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寺を経営するために坊主になりたいと思っています
寺を経営する為に坊主になるというのはおこがましい、もしくは不謹慎でしょうか。 一応、仏教に関しては浄土宗関係の知識を持っています。 得度は得ていませんが、それはいずれ必ず得るでしょう。 具体的には通信で大学に通い直すと思います。 お寺に何人か友人もいますが、皆お寺を経営したいと云えば、 「それは素晴らしいことだ」とか「実際、そんなに良いものではない」 といった後、どこか遠い目をされてしまいます。 お金を稼ぎ世のために尽くす手はいくらでもあります。 それを無理やりお寺にぶつけようと思っている訳ではありません。 今すぐと思っている訳でもなく、漠然と自分の未来像にあるものです。 もちろん他の生き方を選ぶかも知れません。 私個人においては経営する力のない者がお寺を継ぐのは宜しくなく、 一般社会で成功できないのであれば夢は潰えるでしょう。 そうまでして我欲を通す気はありません。 ・一つお寺の為に生きること ・一つ地域の為に尽くすこと ・一つ宗派の為に尽くすこと ・一つ文化を守ること ・一つ文化を伝えること ・一つ世の為に尽くすこと ・一つ仏教の為に尽くすこと ・一つ人の為に尽くすこと まだ、私自身確立した気持ちではありませんが、 折角なのでここでも聞いてみたいと思いました。 どうぞご意見下さいませ。
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質問者が選んだベストアンサー
曹洞宗の僧侶です。 「お寺を経営するために」→「坊主になる」というのは本来からいえば、本末転倒です。お寺がなくても坊さんとしての宗教活動はできます。お寺で何をするか、ではなく、坊さんとして何をするかをお考えになった方が良いのではないでしょうか。 「今すぐと思っている訳でもなく」と書かれていますが、私の経験上、このようなお考えの方で、実際に後で坊さんの道に進まれる方はまず、いません。 ganesha_meさんが何歳の方で、今現在、どういう立場の方かわかりませんが本当にそのような気持があるのであれば、今すぐ得度して坊さんとしての活動を開始される事をお勧めします。 蛇足ながら、一般的な伝統宗派においては、得度(坊さんになる第一歩)は、師僧になって下さるお寺さんを探して、お願いするところから始まります。大学での教学の勉強は出来ればそれにこした事はありませんが、必須ではありません。まず、お師匠さまを探しお願いすることです。 どうしてもあてがなければ、浄土宗総本山知恩院や各大本山に問い合わせ・相談されてはいかがでしょうか。 http://www.jodo.jp/honzan/index.html
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- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
宗派にこだわりが無いのなら一度テーラワーダ仏教を学ぶと面白いかもしれませんよ。
お礼
回答ありがとうございます。般若心経や仏教についての我の質問も 読んで頂いているようで講釈賜ります。 その価値観にずれを感じ、般若心経では強く抗議するかたちとなりましたが(http://okwave.jp/qa3329523.html)、 恐らく答えはその現地を訪れることで自ずとわかる日が来ると思います。 実際に行き来されている方の話を聞いているとそう思いました。 お釈迦様の説く仏を求めて止まない者が、真に邪に陥ることは無いでしょう。 見ず聞かずとも、それは自然に晴れていました。 そして私もまた正しく源流を知りたいと思うようになりました。 この質問については、もう回答が既に出ているように思います。 随分と長い間引っ張ってみましたが、十分過ぎる色々な真摯な回答を頂き、 皆様には感謝の気持ちで一杯です。 いつまとめようかとも思っていたのですが、全てその辺りを事情を把握の上、 回答下さったmaggaさんで丁度きりが良いと思います。 「空」についての捉われは、質問者様に対して自ら我を問い直した際、 自らのずれが改善されたように思います。 (http://okwave.jp/qa3454478.html) こうすることが、私の「寺」や「日本」、「宗派」という固まった観念を、 取り除いてもらえる結果になったと思います。 同時にここでは「八正道」こそが求めるかたちだと分かりました。 一つ願いが適うなら、 「空」よりも信仰よりも「私たちが人間であることを社会に伝えること」が、 その道を照らしてくれる大きな道標に思います。 私もまだまだ普通の人としても修行の途中です。 またmaggaさんがインドなどに行かれる時があれば、 どこかでお会いすることがあるかも知れません。 この度はありがとうございました。
- arayata333
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・「人」たるものの相分。 この自覚を促し続けているものが仏教だとしれば、仏教という伝統は普遍の社会性を宿し続けているものでしょう。 キリンは 大地に生まれ落ちた子供を蹴飛ばして起きるようにうながすといいます。 ふらふらと長い足でやっと立ち上がると、でも今度はキリンの母親は子供を蹴飛ばして転がすのです。蹴転がしてしまうのだそうです。倒れ傷付いてもおかまいなしにキリンの親は、ふたたび子供を蹴飛ばし続けます。 きびしい食物連鎖、競争の弱肉強食の世界に、そうしてまで本能的に生き抜くすべをキリンの本能の世界は子供に教えます。 ・食物連鎖にも人の競争社会にも意味はあり、 人もまた動植物と同じくリレーのように命のバトンを繋ぐ生き物です。 とのそちらの文面からは、そんなキリンの生きる必死の姿を想起させるものがありました。 生きるありのままの姿への リスペクトを感じさせてくれるものがあります。 私たちはみんな生身の人間です。 その迷いと苦しみの中にそれでもできるだけ人間的に生きようとはしてきたみんな人間どうしです。 お年寄りへの尊敬というのも、まさに生きること自体への尊敬の念から生まれるものでしょう。 仕事柄 老人ホームの水道とか電気とかの仕事とかもありますが、そこのある老婆がひとこと「これからどうしたらいいの?」と問いかけたのが、私の心に残りつづけています。 ほとんどボケた人としてまわりから見捨てられた形で生きている人、何を話しかけても答えることもできないその人が、見も知らない工事人の私にかけてきたその一言の裏に、 その人の長い長い長い人生と その結末?を見た思いがして、複雑な気持ちとなったことを忘れられません。 わたしにも 仏心のほんの一部はありましょう。 生身の人間ゆえ、もし南京の大虐殺のような場に神経がさらされていたのならば、同じように私も恐怖のうちに 老婆さへ威嚇的に殺してしまう存在でしょう。 でも その身そのまま 仏教でいう蓮華の華という華としての人間の一部の命も持っていて、それが老婆の一言にも涙するこころともなるのでしょう。 神の概念も自分の小ささを教えてくれます。 偏在にたいして、私たちは隣の人の心もほんとうには解りません。 まして、すでにボケた脳の人生を知るすべもありません。 そんなあたりまえの リスペクトの心を教えてくれるのが宗教の世界なのでしょう。 たしかに どこまで言っても、人間には神仏への謙虚な心は必要だと思いますし、その意味でならばたしかにわたしにも「信心」というものはあるのでしょう。 六道輪廻という考えなら私も知っています。 地獄,餓鬼、畜生、修羅、人、天、のまま輪廻を繰り返している姿でしょが、昔の人のそのあたりを語る書はめちゃくちゃなまでに単純だし生々しいですね。 でも、それが次の学者や芸術家の世界について(ちょと名前を度忘れしましたが、十界と言われてる世界の中での六道輪廻を抜け出す最初の足がかりのようなものとして大切な世界とも言われてる世界ですが、 それとその次の菩薩の世界もひっくるめて、手玉にとるのが天の世界の第六天の魔王というあたりは、ものずごい人生描写ですよね。 菩薩や、第六天を突き抜けたところに仏教があるというかんがえですよね。 偉いとかいう心をぬけて 謙虚なまさに信心の心となれて始めてそこに仏心の一部が、こころに宿るということですよね。 いくら多くの知識があっても、一生懸命生きてるキリンよりも少しでも偉いと思う心があるならば、それは苦を生み出し 何らかの争いを生んでしまう世界なのでしょう。 人間と人間の場合、自他を見つめる知性と知性の関係となり、その点、本能から自由であると同時にその責務はより大きなところ、 それはただ生き抜くというだけでなく正しい道(八正道というのは知識が無いのですが)を、時には厳しく諭し、けれどもお互い話し合うという道が人間の道なんでしょう。 尊敬と対話の道、そこから外れることを人間の哲学や道徳は、それをこそ蹴飛ばしてでも許してはならない道なのでしょう。 人としての相分。とは謙虚に そのような対話の道をあるきづつけるべきものどうしの道の自覚と考えてみました。 天命とか天職を自覚する、己のこの命の中での人間としての使命に目覚め気がつくとは、 おそらく、おそらく、もっとも難しい道なのでしょう。 genesha_meさんも、わたしもその道にまようのは当たり前のことなのかもしれません。 自分自身を知る、または確立する道、これが人生の最大の難関なのかもしれません。 謙虚に そちらの語る仏教の教えを読むことで、多くを考えまた何かまた新たな生きる力を得ました。 ここには書けませんでしたが、 「人のための信仰」というそちらの文面からは たしか「杜子春」とかいった中国の仏弟子の物語を思い出しました。 高僧に教えを受けに来た求道者に 何があっても動かなかったら弟子にしてやろうといった師が、 やがて、ほんとに何があっても動かなかったその弟子が最後に、お母さんとお父さんが鞭打たれてる姿を見て、うわああっとたちあがってしまう、その時に現れてニコニコ手を差し伸べる物語です。 人へのリスペクトなしの、存在へのリスペクトなしの、人や神への感謝や信頼、あるいは信仰ってなんなのでしょうかね。 その物語こそ 仏教の真髄を語るものなのかもしれませんね。 わたしは、自分自身の道に答えを見つけることも出来ない人間です。 ただ、こうした対話ですこしづつ学びながら進んではいけることを感じるのみです。 そちらの天命を私が何か解る訳がありません。 でも対話が、対話が何かの参考になるならば、それにすぐる喜びはありません。 今回改めて、こんな対話の出来たOKウェーブにも感謝したい気持ちとなりました。 こちらこそ おおくを学ばせていただきました。 ありがとうございます。 しばらく、ちょうどこの対話を持ってOKウェーブを都合で離れますが、再び何ヶ月もしないうちにはもどってこれるでしょう。 どこかでまた何か対話ができること祈っております。 ありがとうございました。
お礼
私はお話を聞かせて戴いて、キリンの生きる様にとても感動致しました。 「杜子春」という書物はまた読ませていただきます。 arayata333様と同じく、私も人の人生の末路を多く目にしてきました。 また対照的に生まれ来る子どもを上手に抱くことができなかったり、 教える立場として育ってゆく子ども達を、まるで追体験するかのように 見守って過ごした時期もありました。 人生という走馬灯を一度に順を追って見たと呼ぶのかも知れません。 しかしこれらは奇跡でも何でもなく現実に過ごしてきた時間です。 いずれも短い時間でしたが、一生忘れられない思い出です。 お年寄りに対しては、2つの対照的な出来事が心に残っています。 1つは、はじめて友に誘われ老人ホームでのお祭りに参加した時、 末期でピクリとも動かないその方を何とか楽しませようと、 車椅子ごしに何度も話しかけてお祭りの雰囲気を伝えていました。 痴呆症故に、表情には表れなかったと思いますが、呼吸といいますか その背中がどことなく暖かかったことが その時の私にとって何とも云えない幸せでした。 もう1つは、祖母の最後を見送った時です。 私の祖母は最後まで家族や親戚に付き添われ、 病院ではなく畳の上で、自然に老衰で息を引き取りました。 「そろそろ、薬を止めますね。」とするお医者さんの宣告をされ、 それを皆覚悟してその死へ臨みました。私は自分としてできる限りをしました。 それ故か亡くなった時、人の死とはこれほど尊厳に溢れているものかと、 感じずにはいられなかった。感動で心が奮えました。 やはりこのような私の身の上話はお礼としては蛇足だと思いますが、 ネットに初めて触れた頃、まだyahooもカテゴリ式で、 誰もが登録できた頃は、心の通い合ったやりとりができていたと思います。 私は仕事柄ネットの事を口にはしますが、人である以上言葉は命を持つべきで、 文化は人が生み出した英知という重みがあり、 社会がそれを忘れるべからずというのが信条でありたいと願います。 願わくばグーテンベルク以降の発明であるITを支える者として これからもしばらくはあり続けようと思います。 ありがとうございました。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
すみません、浄土宗関係の知識も無い無学な者です。 まず、今回、回答をさせていただくにあたって、同時に教えていただきたいこと明らかにしておきます。 死後の世界は、生前の社会の一日も早い幸せな理想の社会を望んでいるのでしょうか? 仏教では、どのように考えられているのでしょうか? それとも、修行のためには、生前の社会は、まだまだ苦しまなければならない必然を抱えているという考えなのでしょうか? そこに迷って答えのだせない者からの回答ですので、ただ単に、この回答はそちらの誠実な心に対しての、 離見の一助になればと思って書くものにすぎません。 参考になるかどうかも、かえって混乱してしまうかもわからないまま でも私も前に進んでみるしかない者なのです。 既存のお寺の維持の商売ならば、すぐれた経理を雇えばいいだけのことのような気がしますので、まずこのへんを明らかにしておきたいのですが、 既存の商売は、一つは葬式やお墓という伝統と関わる これは世界中に在る伝統保存と関わる商売です。 たとえば、私にしても、父の墓の前で手を合わせるのと、今ここで父を思い出すのとでは、まったく違った存在感のような想い出の感じの違いがあります。 まさに伝統か、何かの霊の世界の力ですね。 それ自体そんな価値をもっった商売です。 もう一つは それを通じてさらに、伝統の建物の観光化を目指すものです。 他にはあまりお寺と商売とは結びつく事を知りません。 でも、もちろん 最近では お寺の「和」の精神の伝統から地域の文化の、音楽や絵の世界や伝統文化そのものの保存や、そのための積極的なイベント等のビジネスを展開されてるお寺とかありますが、ganesha_meさんが目指してるというお寺の経営というのは、そういう新しい文化ビジネスと通してのお寺の伝統的な社会での信頼、ポジショニングを活用しての仏教の啓蒙とかの展開のことなのでしょうか? そう考えるとそちらの文面はすべて符号が合うようにも思えるところです。 御一つ御一つの誓いのような文面も最後の 「一つに人のために尽くすこと」いう一言に、仏教の教えの魂ごと収斂しているように思え、腑におちる何かを感じさせられるところです。 が、そこをさらに離見してみると、 たとえば、キリスト教で言えば、無教会主義の内村鑑三でしたかその方のような生き方も 伝統を啓蒙するということも含めてもありえる宗教家の生き方であるというようなあらたな選択肢も浮かんでくるのではないでしょうか? シャネルの社長であるコラスさんは、鎌倉にとても日本的なまさに雅な美を追求したような別宅をもっています。 風、雨の音のする雨戸。 ゆったりくつろげあったまれる風呂。 季節を肌に感じる中庭。 母屋から宍戸のある渡りの日本庭園の小道をゆくとその別宅が、まさに日本のお寺の美をもかもし出していたりします。 日本人でありそのような環境に住まわれた方ならば、なおさら、文化全体の伝統を むしろ今やられているグラフィックの道をさらに突き進む道の中で若い日本の方々にも伝えてゆく道というものもあるかと思うのです。 もし それが起業の道となれば、そういった新しい分野での起業はまさに競争の渦でしょう。 リスクは ある程度大きなリスクも予測されてしまう世界かもしれません。 そして、そこには無理もあったりするかもしれないところでしょう。 でもそのへん何かけして大きなリスクを負わない計算ができるならば 打って出るという選択肢もあるでしょう。 そうでないならば、逆に、その努力の中で養った経営哲学を持って、お寺というポジショニングのなかで、その道をゆっくりと進まれることがやはり正しいのでしょう。 起業の成功か否かが、一般社会での成功ということであると捉えておられるのならば、その基準はお寺を継ぐ力の基準とすることは 必要ないと思います。 そんなふうに客観的に考えるところなんです。 でも、私自身は内村鑑三派だということになります。 でなければ、お寺以外の選択肢をあえてここに書く必要は感じなかったでしょう。 人生が、この人生が 霊とか神仏と結びついた形での修行の場だという考えがよく解らないのです。 一刻もはやく、せっかく情報化時代が来たのだから、多くの人が知やハートを通わしあって、一刻も早く、巨大金融と巨大運輸の物と金を動かせる企業がITを活用してどこまで人のニーズとその奥の幸せをとらえてさらに巨大となり、独禁法さへその信用の力で切り崩してしまうようなさらなる資本主義のおばけが支配するじだいになったっていい、なったっていいから、もう苦しい時代は いやなんだ。だれもがもう幸せになってほしい それしか なんといったらいいか ようは解らないんです。 神仏の配慮で生かされてることは解ります。 そこに ひとりひとりそれぞれ多くを学ぶべきことも解ります。 そのために苦しいことも 学びの一つとなることもあるということも解ります。 すべて感謝すべきことです。 でも私にはどうしても神仏が 意図して苦しみをも肯定しているということがたとえ学びのひとつとなりえるものだとしてもどうしても どうしても解らないんです。 ごめんなさい。変な回答ですが、 もしわかりましたら そのへん何かわかりましたら 教えてください。 わたしの回答は考えすぎかもしれません。 以上です。 私自身まよいつつ。
お礼
お心ある回答ありがとうございます。 私にとって本当の「美」とは目で見えるものでも、 肌で感じるものでも全てが自然と、 私の心が「人」であることに向いてしまいます。 それ故、枯れ木に華を持たせて、感謝を得る仕事をしています。 客観的な洞察は、とても考えさせられるところがあります。 こうして語ることも私が私であるために必要な要素だと感じさせられます。 それを現代が許せねば、私はいつもそこに居る意味を感じないのかも知れません。 私が私であることは、「道」を考える上で大切だと思いました。 解(ほど)けねば仏にもなれぬものの考え方。 むしろ回答者様は、私よりも深い「信心」の持ち主なのだと感じます。 私の中で信仰とは遠い存在であった生き方を過ごしたこと、 改めて感じさせられます。 それを認めて更に、我が身を整えて行きたく思います。
補足
・死して生前の社会の一日も早い幸せな理想の社会を望むか ・仏教の考え方 ・修行のために、生前の社会は苦しむのか。 私はまず、私の幸せを願っています。 それ故凡夫であり、我見にも陥りやすく、 迷いの中、自らの道を求めているに近いでしょう。 聖者でもなく、今は立場上も仏の教えを借りて語っている程度です。 【仏教における死】 まず仏教において死後の世界は意味がありません。 お釈迦様は正しく生きる「八正道」を我々に説いたのであって、 超越や神秘といったことを一切認めていません。 それ故、特に死んでからどうこうしようとか、 早く死にたいと思う訳でもなく、 私について死後の世界は「無記」です。 もしあるのであれば、身の程に相応であると思います。 もし浄土があるのであれば、阿弥陀仏の下でまだ修行に至るでしょう。 私にとって「死」は大した問題ではありません。 むしろ人として生まれた以上、今を生きることの方が大切です。 生きてさえ何か人に伝えられることがあり、学ぶことができる。 与えられた命を自ら捨てるなど、何があっても許される行為ではありません。 命は縦横無尽の連鎖とは、それは世の中のありのままの姿であり、 そこに人の私念を持ち込むことは悟りの境地とは程遠いように思います。 食物連鎖にも人の競争社会にも意味はあり、 人もまた動植物と同じくリレーのように命のバトンを繋ぐ生き物です。 それは六道輪廻という世界に生まれた「人」たるものの相分です。 これはキリスト教でも同じことではないでしょうか。 神の造作物である私達が、神の御心を無視して死ぬなどと愚かこの上ないでしょうし、 仏の教えでは「我見」に捉われていることになります。 「苦」はもっと大きく、「死」や「生活苦」だけではありません。 愛する者との別れ、憎む者との共存。 その瞬間様々に豊かな生き方を奪う、私たちの心の在り方です。 【人間における信仰の意味】 神仏とはごく自然な心の行方だと思います。 自分より上の者を尊く尊敬できないならば社会は成り立たず、 幼子の頃に両親が絶対的な存在であるように、 人はそうした大きなものに憧れ育つもの。 子どもの頃に当たり前だった敬う気持ちが、 大人になってなくなれば、浮いた心の行き場がなく苦しいでしょう。 それは学校の道徳教育の現場でも必須で、 私は宗教とはその程度で良いと考えています。 しかし、自らが学んだ正しい宗教との在り方を多くの人に伝えたいとも思います。 時代に合わないからと遠ざけるのでなく、そこから何かを学ぶ姿勢、 それを後の人たちまで残せるようにしたい。 私ができることは小さいかも知れませんが、 それを一生尽くしてできるのだとしたら、 とても誇りある仕事に思えるのです。 【ビジネスと信仰について】 宗教が道徳を凌駕することはあってはならず、 今の現代において信仰は自由であり、 今後は人自らが選ぶべき生き方だと思えます。 現代では、会社組織においても、信仰は一つの課題となっています。 アメリカにおいて会社員は上司や同僚を頼ることが減ったそうです。 様々な文化や思想の異なる社会故、「隣は何する人ぞ」となり、信じられるのは家庭しか有り得ない。 しかし、核家族の現代において、もし全てを家庭で抱えていたのでは精神的負担は何倍であるか。 さらに教育や儀礼、文化などいい加減なもので良いとするのは、 今だけであって後世に託せるものでは無いでしょう。 出張で遠くの駅に赴いても、コンビニや不動産、金融関係、 海外ブランドショップばかりで、商店に通う人の姿もなく、 繁華街でも行列を成している店は、映画館かパチンコの出玉の日ぐらい。 行列の人は会話も少なく、心から愉しんでいるのかと不明です。 人は人の中で過ごす集団であるのに、これではまるで砂漠の如く、 町が死に生き方すら欠如する世の中を眺めるに哀しく思います。 日本において戦後の経済を担ったのは、人の団結力であり、 奪われた信仰が会社に向けられた努力企業体と呼べるのかも知れません。 心から社に親しみを覚え、感謝をし会社の為に仕事をしたいとする。 個のための母体とは言えども、何の為の会社でしょうか。 お金で手に入る幸福がどれほど薄いものか。 「人の為の会社であり、会社の為の人でない。」 「人の為の信仰であり、信仰の為の人でない。」 人たる相分である以上、 それを超える在り方は破綻する。 それを誰も正しく諭してくれる場所がない。 今の世で、国際社会で認められるような誇りを持てるのか。 信仰を信仰だと割り切ってしまう「二元論」的解釈が、 まだ近代の偏った思想が未だ改善されていないのかと私は思います。
- kigurumi
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お寺って普通世襲制か、その家に跡取りがいなかったらその系統を出た男性が婿養子に入り家を継ぐって感じだったと思います。 お寺の収入は檀家さんからですよね。 檀家さんはお葬式や法事の時とかお墓の管理費とか払うので、お寺はそれで経営ができているわけですよね。 代々お墓を供養してあげたりなどすることで、檀家さんの家が途絶えるまで、だいたい収入は保証されているわけですよね。 お寺は檀家さん以外にはサービスはなかなかしないですよね。 有名なお坊さんはカルチャースクールの講師として呼ばれて、別に収入を得ることもあるし、スペースがあいていたら幼稚園などを開いて、収入を確保したりしますよね。 で、あなたはどうやって檀家を確保しようと計画しています? 若者を勧誘します? その人の家は恐らくどこかのお寺の檀家だと思います。 どこの檀家でもない場合でも、今さらどっかのお寺に檀家にしてくださいと申し出ることは無いと思います。 ビラを配って勧誘します? 私が思うにはNPOをすればいいと思うんですね。 非営利組織です。 私も一個会員として入っています。 どういうサービスを提供してもらえるかといえば、生前契約していて、死んだ場合、どういう葬式で家の片づけや通帳の解約や知り合いへの連絡や埋葬などを細かく契約して私が死んだときすべてその企業が私に変わって生前の意志を代行してくれるってものです。 すごいうれしいサービスです。 何故なら思い残すことなくこの世を去れるからです。 まだまだ何十年も先のことでしょうけど、家族に苦労かけたくないし。 会ったこともない人に鼻を手向けてもらったり、無駄な金銭を出してほしくない。 キレイに身の回りを片付けてくれて、家族に私に関する整理のため苦労して欲しくない。 その企業のバックはお寺です。 が、信者になれとか、宗教関連の行事に参加しろとか一切言ってきません。 そのお寺の墓を買えとかも言ってきません。 そのお寺が山を持っているので、お望みならその山は毎年桜が咲くので、そこに散骨してもいいですよ と言っています。 うーん どうせ死んだら土に戻って植物の栄養になって欲しいから、散骨でもいいかなぁ・・・と思っています。 人は死んだ後はどうすることもできません。 私にとって重要な関心ごとの一つはそれでした。 それで随分前に結構「死ぬのはいいとして死んだ後 どうなるのだろう。」と悩んでいたが、このサービスを知ってほっとしました。 生きているときは効力を発揮しません。 私が死んだとき初めて動き出します。 あなたの場合、生きている人に対するサービスを考えているようですが、中には死んだ後のサービスを求めている人もいるんです。笑 その企業は会員が結構増えたようで、全国規模になってしまったようです。 しかし、なんせ生きているときは預けたお金に手がつけられないというので、結構経営が苦しく、笑 年間回避を数千円取りたいと言ってきました。笑 やっぱりお寺の経営とはお財布を全く別にしているってことですね。 今のところ競合会社があまりないようで、今ならお勧めです。 が、私はバックが大きなお寺ということで、安心して入りましたが、あなたの場合、その信用が得られていないので、もしこのサービスをしようとしても、なかなか会員は集まらないかも。 というわけで、お寺も幼稚園経営以外にいろんなサービスを信者・檀家以外にも提供しているので、新規サービスを考えてみたらどうでしょう。 参考になれば。
お礼
正直、色々あるものだなぁと感心しています。 >代々お墓を供養してあげたりなどすることで、檀家さんの家が途絶えるまで、だいたい収入は保証されているわけですよね。 >お寺は檀家さん以外にはサービスはなかなかしないですよね。 一般的なお寺はそういうところです。 あとは観光寺院であるとか、地主であるとかですね。 >生前契約していて、死んだ場合、どういう葬式で家の片づけや通帳の解約や知り合いへの連絡や埋葬などを細かく契約して 私が死んだときすべてその企業が私に変わって生前の意志を代行してくれるってものです。 うーん、私は死んだあとのことは余り関心がなく・・・。 家族の好きなようにすればいいと思うところです。 家族を亡くされた方の場合、残された家族のためのサービスでしょうね。 でも良いですね。 亡くなった方が浮かばれる気がしてきました。 ビジネスのポイントとしても面白いと思いますし、 バックがお寺なのでとても安心できますね。 (年間料金は仕方ないでしょう。わがままを聞いてくれる分ですし、 非営利団体故きっちり申告もしているでしょう。) NPOは知ってます。 ちょっと別の要件で、直接、本部の方に相談に行ったことがあります。 また団体・組織でなく個人で参加したい理由があって、 色々今後計画中なことはあるのです(これも仏教関係なのかなぁ・・、広い意味で地域の為っぽいですね。)。 しかし組織としてのNPOは現状どこも厳しいなぁと白書を読んでいて感じました。 (とても、お寺の屋根を木造で維持できるほど資金を得られないなぁと・・。○千万ですからねぇ。) でも、一考に入れておこうと思いました(アイデア次第かも)。 >というわけで、お寺も幼稚園経営以外にいろんなサービスを信者・檀家以外にも提供しているので、新規サービスを考えてみたらどうでしょう。 なるほど確かに云われれば、今お寺もどこもそうですし、 お寺さんと正面向いて共頭姿勢というのも面白そうです。 ご意見ありがとうございました。
《親鸞は、・・・自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。》と聞きます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E)。 雀百まで踊り忘れずなのでしょうか 未だに お寺も僧侶も墓も葬式も要らないという過激派です。 そんなことを言っては 話しにならないのですが 個々の法律条文にこだわるよりは 法の精神を貴ぶという行き方もあるでしょうから 親鸞に学ぶところも残しているように考えます。 話しを進めるには 極論のほうがよろしいということで たとえば こういう構想は いかがでしょうか。 ・あらゆる宗教にかんして 聖職者は すべて市民の自由で自発的な株式会社のもとに属する。 ・その職務は 研究・修行と先祖供養とに分ける。 ・先祖の事柄というのは 死者の冥福を祈るため またそのことによって生者が慰められるのであればその慰謝のため あらゆることに従事するものです。 ・墓地は 基本的に 山の中に集めるかたちにする。 ・研究・修行そしてその成果発表などなど すべては もちろん 伝統もあるでしょうし 従事者の自由に行なわれる。(ということは 株主市民の自由な意見も提出されうる)。 ・宗旨・宗派の問題が ほどけないほど絡まっているでしょうけれど そこは われわれ庶民の知恵の見せ所です。多くの一休さんが出るでしょう。 などなどです。(ちょっと かっこうをつけて言ったかも知れません)。
お礼
ご意見ありがとうございます。 これは面白い発想だと思いました。 正直考えたこともなかったですね(笑。 ただ、株式会社たるもの宗教に寛容でなくてはなりません。 会社もひとつの社会です。 社会の中で差別を生むようなことは許してはならない。 むしろお互いを認めて、仕事間で自由な発想ができるように、 社員それぞれが豊かな心で仕事ができるように努めるのが 漸進的な会社としてあるべき姿で、代表の立場もそういうものでしょう。 (私は代表ではないですから勉強中です。) クリエイティブな立場としては十分有りだと思います。 海外に比べると日本の会社はそれがなっていないですね。 彼らは凄まじく討論したがりますから・・。 同じく、こと私すらそういうことは避けて生きている訳です。 結局主張できず、上の者に意見を伺い自分の仕事のポリシーを失ってしまう。 考えが広がりました。 こういう考えもあるのだと、別の部分で刺激された感じです。
- mad0927
- ベストアンサー率0% (0/1)
ご自分のしたいと思ったことをすれば良いと思います。 しかし回答者:sgmと同じく寺を経営するために=坊主 ではないと思います。私の先輩で在家で出家をし浄土真宗僧侶をしている方がいます。その方いわく在家で僧侶をしていくのは生半可な気持ちではとても勤まりません。志がいくらあっても在家と能家の違いはあり、在家出身者は二歩三歩引いて当たり前な心構えでいなくてはいけません。私の個人的な意見で失礼かもしれませんが、寺を経営したいなど在家の人間が心で思っていても能家に間違っても言うものではありません。 また本当に僧侶になるのであれば、菩提寺・各宗本山に相談に師僧を見つけ得度をしたほうがいいと思います。
お礼
>生半可な気持ち 全くその通りだと思います。 人生を一から出直すぐらい大変なことだと思います。 (言葉ひとつとっても、全く別の世界を生きる覚悟が必要です。) なかなか知恩院での横領事件や、坊主を語って高額な物品を売りつける そういう連中がいると正直腹が立つというか哀しいというか、 庶民が信仰の有難味を忘れているから、 こういう曖昧なことを許すのだと思うのです。 質問を書きながら「自分は横柄だなぁ」とも思っていましたが、 恐らくこの意見が圧倒的だと思います。 今後、(親身にアドバイスをくれる)お寺の友人と 接する上での活き方といいますか、 アドバイスを読んでいてはっきりしてきたように思います。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
思う通りにしたらいいと思います。 肯定する人も否定する人も居ると思いますが、誰一人この答えを持っている人はいないんじゃないでしょうか。 これは自分自信で見極めないといけないんじゃないでしょうか。そういった全てを含めて宗教なのでは。
お礼
率直な意見ありがとうございます。 >これは自分自信で見極めないといけないんじゃないでしょうか。そういった全てを含めて宗教なのでは。 色々無駄な事を考えすぎなのかも知れませんね。 坊主になることについては、まだ行動にも至っていない訳ですし。 先のことよりは今のことを大切にすべきだと感じました。 ご意見、感謝しております。
- Samantabha
- ベストアンサー率61% (560/916)
坊主になる=寺を経営するという図式は、本末転倒というか、ちょっとおかしいような気がします。 坊主になる=出家して、悟りを開き、衆生を導く であって、 坊主になる=寺を維持していくor宗派のために尽くす ではないと思うのですが、如何でしょうか。 寺を経営することで、文化を伝えたい、文化を維持していきたい、とおっしゃるのなら、坊主にならずとも、世俗的に成功を収め、得られた財産を使って、勝れた僧侶、残したい寺院、信仰する宗派を経済的に助ければ済むことではないでしょうか。あるいは、経営的なノウハウがあるのであれば、僧侶や寺院のブレーンになればいいのではないでしょうか。 経済的援助だけではなく、在家の立場で仏教的な文化活動をすることも、もちろん可能だと思います。 また人や地域のために尽くすことも、今の立場のままでボランティアをすればよいことです。その気があるのなら、坊主にならずとも、今すぐ、人のため、地域のために尽くせばいいと思います。 おっしゃっておられることは、わざわざ坊主にならずともできることばかりのような気がします。 もちろん、坊主の立場からであれば、やりやすいこともあるでしょうけれど……。 まあ、どのような動機であっても、今は僧侶(特に優秀な僧侶)が不足していますから、宗派としてはウェルカムかもしれません。 少し、きつい言い方になってしまったかもしれません。 ご容赦ください。
お礼
いえ、全然きつい言い方ではないです。 なかなか二度、三度と知人に話すこともできないので、 顔の見えない場所で客観的に意見を頂きたく質問してみました。 おっしゃるとおりです。 私も檀家としてお寺の為になれることをしてゆければ、 それで良いかとも思っています。 前例に「維摩居士」という方がいて、 在家の生き方も素晴らしいとは思います。 >坊主になる=出家して、悟りを開き、衆生を導く 全くもってその通りだと思います。 私は知人に対して、今の気持ちをストレートに伝え過ぎだと思います。 お寺を真剣に守り継いでおられる方には申し訳のない、 大変失礼な質問だったと思います。 「正語」とは思いやりをもってすべしでしょうね。。 日本の文化が廃れるのをもったいないと思うのは、 私が世俗の観念に縛られ過ぎだからでしょう。 人の世も考え方も移り変わるもので、 お寺が必要とされなくなるのも、 また「三時説」に説かれるところと同義でしょう。 未だ一つブレないのは、 真理をやはり正しく知るにはその世界に入って学ぶ、 正精進、正行、正命、という「八正道」に従いたく思う訳です。 今の私は、やはり金のため生活のために飢えている訳で、 いつか年を経て裕福な暮らしができても、 願うところの成長は見込めないと思います。 私にとってお寺との垣根は低く、 真剣でありながらも深刻なことでもなく、 今後あやふやな気持ちのまま人と逢うことを恥ずかしく思い、 漠然とした気持ちを正直に晒してみました。 優秀なお寺さんが日本を支えて下さっていると、 庶民としては安心して生活できる気がします。
- jugemjugem
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お寺にしろ何にしろ、経営に明るい人が経営するのはいいことと思います。 しかし、実際「経営」が必要なお寺は、ごく限られているんじゃないでしょうか。 世のために尽す、というのは素晴らしい動機だと思います。
お礼
お寺は世襲制ですから、小さいところは受け容れが難しく、 大きいお寺で勤めるしかないものだと考えています。 「経営」という意味がお寺に見合うのかはまだ分かりませんが、 きっと質問に対しては最大限の賛辞だと思います。 ありがとうございました。
思ったのはなぜあえてお寺を経営する必要があるんでしょうか??ということです。 上に書かれた要望は経営しなくてもお坊さんになればで満たされるような気がしたのですが... 正直庶民としては尊敬できないです。ひゅるん...
お礼
ご意見ありがとうございます。 うーん、そうですよねぇ・・。 尊敬できないですかやっぱりそうですよねぇ(笑。 経営というのは正直なところ、今は経営しか頭にないからです。 これでもITと伝統というビジネス展開していますから、 失われる伝統やお寺という文化が損なわれるのを見ていて 『お寺を再興したい』という想いがあるのかも知れません。 よくあるのが中に保育園や観光場所を作って人を呼び込もうとして、 逆にお寺を失ったというケースです。これも本末転倒です。 できることから進めてゆく、今の在り方は将来に向けての考えです。 地域の為に尽くせる地元を大事にできるお寺でありたいと願うところです。 今は私のこころの中に巣食う膿や愚かさを吐き出したいと思います。
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お礼
本末転倒というご意見ありがとうございます。 私は28です。 普通にITという仕事をして経営者を目指しています。 デザイン制作とWEB事業を営み、今後より経営を学んで行きたく考えています。 率直な理由としては、 お寺という仕事をしてみたい、 もっと伝統の深い仕事に着いてみたい。 よりやりがいのある仕事に取り組んでみたい。 知っていることをいい加減なものにしたくない。 人を教える事をしている立場は今も変わらず、 仕事として向いているかも知れない。 失われる大切な教えをどこか場所ももって守って行きたい。 こういったところが主です。 5年以上前からそれは念頭にありましたが、 少しずつ私の中で熟成されてきている気持ちです。 時は移ろうもの、人生は今しかないのかも知れません。 されど私は両親を見送った後に、改めて考えようと心に決めたのです。 両親は比較的高齢の為、親を捨てということは形の上でもあってはなりません。 それに私にとって仏教以外から得られることがまだ多いのです。 それ故今は得度しないのです。 「お願い」するという気持ち大切だと知りました。 よい師匠に巡り合えることを祈りたいところです。