい方も許されます。人間は神をえらぶか 捨てる   かの自由をもっている存在である。この人間の自由を文学に賭けるのが   カトリック文学です。    つまりカトリック文学も 他の文学と同じように 人間を凝視するこ   とを第一目的とするのです。それを歪めることは絶対にゆるされない。   極言を弄するならばカトリック文学は神や天使を描くのではなく 人間   を 人間のみを探求すれば それでいい。    また カトリック作家は決して聖人や詩人ではない。聖人や詩人の目   的は ひたすらに神をながめ頌め歌うことにある。けれどもカトリック   作家は 作家である以上何よりも人間を凝視するのが義務であり この   人間凝視の義務を放擲する事がゆるされない。  (遠藤周作:《カトリック作家の問題》『吾が顔を見る能はじ』所収)  そして きわめて単純に言って この《人間凝視の姿勢》に立てば いわゆる一般論をも持つことになると わたしは考えますという論点です。そして じつは わたしたち人間の存在は 一人ひとりが 《社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》と わたしは捉えています。  もしそうであれば 漁船の親子二人にしても イージス護衛艦の船長以下の乗組員にしてもその一人ひとりに わたし自身の身をおいて 捉えようとしても 罰はあたらないと思います。その家族・親戚・友人そのほか かかわりある人ない人 この事故とその行方を見守るすべての人の中に わたしがいますし ふつうにこれを 井戸端会議しあっても 咎められることはないと思うのですが。  救助の姿勢 海上自衛隊および行政府にしろ 被害者の側の人びとにしろ その処理の仕方 これらには いわゆる一般論として 日本人としての特徴が現われるかも知れない。そのあたりについても 哲学としてどう考えるか これは ふつうの思索であり 人びとの対話であるのではないでしょうか。いかがでしょうか。

回答No.20

こんばんは、brageloneさん。 ●残念ながら お礼を申し上げるには あまりにも 質問をばかにしていると感じます。 ご意見どうも。しかと受けとりました。 うーん、どう言えば通じるのかな? 我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)  《冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに うんぬん》と言われているのは 明らかに その前文での《黄色い人》のことです。 黄色い人って何だろう?仮に結核(病)にかかっている人を想定した場合、我からはじまる文全体を通してみると、薬を飲むシーン、作者の心情が語られているようにも読める。薬といっても錠剤もあれば粉薬もあるまた、液体の薬もある。錠剤ならば、口に水を含みゴクンと流し込めば飲み込むことができるならさほど難儀はしなかろう。粉薬、こちらは錠剤を飲むとき同様に口に水を含みゴクンと飲めればよいのだろうが口に水を含んでいるだけに口の中に薬の味が先に広がる。細かい薬の粒が喉や舌にへばりつく。飲み難い。薬を口へ注ぎこんだとたん嘔吐してしまいもする。オブラートにくるめば幾分のみやすくもなるのだろうが。液体はといえばいまでこそ甘味のついたシロップがあったりもするが、その昔ともなると煮て煎じた苦い苦い飲み薬だったり、酸っぱい酸っぱいお酢とあわせたものだったりと薬を飲むのも飲ますのも四苦八苦、至難の業。良薬口に苦しという如く。≪我は 汝を口より吐き出さんとす≫「だれが、こんなもんのめるかー!」と、抵抗もしくは葛藤する心の叫び。 http://iroha-japan.net/iroha/B02_food/12_su.html http://www.isezakicho.or.jp/~ohnoya/ku04.html 抵抗もしくは葛藤しようがしまいが薬を飲むか飲まないかの選択肢の選択権は我にある。飲めば命永らえ、飲まねば死せる。死を前にして人というのはなんと業の深きものなのか生きたいと己が生にしがみつく。また、それが人が人であることの性でもあると思う。老いさらばえてもなお書きたいという作家としての作者を強く突き動かしていたのではないだろうか。お国のため、家族のためと己が命を差し出し果てる者もまたいよう、その者の家族からすれば老いさらばえてもまだ生きようと生きたいとする者の姿は醜くも目に映ることだろう。しかし、生きるということはどれだけ難しいことか。己が命を差し出し果てた者により守られた命でもあるこの命。罵られ、蔑まれようとも生きていればこそできることがある。生ある時間を精一杯生き抜いてみたいものだ、できることならば。敗戦国として他国からのバッシングを浴び不条理な条約の締結をのみ、それでもなお国として体をとどめている。小さな国、日本。生きたいという人の思いがこの国を支えているんじゃないだろうか。 生きていればこそできることがある。

noname#80116
質問者

お礼

 小説家としての遠藤は いわゆるキリスト教の洗礼を受けており その立ち場を 虚構作品を書くという仕事と 別のものだとは 決して 思っていなかったようです。いわく。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  悪魔は〔神と同じように〕自分の作品がほしい。しかし彼は人間の手を借りなければそれができぬ。だからこそ芸術家や作家がその危険にさらされるのだ。彼等が画筆を握り筆をとる時 悪魔は彼等をみちびくために そこにいる。   * ( bragelone 註:作家らに 自分はもはや存在しないと信じさせ    ておいて そこにいるというのである)。  そしてその名に価する作家はもとより すべての芸術家は自分がなぜこの言葉をえらび このリズム この音をえらんだか その最も深い動機をきかれるならば 眩瞑するような矛盾を感ずるだろう。計りしれぬ混乱のなかから やっと外見のはっきりとした一つの句が浮かび 終るからである。  真実 創作の意志や必然性はその深部において悪魔の誘いに符合する。つまりそれは自分を神にし 創造者になし 自分の世界での支配者になろうとする感情だからだ。だから悪魔がそこに侵入してくるのは宿命的なことだ。   (遠藤周作:《悪魔についてのノート》) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて この文章(=命題)についても みなさんから 反応・批評・批判をたまわりたく思います。反応を持ったとしても それを表現することは むつかしいとわたしは感じていますが 果たして いかが相いなるでしょう。

noname#80116
質問者

補足

 下のお礼欄の引用文について訂正補足します。  創作者あるいは むしろわたしたち表現する者にとって その表現する際の一種の精神の昂揚といった状態 これが ひょっとして一般に悪魔とよぶものとかかわっていないか かかわっているのではないか こういう問題です。  お礼欄に引用した文章は 遠藤じしんがド二・ド・ルージュモンの『悪魔の分け前』から引用したものでした。お詫びします。  ルージュモン自身の自答についても 引用がありますので これをも掲げておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・では精神の最も崇高な想像にたいする悪魔の参加を防ぐにはどうすればよいか。・・・その解決方法は悪魔をして彼のわからぬ別の目的にたいして働かしめよ ということだ。  中世の伝説に 教会を建てる職人たちにまじって石を運んだ悪魔の話がある。私はその悪魔はその教会の石の一つに――〔*つまり〕憂鬱そうに遠い平野をながめるグロテスクなアングルの石に・・・なるのではないかと思う。そして彼は背後で聖なる空間と時間のなかにひろがるコーラスの讃歌をきくであろう。それは 彼のおわりなき倦怠の深淵のなかから浮かびあがったふしぎな償いの響きであろうか。・・・我々はいつか 悪魔もまた神の神秘の一つであったと知るに至るからか。  (ドニ・ド・ルージュモン:『悪魔の分け前』pp.131-135) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このあと 《しかし事はルージュモンの考えるほど簡単ではない。・・・言うはやさしいが実行は至難だからである》というふうに遠藤は続けています。そして この《至難である》という感想でひとまづ終えています。(遠藤周作:〈悪魔についてのノート〉『吾が顔を見る能はじ』1979所収)  なおお礼欄のやはり引用文の中で 中ほどに《計りしれぬ混乱のなかから やっと外見のはっきりとした一つの句が浮かび 終るからである》という一文があり 《終るからである》の意味が取りにくいと思いますが 原文のとおりです。《浮かんだ一句》が 《採用される》という意味でしょうか。

回答No.19

荻生徂徠と本居宣長の違いを説明していただいて勉強になりました^^ 私のほうは遅々として読書すすまず、の状態です。 成るをヤフー辞書で調べてみました。尊敬語としても使われているのですね。『自然体』という言葉があるように自然であるということは日本人にとって何か非常に価値のあることだったんでしょうね。ここで思い出したのは田川建三さんの「自然と共存、自然にやさしい、を何か日本人の特権のように思っているみたいだが、むしろヨーロッパ人のほうがよほど自然を大切にしてるんじゃないか?」という内容のエッセイです。(確か「立ちつくす思想」です) 確かに神社などは自然保護にもなっています、多神教と一神教の違いってあるでしょう、だからといって日本人だけが特権的に自然に優しいわけではないのだ、ということを言いたかったんじゃないかと思うのです。自然神との連続性として人間を捉える文化と、自然から追放されたところから始まる、つまり非連続性からはじまる文化、『成る』の文化と『する』の文化の違い、そこからステロタイプのイメージ「一神教→自然との対立→自然破壊」ですね、日本が近代化して先進国である以上、「する」の文化なのだ、なのに根底には「成る」受動的な文化というものがある。こういう二重構造になっていると思うのです。その二重構造は例えば戦争責任問題でいうと加害国であったというより欧米の陰謀による被害国であったと捉える人が多い、さらに遡れば欧米のアジアの植民地化というものがあって、なんというか受動ー能動 被害者意識ー加害者意識 そういった二重構造がねじれたままずっと引きずっているようなところがあると思うのです。 ウーン、この辺の問題についてはもう少し考えを突き詰めてみます。 jd8hnshuah産、お返事ありがとうございます。 >日本人の誰かが他人から「生ぬるい奴だ」と言われたのは日本人であるが故なのでしょうか? >また日本人犯罪者の罪は日本人全員で償うべきでしょうか? 私はこれらを個人の責であると考えている為に集団批判を嫌っています。 仰ることは分かります、ネットでよくありますけど中国人だったら中国人全体がうそつきみたいな書き方する人がいたりすると腹が立ちますし、国や民族超えた価値観の共有も友情も可能だと思ってるしそういうのはあくまで個人の問題と思っています。 ただ、それって友人、知人には可能でも、外国に行けば私はいやでも「日本人」です、個人ではなく『日本人』と見る人のほうが圧倒的な多数です。嫌でも日本の歴史を背負わなければならないこともあります。学生のとき、沖縄に一ヶ月ほどいたことがあります、ちょうど終戦記念日も近くてあちらのテレビでは旧日本兵の残虐をそのまま放映されていたんですね、それでなんかいたたまれない思いをしたことはあります。私は当時を全く知らないのにも関わらず、です。

参考URL:
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%88%90%E3%82%8B&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=14422713880900
noname#80116
質問者

補足

★ 荻生徂徠と本居宣長の違い ☆ わたしの解釈が入っていますので その点 ご注意をお願いしておきます。  《生ぬるい》という一つの自己認識 これから いろんな主題につながるものですね。わたしのほうが 驚いています。自然・環境問題にまで来ました。ありがとうございます。  確認しつつ 進めるという意味で 復唱しておきます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・自然神との連続性として人間を捉える文化と、自然から追放されたところから始まる、つまり非連続性からはじまる文化、  ・『成る』の文化と『する』の文化の違い、  ・そこからステロタイプのイメージ「一神教→自然との対立→自然破壊」ですね、  ・日本が近代化して先進国である以上、「する」の文化なのだ、なのに根底には「成る」受動的な文化というものがある。こういう二重構造になっていると思うのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 可能を表わすには 《知る( can )/ 力( power / pouvoir )》に対して 《出(いで)来る》というやはり自然成長性の語をもってくるという違いがあると聞いたことがあります。取りようによっては きわめて信仰心の篤い民族であるようにも考えられます。  また この二項対立に限っても ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・その二重構造は例えば戦争責任問題でいうと加害国であったというより欧米の陰謀による被害国であったと捉える人が多い、  ・さらに遡れば欧米のアジアの植民地化というものがあって、なんというか受動ー能動 被害者意識ー加害者意識 そういった二重構造がねじれたままずっと引きずっているようなところがあると思うのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも確認しておきましょう。 ☆ またまた わたしの批評せずじまいに終わっている思想家を出して来ましたね。田川建三。ほとんど(最近年のは分かりません)と言っていいくらい 読んだのですが その評価をまとめるのに苦労します。吉本隆明を批判しているところとか あるいは 聖書研究で 荒井献と衝突しているところとか よくわかるのですが 田川自身の思想は なかなか捉え難い。聖書学者であり キリスト・イエスへの信仰は持たずと表明している こんな表向きの捉え方しか 出て来ずです。  (『イエスという男』では 人間イエスを なかなか高く評価し 思想を深く掘り下げていくところがあったと思います。つまりは いまの主題にからませて 《なる》と《する》とを綜合する視点・立ち場・姿勢あるいは ふつうに 生活態度を提示しようとしていたようにも)。 ☆ 丸山真男を もう少し読みついでいますが そして 昔の文章にして 今にも 辛辣な批評を提供している面白い箇所も見つけましたが まぁ あせらず 一歩一歩あゆんでまいりましょう。  今回は(今回も?) さえない恰好にてです。

回答No.18

こんばんは、brageloneさん。 ****************************************************************************************************** 黄色い人は 日本人のことでないとすれば 結核にかかった人という意味でしょうか。そういう人は 中庸を重んじるが 熱くもなく冷たくもなく けっきょくは 神によって 吐き出されてしまうと 遠藤周作が言っているという意味でしょうか。遠藤は この作品にかこつけて 自分の愚痴をこぼしているという理解でしょうか。 ****************************************************************************************************** 黄色い人 まずこのタイトルをみて何かしら感情が揺さぶられる方があるやもしれません。そこには何かしらの言葉に対するイメージが偏見としてすでにあるからではないでしょうか。ひとまず抱き持つ言葉に対する偏見を横において『黄色い人とはなんぞえ?』と言葉とむきあって見てください。偏見が先立ちますと思考の流れが自動的に誘導されるかのようにこれしかないとばかりにただ一点に向かい思考停止に陥ります。他の道筋を考えることも意識が遮ります。ここまではいいですか?で、おたずねの黄色い人が日本人でないとしたら…のお言葉ですが日本人(人)でないとは言ってはおりません。単に日本人をさして言っているばかりではないように思うとはいいましたが、限定はしておりません。人も含む。黄色い人と言葉をみて人を想定する場合もありましょうが人でない何かが擬人化して書き表されてある場合も考えられるのではないでしょうか。ひとつの言葉の中に幾つもの事柄事象が折り畳まれてるものではないでしょうか。 きかん,キカン,聞かん,聴かん,利かん,,効かん,訊かん,気管,器官,期間,機関,基幹,奇観,旗艦,亀鑑,既刊,季刊,帰還,帰館,貴簡… ****************************************************************************************************** 我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録) ****************************************************************************************************** 単純に口から吐き出されるものを唾と想定してみる で、神さんのことばを思い浮かべると 『天に向かって唾を吐く』って言葉が思いあたる しかし、これをことわざと捉えずに重力の法則とみれば 上へあがったものは落ちてくるいや戻ってくる 戻ってくることを帰還とすれば気管と唾の関係が現れる こと、日本では太陽を描く場合赤色を用いることがおおいが 他国においては黄色で描かれていることがある 黄色ー太陽と想定してみると 太陽が吐き出すものはなんだ?フレア 人が痰を吐く場合、痰の粘度が高くなければコンと咳すればすっと出る。 しかしながら、粘度が高くなると力んで咳をしたとてなかなか出ない。 何かが気管にへばりついてとれないすっとしない心悪さ。 そうなると人はついつい力んで咳をしてしまう。 【堰(せき)を切・る】 川の流れが堰を壊してあふれでる。また転じて、 おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。 フレアよろしく爆発のメカニズムと重なりはしないか? ●遠藤は この作品にかこつけて 自分の愚痴をこぼしているという理解でしょうか いえいえ、そうは思ってはいませんよ。愚痴というよりも吐露じゃないのかと。 太宰治の『駆け込み訴え』がふと浮かびます。 QNo.2797136【 ほにゃらか形而左右学 影 】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html ↑ こちら同様に告白というか宣言が妥当なのではないでしょうか。 【粘度】http://www.weblio.jp/content/%E7%B2%98%E5%BA%A6

noname#80116
質問者

お礼

 残念ながら お礼を申し上げるには あまりにも 質問をばかにしていると感じます。  《冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに うんぬん》と言われているのは 明らかに その前文での《黄色い人》のことです。  もしそれが 《結核にかかった人(また その自己顕示としての表現)》のことのほかに 《黄色い人=つまり日本人》という解釈もありうるというのでしたら その解釈にもとづいて どう反応するのか どのような見解を持つか これらの点で おしえてください。これが 質問の趣旨です。  どういうわけか 質問の趣旨を 自分の思うところへと 引き込もうとしておられる。度重なることですので 明確に ご指摘申し上げます。

回答No.17

質問者様及びmystisism2様、返答感謝致します。 mystisism2様へ、異なる思想から導き出された意見を認知することは不快です、しかしそれを取り込み己のものとすることは至極愉快です。ですのでmystisism2様が気に病むようなことはないと断言します。 私は逆に他人事のような批判は問題ないと考えます、己を集団に置いた上でその土台たる集団を批判することを嫌っているだけですので。 例えば… 日本人の誰かが他人から「生ぬるい奴だ」と言われたのは日本人であるが故なのでしょうか? また日本人犯罪者の罪は日本人全員で償うべきでしょうか? 私はこれらを個人の責であると考えている為に集団批判を嫌っています。 これで質問者様への1の上半分の返答にも出来ていると思いますが如何でしょうか? 1の残り ですからその一般から漏れた数少ない日本人の私が「その項目について自分は違っているがそれを調べられたことはない、一体どんな調査を行って一般的と判断したのか」と言う批判をするならば一般的と判断した者はその批判を受けるべきでしょう? 因みに外国人から見てどうのとか、統計学的な話とかでは満足出来ませんよ? で、反論の方法のない批判は議論ではありません、批判です。 2 何故吐き出されたか分かるか? 貴方は私の業を知っているからだ。 私は冷たくも熱くもない。 寧ろ冷たく、或いは熱ければ… しかし私は温く不味いが故に、貴方は私を口より吐き出したのだ。 これで如何でしょうか? 3…は答える必要がないと判断した為無回答です。 4 例を出すことによって、かなり乱暴かつ急速に繋げます。 ○その中身が重要であるにも関わらず、努力そのものが報われることを心中で祈るのは信仰。 ◎それを礼拝や供物を使ったりして祈るという行動に出すのは宗教。 ○忍耐は時間の経過とそれによる事態の進行しか齎さないのに、そこに事態の好転を求めるのは信仰。 ◎わざわざ己に苦行を科してまで忍耐を行うのは宗教。 ○ただ神の存在と所業を信じ、そこに救いを求めるのは信仰。 ◎そこに恐怖も感じて機嫌取りを行うのも、価値観の異なる者を攻撃するのも宗教。 以上です、ではまた…

noname#80116
質問者

お礼

 連帯責任について 補足です。  虎の門事件で 難波大助の身内や関係者が 連帯責任を取ったという旧い明治憲法下での出来事を取り上げて その連帯責任のことを 賞讃したり擁護したりしているのではありません。その点 明らかにしておきたいと思います。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  日本人の誰かが他人から「生ぬるい奴だ」と言われたのは日本人であるが故なのでしょうか? ・・・  私はこれらを個人の責であると考えている為に集団批判を嫌っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 旧憲法下では 難波大助の事件に象徴されるように 臣下が事件を起こせば 一定の範囲の関係する者たちが連帯責任を負います。しかも 戦争を始め 負けた責任(戦死者・被災者に対する責任)は 問われません。あたかもその関係者は 互いに連帯して 責任を押し付け合い 回りまわって無責任となると言っても いいほどです。(外国からの裁きやら評価やらの前に 国内の問題としてです)。  現在では 役人が通達を非公式に出せば 責任を問われず 間違いを犯した民間人が罰せられます。社長が法律違反を指示しても 工場長は否と言えず その違反が明るみに出ると すべてわたし一人でやったことですと工場長は 社長を庇い 自分が責任を負おうとします。  わたしも まったく あなたと同じく あくまで責任ある個人が 責任を負うべきだという原則を持っています。  ただ 旧い慣習が あたかもわれわれの身体に刷り込まれています。それが 出るか出ないかに 個人差がありますが 歴史の負の遺産を やはりわたしたちは みなが共に 引き継いでいるし 負っているのではないでしょうか。  そして それに対処するには――ここからは いくつかある戦術の中の単なる一つとしてですが―― かえって みなが 連帯責任を 自由に 負うのだと考えて 互いに知恵を出し合い これを精算していく。こういう案もあるのではないか。こう思ったという意味でした。  舌足らずだったと思います。いかがでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 jd8hnshuahさん お答えいただきありがとうございます。   今ごろですが 少しづつ分かって来ました。まだまだですが さらにすっきりとした地点に 互いに 到達したいと思います。 (3) キリスト教集団について 過去は 悪いことがあった。現在も 詐欺をおこなう集団がある。たいていは 排他的な振る舞いは もう しないようだ。この認識を取りあえずの了解事項とします。 (4)これも了解いたしました。だいたい 宗教のほうは 組織・教義・教祖がいて 行事儀礼や慣習をともなう。そして 一人では つまり 一人だけの信仰としては やっていけないのだと思います。 (2)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何故吐き出されたか分かるか? 貴方は私の業を知っているからだ。 私は冷たくも熱くもない。 寧ろ冷たく、或いは熱ければ… しかし私は温く不味いが故に、貴方は私を口より吐き出したのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最初の一文だけは 神が言っているのでしょうか。そうして 《私》は その神に答えている。これは 事実認識を 言葉にして表わしたということになると思います。神からすれば 吐き出したが それでも いいのかと問いかけているのだと思います。それに対する自分の考えを述べる答えの部分は ないのでしょうか。つまり 《私》は 《貴方つまり神》とは 無関係だということを言おうとしているのでしょうか。  意味が分かったという反面で 別の問題が現われているようにも思います。問題など もう ないというのも 自由な一つの立ち場ですが。 (1)これは 残念ながら まだ先が見えません。こういう情況を思ってみてください。  《虎ノ門事件》という大逆事件があります。《難波大助が虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃した事件》です。 →Wiki:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E3%83%8E%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6  このとき 犯人が死刑になったのは 言うまでもないとして そのほかに 内閣総辞職など関係公職の辞任 これも 分かるとして ほかに    難波大助の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の2割減俸、   途中 難波が立ち寄ったとされる京都府の府知事は譴責処分となった。   また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が   卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した。   庚申倶楽部に所属していた衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるや   直ちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一   室に蟄居し、餓死自殺した。長兄は勤めていた鉱業会社を退職した。   難波の処刑後、皇太子は「家族の更生に配慮せよ」と側近に語った。  とあります。《無責任体制》の問題で わたしは いくらか極論して それは 《連帯責任制》であればよいものをと言っているのですが もし上のような形で 連帯責任をとるのであれば 戦後において 戦争(その開始および敗戦)責任を 皆が 互いに負い合えば いいではないかと 単純に 考えます。これは あるいは古い考えであるかも知れないのですが こういう社会的な相互の関係を うっすらと しかも 各自が自由に 持ち合って 話し合いをすすめていくのがよいとも考えます。  つまり このような意味で《日本人》というように 極めて乱暴に 総括して 議論の主題にしているという情況です。共同体というような基盤を 前提にしていて もはや 旧い思想であるかも知れません。そのときには 当てはまらない人たちには 悪いですが 一般化したかたちで 議論させていただきますという意味なのです。

回答No.16

お返事ありがとうございます。「無」と「空」の違いがわかりました。空というのは「色即是空」の「空」で、それは存在に対立する「無」ではなく、中心のない分散したもの、そういうイメージでとらえてよろしいでしょうか? >(丸山真男には 古代史に題材をとった議論がありました。《なる》と《する》ですとか その前者が 《通奏低音》として成り響いているですとか。《なる》という大前提では 《人為的に 徹底しておこなうという形を採らない。実際に もし そうおこなっていたとしても やはり その捉え方としては ものごとは あくまで自然成長としてのごとく 〈なる〉のだ》という世界観が 重低奏のように 響いているのだとか。) 私も「日本政治思想史研究」を引っ張り出してきました^^;私が歴史に疎いのと、儒教も朱子学もちんぷんかんぷん、そのうえ活字体が古くて以前読もうと思っても、難しくって読めなかったものです。冒頭にヘーゲルを引用して、それは儒教政治だった頃の中国の政治体制に対する批判からはじまっています、それ自体で完成されて内部批判がないゆえに腐敗してゆく政治体制ということです。 抜粋してみます。朱子学の形而上学的な基礎になった太極思想についてです。 ー自然と人間の究極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合より水火木金土の五行が順次に発生しそこに4季の循環が行われる。また陰陽二気は男女として交感し万物を化生するが、その中人は最もすぐれた気を受けたため、その霊万物に優れ聖人は全く天然自然と合一している。故に人間道徳はこうした聖人の境地を修得するところに存する。ー これが引用されたような人為的な行いではなく、自然成長していく形の「なる」ということなのかしら? 良く東洋思想で「あるがまま」の大切さが説かれますよね、それは人を楽にする反面、成長進歩を止めてしまう、そういうことなのかな? 私も丸山真男をじっくり読んで行きたいと思ってます、おっちょこちょいで誤読も多いのですが、どうぞよろしくお願いします^^ jd8hnshuahさん、はじめまして。もしも私の投稿がご不快でしたら申し訳ありません。 >集団批判 おっしゃることはわかります、確かに他人事のような日本人批判というのは不愉快だと思います、でもネットで見られる無責任な政治批判でもよく見ると結局自分に向けられるべき批判になってるのではないでしょうか?他人事のように批判しているつもりが結局自身の欠点を暴露してしまうってよくあることです。でも、それでも批判することを恐れてはいけないとも思うのです。 ニーチェはキリスト教を批判しましたけど、ルサンチマンがまさに自己にあるということの自覚はあったと思います、文学者の場合でも、芥川龍之介の「六の宮の姫」は自分をモデルにしたともいわれていますし、遠藤周作の「生ぬるい日本人」も結局自分自身に向けられた批判であったと思うのです。自身の中に見出した悪であるからこそ、批判としてリアリティを持つのではないでしょうか?批判すれば当然、批判も受けます、人を傷つければ当然それは自分に帰ってきます。もしかしたら人というものはそういう形で少しずつ成長していくものじゃないかと思うのですがどうでしょうか? みんな、わからないまま手探りで意見をぶつけたりぶつけられたりで何とか自分を形にしていくようなものじゃないかと思うのです。あるいはそうしているうちに何か新しいものが生まれるかもしれない、私は臆病なところがあるんですけど、最近はそういう風に思うようになりました。

noname#80116
質問者

補足

 お答えをありがとうございます。 ☆ 《空》は 有でもなく無でもないと説明されます。しかも 経験領域で 真空が 《無》ではないとすれば 《無=ゼロ=つまり もはやむしろ そういう仮りの記号》が 《空》であるとも言えるのではないでしょうか。だとすれば これは 《無限》のことでもあり けっきょく《神》のことでもあるとなります。《無責任体制》は 神に責任がある( Act of God )とも見られるでしょうし あるいは逆に 《一億総懺悔》ではありませんが 誰もの責任であるとも言えるかも知れません。 ★ 丸山真男 ☆ わたしも『日本政治思想史研究』をひもといてみたら ヘーゲルから朱子学から つづいていますね。そして 一連の推論に沿って理解していくのですが なかなか結論に達しないようにも感じます。その推論の過程じたいに 大事な内容が置かれているのでしょうか。  《なる》と《する》と書きましたが この本では 《自然》と《作為》ですね。そして もう一冊別の『日本の思想』をめくってみたら 《〈である〉ことと〈する〉こと》という対比でした。 ★ 良く東洋思想で「あるがまま」の大切さが説かれますよね、それは人を楽にする反面、成長進歩を止めてしまう、そういうことなのかな? ☆ おおよそ こういうことだと思うのですが大胆に わたしの理解をまとめます。  《自然成長性》と《人為》との綜合が 問題になる。また われわれの目的である。  いわゆる近代人の経験合理性として歴史知性の自覚 その以前と以後とでは 人為の性格が変わった。  以前では 自然の力にもとづくところの人為であった。人間としてはみづからが時間的な存在であるという自覚ののちは 自然成長性と拮抗するような人為を発揮するようになる。利用・活用するのだが さらには これをあたかも凌駕するような人為の力を 見出し 発揮するようになる。  このとき 社会のあり方としても 自然共同体での情況から やはり人為の人間関係や制度が 作られてくる。朱子学を発展させて 荻生徂徠は このとき 《自然成長性》の究極の姿として 《摂理》を想定し しかも この摂理を体得した《聖人》をも想定する。つまり この聖人による《人為》であるなら それは 自然成長性に合致した社会行為であると説く。聖人は 江戸時代にはたとえば 神君・家康となる。→その時の社会体制に有利な説となる。  本居宣長ら国学派は 自然成長一本槍である。摂理などという小ざかしい理屈は言わない。《神ながらの道》。→これも この《道》に表立って逆らわないなら けっきょく 時の権力体制と 衝突するというものではない。   ということは 《人為》派は あまり勢力を持たなかったのだろうか。  《こちらが ご注文のハンバーグに〈なり〉ます》と言って レストランで運んで来るというのは われわれの気持ちに合っているのだろうか。どこか おかしな表現だと感じるのだけれど。・・・  意思表示や意見の開陳 これが やはり あいまいとなるのでしょうか。

回答No.15

 騎馬民族という言葉を使用して著述されたご高名な碩学は江上波夫氏でしょうが、これは氏の発明でもなく、以前からあり、使用されてきている普通名詞です。  私はご著述をまったく念頭にしないで使いました。  単に非農耕民というだけです。  そして或は更に非漁労民でもあります。  すみません、あまり広範なことや、深いことは思わないで、書き込みをしておりますものでして。

noname#80116
質問者

お礼

 そうですね。  《騎馬民族》という言葉で 江上波夫の 騎馬民族による日本征服説を出したのは まったく わたくし( bragelone )の責任です。確認いたしました。

回答No.14

順番に返答していきたいと思います。 まず本来の質問に… 生ぬるいとも言えないが、生ぬるくないとも言えない。ですね。 1 集団批判とは… 個の責を属する集団に乗せることでそれを紛らわせて隠す。 逆にその責を上から広げることで集団に属する全てを非難する。 こんなことも出来ますし、する者も居ます。 どんな風にでも使える便利なものですよ…だから嫌いです。 それに、一般論を語るならば一般から漏れた者からの批判は受けるべきでは? それと、議論とは一方的な批判をぶつけることではないですよ。 2 汝と我を入れ替えた後で、その前文として 「何故吐き出されたか分かるか?」 とつけてみて下さい。 因みに汝を被らせる相手は神でなく第三者の人間でも構いません。 我は汝に問い掛けるのではない、汝より問い掛けられているのだ。 3 宗派同士で相手の貶し合いをする宗教が排他的でないとは到底思えません。 そもそもキリスト教がどれだけの宗教と信仰を潰してきたことか… 教義も神の解釈も違うのにキリスト教を名乗るのですから汚名は甘んじて被っていただかないと。 4 >人間の努力の果てるところから 信仰が始まります。 この前提の出所とその論証をお願いします。 個々の人間の心の中に描かれた神、それを己から出すことが宗教であると考えています。 心の中だけに存在する場合と再び己に入れた場合は宗教でなく信仰ですね。 政治的・経済的な成功を求めている宗教は私から言わせれば詐欺集団でしかありませんね。 宗教の成功とは人を支配するのではない、その人の心の中に立つ神を支配するのだ。 最後に一つ、救われぬ者が次の救いを求めないとは限らない…なんとも馬鹿なことにね。 表面上は冷静を保ちたいですが、感情が頭どころか体中を巡っています。 ので、破裂しない内に失礼致します。

noname#80116
質問者

補足

 なにかわたしの気づかないところで 起こっているようで どうしていいか 戸惑っています。  普段は もう寝ている時間ですが 今夜は 起きていました。大筋において わたしの率直な考えと分からないところを お伝えします。 (1)集団批判ということについて まだよく分かっていないと気づきました。  個人だけにではなく その人が属している集団にも その個人の責任に対する責任があるとすれば 集団も共に責められるでしょうし なければ その集団への責めは 不当なものです。 ★ 一般論を語るならば一般から漏れた者からの批判は受けるべきでは? それと、議論とは一方的な批判をぶつけることではないですよ。 ☆ ここが よく分かりません。一般論というときには 当てはまらない場合があるかも知れないけれど そこは ある程度の割合に対して当てはまるならば そのことで 論じますので おことわり申し上げますという趣旨だと考えるのですが。  批判は 相手が 気づいていないところを指摘し その妥当性に欠ける部分を論証することだと思います。その批判を提出することまでは 《一方的に》おこなうものと思いますが。 (2)《「何故吐き出されたか分かるか?」》を前文につけると言われましたが 吐き出すのは 神ですか 人間の我ですか。神だと思うのですが この文は 人間が言うのでしょうか。  《汝を被らせる》の《被らせる》がよく分かりません。かぶらせる・こうむらせる でしょうか。  《相手は神でなく第三者の人間でも構いません》――これは ここでは 別の問題になってしまいます。なぜなら 神がパンを焼いて 人間を造るという想定だったからです。あくまで 神と人との関係でなくては 話しがちがって来ます。それとも その別の形としても 応用できるという話しでしょうか。  それとも こういう話しでしょうか。つまり 《神よ なぜ我は 汝を吐き出したか わかるか?》というような。でもこれだと 神は それは どうでもよいと答えると思いますが。 (3) わたしが 宗教の肩を持つことはしないわけですが 現在の日本にあるキリスト教団体は たいていは 排他的ではないですよ。議論することは 排他的だとは言わないと思います。過去は また別の話しになるでしょうが。 (4) 信仰の成り立ちは 絶対の概念の想定とともに 説明されます。人間の経験思考を超えたところに 絶対が想定され それとの関係が 信仰ですから 《人間の努力の果てるところから 信仰が始まります》。 ★ 個々の人間の心の中に描かれた神、それを己から出すことが宗教であると考えています。 ☆ これは 後半が あいまいだと思います。なぜなら 内面における良心・信教の自由とともに 外面において 表現の自由や結社の自由も 人間社会にとって 大前提となっています。《己から出す》が 表現することでなく 別の意味でしたら おしえてください。つまり 自己表現としての信仰告白でしたら それは まだ 教義や組織や教祖の問題ではなく その手前にとどまって 個人の信仰を表明しただけだと見なしうると考えます。    このあたりで お返ししたいと思いました。言論は貴いものです。自由に もっと自由に 問題をそのものとして特定して述べるようにして おしえてください。気づかないところは いかんともし難いものです。どうぞよろしくお願いします。