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人は不幸なときなんで好かれるような行動を取れないのか
不幸に陥ります。そうすると、たいていの人は、荒れたり、うつ状態になったり、愛想悪くなったり、とっつきにくくなったり、凶暴になったり、嫌味になったり、いじめに走ったり、犯罪に走ったりいろいろとにかく「好かれない」ことをやり始めます。 これは、なぜなんでしょうか? 生物的合目的性からいうと、そういう「弱っている」ときこそ、周りの暖かいかかわり援助というものが回復に必要だと思われるのに、それを自ら絶ってしまうような矛盾に満ちた行動様式をとるのはなぜなんでしょうか?仮に、もしそういう合目的性?にそった行動が取れたとしたら、人は不幸になるほど丸くなり好ましく穏健になりということになれば、犯罪もだいぶへり、世の中ずいぶん平穏になる気がします。
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親からの道徳的躾が行き届いていないからでしょう。 下流社会や低年収層にいる方たちや育った方たちは、 「人が困っていても助けない」 「見てみぬふりをする」 「自分の利益が優先」という風に育ち、 同環境・隣人・身内であっても、弱いものを見下すという言動を 行ってしまい、弱ってるもの反応に嫌悪を抱くようです。 先日、駅のホームで、禁煙とかかれているにも関わらず、 無職中年男性がタバコを吸っていて、 それを注意した定職ある男性へ逆恨みして、頬骨を折るほどの暴力を振るった報道もありました。 どうしても、自分が酷い状態にある人は道徳心が少ない。 正確には、道徳心に構っていられないほど、生活や生きることに追われているためというのが正しい見解かもしれません。 >仮に、もしそういう合目的性?にそった行動が取れたとしたら、 >人は不幸になるほど丸くなり好ましく穏健になりということに >なれば、犯罪もだいぶへり、世の中ずいぶん平穏になる気がします。 御意。 先祖代々、生活苦の無い子孫であれば、生活+心情に余裕があるため 困ったときに助け合うべく頭を垂れること・常識を重んじ道徳心高く生きることを良しとする教えが叩き込まれていそうですが、 生活に困っていて、常識外のことでもしないと食べていけない環境にいて、どのようにして道徳心を体得できようか? こういう者たちは、常識や道徳心よりも、自己の利を重んじる教えが叩き込まれているとするのが正しい見解だろう。
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- o0tadasii
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ANo.6です。 我は、あなたの質問文を拝見して、回答を書いたつもりじゃったが あなたからのお礼を拝見したところ、 あなたの真意は、あなたの現状からの脱皮するための何らかをお知りになりたいのじゃろうか?と思えてきたが、どうじゃろうか? >・・・衣食たる事がままならないでいる。 >結局、社会が弱者に対して決していい顔しないことが >話の発端だという気がします。 > >もちろん、それが根本的に問題だというつもりはないのですが、 >そういう必要悪か必然かが、 >この険しい顔の発端になっていると思います。 あなたが、険しい顔になっている現状や、 丸くなり好ましく穏健になりたいという願望をかなえるための方策 や、そのための心情整理を問われておるのであろうか? 質問主旨を取り違えておったら悪いと思うので、教えてもらえぬじゃろうか?
補足
現状では、私の顔はかなり穏やかになっておりますが、過去かなり長きに渡って険しく人をなかなか寄せ付けないことがありました。そのことが時折思い出されて一種の呪縛から解き放たれないですね。
- hakobulu
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$4です。 >一般的に弱れば弱るほど人間すさんでいくという流れがあります :無論、そう言わざるを得ないケースもあります。 しかし、「一般的」となるとどうでしょうか。 「何に対してどのような弱り方をしているのか」によって相当違ってくるように思います。 「荒れたり、うつになったり、愛想悪くなったり、とっつきにくくなったり、凶暴になったり、嫌味になったり」と、 「いじめに走ったり、犯罪に走ったり」の要因をまとめて捉えようとするのは無理があるかもしれません。 彼女がいない不幸と虐待で死にかけた幼児体験を持つ不幸を同一線上で論ずることは難しいでしょう。 もう少し絞ると面白い課題になるとは思うのですけどね。 ですから、 「>仮に、もしそういう合目的性?にそった行動が取れたとしたら、人は不幸になるほど丸くなり好ましく穏健になりということになれば、犯罪もだいぶへり、世の中ずいぶん平穏になる気がします。」 というご意見には『条件付で』大いに賛同しますが、全面的に同調する気にはなれません。 何を以って「弱っている」とするのか、という判断は(もう少し詳しい状況説明がないと)難しいのではないか、ということです。 平穏ではあるが自我なき世界というのも、それはそれでまた怖ろしいような気がするわけです。 自ら乗り越えることでしか獲得できないものも確かに人にはあるのではないか、と思われます。
お礼
多くの不幸というものは、共通の地盤を持っているのではないだろうかという気がしています。表面的突発的な出来事はトリガーであり表層的なもので、本質的には「自己喪失感」的なことに行き着くのではないだろうか。なにで、いろいろな不幸により行動様式心理様式があるとは思いますが、どうも根は「自己不信」なのではないかとあるいは「他人不信」も絡んでいる。 自ら乗り越えるという知恵やエネルギーを奪われるレヴェルの不幸とか不条理が多い中で、これをほうっておくことは倫理にもとるのではないかと感じています。
生物的に逆であることが援助の対象になっているのではないかと 思います 基本的に弱っている人間を助けないと言う事自体異常であって 明るい人間を助けないのが本来の姿だと思われます。 それが育っていくうちに捻じ曲がったのではないでしょうか? 本来は弱っている表情であることが援助の対象であって それを無視するという人自体超自我的な道徳心やら倫理心が幼稚である という事が言えると思います。 もしくは自己防衛本能が超自我衰弱させているのではないかと推測 できます その場合弱ものを助けること自体不利益になると感じていると言う事ですね そのことによって超自我が衰退し幼児化しているということです。 両者に当てはまるのはいずれも親からの道徳的厳しさが掛けているという 証拠だと思われます、中流家庭に生まれそれとなく育てられた人たちが 特にそうです この手の家庭の子は将来「人が困っていても助けない」「見てみぬふりをする」「自分の利益が優先」という風に育ち 弱いものを貶すという態度にいたり弱ってるもの反応に嫌悪を抱くという 事になると思います
お礼
まったく、情けも涙もないというか、うわべだけの救済(あったほうがいいでしょうか)とか多いです。もちろん、そういうエゴなしでは人類の発展はありませんから物事2面性があるものです。しかし、そのなかにも協調の精神同情の精神が慣習的に宿っているべきで、それがない無機的な社会は辟易します。中流家庭というのが問題かもしれませんね。本当の上流には筋が一貫したものがありますから。中流の金の亡者的感覚が一番厄介。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
「>好かれない」というのは、対人関係における配慮を失いがちだということになるでしょう。 他者に配慮するゆとりを失うほどの不幸に見舞われた場合、ということです。 つまり、似たような不幸でも個人のキャパシティによって差があると思われます。 (後天的に得てきた)超自我的な善、あるいは抑制が取り払われ、本来の動物としての面(本能)や、一方的な自己権益の擁護(自我)にエネルギーを費やすだけでいっぱいになってしまう、ということでしょう。 ある意味では本来的な状態に近づくとも言えるでしょうし、見方を変えれば精神的な退行(=過去への逆行)、という捉え方もできるでしょう。 犯罪者の精神性は、超自我と本能が極めて同義に近づいており、且つこの両者から自我が切り離されるかのように独立しかけているものです。 うつ状態も構造的には似ていて、ただ、自我が独立しかけるのではなく、この両者に取り込まれるかのように埋没しかけている状態ということが言えるでしょう。 いずれにせよバランスの問題になってくると私は思いますが、こればかりは個人個人が納得することを待つ他はなく、敢えて言ってみればそのためには視点の(本人にしてみれば)大胆な転換こそが求められるだろう、と考えています。
お礼
意志が強い人、公徳心が旺盛な人は、不幸になってもなお気持ちがしっかりしており、対外的障害を起こすことはないかもしれませんが、一般的に弱れば弱るほど人間すさんでいくという流れがあります。それが納得いかないところですね。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
「好かれるための行動」の多くには、自分の内面を開くことが必要になります。自分を開くということは、傷つくという危険が出てきます。 もちろん誰かの温かさを受け入れるのにも、内面を開かなければなりません。 ところが、「不幸」なときは、もうこれ以上傷つきたくないという心になっています。 ですから、自分からバリアを張ることで自分を守ることになります。 弱っているから自分を守ろうとするわけです。 バリアはいろいろです。背中を向けたバリアなら「うつ状態」になるでしょうし、斜に構えれば「愛想悪く」なったり「とっつきにくく」なったり「嫌み」になったりするでしょう。攻撃は最大の防御ですから、「荒れたり」「凶暴になったり」「いじめに走ったり」「犯罪に走ったり」もします。
お礼
実に納得いきます。 防衛反応でしょうね。つまり、今まで自分がかかわったものによって傷ついてしまっただから閉鎖したい、離れて自衛したい。その表れがとっつきにくい近寄りがたい姿勢を生みますね。 しかし、対処療法的にはいいかもしれませんが、究極両方とは程遠い、長期にわたると自分をますます追い込んでいくという矛盾をはらんでいますね。 結局、世の中当てにならないしろくなものでないというところから話が始まっているんじゃないでしょうかね。
- shift-2007
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神に裏切られたと思えば、悪魔に魂を売るのが人の恒なのでしょう。 不幸にすがり付いているんじゃないでしょうか。なぜならそれしかもっていないから。 結局は自己憐憫だと思います。ゆえにやめられないんじゃないでしょうか。
お礼
そのとおりだと思います。 自己憐憫、自家中毒みたいなもので、それも考えようによっては生存本能なんでしょうかね。これが、いざというときにあだなってしまう。順境だけが人間存在で大事であって、逆境は自然界にとっては価値がないのでしょう。つまり、幸福に裏切られた存在に自然は興味がない。 なんとなく考えたのは、結局そういう暗さが覆ってくる前に、人の思いやりなど当てにできないし、ないという感覚や事実があるからだという気もします。つまり、一般に、人間自分の幸福にしか興味がない。
- emu1982
- ベストアンサー率39% (26/66)
不幸は、自分の努力に関わらず襲ってくることが多々あります。 がんばって生きているのにいいことなんて何もない。 人はがんばってその成果が感じられるから、よりがんばれるもの。 がんばってもいいことがないなら、がんばりたくなくなります。 気力がなくなります。 そこに残るのは、絶望、怒り、苦しみ、悲しみ、恨みなど負のエネルギー。 その結果、悪い方へと進みがちになります。 経験則ですが。
お礼
よくわかります。 がんばっているんですよ。もしがんばらなくて抜けられないならそれはそれで納得できるのですが。感情的には自然の流れで、暗いほうへ行ってしまうのですが、人間存在の目的性と異なった結果になってしまう。それとも、不幸なやつは生き残らなくていいという神の?自然の声なんでしょうかね。 人間存在など、自然?にとってはどうでもいいって言う具体例なんでしょうかね。
お礼
衣食足りて礼節を知るというのが真実でしょう。これは考えようによってはまったく救いようのない話です。衣食足りるしか人にすかれる方法はないといっているのに、衣食たる事がままならないでいる。結局、社会が弱者に対して決していい顔しないことが話の発端だという気がします。もちろん、それが根本的に問題だというつもりはないのですが、そういう必要悪か必然かが、この険しい顔の発端になっていると思います。