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「無」だったのか?

昔から疑問だったのですが 『混沌でないかどうかよりも、最初「無」だったというのがホントなら何だって「無」のままにしとかなかったんか、ということのほうがフシギ…。』 哲学カテの質疑において私が、このように述べましたところ >『「無」のままにしておくっていうことは「無」が「有る」っていうことですから、それは「有る」ということに他なりません。要するに「有らへん」ということは「有りえない」のです。』 >『ここで言っている「有る、無い」は、机の上にリンゴが「有る、無い」と同じ意味の「有る、無い」じゃないですか?確かに、さっきまで机の上にあったリンゴを食べてしまえば「そのリンゴが無いという状態」が「有り続け」ていますね。でも、その場合は机は有ることが前提だし、譬え机がなかったとしても時空間はあることが前提ですよね。でも、それは本当の「無」ではないように思います。そして疑問は、本当の「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 このような返事がありました。 このとき自分には何故、机やリンゴという前提を出されなければならないんかという違和感があったのですが結局、最後の 『「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 という一文が自分の最終的な疑問の前に立ちはだかっているわけです。 物理とか天文学には興味はあれど畑違いの人間です。実際のところ今現在、宇宙発生の前に本来的な意味での「無」ということがあったのかどうかについて、どのあたりまで研究が進んでいるんでしょうか。 噛み砕いた御説明をいただけましたら有り難いです。

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  • ベストアンサー
  • sekisei
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回答No.3

こんにちは。 物理学や宇宙論で言われている宇宙誕生前の無は実は物理法則は存在しているというものです。 (最初の参考URLの(2)で量子的揺らぎは・・の箇所) そのため本来的な全く何もない無とは違っています。 (もう一件参考URL http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity107.html ) どのあたりまで研究が進んでいるかについては 宇宙論は無を扱うものも含め現状いくつか仮説があるようですがまだどれも確実視されるような説はありません。 (正しさを確認するための実験には概ね非常に高いエネルギーを要求されるためです) 蛇足をして申し訳ありません、goosuka003様がこの質問の前半で言われた内容と近い内容が宇宙論でもあるように思えます。 物理学・宇宙論で無を扱うにはその無に少なくとも物理法則だけは存在しないといけません。 物理法則もない無はすでに物理学の範疇ではなくなってしまうためです。 (逆に言うと物理の範疇では完全な無は存在しないと言えるかもしれません。)

参考URL:
http://members.jcom.home.ne.jp/ht_matsuzaki/Singularity.htm
goosuka003
質問者

お礼

科学の世界では「始まりの問いを避けてきた」とか。これは釈迦が「無記」ということを示したことを思い出させます。 しかし、これが分からんことには…!!んー歯がゆい!! ヴァガバーンと梵天、そして「一粒の麦もし死なずば」というコトバも一緒に連想してしまいました。 しかし我々日常の卑近な例では、これすべて始めがあって終わりがある世界ですから、この法則が宇宙生成に当たっては全く通用しないものなのかなあという気もします… 御投稿、感謝申し上げます。

goosuka003
質問者

補足

御回答ありがとうございます。 何はともあれ参考URLを一所懸命、読んでみましたが…はあ~@@;(タメ息) でも、良いサイトを御紹介いただきました! 私なぞは子どもの時分から「最初は無だった」というのが通り相場のように聞かされていましたので当たり前のように絶対的な「無」を想定していました。それで「無から有は生じない」というコトバも聞かされますたびに苦悩していたんですが…。 URL文中『無の世界にも物理法則が、あらかじめ存在している』という仮定、これはやはりナンセンスだ!と言いたい感があります。違和感は感じますが、まだ『超空間』でも何でも言い換えてもらったほうがいいです。 ニュートン/ホイヘンス(ロン毛のハードロッカーとニューロマ風肖像画!)の光の性質に関する議論を読みましたが私はこれ、目次を見た時点で粒と波両方の性質を持つと直感的に思いましたが、偉い学者が営々と実験を繰り返してきた歴史が私なんぞにも人類の普遍的記憶として内包されているのかと思いました。 やはり、ここでも我々の周囲を取り巻く形而下の現象を敷衍して確認不能な遠大な現象までも推察しているんですね。 自分は、この世界の究極はミクロからマクロまで球形をとっているだろうと想像していたんですが「ひも理論」というのがあるんですね。 球が動いて(振動して)線(ひも)にならないのかな…?? なんか卵子と精子を連想してしまいましたが、そういえば細長い形状のものは「神の依り代」だとか「霊が取り付くよすが」だとか聞いたことあります。オカルト? 『この質問の前半で言われた内容と近い内容が宇宙論でもあるように思えます。 物理学・宇宙論で無を扱うにはその無に少なくとも物理法則だけは存在しないといけません。 物理法則もない無はすでに物理学の範疇ではなくなってしまうためです。 (逆に言うと物理の範疇では完全な無は存在しないと言えるかもしれません。)』 仰ること分かりました。 詰まりは質疑の相手方は物理科学のスタンスで話をし、私こそがカテにふさわしく真っ当な哲学の話をしていた、ということになりますか!てっきりコトバを弄んでいるかと思ったのですが実際的にも現時点の限界なわけですね。コトバの限界と物理現象確認の限界ってリンクしてるのだろうか…

その他の回答 (5)

回答No.6

ニュートンという雑誌に書かれていたのですが、無を作り出す真空の装置を作り作動させ、そのままおいておくと、何もないはずなのに原子が誕生し、消えて、また誕生し、消えて、という繰り返しの反応が発生するそうです。ビックバンもこの論理で発生したと雑誌に説明されていました。 何もないのに何かが出てくるなんて不気味ですね・・・。 しかし人間が考えている「無」なんて、所詮人間の考えた「無」ですから・・・。人間の考えている「有」なんて、所詮人間の考えた「有」なんですよ・・・。

goosuka003
質問者

お礼

返事が遅くなりまして、たいへん失礼しました。 御回答ありがとうございます。 >何もないはずなのに原子が誕生し、消えて、また誕生し、消えて、という繰り返しの反応が発生するそうです。 ああ、それ。私も何かで読みましたわ。 「ゲッあんた、どっから湧いてきたの??」ってカビか虫みたいですが。ホント不気味ですねえ! するとヒトが「無」って呼んでる前提自体に問題があるということになりましょうか。 『人間が考えてる「無」か「有」なんて所詮、人間が考えた「無」であり「有」である。』 哲学カテゴリでカンカンガクガク飽きもせず、やってるアレですね。いまんとこ形而上でしか捉えられないですからねえ。。 御回答者様の今年がハッピーな一年でありますよう祈念しております。

  • Tigers29
  • ベストアンサー率6% (6/88)
回答No.5

難しい問題ですね。無か有か? けど切り口を変えれば以外と簡単かもしれないですよ。 科学者はこの宇宙を無の状態から有の状態(現在)を創りたかった。そのためには「無」では何も創りだすことはできない。 そこで、「無」だけど物理法則だけは存在するとか・・・ つまり、科学者のエゴから生まれた幻(仮説)にしか過ぎません。 では実際の宇宙はどうなのか? おそらく膨張宇宙論(仮説)を突き詰めるとビックバンにたどりつくため、始まりも終わりもなかったとするのが一番いいかもしれませんね。 真実は神のみぞ知る!

goosuka003
質問者

お礼

なにしろ考え込んでしまって(私ごときが考え込んでもしょうがないんですが)返事が遅くなり、たいへん失礼致しました。御回答ありがとうございます。 膨張するからには外側があるんだろ!ってなとこで引っかかってる単純門外漢なもんで。 そうですねえ仮説と実際…その乖離… 心理学のカテゴリなど見ておりましてもヒトの心理を、ある状況から推察して、いかにうまくツジツマが合うよう穿った見解をしてみせても所詮それは取り付くための島であって決して、その心理の全体ではないんですよね。素人さんでも「島」を探し出すのに長けた人って見かけますが専門の研究者は「その島が全体像」ではない、ということを神経質なくらいに自戒しているのだろうと見受けられます。 むしろ「ツジツマが合う」というのは意外な危険性を孕んでいる恐れもあるかしれません。 ま、穿った見方はシロートの楽しみ、ってとこでしょうか。部分から全体を推察するってのは私自身よくやってしまいます。 最近どこぞで拾ったコトバです。 『真理とは結局最もよく機能することが分かった仮説に過ぎない』~金枝篇 御回答者様にとって今年も良き一年でありますように。。。

  • sekisei
  • ベストアンサー率38% (94/246)
回答No.4

こんばんは、再びお邪魔します。 >URL中の・・・言い換えてもらったほうがいいです。 同感です。私も”実は物理法則だけはあって・・・”という説明を見たとき”無じゃないじゃん”と思ってしまいました。 紹介したURLの内容は実は過去にNHKで放映された「アインシュタインロマン」という作品を文章にしたもののようです。 ビデオが見られる場合はそれを見られるとかなり面白いと思います。 (レンタルビデオ屋には置かれなさそうなのでかなり難しいと思いますが・・・) >自分は、この世界の究極はミクロ・・にならないのかな…?? ひも理論以前は物質の究極は点(大きさのない)として考えられていました。 素人目に見ると点をひも(今度は太さがない)にしただけのような感じに思えますがこれでいろいろうまく素粒子の種類とか説明が付きそうだとのことです。 >ニュートン/ホイヘンス(ロン毛のハードロッカーとニューロマ風肖像画!)・・推察しているんですね。 ニューロマ?と思って思わず調べてしまいました^^;。 光の粒子と波の性質のあたりですが、量子論でそのあたりが扱われていますがこちらもかなり哲学的に面白いのではと思います。 実在は実在するかといった内容です。個人的に非常に面白いと思っています。 >仰ること分かりました。・・リンクしてるのだろうか… 今現在出てる仮説では完全な無は出てないみたいです。 なにせ宇宙誕生前と問われても時間自身が宇宙と一緒に誕生したためそれ以前の”以前”が存在しな状態です。 個人的な(また蛇足です^^;)無のイメージは”全てのものが均一な状態になっていることと”ではと考えたりしてみました。 例えば人間がモノを見るには色や明るさの差がないとモノを見られない。過激な例えを入れると時間も過去も未来も完全に混ざっている。 なにも知覚でき無い状態は無と一緒では・・。 これだと無から有も生じるのでは・・。均一だったものに偏りが出る。 ごめんなさい。後半は本当に私の勝手な考えですので無視してもらって構いません。 あまり満足行く回答にはなっておらずすいません。

goosuka003
質問者

お礼

>ニューロマ?と思って思わず調べてしまいました 何かの素粒子名とでも思われましたでしょうか?(笑) >”実は物理法則だけはあって・・・” これ、しかし他のサイトでは普通に「無」を出発点として説明してるところも、けっこうありましたよ。イイカゲンなのかサイト主催者も理解できてないのか。 (大きさのない)点、(太さがない)ひも。 これもまた、なかなか想像し難いものですね。物としてイメージするからいけないんでしょうか。振動の軌跡自体を「ひも」と表現しているのでしょうか。 >無のイメージは”全てのものが均一な状態になっていること”ではと考えたりしてみました。 む、難しいイメージですね…勝手にJ・P・スーラの絵を思い出してしまいました。 >なにも知覚でき無い状態は無と一緒では・・。 実際何も知覚できない状態に置かれると普通人は発狂するらしいですが(トコトン差別化を測らずにいられないのが本性なんですね)まさか実験はできますまいね。 つまり思考停止。不立文字。なんにも言えない。 私個人の素直な気持ちでは、我々が発生した過程があるからには、その過程を発生させた過程も、またあるはずだと思えてしまいます。 >なにも知覚でき無い状態は無と一緒では・・。 これだと無から有も生じるのでは・・。均一だったものに偏りが出る。 うむむむ…後半が…深いですね(汗) 「吉凶、動より生ず」ってなとこでしょうか?ビミョーですが… まあそうすると、やっぱり「本当の意味での無」はないんだということになるのでしょうか。 哲学カテで昔の偉い人が『存在は無限』とかって仰ったそうなんですけど、まあ鋭いというか、さすがというか。大昔の人なのに~。 でも普通に「無」というものが存在しないとしたら私は息が詰まりそうです。でも「真の無」も息が詰まりそうです。 宇宙生成前の「空白」は実は我々とともに「有り続けて」いる?? 「量子論」にも興味津々なんですが、お勉強する余力に自信がありません~(悲) ホントはもっといろいろ質問したいんですけど自分の限界も考えてホドホドにしておきます… ああ、研究者になりたかった。会社なんて、つまんね~。 再度お優しい御回答をいただきまして心から感謝申し上げます。また宜しくお願いします。 この一年も御回答者様にとってステキな年でありますように。

goosuka003
質問者

補足

返事が遅くなってしまいまして失礼致しました。 いや~あれから時に自分でも検索して他のサイトを覗いてみたりしたのですが科学系、取り分け物理の素養など皆無に等しいもので読めば読むほど救いようのない気分になってしまってA^^; お礼を書き込むにも何から書いたら良いのか見当もつかない体たらく。 こんな私ですが計算能力さえ弱くなかったら本当は天文学が一番学びたかった学問なのです。 どうやら今しかるべき筋においては『トンネル効果』 とやらの仮説が取り沙汰されているようすですが私なんか、これを理解するのに四苦八苦。 他にも暗黒物質ですとか反物質ですとか事象の境界線問題ですとか引っかかる議題は後から後から出てくるんですけど。正直「脳みそバーン!!」状態からフと気づくと「無我の境地」を彷徨っていました…間もなく一企業人として俗世に戻らねばならない身の上、これ以上、頭のねじが外れて社会復帰できなくなったら困りますので一まず締めることにします。 このような問題を考えるとき、ついウパニシャッド哲学とかバガヴァーン(梵天)とか連想してしまうんですが、そういえば羽織の紐なんかについてる「梵天」あれって「丸い」と「細長い」を顕現してますよね。何故あれを「梵天」と呼び習わすのでしょうか。。 それと御幣ってありますよね。祈祷のときに用いる棒の先にビラビラをつけた物。あれって「振って」使うんですよね。 しめ縄なんかにぶら下がってるビラビラあれは雷を表してるそうなんですが。 どうも現代人が忘れ果ててしまった、この世界の秘密、古代の人は、まだ記憶してたんじゃないかという気がします。我々よりは確実に宇宙生成の時代に近かったわけですしね。 それから、このサイトのどこかで目にしたんですが小ささを表す古い単位用語に「毛」というのがあり最後に行き着いたところを「清浄」と呼ぶそうですが、このあたりもどうもバガヴァッドギーターが想起される… キリスト教で「光と闇の闘い」として、この世界を捉える考えがあるらしいのも意味深なことだと思えてなりません。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.2

現代物理学までの無についての論争は、紀元前300年の 古代ギリシャの自然哲学の考え方その発端になって います。「自然は真空(真に空の状態=無)を 嫌う」と有名な言葉があり、これは本当なんだろうか? という議論がずーとあります。 >宇宙発生の前に本来的な意味での「無」ということがあったのかどうかについて、  宇宙の発生以前に、この宇宙に無という 状態があるのか?という議論があります。  中学、高校で物質は原子(という粒)でできている と習う(習った?)と思います。粒が小さな球体だと すると、球体はどんな並べ方をしても必ず 隙間があきますから、この隙間には物質は 存在していないわけで、無の状態のはずです。 ちなみにこの考え方は17世紀の数学者 デカルトのもので、デカルトは古代ギリシャの 「自然は真空を嫌う」という言葉を信じていたので、 同じ古代ギリシャのデモクリトスのいう、万物の 根源は粒であるという考えは間違っていると 言っていたんです。球を並べて空間を満たすと いうのは、幾何学的に非常に重要な問題で、 数学的に無を議論した有名な話だったわけですが。  20世紀に入り、電子ビームを物体に 当てると言う方法で、大きな物質も、その 質量は中心のごく一部に集まっていることが わかってきました。デモクリトスの現代版、 原子核の発見です。  電子ビームの大半は、物質をとおり 抜け、たまに反射されるという現象が 観測されたんです。物質の構成単位は 原子という粒で、その質量の大半は中心の 原子核と呼ばれる部分に集まっていて、 一部が電子という粒子で、原子核のまわりに 散在しているわけです。  電子と原子核の間には、物質は存在して いないんです。つまり無。  しかし、話はここで終わりませんでした。 すいません長くなりましたので、とりあえず ここまで。  しかしその後の研究で、  

goosuka003
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 『粒が小さな球体だとすると球体はどんな並べ方をしても必ず隙間があきますから、この隙間には物質は 存在していないわけで無の状態のはずです。』 これなんですが我々が生息している、この空間において、その隙間は絶対の「無」と言えるのでしょうか?空気でさえも分解していって究極こうなる、ということなのでしょうか?? >「自然は真空を嫌う」 確かに、普通に我々を取り巻くいまの状況を顧みて言うなら、そうとしか言えないですよね。 『質量の大半は中心の原子核と呼ばれる部分に集まっていて、一部が電子という粒子で原子核のまわりに 散在しているわけです。』 これ、衛星を従えた恒星を彷彿させますね。 『電子と原子核の間には物質は存在していないんです。つまり無。』 哲学カテゴリでの過去の質問で『死後』と題するスレッドを見つけましたが、そのなかの御回答の一つに 『無とは有の対象です。無がなければ有もない』 というコトバがありました。 これが示しているのは無と有が並立しているということですね。自分は単にコトバのうえでのリクツという印象で受け止めていましたが実際この現象が出現しているわけですよね。 現実的に普通に我々が確認できている、この世界の諸法則と宇宙生成のそれは乖離しているのかどうか? 結局「ツジツマが合う、ムジュンのない仮説」を探し出し打ち立てて、それを拠りどころにするしかない。或いは、その「仮説」こそ、いまや、この現象世界のみなもと??--; それにしても古代人って頭イイですねえ。 大した実験するわけでもないでしょうに。 ヒトの疑問は、すでに大昔に置かれていて、こんにちまでずっと、そのことの追究解明に切磋琢磨してきたに過ぎないということなのでしょうか。 だから最古の疑問は常に新しい… 『しかし、話はここで終わりませんでした。』 『しかしその後の研究で、』 も、ものすごく気になります…

  • N64
  • ベストアンサー率25% (160/622)
回答No.1

「無」を「存在しないもの」あるいは「ありえないもの」とすると、「無が存在する」、というのは、「存在しないものが存在する」、となって矛盾します。でも「無」という概念を議論することはできますから、「無という概念は存在する」と言っても、矛盾しません。私たちは「無」について考えることはできます。

goosuka003
質問者

お礼

そりゃそうですね。 それで、ここは、せっかく天文学のカテゴリですから質問文にあります「本来的な無」については、どうなんでしょう?概念を議論するなら哲カテで足りますので。 早速の御回答ありがとうございました。

goosuka003
質問者

補足

>私たちは「無」について考えることはできます。 詰まるところ或る意味これが現実、正解ですね(苦笑)思い知らされました。 トップ御回答をいただき改めて、お礼申し上げます。 すばらしい一年を過ごされますように。。。@06/1/8

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