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心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する
最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。 ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」 産経新聞 11月3日(月)13時0分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。 ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。: 事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心) ____________________ SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》 《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。 つまりは: ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。 つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。 * もう少し細かく趣旨説明します。: 知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。 ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。 むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。 ここまでは おそらくふつうの事態です。 問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。 いまの事例で言えば: 1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。 2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。 3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。 4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。 5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。 6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。 7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。 * 先ほどの事例には おまけの話があります。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~ これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。 この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。
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こんにちは。 ~~~~~~ 事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心) ____________________ SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》 ~~~~~~ の「SMのイメージ」には、既に価値が入っていると思いますよ。 「SMのイメージ」は、感覚ではなく知覚でしょうから。 まぁ、 言葉になる前の《汚らわしい》は感性の領域なのかもしれませんが。 であるけれど、 《口にするのも汚らわしい》は理性が関わっているでしょうね。 そして、 《大臣(国会議員)としての資質を欠いている》は論理的(?)帰結。 ですから、 菊田氏は、少なくとも、 何故、SMバーが《口にするのも汚らわしい》のかについて説明しなければならない。 また、何故、国会議員はSMバーに行っていけないと帰結したのか、その前提条件を含めて、説明をしなければならない。 《ほだれ際》は、菊田氏の判断では、性的な儀式、神事であるけれど、《汚らわしい》ものではないのでしょうね。
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~~~~~~~~~~~~~~~~ 法然批判[編集] 九条兼実の求めに応じて撰述された『選択集』は、「弥陀の本願」たる念仏のゆえんを明らかにし、専修念仏普及の理論的著作となったが、そのなかに、菩提心を廃し、また、浄土門以外の宗派を「聖道門」と称して「群賊」にたとえることがあった。高弁は、特に「一、菩提心を撥去する過失。二、聖道門を以て群賊悪獣に譬ふる過失」の2点について法然の二大過失として厳しく批判し、これを含めた13の過失を掲げて『選択集』を批判した[4][6]。 注釈 ^ 法然が完全に「菩提心」を捨て去ったかについては、なお議論の対象となっている。大別すれば、法然は菩提心を聖道門の菩提心と浄土門の菩提心とに分かち、前者を否定して浄土門独自の菩提心を打ちたてたとする見解と、法然が菩提心を否定したことを認めて、そこに積極的な意義を認めようとする見解がある。熊田(1995)p.3 摧邪輪 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A7%E9%82%AA%E8%BC%AA ~~~~~~~~~~~~~~~~ 菩提心に関する一考察 ――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって―― 熊田健二 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2587/1/al-no57p001-017.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 政治家の話題と関係なくてすみません。 心に関する質問の続きということで。 検索していたら、法然が菩提心を捨て去っていたかもしれないという話がありました。 日本仏教の細かいところにまで考察する気力も学力も無いので これだけですけど。
お礼
ごかいとうをありがとうございます。 ★ 心に関する質問の続きということで。 / 検索していたら、法然が菩提心を捨て去っていたかもしれないという話がありました。 ☆ これは わるいけれど 親鸞から見れば かんたんなことです。 《菩提心》は 自力・聖道門において人間が起こすようなものとしては ありません。それが出来たら ひとは神の霊を自分でつかむことが出来ることになります。自分で神の子となることが出来るという主張のはずです。 信仰は 梵我一如なるかたちとして一般に捉えることが出来ます。 菩提心に似たものも それはありますが けっきょく要らないでしょうし じっさい無いと見てよいと考えます。 たとえばアミターバ・ブッダなる神と ブッダター(ないし自性清浄心ないしアートマン霊我)との一如が成るという状態が与えられたなら すでにそのとき菩提心のごとき状態が 心に起きているのかも知れません。 心の明け あるいは 心の伸びとして。そして 経験的な心の志向性としても 早くその梵我一如なる《非思考の庭》が たしかな動態のあゆみを刻むようになりたいという心の向きがあると言えばあるのかも知れません。 けれども けっきょく信仰は 自然史過程のごとく一歩一歩《とき》が満ちて行ってますますその梵我一如の状態が深まるのであって 人がこのことを願ったり望んだりしても それが成就するかどうかには関係ないと考えます。 菩提心のごとき心の伸びというのは 信仰の動態がそのあゆみを怠らないという状態を意味しており 心の明けというのは 非思考の庭が あたかも窓を持つかのごとくすべてに開かれているという状態を言います。 もっと厳密に言えば 非思考なる霊の次元で《心の明け》と言った場合それは けっきょく窓があってそれを開けて外に向かうというようなことを意味しません。《窓》といった形態的なものは 非思考の世界には無いと言うべきです。問題は 心の明けというとき すべての信仰――あらゆる名の神と呼ばれるものの信仰――に対して われはひらけている。閉じられていない。ということを 実際に意味するものと見ます。 こういった理論情況にあって 《菩提心》は けっきょくすでに要らない。こう見ます。梵我一如はすでにすべてを神――アミターバ・ブッダ――にまかせている。目は 生活世界に向いている。
補足
教理は教理で つまり理論は理論で それなりに完結するかたちを取るのだし 親鸞もそのかたちをととのえている。 教行信証がそれで これをあとから修正するという道を採らなかったと思われる。 そりゃあ 《往生》だとか《成仏》だとかあるいは《さとり》などなどのブディズム一般の基本概念を たやすく要らないと言い切るまでには行かなかった。 ブディズムという看板はまだはづさなかった。 そういった体裁は タテマエとしてでも 保った。 そうして特に独自だと思われることは 理論は理論で完結しており その整合的な内容にかんするかぎり真実であるが なおそれでも もしほんとうに――理論どおりに――浄土に往生するかと問うなら そんなことは知らんと答えたのが 親鸞。 理論一辺倒ないし理性の一辺倒ではないということだと思われる。
- NemurinekoNya
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☆ いや ちょっと待ってください。《知覚》が すでに概念認識するのでしょうか? ◇概念的認識―――前概念と言った方がいいのかも―――が含まれる場合と含まれない場合のどちらもあるのではないかと…。 シニフィアンとシニフィエの、シニフィエの如きものが発生している場合もあろうかと。 ☆《知》が入っているからでしょうか? 《 perception 》は まだ第一次のあたかも感性における事実の模写を言うのではないのでしょうか? ◇ぼんやりと何気なく景色を見ている時などは模写かもしれないですが、 対象に注意を向けるときには、 対象に対する表象や心象と呼ばれるものは、純然たるイメージではなく、シニフィエ・意味内容を持っているんじゃないかと。 この時、悟性や理性は必ずしも必要なく、記憶からその意味内容を思い出すことでも事足りますよね。 記憶から取り出させる意味内容は過去の悟性や理性などによって決められたにしてもです。 感情が意味内容を決定してもいいんでしょうね。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いい判断材料だと見ました。すなわち: ◇ 感情が意味内容を決定してもいいんでしょうね。 ☆ ここから 次のように捉えていたということをみちびくことが出来ます。 1. 感性(感覚とも感情とも言う)および知覚(わたしの見解にあっては じつは≒感覚)には確かに意味内容がともないます。《痛い》という痛覚は少なくとも《痛い》という概念で表わしうる意味内容をともないます。これが 《模写》ですね。 2. あるいはまた すでに《痛い》なら《痛い》という感覚は過去に何度も経験して来ている場合には その学習の結果として その痛覚は《痛い》という概念内容を帯びていると分かっています。 3. なのですが・それでも 《痛い!》という感覚は 感覚だけの現象です。 4. なぜそんなことを言うか? それは 《痛い》という意味内容(さらには こりゃあ 医者に診てもらわねばならないなぁといった感想などとしての意味内容)をその痛覚とほとんど同時にともなうとしても 別のことだと見ることが出来るからです。 5. 救急箱を取って来なくちゃといった感想もあるとすれば これは明らかに痛覚とは別個に起きる精神のハタラキです。 6. あるいは変わったこととして 次のような捉え方も出来るかも知れません。それは 《痛い!》という痛覚をおぼえたそのとき いやいやこの痛さはいま相手に見せてはならないといった考えが即座に思い浮かび 何らその痛さとしての反応を見せない。といった場合もあります。 7.すなわち 痛覚という感覚に つねに《痛い》という意味内容がともなわれているというわけではない。いえいえ そのことはつねにそうなのですが その意味内容がつねに表情や言葉に出るというわけではない。だとすれば 《感覚そのもの》と《それがともなっている意味内容》とは やはり切り離して見ることができる。のではないか? 8. すなわち ◇ 感情が意味内容を決定してもいいんでしょうね。 ☆ ということが つねに当てはまるとは限らない。こうなります。 9. 別の第二・第三のシニフィエが ともなわれそれが表現されるようになる。こともあります。 10. ですから 心の現象としての過程式:《事実(ものごと) ⇒ 感覚 ⇒ 認識・評価》 これらの項目はそれぞれ 互いに別個である。つながってもいるが それとして独自性を持っている。 11. 《認識・評価》の段階というのは やはり精神(記憶・知解・意志)の領域である。これが 《心》であり 感覚は 《身》である。存在は 身と心とである。感覚と精神とが 自然本性の中身である。 どうでしょう。
- asisai888
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>つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。 重要な説明が抜けています それは 心=理性 であるとなぜ言えるのか? ということと、 理性とは何か? についてです 情が薄い人なんかを人の心がないなんて日本語では表現したりします つまり日本語で心と言うとそういう感性も含む概念なのですが この心論では明確にそれを否定してます また、理性という言葉も辞書で調べると複数の意味があります この心論ではどういう意味で使ってるのか不明です
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なるほど。まだ全体的な定義としては 練れていなかったでしょうか。 それでは きちんとした定義のまとめを掲げます。 その前に対話ですが ★ 情が薄い人なんかを人の心がないなんて日本語では表現したりします ☆ これは微妙なように思うのですが わたしの感覚が狭いでしょうか。つまり 《心がない》というときには 多少とも 感性を通り超えて知性としてのものごとの判断(あるいは 判断力)が問題とされているのではないでしょうか? それとも違っていましょうか。 ★ つまり日本語で心と言うとそういう感性も含む概念なのですが / この心論では明確にそれを否定してます ☆ これは そのままうなづきます。というのは 《事実(ものごと) ⇒ 感覚 ⇒ 認識(また判断)》といった過程について 最後の《認識や判断》を 精神としての心(そのハタラキ)と見ます。狭い意味での心です。 ところが いまこの過程の真ん中の段階つまり《感覚あるいは感情》 これをも《心》は 広い意味で――なぜなら三つの過程は互いにつながっているからですが――ふくむ。と見るからです。 * さて 用語を次のように定義して使っています。 ○ 《たましい》は A. 感性 B. こころ C. 霊 これらを表わします。 ○ 《こころ》は 次を表わします。 A. 感性 また 感情・気持ち B. 世界にあってそれに相い対するときのみづからの向き あるいは 働きかけとしての意志(志向性) B1. これを広げれば 身体を基礎とし身体に一般に呼応して動きを生じる精神 B2. この精神としてのこころには 《意志》の行為のための判断材料を提供する《知解》という行為能力もある。合理的な推論をとおして導き整合性をもたせた情報や知識を提供する能力行為。 B3. この知解は 精神の基層としてあってその秩序作用という能力行為でもある《記憶》からその知恵や知識を得てくる。 C. たましいとしての霊 霊としてのたましい ○ 霊とは C1. 身体(≒感性)および精神(記憶・知解・意志という三つの行為能力)を超えた領域を仮りに想定したもの C2. 経験世界を超えたところのことである。つまり 何が何だか分からないナゾ。 C3. つまり 経験合理性にもとづく経験思考(一般に科学)によっては分かるか分からないかが分からない領域 C4. 《表象しえぬもの》・《無根拠》・《なぞ》 C5. けっきょく 《絶対》・《無限》・《真理》とも呼ばれるものである。 C6. それに色をつければ 《神》のこと。(自然の現象や人間の心理作用を神格化したような――つまり一般に神話におけるところの――《かみがみ》のことではなく その背後の超自然・超経験の領域を言う)。 C7. ちなみに 従って 人間の――経験領域における――《精神》は 《霊》ではない。 C8. しかもこの超経験の《霊》の意味で たましい・こころ・精神といったことばが使われることがある。区別するのが望ましい。いや特に精神となるとややこしいので区別すべきである。 よって一般的にこう言える。 ○ 《こころ》は 経験的である。つまり 身体(感性)につながっている。 ○ 経験的なこころが その伸び(志向性)として・また明け(超経験への窓)としてあるとき――しかもそこで同時に―― 超経験なる《霊》との接点が もしそうだとすれば 想定される。これを一般に 《たましい》と言っている。 ○ たましいとは 非思考である。 ○ 身と心とから成るわたしなる存在 たましい:《非思考の庭》:ヒラメキ・直観 --------------- 精神:《思考の緑野》:思考・想像 知覚:《感性の原野》:直感・感情・気持ち
補足
お礼欄の《たましい・こころ・霊》についてをおぎないます。 つまり 理性ですが: 1. 理性は おそらく固有には 精神の三つの行為能力の内 《知解・インテリジェンス》を言うものと考えます。 2. ほかの記憶や意志をも合わせて《全体としての精神》のことを表わす場合もあるのではないかと思います。 3. すなわち 感性と理性との双対として言う場合です。身体と精神。身と心。 4. 知解能力の中で ものごとの知ないし情報をまとめ 主題について思索し さらには どういう対処法がよいかをみちびくのが 理性です。解決策をいくつかの選択肢として挙げるところまで おこないます。そのあと 意志が その選択肢からよいと思うものをえらび これを実行に移します。 5. 知識ないし情報として持つ前の段階で 感性が得ているその感覚を どういう内容のものかと言葉に翻訳する能力は わざわざ別に取り上げるときには それを 《悟性》と言うものと思います。《分かるチカラ》です。 6. 悟性が捉えた言葉・概念を料理するのは 理性です。うまい料理に仕上げるのは インテリジェンスの腕の見せ所です。 7. 意志の行為能力は そこから上がって来た選択肢から実践すべきものをえらびます。と言いましたが この意志は へそ曲がりであって その選択肢をぜんぶ跳ね返すこともあれば その中で もっともよさそうなものを選ぶのではなく よくなさそうな選択肢をかえって選ぶこともあります。《高度に政治的な選択》という場合もあるのだとか。 8. いづれにしても それゆえ 意志は意志で 理性の活躍する知解能力とは やはり別個にその行為能力があると見るべきようです。意志は 理性(知解)の言いなりにはならないようです。 9. この意志やそして知解の能力もみづからのハタラキをおこなうにあたって そもそも精神の基礎には 《記憶》なる宝庫があって そこから単位体ごとの情報を得て来ます。知解能力が 理性として情報を整理すると言いましたが この情報が秩序ただしく整理されているのは すでに記憶なる能力行為において成っているとも言えます。記憶とは ただ覚えているというだけではないようです。 10. 知解は 《わたし》が意識的に考えて 整理します。記憶はそれらの知識や情報を あたかも脳裏において記憶能力じたいが自律的に秩序立てて納めておいてくれます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
NO2の付け足しです。 《知覚》とは、 ~~~~~ 知覚(ちかく, 英:Perception)とは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A6%9A ~~~~~ 感覚と知覚の違いは http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/word001/psycho_word5001.html 人によって、学問の分野によって、感覚と知覚の意味や用法の違いが異なっているのでしょうが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 《知覚》について そうだったんですか。つまり すでに《認識》が含まれているということなのですか? それは知りませんでした。 第一次の感覚と同じ内容として知覚と言っていました。 ちょっぴり反論しますと: ▼ 知覚(ちかく, 英:Perception)とは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 ☆ とありますが 《刺激を感じ取り》の段階を わたしは《知覚≒感覚≒感性》と見ていました。 つまりは その知覚内容を 悟性によって認識し概念化することが 《意味づけ》であると見ていました。つまりは この意味づけは 精神(記憶・知解・意志)の領域です。 いや ちょっと待ってください。《知覚》が すでに概念認識するのでしょうか? 《知》が入っているからでしょうか? 《 perception 》は まだ第一次のあたかも感性における事実の模写を言うのではないのでしょうか? ▼ 「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。 ☆ これは 明らかに精神のハタラキであると考えられます。少なくとも《感性や感覚》は 《概念化や概念構成や概念処理》はしないでしょう。 ▲ (「感覚と知覚の違いと外部・内部の情報処理」)~~~ (あ) 『知覚(perception)』は、 単純な感覚刺激(外部刺激)を受容する感覚よりも『高次の情報処理過程』であると定義されていて、 感覚器官から得た単純な情報を『過去の学習・知識・経験』によって編集したり活用したりすると考えられている。 (い) しかし、『感覚』を末梢神経系に近い単純な情報処理プロセスと定義し、『知覚』を中枢神経系(大脳皮質)に近い高次の情報処理プロセスと定義するのは便宜的な定義であって、現実には感覚と知覚の情報処理プロセスは連続的で不可分なものになっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ)のような定義になっているとは つゆ知らずにいました。それなら 明らかにわたしの用語では 《知解》なる能力行為です。つまり 一般に認識です。記憶の倉庫なる情報と相い照らし合わせて 全体として整合的な位置づけ・意味づけをおこなう。はずです。これは まだ意志による価値判断をする前の段階だという捉え方です。 言いかえると (い)のように《感覚をめぐる内容を整理された情報とするために 精神に移送するときのその移送までの段階》 これを 感覚≒知覚≒感性と言っていました。《情報処理》は あくまで知解としての精神のハタラキであると。 ◇ 人によって、学問の分野によって、感覚と知覚の意味や用法の違いが異なっているのでしょうが。 ☆ この違いは 割り合い簡単にもつれを解(ほぐ)すことが出来るようですから 取りあえず自分流をも留保しようかと思います。
補足
▲ (wiktionary:perception) ~~~~~~~ http://en.wiktionary.org/wiki/perception perception (plural perceptions) 1. Organization, identification, and interpretation of sensory information. 2. Conscious understanding of something. 3. Vision (ability) 4. Acuity 5. (cognition) That which is detected by the five senses; not necessarily understood (imagine looking through fog, trying to understand if you see a small dog or a cat); also that which is detected within consciousness as a thought, intuition, deduction, etc. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (5)では 五感の感覚そのままを言えるようですから 《知覚≒感覚》という語法で行きたいと思います。 その感覚内容を概念として情報処理するのは 《知解 intelligence 》とします。その意味で《知覚》という語をも用いるようなのですが。
- 雪中庵(@psytex)
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物事=知覚とは、突き詰めると感覚器官表面での量子相互 作用に還元される。 それが存在=空間的広がりとして認識されるのは、五感の 相関した経験の蓄積において、光や音などの先行感覚(& 情報性の高い)の作用パターンによって、味覚や触覚など より生理的作用の大きい感覚を励起させる、即ちそこへ 行けば何が起きるかを直感的に予測する=光の相互作用 パターンという1次元的な情報に多次元を付与する事に よって、多彩な環境性は幻出しているのだ。 つまり、知覚そのものに既に本能や感覚器官の特性、記憶 といった個体的な特性=感性が先入しており、情緒的な 判断へと連続的な中間値を持つと言える。 であれば、理性といえどもそうしたプロセスから独立して 存在し得ず、せいぜい『情緒的なプロセスが介在している』 と自覚する事がそれである(=宇宙の原因は自分)。
お礼
ええーー。ご回答をありがとうございます。例によって《すなおな》反応をつづって お礼に代えます。 (あ)★ 物事=知覚とは、突き詰めると感覚器官表面での量子相互作用に還元される。 ☆ そのとき ワン・クッションがありますよね。 《感覚器官表面としての》・確率の問題ではなくなった状態という事態が 片や 経験的な知覚(マクロ)とそして片や 複雑な操作を経なければ経験し得ない量子相互作用の認識(ミクロ)とを隔てているのではないでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (い) それが存在=空間的広がりとして認識されるのは、 ☆ ということは マクロとミクロとのつながりの 問題としてということでよいでしょうか? (う) 五感の相関した経験の蓄積において、光や音などの先行感覚(&情報性の高い)の作用パターンによって、 ☆ 《先行感覚 ないしその作用パターン》というのは 《五感の相関した経験の蓄積》とどう違うのでしょう か? 同じものであるように思われるのですが? それとも ふつうに起きる知覚には 何がしか実際 の感覚より以前に予期のようにして起きる先行感覚が ある。ということなのでしょうか? (え) 味覚や触覚など・より生理的作用の大きい感覚を励起させる、 ☆ つまり前項からのつづきですが 何か梅干しがしょっぱさを 事前に励起させるというようなコトなのでしょうか? 次項によれば どうもこちらのコトを意味しているようです。 (お) 即ちそこへ行けば何が起きるかを直感的に予測する =光の相互作用パターンという1次元的な情報に多次元を付与する ☆ というふうに等号を解釈するのでしょうか。 《多次元》というのは 味覚の予測が その味覚内容を概念とし ても――まだ事前にだけれど――認識させるようにはたらくとい った事態を言うのでしょうか? 知覚の内容を概念として認識するという精神の――つまり心 の――作用をともなうと 《光の媒介する自然的・物理的な作用》 が多次元的な情報を成すようになる。ということでしょうか? (か) 〔(う)(え)(お)なる〕事によって、多彩な環境性は幻出しているのだ。 ☆ このご説明では 何となくあいまいな感じを受けます。 (1) まだこの時点では 味覚なら味覚という知覚は 実際に は起きていないのですよね? まだその前段階なのですよね? (2) それでも《多様な環境性》は 《幻出》としてでも 《われ》に現象している。という意味ですよね? (3) なぜそのマクロの世界におけるれっきとした現象が《まぼ ろし》と呼ばれなければならないか?――たぶんそれは 《無》 の問題なのだと推し測られますが これは 複雑なのでひとまづ 保留します。 (4) 要するに 《甘い・辛い・うまい》といった知覚が その ような概念認識としても得られるようになるのだ。という解説で すよね? ここまででは。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (き)★ つまり、知覚そのものに既に本能や感覚器官の特性、記憶といった個体的な特性=感性が先入しており、 ☆ (5) 《知覚》作用は・そして《感覚器官の特性》は そのまま動物一般に見られる――遺伝子や細胞組織としての《身》の運動や反応であるところの――《本能》と言うに近いものと見られます。 (6) 《記憶》は これも身において起こる(ほぼ自律的に起きる)ハタラキですが これはすでに《感性》からは ひと工程を隔てているように考えられます。つまり いわゆる悟性(理解するチカラ)によって知覚内容が 概念として《翻訳》されることになるその経験知を 秩序ただしくしまっておくハタラキですから。つまりそれは(記憶は) 精神の一つの作用能力であり 一般に《こころ》に入ります。 (7) ★ 記憶といった個体的な特性=感性が先入しており、――☆ ということですが おそらく《知覚⇒〔悟性〕⇒記憶》という工程がつながっている。ということを言っているのでしょう。ただし 梅干しが なめる前に感覚を惹き起こすといった事例ほどには 記憶〔としておさまった感性内容〕は 知覚そのコトの中に先入しているとは思えないのですが。 (く)★ 情緒的な判断へと連続的な中間値を持つと言える。 ☆ (8) これは すでに――《判断》というからには―― 精神(つまり心。つまり 記憶と知解と意志)の次元に問題は移っていると捉えられます。 (9) ★ 《連続的な中間値》――☆ とは何か? 《知覚⇒記憶(精神)》という作業工程が 全体としてつながっていることは いちおう確認しました。けれども その工程において《中間値を持つ》ということは よく分かりません。 (10) これを単純に言えば 先に 知覚の次元における《痛い!》という痛覚そのものが起き つぎに この痛覚なる感覚を言葉にして捉える(つまり 概念化する)その作業としての知解が起きている。つまり 実際には すでに痛覚を感じたときに 《痛い》という概念をも間髪を入れずに持っているし用いてもいる。その言葉をただちに発する。 (11) けれどもそのとき《連続的な中間値を持つ》というのは どういうことか? これは よく分かりません。 (け)★ であれば、理性といえどもそうしたプロセスから独立して存在し得ず、 ☆ このご判断は 微妙ですね。 (12) 一方で《知覚⇒記憶(精神)》がつながっているからには このプロセスから《理性(これは おもに知解にかかわりますが)》が独立しているわけではない。そして他方では そうは言っても 理性は・知性は・精神は・つまり心は じつに初めの知覚ないし感覚ないし感性からは自由な独自の場を持ってのように その感覚内容について自由に判断し評価することができる。ということですよね? (13) 例の SM バーと聞いて――その実際のプレーと言うのでしょうかをおこなう前にあっても――梅干し効果のごとくに事前に何がしかの感覚をひとは持つ。これが初めの《知覚》の段階。次に その感覚を言葉にして認識する。あるいはその感覚をさらに広げて自分の思想(生活態度)に合った評価をくだす。これが 《理性ないし精神》の次元。 (14) このとき《知覚⇒精神》の作業工程はつながっていますが 両者はそれぞれ独自のハタラキや作業領域をも持っている。のではないか? (15) だから人によっては 《口にするのも汚らわしい》という価値判断が出される。あるいは いやいや 人間の生きて行く上でおこなうものごとに――つまりは 職業に貴賤がないというごとく―― 《けがらわしいか否か》といった価値を人間が勝手に付与することは出来ないだろう。という論評もあり得ます。 (16) あるいは たしかに 性関係論ないし性愛論から行けば SM 行為というのは 〔論証はしがたいのだけれど〕やはりいちおう道をはづれている。かまたは 道草を食っている途中の姿ではないか。といった価値判断も出され得ると考えられます。 (17) つまりおよそ明らかに 理性ないし知性による世界の認識は 事実としてのその知覚としての世界とは違いうる。つまり 事実やものごとそのままの知覚についての・心による認識や価値判断は 初源の感性(知覚)からは自由であって 自由にその考えや思いを形成して行くことが起きる。のではないでしょうか? (18) これが《こころ》ではないか? (こ)★ せいぜい『情緒的なプロセスが介在している』と自覚する事がそれである(=宇宙の原因は自分)。 ☆ そうですねぇ。 (19) むしろ《記憶や知解(理性)そして中んづく意志行為(=価値判断および実践)》としての精神には 《情緒的なプロセス》は 無い。のではないか? (20) ぎゃくに言うと 精神(つまり 心)は 情緒や感性や感情などから自由である。にもかかわらず そのような感情や情念のような――知解が事実認識をあいまいにしていたりすることから来るもやもやとした感情のような――思いによって その意志行為としての判断をにぶらせられてしまう。と見るべきではないか? (21) つまり 精神は 感性〔のシコリのような情念〕によって影響を受けるというような生易しいことではなくむしろ自分(精神)からその情念をなぜか後生大事にしてそれを擁護しそれに従い その判断をあやまる。 (22) SM 行為は 何が何でも《けがらわしい》と判断するのは おそらく先入見としてのような或る種の情念が 精神とその判断力をにぶらせている。のではないか。いや むしろ精神は そのような曇ったもやもやの世界にみづから好んで進んで入って行く。ようにも思われる。 (23) 《宇宙の原因は自分》ということでしたら もしその《宇宙》の中にこのいまの SM プレーというモノゴトが入っているなら その原因が自分にあるということは どういう世界認識になっていましょう? そしてどういう対処法をそこから得て来ましょう?
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ の「SMのイメージ」には、既に価値が入っていると思いますよ。 ☆ 確かに。つまり 視覚や触覚ではなくて それらにまつわるイメージですから。ちょっと例が よくなかったかも知れません。 言いかえると 直接に見ていないなら だいたい世間の通念と自分の描くイメージとでつくられた先入観がすでに 持たれていると思われますから。 まぁ 《事実(ものごと) ⇒ その知覚 ⇒ 認識》といった過程を取りあえず 基礎として考えて行きたいという段取りです。 ◇ であるけれど、 / 《口にするのも汚らわしい》は理性が関わっているでしょうね。 ☆ まさしく 最後の過程としての《認識(あるいはさらに 評価や対処法まで)》の段階だと思います。 ◇ そして、 / 《大臣(国会議員)としての資質を欠いている》は論理的(?)帰結。 ☆ つまりそれは 菊田代議士の主観における結論のようです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから、 菊田氏は、少なくとも、 何故、SM バーが《口にするのも汚らわしい》のかについて説明しなければならない。 また、何故、国会議員は SM バーに行っていけないと帰結したのか、その前提条件を含めて、説明をしなければならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですよね。 ◇ 《ほだれ際》は、菊田氏の判断では、性的な儀式、神事であるけれど、《汚らわしい》ものではないのでしょうね。 ☆ そういったいろんな事態や情況を踏まえて ひととおりの説明が必要なのだと思います。あまりにも一方的な決めつけになってしまっている。と考えられます。 この質問は 先ほどの過程としての《事実(ものごと) ⇒ その知覚 ⇒ 認識(および評価)》について 確認できればよいという点が ひとつです。 もうひとつは そのとき《認識や評価》は 心(精神)のハタラキとしてあって 知覚内容がほぼ事実と一対一に対応しているのに比べて それとは違って 知覚内容(≒事実)から自由に判断をおこなうことになっているという点です。これの確認です。