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神社の巫女さんの起源

中世の神社の巫女さんってどんな感じ? 神社の巫女さんっていうのは、全国的には、いつの時代ころに現在のスタイル(紅白の衣装の事務員)に固まっていったのでしょうか? 個人的趣味で調べている事なのですが この辺りの時代の資料がほとんど出てこないので質問です 律令制度の衰退に合わせて歴史の陰に隠れていくと図書館でも資料のない状態で 素人の自分にはさっぱり分かりません 対象は武士の時代、鎌倉~江戸中期(だいたい本居宣長以前)くらいまで イタコとかの遊興の巫女関係はほどほどでお願いいたします

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>神社の巫女さんっていうのは、全国的には、いつの時代ころに現在のスタイル(紅白の衣装の事務員)に固まっていったのでしょうか? 回答から先に述べますと「平安時代後期」が定説のようです。 平安時代に宮中の女性が白い小袖に紫や赤、黄色などの袴をはいた屏風絵などがありますが、その流れをくんで、白の小袖は「純潔」を表し、赤の袴は「太陽(信仰)」を表している・・・と考えられています。 昔は、袴には「マチ」と呼ばれる仕切りがありズボンのように左右に分かれたものを着用していましたが、江戸時代後期頃からはスカート型になっています。

m_matsubara
質問者

お礼

なるほど、衣装としてはその時期に固まったと言うことで良さそうですね ただ、そうなると全国的な広まりを見せたのはいつということになるのでしょうか? 考えられる区分としてはこんな感じなのかなぁと思いますが 1.平安後期、主因:大和朝廷 2.鎌倉~元禄、主因:なんとなく(ぉぃ 3.江戸時代中期、主因:国学(大日本記、本居宣長) 4.江戸時代末期、主因:平田篤胤学派とか吉田神道とか 5.明治時代、主因:明治政府 6.昭和初期、主因;大政翼賛会とか戦争の雰囲気 どの時代に、何がわっと広がったのかとかはそれぞれ区分が分かれそうです

その他の回答 (2)

  • mekuriya
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回答No.2

まず基本的なところから説明すると江戸時代を含めて江戸時代以前には全国的な組織は幕府以外には何一つ存在しないということを理解する必要があります。神社に関しても、それは例外ではありません。全国神職会が組織されたのは明治25年です。ですから、そもそも「全国的には」という発想に無理があります。神社の機能そのものが現代の我々が考えるようなものでもありません。地域によって時代によって多様なのです。あくまで「全国的には」にこだわるのなら、それは明治時代以降のことですと答えるほかない。資料など初めから存在しません。かの有名な出雲阿国は、出雲大社の巫女だったという説が有力ですが、それだって公家などの非公式な日記に断片的に触れられている程度であって、ことこまかに衣装がどうだったなどと記録があるわけではないのです。巫女などという制度が存在したわけでもないし、職業として確立されていたわけでもない。出雲阿国が出雲大社の巫女だったとするなら、干ばつの時に雨乞いの踊りをして神社に奉納した女性が巫女の源流だったのかも知れません。

m_matsubara
質問者

お礼

どうも、ありがとうございます 全国的共通の管理はできていないのでやはりそうなるのでしょうが 「文化は高いところから低いところに落ちる」 等の言葉もありますし、日本文化の緩やかな共通感を考えれば 全国的各地の神社、がそれぞれの進歩を遂げていた 「ゆるやかに繋がりを持ちながら」という感じだったのでしょうから どの頃にはどういう共通点があったのかを知りたいかな あとは 聞得大君 Wikiepediaからの出店ですが > 琉球王国では、尚真王代に中央集権化と祭政一致が行われた。この際に各地に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され 采女 >出雲国造が「神宮采女」と称して妾を蓄えることを禁止しつつも とありますので、それなりの大きな国では、神社に対して職能集団としての女性神職はあったのでは? と思われます

  • michael-m
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回答No.1

東京堂出版「神社」(岡田米夫著)と神社本庁から出ている「神道いろは」を参考にすると 巫女の起源には二種類あり、一つはシャーマンとしての起源と神社の奉仕者の起源です。 一説には斎宮(伊勢神宮)や斎院(賀茂神社)が女性であるのは後者の起源を持つと言われています。 また、巫女舞もシャーマニズム由来の儀式だと言われています。 このシャーマニズムに由来する場合、巫女は外に「イチ」或いは「カムナギ」とも呼びます。 このカムナギは「神招き(カムマネキ)」が変化したものといわれています。 (ただしこの神招きには男性も居ます。男性の神招きは「覡(げき)」といい、男女を合わせて「巫覡(ふげき)」と言います。) また神社の奉仕者、特に女性である斎宮などに使える者(采女)をもミコ、伊勢の神宮では「物忌み」、などとも呼ばれました。(物忌みは男女共に使われた) 神招きや物忌みには穢れの無い童男・童女があてがわれました。 赤袴を十二単の下着だとする説がありますが、一説には既婚者が赤袴、未婚の若い女性は濃色(こきいろ)である事が気になります。 これは私見ですが、私はその職務から考えて、采女(うねめ)の衣装が起源ではないかと考えています。 (まさか女性が下着で歩くわけもありませんからね) 采女は天皇や皇后に使える女官で、神宮の斎宮も皇室ですから采女に準ずる女官が携わって当然でしょう。 采女の衣装はミコさんと同じく、赤の切り袴です。 正確には絵絹や衣を纏っていましたが、いつの頃からか現代の姿になったのでしょう。と思っています。 残念ながら私はさほど詳しくないので、采女などがいつから存在したかは定かではありません。 ちなみに巫女は「八乙女(やおとめ)」「神楽乙女」とも呼ばれたそうです。(「神社」参照)

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%87%E5%A5%B3%E8%A3%85%E6%9D%9F
m_matsubara
質問者

お礼

ありがとうございます♪ 十二単の下着説でも采女の衣装としても 動きやすさやを重視したカジュアルな衣装だったというところは共通している感じですね そう考えると巫女舞の時に重ね着する千早なんかは ジャージの上に重ね着しておしゃれを演出しているようで 違和感があるような、高等テクニックのような感じがしています