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人を不幸にしたいといういじめの根本原因

いじめというものは、結局「人を不幸にしたい」という欲求からくるものと捕らえています。その源泉は何かと考えていくと、結局自分が不幸であったかあるいはあることに突き当たる。そこで突き詰めていくと、なぜ人間というのは「不幸感」を味わう羽目になるのだろうか、あるいは味わう羽目になる人がいるのだろうかということになる。 これは何でなんでしょうね。 社会学的生物学的人類学的いろいろ考えられると思うのですが、どうも漠としています。なにかすっきりとした考え方はないのでしょうか。

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回答No.11

僭越ながらご意見させていただきます。 「いじめ」に根本原因などありません。 自分がされて嫌なことを誰が好んでするのでしょう? 誰しも人を不幸になどしたいとは思いません。 それは人の願いです。 私はいじめた経験がありますし、いじめられた経験もあります。 それは私の「淋しさ」です。 それは人の「哀しさ」でもあり、 また心の「貧しさ」でもあります。 人は競い合う生き物ですし、同じ社会で優位に立てば優越感に浸ります。 不幸はそう感じるから不幸であって、 貧しくても厳しくても強く志をもって生きている人もいます。 集団を持って仲間外れにする村八分も昔からありました。 これも場合によっては「いじめ」と呼ぶこともできるでしょう。 「セクハラ」といった心理も似たようなところにあると考えています。 こうしたことは実際、「心理学」の分野でかなり詳細にされているように思います。 「かまいたい」「気になる」といった好奇心が実らなかった場合、 「意思疎通」「意思拒絶」といった態度に出ると考えられます。 お互いのコミュニケーションによるもので、 よく「ウマが合う」とか「不釣り合いな関係」とかいった具合に、 少しずつ進展してゆく中で具体化してきます。 ちなみに社会という中で人が生きている以上、 どのような理由があっても「いじめ」自体、許してはなりません。 「嫌だ」と思っていても、それを「力」で封じるような活動、 集団の在り方はあってはいけない。 これは社会行動として豊かな社会活動に反しています。 どんな屈辱でも、「いじめ」にひとりで立ち向かってはいけないし、 必ず誰かに頼るべきです。 「いじめ」は社会問題です。社会の問題には社会で立ち向かうべきです。 また本気で「いじめ」に立ち向かいたい時、 必ず本当の「大人」というものは、当事者を親身に守ります。 学問では分析を多用する為、 物事を真正面から分析しようとすると見えてこないこともあります。 相手がどうだからとか、自分がそうだからとか関係なく、 これは飽くまで当人同士、人と人の関係で起こるものです。 気に入らなければ、排除すればよいというのも良くないし、 また合わない相手とは何年掛っても合わないものです。 その辺り相手と自分を割り切って行かれる方が良いでしょう。

garcon2000
質問者

お礼

人間の「業」のようなものから逃れられないという事なんだと思います。それがギャクに人類を発展させているという事もあります。それはどういう理屈で起こっているのかいまいちはっきりしませんが、生存本能とか、人間本来が持つ性質とか、生活形態とかからかもしれません。 しかし、人類は持つ根本的な欠点をなくしていくことも可能なんじゃないかと。天然痘とかを克服したように、絶対善みたいな勝利を収める事もできるのではという気もします。 学問的アプローチというのは、しばしば網が荒すぎて、ロクなものが引っかからないように感じます。おっしるように、人間的な考察こそ大切です。

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noname#82286
noname#82286
回答No.7

いきなり書かさせて頂きます まず人を不幸にすると言う事に関して了承感や快感や絶対感など の感覚が生じていることが挙げられると思います、基本的に人を 不幸にする前には抵抗感や罪意識や悪的理解などは多かれ少なかれ 発生すると思いますその感覚が前者の感覚を下回っていじめというのが 発生すという寸法です(独自の判断ですが) そう考えるといじめをしてしまう心理としては ・もともと後者の感覚で抑制できていたものが何らかの形で外れた ・もともと後者の感覚が作られてこなかった と大きく分けるとこの二つだと思われます。 NO.6さんが書かれていますが抑制というのがキーワードになると思います

garcon2000
質問者

お礼

人の心はいろいろな要素がありますから、そのせめぎ藍ということになっていて、バランスが極端に崩れるといじめやら欝やら精神障害肉体障害その他いろいろでてきます。また、そのような善悪ともいうべき諸要素のバランスがなければ、精神作用など生じないでしょうし。光があって影がないわけには行かない。

  • hakobulu
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回答No.6

いじめの第一の要因は「異質なものに対する怖れ」ではないかと思います。 相手を理解できないために生じる怖れによって、異質な(と感じる)要素を持った人に対して行なわれる「排斥」という形のいじめ。 この場合は、理解できないというのがキーワードになるはずで、そうすると他者に対する想像力の欠如によってもたらされている、と考えることが可能かと思います。 突き詰めると、自分の生存が脅かされるのではないかという怖れが根本にあるということになるでしょう。 つまり、いじめとは攻撃に見えて実は防御であるという点が厄介なのかもしれません。 さらに、自己の依って立つ基盤を補強しようとする無意識的な行為という可能性も含まれているように思われます。 つまり、他者というのは大なり小なり本来異質なわけですから、他者における異質をあえて(積極的に)認識することで、自己の非異質性を確認して安心しようとする行為、という解釈です。 この場合の安心とは、私は私を理解できている(異質ではないのだから)といったような無意識かもしれません。 第二の要因として「過去への復讐」が挙げられるでしょう。 おっしゃるところの「>不幸であったかあるいはあること」に対する復讐です。 無論、不幸たらしめた者への復讐ではあるのですが、同時に、それを防げなかった(過去の)自身に対する復讐も兼ねているものと考えます。 それは、一方的に受けた過去の(理不尽な)暴力、あるいは抑圧を清算しようとする意図を持っています。 受けたのと同等の、またはそれに近い、あるいはそれ以上の抑圧を他者に加えることで、自己の内部に押し込められている(または記憶されている)、不当に受け入れてしまった力を吐き出そうとするわけです。 この場合は支配という形態をとる場合も往々にしてあるように思われます。 言ってみれば心の物理的な均衡を得ようとするもので、方法論の是非は別にして第一の要因と共に理に適っており、それゆえいつの時代にも、どこにでも存在するものなのでしょう。 方法論の是非は別にしてと述べましたが、基本的には受けたものをそのまま、しかも直接関係のない他者に吐き出すことで解決を図ろうとする行為が原始的な方法であることは否めません。 当事者同士で対峙し合い解決しておくのが基本で、それが無理な場合は昇華という形でエネルギーを別の形に転換して発散するのが理想でしょう。 (あくまで理屈上ですが)我慢する、というのが最も不適切な対処ということになります。 (直接的な対処法として、場合にもよりますが基本的には『毅然とした無視』が最も有効と考えますが、これと我慢とはまた別物です) 本題である『「不幸感」を味わう羽目』という点に関しては、上記のような観点から、いわゆる負の連鎖ということになるでしょう。 また、人間の進歩ということからすれば、どこで歯止めを掛けられるかということにもつながってきます。 両親や社会から何らかの禁制を全く受けなければ人間としての社会生活は覚束ないわけですが、過度な環境としてそれらの禁制が個人のキャパシティを超えて作用する場合がある。 そして、我々人類はその限度を未だ知る段階には至っていない。 あるいは、超自我的抑制と自我や本能とのバランスの取り方に対する考え方が未発達段階にある、といったことになるのかもしれません。  

garcon2000
質問者

お礼

哲学的なご回答者と対話できるのはうれしいです。 なので、より対話を深められたらと思い、以下、ご回答者のお礼に、私なりの素直な感想を書かせていただきます。 排斥的ないじめは恐れからということなんですが、どうも私はこれにぴんと来ません。それは「恐れ」というものの「いじめ」はどうも直接結びつかないのではないかと。つまり、自己の生存を何か脅かしそうな相手に対しては、警戒あるいは敵対ということになり、この心構えによって「不幸を願う」というような姿勢は作りにくいのでは。 たとえば、より原始的にわかりやすく考えると、縄文弥生時代か何かの村落が環濠集落であったのは外的から守るためだということでしょうが、実際そういう機器があったからああいうものを作った。日々殺されないことを真剣に考えて生きていた。そのとき、襲ってくるやつをいじめたいとはどうも思えないのです。 いじめは、その相手によって生前の機器など脅かされない、まったく自分が安全なところにいるという状況で生まれるのだと思う。 第2二の要因というのは重視すべきですね。 人類は禁制のキャパシチィを云々というよりも、まず「思いやり」という感情をどうやったらもてるのであろうかという問題が多い貴意のではないでしょうか。

garcon2000
質問者

補足

基本的に、人間は幸福感に包まれていじめをすることはできないのではないかと思っています。

noname#52347
noname#52347
回答No.5

そうでしょうか? 私はいじめは人を不幸にするための行為という風に考えたことはありませんでした。人間界にだけ起きていることでもないが、私はここに「疎外」という現象を見ます。異なるものに歩みよらず、排除する。 いじめについてのみ言えることではなく、私たちは生きているだけで大雑把な判断を下し、常に繊細な意見を踏み潰し、マイノリティをおしやっていることを忘れてはならないと思います。皆(日本人)おしなべて弱い人のところや繊細な意見の方に降りていかない。「自分や周りの家族」が幸せであればいいというような所がある。面倒なものは見たくない。歩み寄ろうとしないんです。私も含め。 最近別のサイトで性産業に携わる人について話あっていたんです。その中で誰も性産業に携わる人に対し軽蔑するような発言をした人はいないのに、「私の恋人は風俗嬢で、その人を軽蔑するような話し合いをするな!」と突然乗り込んできた人がいた。 一見風俗嬢であるマイノリティの恋人を保護する正しい立場のように思えるけど、自分や、自分の周りのもの(家族)の利益幸福を追求しているだけのように思われ私は非常に違和感を覚えました。ニュースを見ていても、一見耳を傾ければならないような悲鳴や欲求も、7割型このような自他の幸福を追求した発言に属している気がします。 こういうことではないと思うんです。 時に自分や周りの家族等が損することになろうとも、自分と全く異なるもの達(マイノリティ等)を支持するべき時や、本当に見極めるべるべきことを見なきゃいけない時がある。 異なる者に歩み寄るのって本当に大変なことです。時にこちらに害を与える相手に歩み寄らなきゃいけないかもしれない。私は正直自信がありません。 曽野綾子さんという方をご存知でしょうか?「難民をうけいれることがどれだけ大変なことか分かりますか?難民達が自らを救うためにどれだけしたたかな手を使うか。。」と曽野さんは言う。 関係のない話をしてしまったようですみませんね。 質問者さんの仰る「他人を不幸にしたい」という部分も心理的にはあると思います、特に子供達はこういう残酷な感情でいじめをするのかもしれない。しかし、ここにも学力、金銭至上主義に始まる様様な差別問題が盛りこまれています。そして様様な不満を抱えた「いじめる者」は、「いじめられる者」の中に自分自身が抱える弱さを見つけ、いじめに走るのかもしれません。 とにかく、とてもすっきり片付けれるような考え方は見つからないと思います。すっきりしてはいけないと思う。

garcon2000
質問者

お礼

「疎外」ということには、潜在意識的に「相手を不幸にする」という姿勢が含まれていると思いますね。疎外された相手が幸福感満々な顔をするという感覚は普通ありません。 そして >私たちは生きているだけで大雑把な判断を下し、常に繊細な意見を踏み潰し、マイノリティをおしやっていること 「自分や周りの家族」が幸せであればいいというような所がある。 ということがおそらく人類全般としてあるわけで、これをどうにかできないかあるいはこういう気持ちの姿勢がどうして生まれてしまうのかなんですね。 性産業の問題にしても、「それはマイノリティだ」という認識が言外に存在する。それがいかんともしがたい意識の硬直化につながっている。「ああ、性産業。いいじゃん別に。宇宙飛行士や弁護士と変わらんよ」と心底から思える人が一人でもいるのでしょうか? >自分と全く異なるもの達(マイノリティ等)を支持するべき時や、本当に見極めるべるべきことを見なきゃいけない時がある。 これが「すべき」思想になってしまうんですよね。しぜんに「そうする」という流れにならない。もちろん私もそうです。 曽野綾子は核心を突いたことを言いますね。そのとおりだと思います。

回答No.4

こんにちは。 いじめることで自己の優位性を保つために発生する行為である、と思います。 本能的に自分の優位性を周りに知らしめようとするのは人間の習性です。 たとえば飲み会で誰かを「オチ」に利用する行為も同じような効果があると思います。 誰かをコケにしたり、からかうことで「こいつは自分より劣っている」印象操作をしているのです。 動物であれば自分の方が力が強い、と誇示するシーンをよくテレビなどでみますよね? メスを取り合うオスが、一方的に自分より力の無いオスをやりこめたりします。 これはほぼいじめの論理と同じだと思います。 ですから私の結論では、もともとは本能的な自己優位性を誇示する行動だと思います。 そこに社会規範や、法律や、それぞれのコミュニティを形成している人間社会が 当てはまると「悪いこと」になってしまうのでしょう。 私はもちろん道徳的にいじめは許せない、と思っています。 過去に被害にあったこともあるので、つらい気持ちはいやほどわかります。 それでも論理的に考えると、「本能」に帰結してしまいますね。

garcon2000
質問者

お礼

優位性を保つということは、すなわちそうでもしないと心の安定が得られないということになる要素があると思います。人間の修正といえるのでしょうが、この修正はすなわち競争欲求あるいは顕示欲求なのでしょう。それが生存と結びついたものと考えれば、生物学的にはすっきりします。 しかし、どうもそれだけでは割り切れないものを感じまして。 なにか人の感情に栓をするというか、かかわらないことにしたいというものが本能とはなれてあるように思う。それが何なのかと思います。そして、自分の不安定感やるせなさ漠然とした怒り寂しさなど、無意識的に人の不幸を願うような動きをし始めるということなのではないかという気がします。

noname#80116
noname#80116
回答No.3

いくつかあるだろうと思われる議論の中で ひとつ思いついたのですが まづ人はふつう 《人を不幸にしたい》という以前に 《自分が幸せになりたい》という欲求があると思います。 しかも ほとんど常に もっと具体的に あの人と同じように優れていたいという場合か もしくは あの人から自分の存在を認めて欲しいという場合か とりあえず 二つの幸福追求の場合が 考えられます。 そして もし この目的を達成するために ほかの第三者を貶めたり排除したりするという手段があると考えるなら そのとき いじめが発生するのではないかと思いました。 ですから 話しは飛びますが このとき 被害者が 不幸感を味わうことは ほんとうには ありません。被害は事実としてあるでしょうが それによって傷つくことは ほんとうには  ありません。 いじめの加害者というのは いまの理論の限りでは 手段をまちがえているのだとなります。それでも 気がつかない状態というのは こちらにとっては 嘆くほどますます嘆かわしくなるでしょうし 憐れもうとするほどいよいよ憐れむに値しなくなるというしろものです。 ですから 被害者にとって 不幸感は持つ必要はないし 持ってはいけないという結論になります。(加害者というのは 犬か猫かであって 人間ではない〔状態にある〕と見なす必要があります)。

garcon2000
質問者

お礼

「自分が幸せになりたい」が「不幸にしたい」に先んじているということ、非常に同意します。そこで「幸福」が高確率で得られればいいのに、そういうわけにいかない。そんな不合理なことがあるのかと思ってしまいますね。で、それが上手くクリアーされないで進まなければとなると、不満を鬱屈させ(これはすでに幼児からあると思う)「見て見て!」の自己顕示や暴力生命の軽視相手の幸福の軽視という行為につながっていく。 被害者の不幸感はやはりあると思いますね。知らないうちに思いや地を与えられるのと、その逆ではやはり違う。本当には傷つきませんが、外傷はある。 加害者はおそらく不幸感を内在しているであろうから、それをどうにかする必要があるともいますが、そのとき、ご回答のように考えることも可能です。それが実際問題として正しいかもしれない。おそらく家畜以下の存在に成り下がっているのだが、もし、その人たちの人生をリセットして、幸福感を植えつけることができれば、まず精神異常者でもない限り、攻撃性や非人間性、心の荒れというもんは消滅するものと考えています。 しかし、なぜ幼児の愛情不足を生んでしまうのか。あるいはそこは親の限界だとしても、社会は個人の幸福感をなぜこれほど軽視するのか、そういう根本的な疑問と、絶望感があります。

  • mmky
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回答No.2

この世に生を受けるすべての人間には公平と差別という根本的な事象が降りかかります。生まれ育つ環境の差別、成長過程における努力と成果に対する差別。公平なのは空手(くうしゅ)で生まれる瞬間だけですね。つまり公平とか平等といったものはチャンスにのみしかないのですね。このチャンスでさえ公平でない場合もあります。どのように教育で偽善の公平を教えても現実は差別しか存在しません。この差別をどのように受け入れるかの方法論に内在するものが「いじめ問題」ですね。例えば、差別を認めてよきものであればそれを手本に努力していけば差別は乗り越えていけますが、よきものに嫉妬して否定するようになればいじめになりますね。これも差別の認識の範疇ではありますね。人間はロボットじゃありませんので10人10色の個性、環境で育っています。それをどのようにまとめていくかに内在する問題ともいえますね。多数決でまとめると必ず外れるものがでてきます。これも巨視的には「いじめ」とみてもいいですね。つまり自分と違った考え・行動・環境の者をどのように受け入れていくかという問題に帰着するように思います。哲学的にいえば「認識力」の問題でしょう。子供にそれを教えることは難しいが教育者は認識すべき問題ですね。 つまり差別が本質であるということにおいて、その本質の否定のなかに「いじめ」があるように思います。 自由は差別を生み、差別は公平(平等)を阻害する。差別の中に公平を見出だそうとする方法論にいじめ問題が内在するといってるのですがね。参考までに 参考程度に

garcon2000
質問者

お礼

おっしゃることもっともだと思います。 人間社会に内在するあるいは生物の人間に存在する、差異と差別、偽りの公平と実情の不公平、それをかんじる意識が「人の不幸を願う」エネルギーだと思っております。 その人間の業というのは、不可避なんでしょうかね。それを人工的にでも無理やり変える、敵意や自己顕示欲に陥ってしまうところを、むりやり相手への思いやりに変える、理解に共感にあるいは愛情に変えてしまう、そういう精神変換作用ができれば、だいぶ違った世のかなになると思います。もちろん、その付けに「停滞」というものが付着するでしょうが。

  • miya8115
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回答No.1

私は人を不幸にしたいということより、人よりも優れていることが事故存在意義を高めるのだと思います。 他人との比較のなかから、私はあの人より優れている、いじめる側にまわっているということなのだと思います。 質問者様の自分が不幸であったことに突き当たるということは、いじめによって不幸体験(フラストレーション)を跳ね返す作業なのかもしれません。 思うことは、ともあれ人間は「性悪」なのかもしれません。

garcon2000
質問者

お礼

私は「人の不幸を願う」ことと「自己顕示」は同質ものと考えています。つまりは、相手を蹴落とすことです。もちろん積極的な捕らえ方と消極的な捕らえ方の差はあるのですが、本質は結局、愛情の不足(自分が受けているものも相手へ与えるものも)だと感じます。こどもが自分の行動を「見て見て!」と顕示するのも、なんとか(不足しているように感じるあるいは本当に不足している)愛情を得ようと必死になっている悲鳴に聞こえますね。 人間は性悪であるということにすれば、すべての連関が上手く説明できます。相手よりも自分だ!という潜在意識。

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