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『無』への認識は如何して可能になるの?
『有』の存在が失われる事態への認識が具体的に想像され得るのに対しまして、元から認識客体が存在していない場合には、失われる対象の具体化が封じられていている訳ですので、誕生する前の認識客体の起源は認識され得ない筈なのにも関わらず、例えば宇宙の膨張の可能性が判明した途端に、始まりの『存在』が有り得る、と安易に判断なさって、今の科学者の方々が研究を進められていらっしゃるのだ、と思われますが、存在の前の『無』を如何して認識しているのでしょうか?
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No2の者です。参考になれて幸いです。 「公理への認識からの解脱は、不可能なのでしょうか?」 とのことですが、もちろん、語学や考古学などは過去の人間の産物を相手にしておりますので公理は存在しないですが、数学の場合、「ある公理を持った体系があるとき、その体系はどのような性質をもつか」ということを研究対象としているので、そもそも公理が無ければ数学とはいえなくなってしまいます。物理も、数学における公理(例えばペアノの公理、平行線の公理)などを、現実世界で基本となっている規則(例えばニュートンの運動の法則)などを公理とみなして置き換えた体系、と考えることができ、したがって物理も公理に依存している体系といえるのではないでしょうか。そもそも一般に「理」を探求するということは規則性を見つけることですので、「規則性が存在する」ということが前提になっています。しかしながら、規則性が存在するためには基準となる物が必要です。これが公理に当たります。 従って、繰り返しになりますが、「理」(規則性)を探求する学問は公理がないとそもそも規則性を求めることができなくなってしまいますので、そのような学問に公理がないと矛盾するのです。 もちろん、先ほどの語学や考古学などのように「理」を求めていない学問なら公理も必要ありません。従って、貴殿のおっしゃる公理への認識からの解脱はもちろん可能だと思います。 小生のつまらぬ意見ですが参考になれば幸いです。
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- KusunokiYuu
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『無』は認識され得ないものの、蓋し直観的には『空』の概念の存在は認識され得る筈ですよ。 視覚依存の西洋近代科学は、『空』の概念へと導いてくれないのでしょうが、他の感覚への解脱が叶うならば、其の場合には、状況が変わっていたのでしょう。
- 雪中庵(@psytex)
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ひとつ明確にしておかねばならない事は、東洋思想に おける空は、東洋思想でしか定義できない、という事です。 物理においては、0と無があります。 ある次元において、起点となる点が0で、そうした次元も 含めた発生の以前が無です。 そもそも、逆に東洋思想においては0の発見が遅く、 無が0を代行していたと言えます(1の否定と全否定の混同)。 無が0として使っていた経緯があり、そうした次元そのものを 否定するものが必要となって、空ができたのではないでしょうか? (「色即是空」など、まさにそうした本質を表しているようです)
お礼
有り難う御座います。 『無』が虚空への広がりを持っている、という視点が私から抜け落ちておりましたので、盲点が見付かり、非常に助かりました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
もし「無」を認識できたら、そこには「認識」する何者か が介在する訳だから、真の無ではありません。 逆に言えば、「無を想像できない」ことの中に“ある形式” で無はあり得るのです。 その「ある形式」とは、“突き詰めれば無に還元される” =絶対確定化により無限不確定化(=無)する不確定性 原理に基づく物理による世界です。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に つめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は 光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的 (仮想的)に生じるもので、根源的に絶対化しようとすると、 元の無限不確定性 に発散します。 実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対 によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 絶対的時空や客観的存在というのはない、というものです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」 ので、「存在するのは現在」と考えますが、空間の遅延作用に おいて、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用 (光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来 =光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補と しての「時空仮説性」。 その「自我仮説の相補たる時空仮説」への無の射影として、 絶対化に於いて無限不確定性に発散する相補的不確定性に 基づく量子性=光が生じ、それを原理的に確定せず、階層現象 性を表面的に捉える事によって、存在的有限性が可能になって いるのです(ミンコフスキー空間における相殺点がライトコーン)。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補と して生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という補完 として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。(最初に戻る)
お礼
大変有り難う御座いました。 此の様に哲学的な回答が欲しかったので、直ぐに締め切らずに御待ちしていて良かったです。 折角の貴重な機会に恵まれましたので、此処で終わりにするのは非常に勿体無く思われますから、御忙しい中へ御邪魔を致しますが、追加の質問への御付き合いを頂けませんでしょうか? それは次の様な内容です。 『無と東洋哲学的な「空」との違いは一体何なのでしょうか?』、というものです。 「混沌」の話に言及されている、という印象を受けましたので、素晴らしい御教授を賜れるのではないか、と思われましたから、何卒御願い申し上げます。
- tagussann
- ベストアンサー率37% (3/8)
例えば、数学の虚数や無限と同じです。実際に私たちの世界には存在しないものですが、厳密に定義することによって、様々な演算を行うことが出来、結果それを現実世界の現象を論じる時にも反映させています。虚数や無限を実際に見たことがある人はこの世には誰ひとりといません。ですが、それらは理論上で最先端の科学を支えています。 貴殿が言う「無」というのも誰ひとりとして認識することは出来ないものです。しかし、理論上ならいくらでも定義することが出来ます。その定義の上で科学者は研究を進めているのだと思います。そもそも、物理学や数学の世界は「公理」というあくまで仮定でしかないものを元に話を進めていくものですから、認識出来る、出来ないのレベルはとっくに過ぎているのです。
お礼
分かりやすい回答を下さりまして、誠に有り難う御座います。 私自身の未熟さの故に、未だ解消され難い部分が御座いますので、御教授を賜れますと、有り難いものですから、次の質問をさせて下さい。 『公理への認識からの解脱は、不可能なのでしょうか?』
- ppyiam
- ベストアンサー率48% (24/50)
無を認識している科学者はいません。 ただ、今現在私たちは「有」を認識できているので、その反対の状態の概念である「無」を想像することができ、ビッグバンの誕生前はそのような状態であったと推測される理論があるということです。 、
お礼
御回答を賜り、誠に有り難う御座います。 御礼の欄へ記載させて頂く言葉が纏まりませんでしたので、入力が遅延しました。 『そもそも存在とは出来事なのでしょうか?』 若し『無』が単純に"Nothing"の訳語に過ぎないのでしたら、存在を出来事と見做せないのでしょうが、私には『無』さえもが出来事に属しているのではあるまいか、と思われます。 でも西洋近代科学の見地によると、『無』が『有(認識客体)』の単純な比較対象に貶められているのではないでしょうか? そこで私は其の問題の糾弾の糸口を探るべく、此の投稿を試みました。
お礼
有り難う御座います。非常によく分かりました。 因みに折角の御縁ですから、御忙しい中へ畏れ入りますが、 もう一つの質問をさせて頂きたいものですから、 若し支障が御座いませんでしたら、御教授を頂けませんでしょうか? その疑問は次の様な内容です。 『「真空」の中では素粒子が出来たり、消えたりしている訳ですが、 その状態は、東洋思想の「空」と同じなのでしょうか?』 私見でも構いませんから、宜しく御願い申し上げます。