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自分の価値を問うことのバカらしさ
私にとって私という代替の効かないものの価値を問うことは、宇宙の価値を問うのと同じではないでしょうか。価値がある、ない、と言ってみても意味がないと思うのです。 また、価値を問うのは意味を問うのと等価のようです。自分の価値は生きる意味に通じているようです。しかし、意味がある、ないといっても仕方が無いと思います。 うまく説明できないのですが、なにか全くとんちんかんな問いであるように感じます。まるで分度器で温度を測るような具合です。宇宙の、自分の、命の、人生の・・・価値観という尺度で計るのはとんでもない間違いじゃないでしょうか。
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単純に価値があると思う人には価値がある、価値がないと思う人には価値がないということなんだと思います。 あなたさまが同意をもとめているのなら私の知った話ではありません。
問うことのバカらしさ というのはあります。 絶妙で抜群の回答をいただきながらポイントをつけるのを忘れた バカものより
お礼
お、ポイントゲットですね。 この場を借りてありがとうございました。
- tabibito34
- ベストアンサー率29% (31/105)
例えば、自分の尺度で物事を考えて行動して、困難にぶつかったときに、別の尺度を考えたり、認めたりするのではないでしょうか。あたまではなく実体験として。 バカらしくても問いたければ、自ずから問うでしょうし、問わなくなるときもあるでしょう。 経験として、自分の価値を問うこと自体、意味がないという結論が出たとします。この学習は、先ず自分の価値を問うことから始まると思います。 価値を問うか問わないかは大きな問題ではないように思います。それよりも、自分の価値を問うことで、何かを学び、よく生きていく方法を見つけ、それを実践することに時間とエネルギーを使う方がいいなあと思います。
お礼
きっとそうなんですね。 自分の価値を問うことの先に行ければいいんですが、”価値が無い”という人に限っていつまでもそこにとどまってしまうようです。 ご回答ありがとうございました。
人間は人間として生まれた以上、食べて飲んで、浮いた浮いたで暮らすより自分の存在意義について問い、悩むのは当然だと思います。何事によらず悩まずにいられる人間はいないでしょう。それなら四の五の言わず徹底的に悩めばいいじゃないですか。犬や猫は人生とは何ぞやなんて考えません。しかし古今東西、宗教家から哲学者に至るまでその答えを見いだした人はいないと思います。ご存知かも知れませんが昔、一高生(今の東京大学)で16才で日光華厳の滝に投身自殺した藤村操という人が自殺直前に木の幹に彫った自殺の名文と言われているものがあります。考え方の参考になるのではないでしょうか? 巌頭の感 悠々たるかな天( )、遼遼たる哉古今 五尺の小驅を以てこの大をはからむとす ホレーショの哲学ついに何等のオーソリティーを価するものぞ 万有の真相は唯一言にして悉す、曰く『不可解』 我この恨を懐て煩悶、終に死を決するにいたる 既に巌頭に立つに及んで、胸中に何等の不安あるなし 初めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを ( )の部分は当用漢字にないようでで変換出来ませんでした。譲のゴン ベンが取れた字です。
お礼
悩むのは好きなほうなのであまり苦はないのですが、 答えのない問いというのは果たしてどういうことなのだろうかと自問する日々であります。 藤村操さんは知りませんでしたが、自殺してしまっては悩むこともできませんね。 ご回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>もし、自分自身の価値を問うことに意味が無いということが事実ならば、そのことを十分理解するならば、私たちは二度とそれを問うことは無いんじゃないでしょうか。つまりその問いから自由になれると思いました。 :価値を問うことに意味が無いと本当に理解することは多分できないだろうと思います。 あたかもアスファルトの隙間からでも芽を出す雑草の例を挙げるまでもなく、我々は生まれるべくして生まれ生きるべくして生きているという事実は覆しようがないからです。 如何に卑下し如何に自己否定していても、自らの本能的生命力は必ずそれを保存しようとするベクトルとを属性として持つでしょうし、そこに意味がないという判断はしないように思います。 つまり、存在していること自体に意味があるのだと。 疑念が生じるのは生命力が弱っているからに他ならず、ここにいわゆる死の本能(タナトス)による安定(=死)願望が勢力を盛り返すのでしょう。 なぜ生命力が弱るのかといえば様々な状況があるでしょうが、基本的には(生の本能からすれば)不合理な思い込みによるものだと思われます。 この際、視点の転換によって、生の本能と死の本能のバランスを再調節することが可能な場合は案外多いように思っています。
お礼
存在していることがすなわち意味、価値がある証拠であるということですね。 わたしも意味が無いとは言いません。その視点で見ることも可能であることはわかります。 ただ、命、宇宙、自分というものは意味や価値という次元で語るべき対象ではない、と思うのです。 ご回答ありがとうございました。
言わんとすることはわかる気がします。 何故そうなっていったのかも。 それをあえて問う必要のない人もいますし 発現の内容から貴方もどちらかというと、その気になればその部類に入る処に物理的にいるのではとは思いますが それを問わなければならない人が多くなった世になったと言えると思います。
お礼
なぜ問わなければならないのかが問題ですね。 ご回答ありがとうございました。
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
「人間は誰でもはじめは自分のまわりの具体的なモノやヒトを愛する。しかしそのうち観念の中に抽象的な対象を作りあげてこれを愛するようになる。自由、芸術、民衆、国家、人類、神といったもの。人間が自分の絶対性をつかむ為に「無限なモノ」と自己とを一体化しようとする虚しい試みである。この「無限なモノ」への落ち込みによって、ひとは自己をますます抽象的なものとし、具体的な生活や人間関係を貧しくするのである。『死に至る病』Byキルケゴール 実存主義の創始者で、今からすると哲学史の片隅のヒトかもしれませんが、あなたにピッタリだと思ってw 自由意思で生きようとする実存主義か、 迷ってもしょうもないから煩悩を捨て去る仏教に突っ走るか。 自分を知るために人は考える。それが哲学をするということです。いつしか人は価値観で決めつけた理想を捨てるんですよね、リアルにそれが無いと悟ったのか老いたのか。考えることに終わりなく。迷うことは考えること。諦めてもいいでしょう、ただ、哲学を捨てるって考えると、恐ろしいネ
お礼
私という存在こそが謎の中心かもしれませんね。 生きてる限り何かしら問い続けるのでしょう。 ご回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
温度が真理による必然的未来で、それを偶然的未来を生じさせる意志という分度器で測ろうとするのは無意味(あるいは不可能)ということでしょうか。 価値が無いからどうするこうするという決定的な行動に至るわけでもないし、何をどう考えたってなるようにしかならないのだからそう焦りなさんなという達観した(あるいは、所詮あれこれ考えるだけ無駄という厭世的)お考えのように拝見しました。(違ってたらすみません) 価値観はアイデンティテイでしょうが、たしかに物理的生においては無くても済むものかもしれません。 しかし、人間はそれだけでは満足できないようにどうもなっているようで、それが人間の人間たる所以だと思います。 おっしゃるように生きる意味にも通じることがらでしょう。 いずれにせよ結果として【只】生きているだけなのだから、そんなこと考えてどうしようというのか、あるいはどうなるのか、というご質問は同感する部分も多々あります。 しかし、たとえがおかしいかもしれませんが、新幹線の車内で進行方向と逆に走る競技会が催されていて、そこで一等になった人が「俺が一番速い!」と言っているのを、走る列車の外から眺めていた人が「一番速いと喜んでいるが彼は一番遅いんだよね実は。彼は(あるいは彼らは)間違っている。」とおっしゃっているような印象を受けました。 つまり、立脚する位置というか視点の問題ではないかという気がします。 どちらも間違っているとは言えないわけですが(あるいは言ってもそれこそ意味がないわけですが)、人生を俯瞰して見たくなる時もあり、人生に埋没したい時期もあるということに過ぎないような気もします。
お礼
そんなに難しい理屈は無いんですが、達観でもないつもりです。 もし、自分自身の価値を問うことに意味が無いということが事実ならば、そのことを十分理解するならば、私たちは二度とそれを問うことは無いんじゃないでしょうか。つまりその問いから自由になれると思いました。 メンタルヘルスや心理のカテではこの種の質問のオンパレードです。 一時的な心理によるものではなく事実としてそれを理解するなら、私は迷うことなく生きられる、と一人で崇高な考えをめぐらしている次第であります。 ご回答ありがとうございました。
そうだと思いますね、意味は無いでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- chaa-ta
- ベストアンサー率39% (25/64)
ただの一般人ですが、回答させていただきます^^ こういった内容が質問でも、全然いいと思いますよ。 shift-2007さんの中で答えを出すための質問なのでしょうから…。 まず、「価値」について私なりに整理してみました。 私は「価値がある=比較的優れている、手に入れにくい」ということだと思いました。 価値を測れるとすれば、標準よりも優れているということ。 ですがその「優れている」という部分は人や国、時代によってきっと異なるであろうと思います。 なので価値があると言われるものは、測れるものでありそれが事実、限界ということなのではないでしょうか。 例えば物に対して値段がつけられていること(欲しがる人に合わせたり材料費に合わせたり)、仕事に対して報酬があること、「世界で一番高価な」「世界一足が速い」「今まで誰もしたことがない」「世界にあとOO個しかない」「何人が感動した」など。。 それは、そういうこと(が起こっているという)事実に過ぎません。 何にせよ、数的に言って価値は判断されていると言えます。 そこから先の価値の判断、価値に対する個人的な思想は自由です。 「私という人間の価値」については、物に置き換えたとしても同じではないでしょうか。 存在するものに対しては人の数だけ思想があり、それは価値ではないのではと思います。 例えば私は数百万円の「価値のある」指輪より、恋人の手作りの指輪の方がよっぽど自分にとって価値があるとは思いますが、それは「価値」ではなく実際のところ「大切だという気持ち」だと思っています。 価値や値打ちがあるという事実に対して何を思うかは人それぞれであり、その先は測るものではなく感じるものであるというのが私の回答です^^
お礼
お察しの通り、自問していて物足りなくなったので、ここに書かせていただきました。 価値と大切さとは違う、なるほど確かに何か違う感じがしますね。 たとえ価値が無くても大切だと自分自身に対して思えるのであればその人は幸せかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
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お礼
そうでしょうね。 価値がある、ない、価値を問わない、その他・・・どの視点からでも見ることができる。 その自由が人間には与えられているのでしょう。 ご回答ありがとうございました。