ベストアンサー 「無」が怖いですか? 2011/08/19 10:28 「無」が怖くないというのは 良いことですか?悪いことですか? 「無」が怖くない人に宗教は不必要ですか? また、「無」に対する恐怖心の深層心理を説明してください。 お願いします。 みんなの回答 (2) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー k_mutou ベストアンサー率12% (101/783) 2011/08/19 12:16 回答No.2 『百年経ったら皆、死にます。更に百年経てば我々を記憶している者も死にます。生き物全て“忘却の闇”という渦にのまれていく』 と、マーク・トゥエインという作家が自著の作品の最後に書いた言葉が非常に衝撃的で忘れられなくなりました。 結局、つまるところ全部の生き物は“無”になるのだと思います。 “無”を受け入れるのは“悪い”事ではないと思います。 ただ、【無関心】【無気力】【無感動】に付く“無”は“悪い”と思います。 誰もが、全てが“無に帰する”と考えると、それが当然の事だし“怖い”事ではないです。 “無”=【忘れられる】となるから“怖い”という認識になると思います。 世界的に名を轟かせた方々以外の平凡な人生を送る者全てが完全な“忘却の闇”にのまれます。 だから、“無”を受け入れ“清々しく”生きた方が日々、得なんだな…と思って生きてます。 質問者 お礼 2011/08/19 12:23 ありがたいお言葉でした。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 その他の回答 (1) real98 ベストアンサー率20% (9/44) 2011/08/19 11:04 回答No.1 人間は死んだらどうなるか興味がありますよね。もっと言うと、怖い。 だから、普段は考えるのをやめる。 良い悪いの問題ではないと思います。 何らかの宗教に傾倒するのは個人の自由だと思いますが、人間の弱さを補う装置が宗教なのだと思います。 必要かどうかは、必ずしも無に対する恐怖心だけが判断基準では無いと思います。 私は無に対する恐怖心はありますが、宗教が解決できる事は無いと思っています。むしろ家族とかコミュニケーションに癒されます。 また、深層心理とかいうと大袈裟ですが、単に子孫を残したい、とか、誰かとコミュニケーションしたい、と言う本能を持っているだけじゃないでしょうか。 質問者 お礼 2011/08/19 12:22 ありがとうございました。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学哲学・倫理・宗教学 関連するQ&A 「無」 宗教の「無」って何ですか? 無は何処からやって来るのか 無は人の心から生まれるのである。 無は願望である。 無を願う心が無を生むのである。 色即是空空即是色。 これもまた同類である。 ただの願望に過ぎないのである。 いや無ではなく空であるなどと言い逃れよーとしても無駄である。 無を願う人の心が無を生み、空を生むのである。 なぜ人は無を願うのか。 あらゆるものが無であってほしいと願うのであろーか。 それとも自分だけが無であってほしいと願うのであろーか。 あるいは自分は無ではないが苦しんでいる間だけ無でありたいと願うのであろーか。 しかし有が無になることも、無が有になることも出来ないのである。 それは宇宙の法則が許さないからである。 無を願う人の心が無を生むのであれば、無を願う心がなければ無は生まれないのである。 無を願う心の中以外に無は何処にも存在し得ないのである。 無は願望である。 およそこのよーに結論して十分ではなかろーか。 『無』って? 宇宙誕生の前には「時間も空間もない無」だとか、 宇宙の外も「無」だとか説明されてますが、 よくイメージできません。 「『無』の世界が『有る』」というのも???です。 どなたか、教えてください。 お願いします。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 無を求める心は何処からやって来るのか 無の境地を求める仏教徒がいるとゆー。 悟りを開き無の境地に至るためだとゆー。 なぜ彼は無を求めるのか。 人は死ねば無になるではないか。 無を求めずともそのうち自然に無になるではないか。 なぜ今無を求める必要があろー。 無を求める者が飯を食うのは何故か。 飯は無なのか、有なのか。 飯を食うのは生きるためではないのか。 すると生きることは無を求めることなのか。 果たして無を求める者はその答えを備えているのか。 もし無を求めるのであれば何も要らないのではないか。 無を求めるものがお経など唱えてどーするのか。 捨ててこそ、無の境地である。 ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。 無についての問答 無についての問答 「人の道」:人は死んだら消滅し無になる。 問う人: では無の世界に光は有るか。 「人の道」: 無の世界に光は無い。なぜなら無の世界には目ちゅーもんが無いんや。 問う人: 無の世界に音は有るか。 「人の道」: 無の世界に音は無い。なぜなら無の世界には耳ちゅーもんが無いんや。 問う人: 無の世界に匂いや香りは有るか。 「人の道」: 無の世界に匂いや香りは無い。なぜなら無の世界には鼻ちゅーもんが無いんや。 問う人: 無の世界に味は有るか。 「人の道」: 無の世界に味は無い。なぜなら無の世界には口ちゅーもんが無いんや。 問う人: 無の世界に風は有るか。 「人の道」: 無の世界に風は無い。なぜなら無の世界には肌ちゅーもんが無いんや。 問う人: 無の世界に熱い寒いは有るか。 「人の道」: 無の世界に熱い寒いは無い。なぜなら無の世界には神経ちゅーもんが無いんや。 問う人: 無の世界に喜びや悲しみは有るか。 「人の道」: 無の世界に喜びや悲しみは無い。なぜなら無の世界には心ちゅーもんが無いんや。 問う人: では無の世界には何が有る。 「人の道」: 無の世界には何もない。なぜなら無の世界は無の世界やからや。 「人の道」: どうや、これで無が何かよー分かったろう。 問う人: はい、よー分かりました。 「人の道」: では人が死んだらどうなるかも分かったか。 問う人: はい、よー分かりました。人は死んだら消滅し無になるんや。 「人の道」: 何か不満はあるか。 問う人: いや、何も不満は無い。人は死んだら消滅し無になる。これで上等や。 「人の道」: 皆にも聞く。人は死んだら消滅し無になるちゅーこと、よー分かったな。 なぜ人は無を求めるのか。 この世は仮の宿であり、真の世界ではないと言ったりもする。 この世の全ては幻であり、実在はしないと言ったりもする。 自分だけが存在しないほうが良いと思っているのであろうか。 それともこの世の全てが存在しないほうが良いと考えるからなのであろうか。 なぜ人は無を求めるのか。 いや無ではなく空であると言ったりもする。 無と空の違いさえ知らないにも関わらずである。 座禅を組んで無の境地に浸ろうとする輩もいる。 ところがその座禅を組んだ後、飯を食うのである。 無を求めるならなぜ飯を食う必要があるのか。 食った飯は無なのか有なのか。 あまりに愚かとしか言う以外あるまい。 無は一つの宇宙である 人は死ねば無になる。 人であれ何であれ無はあらゆるものを吸い込み無にしてしまう。 一度無になると二度と無から抜け出ることは出来ないのである。 そんな無は一つの宇宙を構成していると言えるか。 死んだら無になる宗教や哲学について はじめまして。以前から宗教や哲学など、強く信じることのできるものに興味があり、本を読んだり、インターネットで色々と調べているのですが良く分からないため質問させて頂きます。 昔から生きづらいと感じることが多く、何か強く信じられるものが欲しいと思っていました。 しかし、宗教について調べても、基本的に死後幸せになるためのものが多いように思いました。 私は死んだら無になる と思っています。 自殺をした友人が数人います。 死後の世界があるなら、その世界では幸せなことしかないとは思えません。 どんなに楽しいことやうれしいことも、ずっと続けば、それが普通になってしまうような気がします。 天国で先に行った人と、楽しく過ごしているよ という言葉も、 その世界に他の人がいるなら、人と関わることは楽しいことだけではないと思ってしまいます。 辛くて、もう生きていられない と思うほど、生きて居られなかったほど辛い思いをした友人達に、死後にもまだ世界があると考えたくありません。 私はこれからも生きていかなければいけないんだと思っています。 そのために、何かただただ信じることのできるものが欲しいです。 宗教や哲学だと、何かに迷ったときもとにかくその通りにしていれば生きていけるのでは と思ってしまいます。 自分の考えや、まわりの人の考えだけだと、事あるたびに揺らいでしまいます。 なにかおすすめの宗教・哲学、ほかのものでも全く構いません。 お教えいただけると大変助かります。 どうぞ宜しくお願いいたします。 「無」だったのか? 昔から疑問だったのですが 『混沌でないかどうかよりも、最初「無」だったというのがホントなら何だって「無」のままにしとかなかったんか、ということのほうがフシギ…。』 哲学カテの質疑において私が、このように述べましたところ >『「無」のままにしておくっていうことは「無」が「有る」っていうことですから、それは「有る」ということに他なりません。要するに「有らへん」ということは「有りえない」のです。』 >『ここで言っている「有る、無い」は、机の上にリンゴが「有る、無い」と同じ意味の「有る、無い」じゃないですか?確かに、さっきまで机の上にあったリンゴを食べてしまえば「そのリンゴが無いという状態」が「有り続け」ていますね。でも、その場合は机は有ることが前提だし、譬え机がなかったとしても時空間はあることが前提ですよね。でも、それは本当の「無」ではないように思います。そして疑問は、本当の「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 このような返事がありました。 このとき自分には何故、机やリンゴという前提を出されなければならないんかという違和感があったのですが結局、最後の 『「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 という一文が自分の最終的な疑問の前に立ちはだかっているわけです。 物理とか天文学には興味はあれど畑違いの人間です。実際のところ今現在、宇宙発生の前に本来的な意味での「無」ということがあったのかどうかについて、どのあたりまで研究が進んでいるんでしょうか。 噛み砕いた御説明をいただけましたら有り難いです。 無の悟りとは単純明快である。 前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。 無であると分からないことが有である ブータン帰りのある人が言ってました。 無であると分からないことが有なんだよねって。 さてどこが間違いなのでしょう。 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 無の悟りはたやすい。 何年か前にすでに説明している事だが、憶えている人は少ないだろうから、猿に理解できるかどうか改めて問うよ。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰とは我が心そのものだと言う確信であった。 目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもは、噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達の信仰に真実は無く、無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者の痴漢行為に対しては、「それは自らの心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた無である。 そしてどっち道無だから一切が無と言う事にしましょうや。 信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけだが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、無の哲学の真骨頂だ。 今回はこれを論理を鍛える題材として提示するよ。 とっくの昔に一人でもっと先に進んでいるんだけどそれはまた今度だ。 信仰を排除したありがたみの無い言い回しで説明したので判りにくい部分があるかもしれない。 特別サービスでもっと説明してくれと言うなら、頭の下げ方次第では説明してやるよ。 それから西洋の哲学が何故優れているかと言うと、信仰に目覚め自らである事を自覚した考えであるからだ。 日本人が哲学で免許皆伝するには、仏教を思考の土台に据えて西洋とは別であっても比類するだけの哲学を鍛える事だ。 そこまでしないと信仰が生きているとは言えないよ~ん。 無の世界についての問答 問う人: 人は死んだらどーなる。 「人の道」:人は死んだら消滅し無になる。 問う人: 無の世界に光は有るのか。 「人の道」: 無の世界に光は無い。なぜなら無の世界にはそもそも目ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に音は有るのか。 「人の道」: 無の世界に音は無い。なぜなら無の世界にはそもそも耳ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に匂いや香りは有るのか。 「人の道」: 無の世界に匂いや香りは無い。なぜなら無の世界にはそもそも鼻ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に味は有るのか。 「人の道」: 無の世界に味は無い。なぜなら無の世界にはそもそも口ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に風は有るのか。 「人の道」: 無の世界に風は無い。なぜなら無の世界にはそもそも肌ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に熱い寒いは有るのか。 「人の道」: 無の世界に熱い寒いは無い。なぜなら無の世界にはそもそも神経ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に喜びや悲しみは有るのか。 「人の道」: 無の世界に喜びや悲しみは無い。なぜなら無の世界にはそもそも心ってゆーものが無いからである。 問う人: では無の世界には何が有る。 「人の道」: 無の世界には何もない。なぜなら無の世界はただの無の世界だからである。どーじゃ、これで無が何かよー分かったろう。 問う人: はい、よー分かりました。 「人の道」: 人が死んだらどーなるかも分かったか。 問う人: はい、よー分かりました。人は死んだら消滅し無になる。 「人の道」: 何か不満はあるか。 問う人: いや、何も不満はありません。人は死んだら消滅し無になる。これで上等である。 「人の道」: 皆にも訊いてみー。 「問う人」: 人は死んだら消滅し無になるゆーこと、皆も分かったか? 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。 死が怖いです 人はいずれ死にます。それはどうしようもない事だと思います。 ですが、その事を考えると異常に怖くなります。 僕は特に宗教などは信じていませんので、 人は死んだら無になると思っています。 ていう事はこの無が永遠に続くわけですよね。 永遠にもう意識が手に入らないわけです。 それを考えると恐ろしくてたまりません。 なのでなるべく死については怖いので考えないようにしてるのですが、 時々ふと考えてしまうと異様な恐怖に襲われます。 どうしたらこの恐怖がなくなるでしょうか。 ちなみに21歳の男です。幼稚な質問でしたら申し訳ありません。 無と有 1.人は生きている間は有であり、死んだ後は無になる。 2.人は生きている間は有であり、死んだ後も有である。 3.人は生きている間は無であり、死んだ後に有になる。 4.人は生きている間は無であり、死んだ後も無である。 常人(ふつうの人)の考えは1であると見なして間違いない。 イスラムの教えは3である。ヒンズーもイスラムと変わらんので3である。 彼らはこの世は仮の世界であり、真の世界は死んだ後にやって来るとゆーております、だからジハード。 では仏教(仏の教え)は何と説いておるのか。 一つはっきりさせよーではないか。 無を願う心とは 「今我々が見ている世界は、仮説であって実態ではない。 今我々が生きていることさえ、仮説であって実態ではない。 今我々が見ている世界は、実態ではなく無である。 いや無ではなく空であるかもしれん。」 無を願う心とはおよそこのよーなものである。 しかしそんな彼らとて腹が減れば飯を食わん訳にはいかんのである。 そこで今食っておる飯は無なのか有なのかと考えたりはしないのである。 その時に限っては無を願う心は止まっているである。 彼ら自身それが現実でないことは十分知っているのである。 だから彼らは願っているのであり、そのよーに願う以外他に術を知らないのである。 あらゆるものが無であってほしいと願うのである。 洋の東西を問わずおよそ漬かると必ずこのよーに考えることが分かっているのである。 人の道を逆に向かって歩いているのである。 無を願う心のさきに何が有る。 佛教の「無」と無神論者の「無」は違うのでしょうか? 佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、 私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。 その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。 「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、 「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、 私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、 そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている 「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という 世界だと思うのですが?」 説明が悪く申し訳ありません? 1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか? (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います) 2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか? 葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう か? 人に恐怖心を与えてしまって嫌われてしまう? 私は昔から人間関係で悩むことが多いです。あるサイトでいじめっこの心理という記事を見ました。 そしてこれがいじめっこの恐怖心を説明したものです。 いじめっこがいじめられっこに深層心理で得体の知れない恐怖を抱く→恐怖を見極めるためにちょっかいをかける→いじめられっこがおびえる→いじめっこはいじめられっこが自分より弱いと解って安心するが、ちょっかいを出してしまったため反撃されるのが怖くなる→いじめられっこが何もしてこないからさらに怖くなる→いじめっこが安心するためにまたちょっかいをかける→以下繰り返し これを見て、自分も似たような現象が起こっていて、陰口、嫌味を言われたり、意地悪されたり、一方的に嫌われてしまうことが多いのかもと思いました。(それだけが全てではないでしょうが) 大人の世界や社会でも似たような現象は起こっていると思います。 そこで人に無意識に恐怖心をなるべく抱かせないようにするにはどのように改善したらいいのか、色々な方法を教えてもらいたいです。そのサイトには表情豊かにすることが一つ挙げられていました。 心理に詳しい方や同じような経験をした方お願いします。 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など
お礼
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