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東北地方の分国名
大宝律令によって地方行政区分された後、東北は「出羽」と「陸奥」の2国の状態です。「陸奥」「羽後」「羽前」「陸中」「陸前」「磐城」「岩代」の7国に分割されたのは明治になってから(ウィキ)とのことですがそれまでずっと2国の状態が続いたのでしょうか。あまりにも大雑把な感じがします。 中央から遠い存在だった飛鳥~鎌倉時代なら分かるのですが、江戸時代に入っても2国制だったのでしょうか?
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統治者の意識の違いが大きい。 武士の統治というか支配の基本は「生産単位の統治」の積み上げという発想です。 ○○荘園の現地支配者という発生によって運命づけられたものです。 なので、□□の国の支配という発想は弱かった。鎌倉・室町期の守護も、□□の国の支配と言うよりは、□□の国に在住している御家人の軍事指揮権というのがメイン。室町期の半済も、統治がメインではなく、戦費の現地調達の合理化であります。 統治のスタンスとして、現地支配の積み上げによる、地方分権主義で、大きな地方支配の単位(能登・加賀・越前三国の前田家とか)があろうと、郡単位、村単位、バラバラ(譜代で多かった)であろうと、まったく構いはしない。 古代の奈良時代・平安時代の統治の原理は、中央集権で役人が中央政権の代理として地方に出向するというもの。合理的に支配するには、支配に適当な単位にする必要があった。現在の福井から、現在の山形・秋田くらいまで、日本海側をひとまとめに支配するのが便利なら、ひとまとめで 越 であり、だんだんと 支配しやすいように 越前 越中 越後 さらに再分割としていきました。 明治政権が、古代政権の復古であり、中央集権を目指すものでしたから、出羽 陸奥では あまりに でかすぎるというので分割した。ということになります。
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- tanuki4u
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昨今話に出ている県同士を統括し、州のような自治にしようとの動きがありますが、似ていると感じました。 → 道州制とはちょっと違います。古代における「道」は、中央からの指令を伝えるための「命令・支配」の為のまとまりです。古代イラン・アケメネス朝ペルシャの王の道に概念的には似ています。 再度疑問ですが明治期に急に分割されるまでの中間期(中規模分割)は存在しなかったのでしょうか。なぜ越のように細区分されるまでに至らなかったのでしょうか。(中央から見て)僻地だからと考えて差し支えないのでしょうか? → 越が分割されたのは古代です。中世は基本的に下から積み上げ、横の連絡型の支配体系だったので、中央政府が統治しやすいように分割するというのはありませんでしたので、国が大きかろうと小さかろうと「デモ そんなのかんけーねー(小島風)」です。国よりも小さな郡レベルである荘園が統治の基本単位なので。 長講堂領42ヵ国89ヵ所 や 八条院領あるいは平氏没官領など、荘園の集積として扱われています。 → 行基図を見ていたのですが、奥羽が僻地というよりは、意識の上で大きくないというのもあったのかもしれません。 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/022.html こういう日本地理認識だったら、「おーう でかすぎ 分割するっきゃないよね」BY 藤原貴族。なんてことは 起きそうもない。
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荘園の集積ですか。もっと小さい単位なのですね。 思うに地図が出来て、日本や世界という地理の観念が出来たころに初めて「お~う、でかい」なのでしょう。行基も伊能忠敬も歩いてその足で確かめた地理なので、今の衛星写真と違って出羽や陸奥のでかさも実感できたのではと思っています。古代イランの王のことは知りませんでしたが、勉強します。 それにしても行基図は金箔ですかね。見た目ゴウジャスです。黄金の国ジパングです。 出羽お礼を。回答ありがとうございました。
- Tacosan
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石城・石背はそれぞれ「いわき」「いわしろ」だと思います. 「山城」ももともとは「山背」でした. もっというと, 「城」に「しろ」という音がなかったはず (「山背」→「山城」の改名によって「しろ」という音ができたとか) です. で, 「羽後国」とか「陸前国」がなかった以上, 「羽後守」とか「陸前守」とかは存在するはずもありません.
お礼
「いわき」と「いわしろ」でしたか。山城は山背だったのですか。勉強になります。 羽後、陸前がないので官名が無いのは道理ですね。 「三日月の丸くなるまで南部領」 東北の広大な領地を読んだ詩だそうですが、2国制ならではです。 回答ありがとうございました。
- hazu01_01
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まず、奈良時代に数年間ですが、陸奥国から石城国、石背国が分国した時期がありました。その時期は短かったようですので、何らかの理由で失敗したのではないでしょうか。 なお、この頃信濃から諏訪なども分国しています。多くは元に戻ったようですが、美作、丹後などそのまま分国したところもあったようです。 分国が進められていた時期は8世紀から8世紀の初めですので、やはり#2の人がおっしゃるように統治者の統治に必要があるかないかで分国するのかきまるのでしょう。 江戸時代に決まっていると、国は公家や大名などの地位として名乗るためだけにあるようなものですので、特に陸奥と出羽を分ける必要性はなかったでしょう。実際に統治するために必要な単位は村であり、そのまとまりとしての領地です。 なお、江戸時代の大名は4回(慶長、正保、元禄、天保)、国絵図という地図と郷帳を作成し幕府に納めていますが。また、寛永年間にも巡検使を派遣し、国絵図を集めています。 これは各大名等から絵図元という各国の責任者に絵図等が届けられ、最終的には老中に提出されるという仕組みです。 絵図元は各国1人のところもありますが、複数人で相持のところもありました。陸奥、出羽などは分割して作成されたようです。(正保年間では陸奥5分割、出羽3分割)
お礼
奈良時代の区分のお話、とても興味深いです。石城(いわしろと読んで良いのでしょうか?)石背(いわせ?)は石見が「石(岩)ばかりで何も無いところ」と言う呼び方をされて言わば蔑視されていたのと同じ理由なのではと、名前から勝手に想像してしまいました。 また諏訪は独立性が高そうですね。美作、丹後は独立成功組なのでしょうか。 多少脱線しますが官位に「出羽守」「陸奥守」はありますが、「羽後守 」「陸前守」はいませんね。 やはり回答者の皆様のおっしゃるように >実際に統治するために必要な単位は村であり、そのまとまりとしての領地 なのでしょう。 国絵図は台帳のような役割もあったのでしょうか。さすがに陸奥、出羽は広大なので分割されていたのですね。 陸奥5分割、出羽3分割(計8分割)と質問の7カ国は関連性はなかったのでしょうか(8と7なので全く同じではないにしても無関係な割り方だったのでしょうか?) そのところも出来れば再回答お願いできないでしょうか? 回答ありがとうございました。
明治時代に分割されるまでは2国の状態が続いていました。 理由は判然とはしませんが、時代が下る程朝廷が直接支配できる状況ではなかったこと(奥州藤原氏の支配以降は、建武の親政期以外では完全な支配はなかったと思われる)が大きいと思います。役所を置ける状況にないのに、官職だけ増やす意味はありませんから。
お礼
そこなのです。徳川幕府は支配体制を強化しています。外様、譜代、親藩を分けています。なのに東北に限ってこの雑さ。 日本海側と太平洋側だけの大雑把さ。 役所を置ける状態にないとのことですが、戦国期ならいざ知らず、江戸幕府なら可能なような・・・ >時代が下る程朝廷が直接支配できる状況ではなかったこと 大名まかせ(朝廷が武家に丸投げ)、ととらえて良いのでしょうか? 回答ありがとうございました。
- 6dou_rinne
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江戸時代もそのままでした。 ただ、実際にはそれぞれの大名などの領地として分割されて統治されていますから国を細分化する必要もなかったのでしょう。
お礼
公家から武士の時代全般を通して2国制だったのですか。 例えば羽後や羽前は秋田(安東)氏や最上氏などが「出羽」の中で「自領」として自己統治していた結果、塊りとなっていただけということでしょうか。明確な線引き国境がなかったのでしょうか。 それにしては随分長い間だと疑問に思っております。さらに明治時代が訪れるまで放置?されていたのが政治的に雑に感じます。 回答ありがとうございます。
お礼
>現在の山形・秋田くらいまで、日本海側をひとまとめに支配するのが便利なら、ひとまとめで 越 であり・・・ 昨今話に出ている県同士を統括し、州のような自治にしようとの動きがありますが、似ていると感じました。 再度疑問ですが明治期に急に分割されるまでの中間期(中規模分割)は存在しなかったのでしょうか。なぜ越のように細区分されるまでに至らなかったのでしょうか。(中央から見て)僻地だからと考えて差し支えないのでしょうか? 回答ありがとうございました。