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無になるということ
無になるという言い方は矛盾しますか? なるべき対象が無いわけですから、無いものになるというのは変なような気がします。 そう考えると、死んで無になるというのも変ですよね?
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《絶対》の問題です。 相対の世界つまりこの経験世界では 買ってきたりんごが 食べればなくなります。そこにいたと思っていた猫が もういなくなっています。つまり 経験合理性で認識する世界では 《ある》か《ない》かは 互いに相対的です。どっちもどっちであって どちらか一方に決まっているものではありません。 生きているか 生きていない(つまり死んでいる)かさえ 相対的だと言えるかも知れません。(それゆえ 魂は永遠だとか言ったりします。生か死かの どちらかが 絶対的だとも言えないからだと思います)。 有無いづれかを規定できない世界があります。あるいは あると想定されます。(規定できるか出来ないかも 人間の経験合理性では 規定できないという意味です)。 ただし この相対的な有無から成る経験世界を超えた絶対の世界を 人間の経験領域の言葉で いわば代理のかたちで 表わすことも 行なわれるというわけです。絶対を神と表わせば 有神論として 《ある》というふうに 代理して表現したことになります。 絶対を空として表わせば いわば無神論です。《ない もしくは 無》と表現していますが 経験合理性で そう規定したわけではないのです。規定できると思っているわけでもないはづです。 要するに 経験・相対の世界を超えたを領域を 有るにしろ 無いにしろ 代理のかたちで表わして しかも経験思考にも取り入れようというわけです。そうすると 思考が 進むのだと考えられます。 そもそも この世界は 謎です。謎に即して 表現しているという恰好になっていますので これらの代理表現も 使い勝手がいいのかも知れません。《無記》という方便もあるかと思いますが。 絶対の代理表現である《無》になることは できません。定義上 無理です。
- turube555
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無になるということ。 大変、宗教的な言い方になるかもしれませんがご容赦を。 人間としての個(自我や欲など)を無くしたときにある、自然な気持ちだと思います。 人は欲を捨て去る事をなかなか出来ません。ほとんど無理です。何故なら悟りを開こうと行動する事すら欲なのですから。 無になることと言うより、無により近づくようになることなら理解できるかもしれませんよね。 色々な欲を捨て去り、最後に残ったものが「 無 」という悟りなのかもしれません。 それは個としての自我を無くし、自然と同化すること。いうなればそこにあるものだけれど、個としての認識はされず、全体として認識されることなのかもしれません。 たとえば宇宙の広がりから比較したときの人とはどれほどのもの? といった限りなく無いに等しい状態のことを「 無 」と呼ぶのでは と思います。 死んで無となることと、無になることは違うと思いますよ。 以上、あくまでこれは私的見解です。
お礼
シャカにできてなぜ我々にはできないのでしょう。
- ganesha_me
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一つ「無」は「有」の対義語ではないと私は思っています。 0を1で割ることができないのと同じ理屈です。 「無」は次に言葉を補うことで、その形を作ります。 それが「無心」や「○○が無い」という意味です。 死が「無」を意味することはないと思います。 肉体は灰になっても残りますし、 命というものは、別のものに置き換えられたのだと思います。 そういう意味で「無になる」という言い方は相応しくないと思います。
お礼
体という物質が命という何かを宿すというのは想像を絶しますね
無は想定出来ません。「想定した」と言ったら嘘になります。何故なら、想定された何かが有るからです。 従って、意識にとって無になるとは考えられないのです。死んで無になるとも考えられません。 と、思うのですが、意識が無いときの説明が甘いので反論が来そうですね。私は意識が無いのではなく、脳の記憶システムに納まりきらない世界に、意識が行っているだけと理解しておりますが、まぁ、確証の得難い事ですよね。
お礼
脳科学はいまだに脳内に意識を見つけることができていないらしいですからあながち間違っていないかもしれませんよ。
自分の精神活動がモノではないということを納得することではないでしょうか。
お礼
私は無から生まれたということですか、なんかいいですね。
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
無になるとは無心になるという事です。 たぶん、この言い方は仏教的な言い回しだと思います。 仏教の概念ですが、No4の方が述べているように空は存在の最小単位であり、科学的に言えば素粒子(クオーク?)とかいうモノなのでしょうが、これによって構成される心は"「無我」「無心」つまり「無」であるということです。煩悩に苛まれず、心を無にしなさい、、、極限のところまで行き着けば死に近いところですね。 Wikで調べたら質問者さんが言っている無の定義は色々ある中の「絶対無」というものだと思うのですが、物理的には無いそうなので、「絶対無になった!」っていうのはオカシイ(矛盾)ということになるのではないでしょうか。
お礼
無心というのもなんか?ですね。 心から煩悩をとると無心だとすると、心=煩悩ということなんですかね。
分割投稿すみません。 「無」には不思議なパワーがあります。 マイナスの人には与え、過剰な人からは水差しになり「無」に向かわせます。そして平和になります!? 「無」のパワー絶賛中なんです。
お礼
プラマイゼロがこの世の法則ですかね。
仏教の「空」は無と違って、「泡」なんですよね。 周囲の要素があって初めて無の存在が成立っている。 「無=何もない」ですが、生きてる以上透明にも重力に逆らってもられない。主権者でも従者でもなく「どうでもいい人、すぐに忘れられる人」となりつつ、特に良いことも、悪いことも起こさない。あるがまま「無為自然」という状態ではないですかね?
お礼
まったくもって難しいですな。
- nightjar
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無になるということは、無効になるということでは? 死ねば、その人が直接及ぼす影響はなくなるから。 人に完全なオリジナリティーがないように、人は完全には無にならないのだと思います 死しても生前に残した何かで、後世に影響を及ぼすことはありますよね?
お礼
確かに関係することができない状態を死と呼ぶのかもしれませんね。
- 21s-a
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全てを無にするのではなく一部分だけを無にしてみてはいかかでしょうか? 仕事に私用を持ち込むな。 これは自分という人間の仕事というくくりから私用を削除する。というコトで自分の存在自体を無にするわけではないでしょう? と思います。 無とはなるべき対象がないのではなく 存在する対象から邪魔なモノを消し去る という意味だと私は勝手に解釈しています。 そういう意味では死≠無だと考えます。 よろしかったらアナタの意見もお聞かせください。
お礼
一部を無にするということは無はコントロール可能であり、同時にコントロールする存在がいるということですね。コントロール可能な無は果たして無なのでしょうか。 また、無の状態から別の状態に変化した場合、無から有が生まれたことにはならないでしょうか。
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お礼
無であれ神であれ相対の世界から《絶対》をある、無いと言ってみてもせんない事なのかもしれませんね。