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過去とは形あるもの

先の「未来は創れない」という質問でみなさんの良質な回答を多数寄せていただきました。 どれも頷かされるものばかりでした。 けれどもそこで私が感じたことはなにか? 強い劣等感と言ってもいいでしょう・・・ また私が思っている過去というのはもっと次元の低いもののような気がしました。 私が「未来は過去によって規定される」ということの意味は、 過去というものは、その人物の「蓄積」という意味です。 みなさんから文学的、物理的視点から様々なお答えを下さいましたが、 それはみなさんの過去の(知識の)集積です。 これは或いは仕事上のキャリア(スキル)と言い換えてもいいし。 蓄財ということも出来ます。 つまり未来には資本が不可欠だと言うことです。 そしてわたしにはそのよな「未来への元手」と言うものがありません。 私の過去は空白です。 未来を作るには先ず未来の基盤となる過去=蓄財をしていかなければならない。 しかしそれにはもう私には限られた時間しかないと思うのです。 未来はそのように観念ではなく「経験」や「財産」「資格」「預金残高」 「学歴」「容姿」「知識」・・・などの有形のもので、 それを一から積み上げていくには絶対的な若さ=時間が不可欠だと思うのです。 質問を拝見して私は皆さんとの間に大きな隔たりを実感しました。 そして思ったのです。 今の燃料ではそう遠くまでは行けないと・・・ 質問の体を為していませんが なにかご意見があれば書き込んでください。 ・・・先の続編のような質問で、これはカテとしては「心理学」には当て嵌まらない質問かもしれませんが、引き続きこのカテで質問を立てさせていただきます。

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  • hakobulu
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回答No.24

#23です。 >>嫌われるという形態が実は愛することだとしか思えなくなってしまう :漠然としすぎていますよね。うやむやにせず問い返していただき大変嬉しく思います。 loser_blueさんとは直接関係無いかもしれませんが、良くある親子の関係例です。 例えば虐待の経験を持つ子が親になった場合、自分の子に対して虐待を繰り返すというパターンが割合多いらしいです。 これを、自分自身が受けた虐待という行為が(親からの)愛の形態のひとつだと思い込みたい無意識に依るものであるとするひとつの解釈です。 母親が泣きながら幼児を虐待してしまうというパターンを散見します。 親にしてみれば泣く子の姿を見て止めたいとは思うものの、こういった無意識に捉われているためになかなか自制が利かない、という構図です。 同様に、自分が(本当は)親から嫌われていたわけではないと信じたい子供(被庇護者)の無意識の願望のようなものが、「嫌うという形態=愛するということ」という錯覚(あるいは思い込み)を引き起こしてしまう。 といったような意味です。  

noname#37669
質問者

補足

>>>嫌われるという形態が実は愛することだとしか思えなくなってしまう という部分に関するご説明はよく分かりました。 愛してくれる(はずの)人(=親)から虐待を受けたということは、 親=「愛してくれる存在」としか思うことの出来ない幼児にとっては、 この行為こそが「愛する」という行為なのだという倒錯した認知ですね。 それゆえ >自分が(本当は)親から嫌われていたわけではないと信じたい子供(被庇護者)の無意識の願望のようなものが、「嫌うという形態=愛するということ」という錯覚(あるいは思い込み)を引き起こしてしまう。 と。 よく分かりました。 けれども、 この部分の前段に、 >それはさておき、「嫌われる何か」が生まれつきご自身に備わっていたわけではないでしょう。 何らかの無意識的要因によって「嫌われること」と「好かれること」の錯綜が生じていると考えるのが妥当ではないかと思われます。 と、私の異性に対する意識とこのことを関連付けてのご回答でしたが、 今回のご説明で「嫌われるという形態が実は愛することだとしか思えなくなってしまう」ということの意味は分かりましたが、 この上記部分との関連が分かりません・・・ ・・・とはいっても、これ以上は本当に際限がなくなってしまいそうですので、 あと24時間で締め切ろうと思います。 もしお暇とご気力があれば最後にお答えいただければと思いますが、 説明の責任などお感じにならずに無視されて構いません。 万が一ご回答を頂いても、その時点で締め切るつもりです。 それにしても、虐待の連鎖とよく言いますがこういう仕組みだったのですね。 考えさせられました。 お答え、どうもありがとうございました。

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  • hakobulu
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回答No.14

#6です。 >「確実な過去」というのは、実質のある過去=空白ではない過去という意味でしょうか? :そう言ってもいいと思います。 ただ、この確実性は「認めたい確実性」とは限りません。 認めたくない過去であっても過去として認識する必要があるということが要点です。 そこで初めて「過去は過去」という認識が可能にもなるわけですが、それを認めようとしないと、その過去は無意識領域に抑圧的に格納されることになります。 抑圧していれば一見すると表面には出てこないようですが、それから解放されることは決してありません。 抑圧とは停滞と同義だからです。 >このようにわたしという人間は、矛盾と分裂、葛藤のカオスを内に抱えた存在です。 :矛盾と分裂というのは生命の原動力であって、これらの調和(=保存)によってあらゆる事象が現出しているとさえ言えるように思います。 矛盾の最たるものは「死から生じておきながら再び死に向かう」とでもいったことになるでしょうか。 しかし、これらは「宇宙から見れば人間なんてゴミくずよりも小さな存在」といったような、真理ではあるが意味の無い(考えてもどうしようもない)感傷にすぎないと私は感じます。 矛盾自体が問題なのではなく、バランスの崩れに留意すべきということなのでしょう。 社会的自我が欠如しているということは、端的に言うと「自活できない」というだけのことです。 『>一般に「不適合者」と言われるのも無理のないことではないでしょうか。』 とおっしゃるとおりでしょう。 いくら素晴らしい学説を述べても毎日の食費にも事欠くような場合です。 しかし、何らかの方法で餓死することなく生きれるのであれば満たされる。 社会的自我とはそれだけのものでしかないのだから、それが無いからといって悩むには及ばないのではないか、とういうのが「取るに足らぬ」の本旨です。 それで納得できるかどうかという点に関しては人それぞれですから他者がとやかく言うことではないでしょう。 ただ、loser_blueさんが将来的に視点の転換をされる際に、本質的な問題はただこれだけ、ということを私なりに提示したつもりでもあります。 とはいえ、社会的自我の欠如も本来的な自我の脆弱性に基づいているものですから、以降は解釈が煩雑になるのを避けるため「社会的自我」という表現をなるべくしないようにします。 >またそのような社会のフィードバックの中に身を置いて、 「そうか自分は劣った人間なんだ・・・」という判断(=自己イメージの形成)は、止むを得ないのではないでしょうか・・・ :フィードバックをまともに受け入れてしまうという点が自我の脆弱性とも言えます。 止むを得ないと言われれば他者が否定することはできないわけですが、視点の転換によって止むを得ることも大いにあるはずです。 余談ですが、健全な精神は、 「自分にとってなるべく快適で、自分にとってなるべく得になって、なるべく他人に迷惑のかからないこと」 を指向するでしょう。 これが本能・自我・超自我のバランスのとれた状態の一面と言えるのではないでしょうか。 「視点の転換」という言葉を使いましたが、視点というのは個人の長い歴史の中で培われるもので、そう簡単に転換できるものではないかもしれません。 「空白の中身」あるいは「空白と呼ばざるを得ない理由」を明確に認識することによって、それを否定する作業が必要になってくるような気もするわけです。 漠然としていますが、そんなところです。  

noname#37669
質問者

お礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。 >「視点の転換」という言葉を使いましたが、視点というのは個人の長い歴史の中で培われるもので、そう簡単に転換できるものではないかもしれません。 「空白の中身」あるいは「空白と呼ばざるを得ない理由」を明確に認識することによって、それを否定する作業が必要になってくるような気もするわけです。 ここのところがいつも問題なんですよね。 ANo.12の回答にある指摘・・・ >自己愛さんをうまく説得しなければ、あなたにとって有意義な言葉は入っていきません。皆さんの回答の大切な要点をスルーして、細部に焦点をあてて話をすりかえたり、哲学的なディベートに発展させることでどんどん煙に巻いていくようにも見えます・・・ 私は皆さんの意見に耳を貸さないわけでも、回答の大切な要点をスルーしているわけでもなく、詰まるところ「理解できない」のでしょう。 例えば皆さんは過去は見方(視点)次第と仰っているのかもしれませんが、 白紙はどの角度から見たって白紙です。 (ここらへんが「細部に焦点をあてて話をすりかえ・・・」という指摘に 繋がるのかもしれませんが、私にはそういう風に(=私の過去は空白である)しか思えないし感じられないのですからどうしようもないじゃありませんか・・・) それが「白紙」であるという「視点」ということになるのでしょうけれど、実はそこに何かが記されていたという視点を獲得することは、 まるで魔法のようなものに感じられます。 結局のところ、わたしのこの「理解力の欠如」が過去の社会体験での「ドンくさい奴!」「使えないやつ!」「愚図、のろま」という評価(フィードバック)として現れていたのだと思います。 私と回答者の皆さんとのギャップがそのまま過去の私と社会との関係だったと思います。 一言で言えばレベルの違いと言うことです。 いつも徒労感を味わわれていることと思います。 ご回答感謝します。

noname#38692
noname#38692
回答No.13

ハハハ。。。何とも切ないお礼ですね。 自己診断に納得がいかない!という質問を拝見させて頂きました、全体の質問を見て私は驚きを隠せません、私は質問者様にとても似たような電波を自分に見出します。精神的フリーターのような感じ、競争概念がなく、損得、善悪の感覚も微妙。。しかし、このような生きてるだけでいっぱいいっぱいという種類の人間はいつの時代も人口の何割かを占めているものだと思います。こういう苦しみをこめて以前質問をしたこともあります。ただし私が着目しているのこの点ではなく  質問者様の苦しみを要約するなら 人生の価値にろ 他者にしろひどく透明な対象に向かっており、いつまでも満たされない そして人と対等では決してないという感じ、強い自己否定感。それでいて不合理に人に認められようする感じ。自己の空っぽさ。まさに「裸」であるという感覚。行為の方向性の虚無。批判や傷つくことへの異常な恐怖。 であるならば、認めたくないけれども、私はそっくりそのまま自分の中に同じものを見出します。というのも、私自身ずっと自分が境界例だと思ってきたからです。 さらにここですね↓ 私自身昔から「愛すること」「愛されること」=恋愛と言うことに限定されない人間としての肯定というか愛情のことです。 への欠乏感というものが常に心の奥底に横たわっていたように自覚しています。 本当にこの自己愛の運命を考えると「悲しい」としか言いようがありません。本来他者に向けられるべきものがその対象が不在なため、仕方なく戻ってきて引きこもってしまう。 充たされざる愛情でしょうか? ここの部分はホロリという程度でなく革命的なものがありました。この、何ともいえない人の子のもの寂しい悲しさといいいますか、こんな苦しみの的確な表現に私は出会ったことがありません(笑 普通の人もずっとそうなんだと昔から思ってきたのですが、そういうことでもないようで、カウンセラーによれば、この悲しさがいくつかの 堕天使的行動や防衛本能に私を駆り立てるのだそうです。(私はまったくそう思っていません、カウンセラーと議論中。) ただ私は境界例の称号?をもらうことを望みません、確かに質問者様も私にもそういう部分があるのかもわかりませんが、見ようによっては単に自我が脆弱。反抗期のなかった子供のふてくされとか、そんな風にも捉えられます。 また、境界例や自己愛など人格が入り乱れている場合もあるのではないでしょうか。よく知りませんが、人格障害ってそういうものでしょう。。。?行動が行き過ぎなければ多少ぶっこわれながらも迷惑かけなければ、、ね。 なんにせよ、この自己を持て余している感覚、根本の空白が満たされ正しい自己実現をしたいものですね。。。。←ちょっと違います?

noname#37669
質問者

お礼

お礼の字数を超過しました。 尚このお礼に書いた女性はつっけんどんにこういうことを言ってきたのではありません。 本当に何べんも何べんもお詫びを言っていました。 そして私の心に波風を立ててしまったことを本当に申し訳ないと・・・ それにしても、このような「拒絶」(?)過去にないほど打ちのめされました・・・

noname#37669
質問者

補足

毎回面白く(?)読ませて頂いています。 >質問者様の苦しみを要約するなら 人生の価値にろ 他者にしろひどく透明な対象に向かっており、いつまでも満たされない そして人と対等では決してないという感じ、強い自己否定感。それでいて不合理に人に認められようする感じ。自己の空っぽさ。まさに「裸」であるという感覚。行為の方向性の虚無。批判や傷つくことへの異常な恐怖。 その通りです。正に端的に私の存在のあり方を表現されています。 >であるならば、認めたくないけれども、私はそっくりそのまま自分の中に同じものを見出します。 わたしが引っかかったのは(気分を害したと言う意味ではなく) この「認めたくない」という言葉です。 私は町沢某などに気ままに診断されることを「認めたくない」という気持ちはありますが、自己分析で、或いはここに書き込んでくれる人からの的確な分析であれば「喜んで」認めてしまいます。 ・・・ふと感じたのは、そして肝心なことは、 「わたしと同じ」であっても、決定的な違い、 それは私とmintowallさんの年齢差です。 mintowallさんがわたしと同じ年齢(40前半)まで今のように悩んでいるとすれば大問題です。 まあそんな心配は杞憂に終わるでしょうけど。 私は13年前=30歳の時から精神科を転々としています。 そしてmintowallさんが私の問題(苦しみ)として列挙されたことは、 二十歳前後(大学時代)から延々と続いています。 それも歳を増すごとに色濃くなって・・・ 私が「過去」に拘るのも、私の人生イコール以上のような過去でしかないからです。 過去を振り返り、10年前、或いは20年前から全く同じことに悩みつづけてきた私には、10年後、20年後が今と違うと言うことは全くイメージできないのです。 「じゃあこの一連の質問&アドバイスの集積は全く無駄ってこと?」 と突っ込まれると言葉に詰まります。 そこが先にsnakesoulさんから手痛いご指摘を受けた部分です・・・ ・・・ANo.11のお礼欄に書いた女性から先ほどメールがありました。 彼女は現在「カウンセリング」で「認知療法」を受けて10ヶ月目と言うことです。 メールを続けることは困難だと思うと言われました。 それは彼女が正にmintowallさん同様、「再生」に向かって歩み始めた時に 私のような人間とのメールのやり取りは「危険過ぎる」ということでした。 私が「普通の人」であるなら、ANo.11のお礼にあるような非礼は問題ではない。けれど「わたしのような」人間とメールをすることはとてもストレスフルだし、 下手をするとお互い「ヤマアラシ」のように満身創痍になりかねない・・・と。 つまり河合隼雄さんのいう「病人が病人を作る」ということを怖れたのでしょう・・・ これには参りました。 ANo.11に書いた状態以上に遥かにショックでした。 何がしか物を考える人とは付き合えない自分を突きつけられた思いです。 mintowallさんの現在が私と酷似していても、それはあくまで現状の話しです。 年々歳々人同じからず・・・ あなたと私は実は全く、同じではありません・・・

  • snakesoul
  • ベストアンサー率35% (36/101)
回答No.12

賑わってますねぇ。 >目に見える服が欲しいと思うことがあるのです・・・・ あなたの周りには服はいくらでもあるんです。ただあなたが着ようとしないだけです。まるで、たくさんの服に囲まれながら「ああ、私に似合う特別な服なんてこの世にはないのか・・・」と悲劇の主人公になっているようです。 あなたは特別な存在になりたいですか? 意識的にまた本能的に世俗的な価値に背を向けることで特別な存在になれると考えていますか?誰にも解決できない不可解な問題を抱えた唯一の人間であると思いたいですか?逆に自分が俗人的で普通な人間だとしたら許せませんか? あなたの言う「劣等性」はアピール材料としては有効です。現にたくさんの方が親身になってあなたとコミュニケーションをしてくれます。得意のディベートで巧みに論理をすり抜けてもっともっととコミュニケーションを求めているようにも見えます。答えが出てしまったらコミュニケーションが終わってしまいますし、「特別な自分」の否定にもつながってしまいます。交流分析で言うゲームの理論を思い出しました。 交流分析のゲーム理論や脚本の考え方は面白いですよ。特にボーダー傾向の方は無意識的にゲームをやってしまいやすいのでご注意ください。 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/soyama/gakusyuukai/siryou/kazu-kouryuu.pdf ゲームについてちゃんと載っているページがみつかりませんでした・・・。一部が書いてあるPDFを見つけましたので参考にしてみてください。 悪い連鎖を切ることです。今のやり方ではそのうちみんなに愛想をつかされたあげく「あぁやっぱり私はダメな人間だ」「誰も私の悩みを解決できない・・・永遠に」といういつもと同じ展開、シナリオどおりの展開になってしまいます。 以前にもお話しましたが、自己愛さんをうまく説得しなければ、あなたにとって有意義な言葉は入っていきません。皆さんの回答の大切な要点をスルーして、細部に焦点をあてて話をすりかえたり、哲学的なディベートに発展させることでどんどん煙に巻いていくようにも見えます・・・もったいない。

noname#37669
質問者

お礼

snakesoulさん、いつもありがとうございます・・・ 痛いところを指摘されました・・・ このようなやり取りを続けながらいつも私の心から離れない不安は何か・・・ それこそsnakesoulさんご指摘の >今のやり方ではそのうちみんなに愛想をつかされたあげく「あぁやっぱり私はダメな人間だ」「誰も私の悩みを解決できない・・・永遠に」といういつもと同じ展開、シナリオどおりの展開になってしまいます。 そうなんです。掛け値ナシにその通りなのです・・・ このサイトでのやり取りに限らず、わたしは人間関係において常に 上記にかかれているような恐怖を抱きつつ生きています。 ちょっと気障ですが、歌のタイトルで表すなら 「WILL YOU Still LOVE ME TOMORROW?」 というティーンエイジャーの恋する少女と同じです・・・ ・・・いや、「明日もあなたは変わらずに私を愛してくれる?」というのは、昔から私にはズシッと重い言葉でした。 いい気になってはいません。 今日の笑顔が明日の顰蹙ということは身に沁みてわかっています。 ですからご指摘には何の異論もありませんが、 「どうしようもない」のです。 わたしは確かにいつでも「いずれ愛想を尽かして行くだろう。彼もまた・・・」 という意識に怯えていますが、怯えようと怯えまいとそれは遅からずそうなることになっていると思っています。 だからこそ、束の間でも・・・

noname#37669
質問者

補足

>あなたは特別な存在になりたいですか? 特別じゃない存在なんて存在するのでしょうか・・・ >意識的にまた本能的に世俗的な価値に背を向けることで特別な存在になれると考えていますか? そういう存在もいるでしょうが、わたしは単なる凡夫に過ぎません。 >誰にも解決できない不可解な問題を抱えた唯一の人間であると思いたいですか? 否定的な意味でですが、過去14年間の精神科通院生活を通じて、 救われない人間だとは思います。 「唯一」とは言わなくてもこの年齢でこの現状というのは極めて稀であるでしょう。 >逆に自分が俗人的で普通な人間だとしたら許せませんか? それこそが私の目指す「自我的」(?)世界です!

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.11

答えにくい質問に回答していただいてありがとうございます。 >こうでしかあり得なかったと思います。 選択したというより、それしか選択肢が無かったというのはよく分かります。 前にも書きましたが、自覚によって自分を律していく、自分自身が教師であり生徒だという事だと思っています。我々は自分自身から学ぶべきことがたくさんありそうですね。 余計なお世話ついでに、 ・中庸をむねとする。 いま助言できるとしたらこれですかね。

noname#37669
質問者

お礼

お礼が遅れましてすみません。 ちょっと余談ですが http://okwave.jp/qa3242992.html の質問でのshift-2007の「自己愛」についてのご回答、 正にその見本のような出来事が最近ありました。 あるサイトでメル友を募集したところ、 一人の女性からメールがありました、 けれども、先方は返信が遅いのです。 異性とのメール交換ですので、 もっと頻繁にメール交換をしたいと思いましたが、 私はそれを先方に伝えることはせずに、 「ペースが合わないから・・・」と、 これ以上メールのやり取りをしても仕方がないというようなことだけを書き送りました。 後日メールがあり、 「不満があるなら何故それを言ってくれなかったのか?」 「いきなり最後通牒とは、残念です・・・」・・・ 私は昔から、人にこうして欲しいというようなことが出来ませんでした。 それは自分のペースを相手に押し付けることになるから・・・というと聞こえがいいのですが実際はそうではなく、 正に先の質問のお答えのように、 「相手に希望を言って拒絶されるのに耐えられないから」 先手を打って「もう止めにしましょう」と言ってしまうのです。 「もっと頻繁にメール交換したいのだけれど」と言って、 「それはあなたの勝手で、わたしは合わせられないから、  じゃあこれっきりにしましょう!」 その言葉を聞くくらいなら先手を打ってしまいます。 拒絶は何より苦手です。 その為に過去どれだけ出会いをふいにしてきたか・・・ shift-2007さんのお礼を探していて遅くなりました・・・ まあこんなやつです・・・

noname#38692
noname#38692
回答No.10

友人のことは大した話ではないのですが、医学部を目指す浪人生で一風変わった主義主張を持っているタイプでした。面接についての質問があったと思います、それを見て友人のことを思い出しました。 一般に面接に受かろうとするなら 前の回答者さんが仰っているような 「社会的自我」のしっかりした人間を「演じれば」良いものだと思うのですが、(ハキハキさわやか、他人を尊重、目上に従順タイプ?)「自分は世間にアピールできるようなことはないから」とこぼしており、面接官のおじさんの気に入るようなことを言おうとはせず、毎回落ち、さらに世俗的価値への反発を募らせているようでした。 そんな友人を見ているうちに、この友人はこの結果とメカニズムに満足しているのだということに気付いてきました。つまり友人としては 一般に適合する社会的自我によって人に認められることよりも、形にならない自己や、「自分のイメージの中の自分」で他人を理解させたいんだなと。自分にとって突出した、優秀な部分の自分で 押し通せないのは、自尊心が許せないのだと。 質問者様とは全然関係ない話かもしれません。私自身ぶっこわれた人間なので歪んだ解釈だったかも(汗) というのも、質問者様は世俗的価値を求めなかったことに、「選択肢はなかった、故意ではない」、と仰っていて、これは大変意外で貴重な発見でした。私の友人も無意識で やっていたのかもしれません。 ところで、hakobuluさんが仰っている、超自我性の突出というものですが、、 マズローの法則はご存知かと思います 簡単に言うと (1)生理的欲求 (2)安全、安定の欲求 (3)集団帰属欲求、愛 (4)自尊心(地位、名誉) (5)自己実現欲求 ↑こんな感じで。 もし質問者様の超自我性が突出しており崇高性やより高い善を追求する欲求が強いとすると、自己実現欲求あたりを追求する心が強く、集団帰属、愛を求めることをなおざり にしているこということになりそうです。(私の勝手な分析で、学問的根拠はないです)私は前回の回答で、人としての崇高性を追求するのも、裏を返せば三番や四番を求める心が働いているではと 皮肉な回答をしたわけです。 ですが、この法則、なおざりにできません。優勢順位ごとに並べられている法則ですが、もし人に認められたい異性に好かれたいという本能の濁流に押し流されそうになるのなら、自己実現欲求の下地となるべき欲求が満たされていないことになり、苦しいものがでてきます。 しかし普通 人は皆、社会的自我を磨いて三番、四番を追及することに命を削っているのですから、一度世俗的煩悩に身を投げ込むのも良いのではないかと。。。 最後の部分は分かりにくかったようで失礼しました。 つまり、質問者様は今現在の自分の資本で未来に進めるのかと不安を持っているわけですが そこには何かしら この資本は人に認められるのか、社会的価値があるのかというプライドの葛藤があり、何とかして自己評価を下し価値を与えようとしているわけですが、もしこのような自尊心を軽減できるなら、社会的自我が欠乏しているかもしれない(仮定です)自分をまっすぐに見据え、もっと合理的な行動、現実に人にみとめられようとする行為にでているはずではないか?と考えたわけです。 社会的自我と自分が考える自我あまりにも分裂しているのは少し疑問です。現実に人に評価されないのなら、どれほどの価値があるでしょうか、社会的自我もほんとうの自我(なんだそれ?)もないと思います、人から見たら、質問者様はまるごと質問者様ですし 本当の価値があるのなら社会で通用することも不可能ではないですし もしそうなら自分を信じて進めばよいかと。。 下↓の回答者様の仰るのは最もですが 私につっこまれたかと思いました。 こういう目上の方が初期段階でつっこんでくれれば私も不合理な自己解決をせずに済んだのになぁ~?はぁ。(溜息。 ところで子供産まない結婚しないはよいとして働かずにどうやって生きていくのか聞きたいのですが。。

noname#37669
質問者

お礼

私はご友人を存じ上げませんから、推測でしか言えませんが、 彼は多分主義でそのような態度をとっていたのではないと思います。 単に私同様不器用なんですよ。 誰かがベートーヴェンについて、「彼が孤独だったのは表の顔と裏の顔を持っていなかったからだ・・・」というようなことを言っています。 超自我に関してですが、 判りやすい喩えで言うと、所謂「聖職」に就いている人、もっと具体的に言えば「聖職者を目指して修行中の若者」は、 所謂俗世間とは切り離された生活をしています。 信仰と禁欲と清貧の中に身を置いています。 しかし彼もまた熱い血の通った人間です。 そこには世俗的な誘惑が待ち構えてます。 ついにその誘惑に負けて堕天使となったとき、 彼は最早天上に生きることは出来ない。 清貧と禁欲の中での生しか知らない者が どのようにしてこのめまぐるしい現世で生きることが可能でしょうか・・・ 私は自分を求道者とも天使とも言っているのではありません。 「超自我」的世界から「現世的な」自我の世界の中で方向を見失い途方に暮れている者の姿を比喩的に示しただけです。 「堕天使」は天上にも地上にも生きる場所を見出すことは出来ません。 ・・・なんだか今日はひどく沈痛な気持ちです・・・ 現世的な欲望に負けて地上に落ちてきたものの、 自分はその中で生きていく術も力もないと、改めて自分の無力(無気力)に 打ちのめされています・・・・ >ところで子供産まない結婚しないはよいとして働かずにどうやって生きていくのか聞きたいのですが。 あなただけ、或いはこの質問にお答えくださっている(主に私の常連さん)たちだけならどんなことでもお話しますし聞いてもらいたいとさえ思いますが・・・どのような人間が見ているか分かりませんから・・・ 上の例え話から推察してください・・・ 気が向いたらいつでも歓迎します。

noname#37669
質問者

補足

相変わらず面白く読ませてくれますね。 これからちょっと出かけますので、 お礼は後ほどゆっくり書きます。 とりあえず、再度のお返事ありがとうございます。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.9

あらゆる知的営みは、その説明や回答よりも、その動機の方が大事だと思っています。説明は二義的なものだと思って居ります。しかし、貴方の問題の提起について私には動機が分かりません。 このカテゴリーの他の質問の回答で、十代の人が父親の理不尽について質問をしていたことに関して、 「貴方の質問は現状に対する不満を述べているが、その解決に対して何の提案も無い、それは反抗期の典型的な事例だ」 と述べいまいした。その通りだと思います。貴方は、十代の若者なら誰でも経て来た反抗期を、今になってやっと認識したとても言うのでしょうか。それとも、貴方は別だとでも言うのでしょうか。その辺がよく判りません。その辺の事情を分からずに、このやり取りをしていると、トンチンンカンなものになってしまいそうです。 それとも貴方は、このようなやり取りをすることによって、貴方が今まで思索して来たことの仮説を確認をして、同胞達にそれなりの認識を提示することによって、何かの役に立てたいと言う計画があるのでしょうか。もしそうなら、貴重な行為だと思いますので、その計画を是非実行してださい。 その行為は、貴方はともかく、皆様は貴方の存在をもったいなく思うと思います。

noname#37669
質問者

お礼

屁理屈をいうわけではありませんが、 >貴方の問題の提起について私には動機が分かりません。 確かに意図的な問題提起であれば、その「動機」を云々することはできるでしょうが、 質問の最後に >質問の体を為していませんが なにかご意見があれば書き込んでください。 と断り書きをしたのは、「これは質問ではないな」と判断されたら (その可能性大なので)無視して下さいという意味のお断りでした。 ですから、なんか不毛なやり取りをクダクダやってるなあと感じられても不思議はありません。 またご指摘の他の方の質問は拝見していませんが、 ひとつに、今になって反抗期か?と言われれば、「そうかもしれない」とお答えするしかありません。 私には反抗期というものがありませんでしたから・・・ ふたつめにその質問に対する上記の回答は私には納得いきません。 >それが「反抗期の典型的な事例だ」 といいながら >「現状に対する不満を述べているが、その解決に対して何の提案も無い、」ことを改めて批判するというのは理解に苦しみます。 いずれにしても、明確な意図や問題意識に基づいて質問をした訳ではないというと語弊がありますし、ご回答くださった皆さんに失礼ですが、 現在の「気分」を吐露し、意見を伺いたかったとしか言いようがありません。 答えになっていないかもしれませんが、お許しください。 お寄り下さってありがとうございます。

noname#37669
質問者

補足

誤解を怖れずに言うなら、 私は皆さんに聞いて貰っているのです。 そのやり取りの中からなにかを見出すことが出来るかもしれないし、 結果以上に皆さんとのやり取りを愉しんでいます。 >現状に対する不満を述べているが、その解決に対して何の提案も無い、 つまり「カウンセリング」と同じ理屈です。 方向性はその過程の中から定まっていくものだと思います。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.8

皆さんの回答が一段落したようです。 話を元に戻すようですが、 >「内面を磨く」「自己磨き」ということに抵抗があります。 この考えが現在の何も無い空虚感の原因となったのではないでしょうか。

noname#37669
質問者

お礼

ANo.5,ANo.6の回答の通りであると思います。 また一般論としてはANo.7の回答も的を射ていると思います。 ・・・つまり以上の回答の指摘通り、私は社会的な自我 (「自我」と言うものが本来社会性であるとすれば同語反復になりますが) に関して殆ど無頓着でした。 それは半ば確信をもってであり、 半ば止むを得ずそのような状態になっていたのです。 shift-2007さんは私が >「内面を磨く」「自己磨き」ということに抵抗があります。 というような考え方を後悔しているかをお尋ねになりたいのかもしれません。 自信を持って言うことはできませんが、 こうでしかあり得なかったと思います。 ・・・私の虚無感が何に由来しているのかは 私にもわかりません。主体的に「あれかこれか」という選択をせずとも、 人はあれでなければこれという生き方をしているはずです。 あれでもなくこれでもないという状態を、 少なくとも私は「生」とは呼びません。 ならば何かしらの蓄積があるはず、というのが上記の方たちのご意見だと思います。 にも関わらずの虚無感は、単に >「内面を磨く」「自己磨き」ということに抵抗があります。 が原因であるとも即断できないと思います。

noname#38692
noname#38692
回答No.7

世俗的な価値を放棄し、目に見えない人生の豊かさ、人間性を追求することで逆に 上位に立とうとする志向、言うなれば屈折的上昇志向という部分はありませんでしょうか。人と異なっているのはいいけれど、劣っているのは少し我慢ならない。 人と自分を比べる価値基準、世俗的価値の追求を放棄することで 同じ次元、水平な場所で人と並ぶのをやめようとする、そして自分の価値や優位性をしめそうということです。人と対等であることを拒否することも、今までの自己の過去を投げやりに(空白)とらえることものどこかに裏返しの形で 優秀性を出そうという部分があるのかもしれません。 なぜなら、そういった対外面での評価を気にする心や 自尊心が なくなっている人は 「今の資本で未来に進めるだろうか」、という風には考えにくいと思います。そういった自己評価を下す余裕はなくなり、今よりひどい 未来にならないようにと ガムシャラになることが大事になってくるからで、つまり現実の損得を考えることの方が理に叶ってきます。つまり、せめて今から最低限やっちゃろうということです。 人とは別の次元で 価値を築き、それで勝負してみようと思ったけれども、実体がない、証明できない。これはおかしい。ということではないでしょうか。 すべての、あらゆる人が自己が優っているということを証明したい部分があると思いますが、世俗的価値を求めないような異端者も例外ではなく、裏返しの形で 自己承認を求めていると思います。 上記に述べたことは 勘に触る部分があるかもしれませんが、まったく悪意ではなく、ご質問者様の言葉を読んだ時 とても親しかったある友人のこととクロスしてしまい、是非カキコみたいと思ったのでした。 質問者様は今 きっぱりと 私はかたちのあるものが 欲しいと仰っているのですから、それに突き進んでみたらいかがでしょう。 形に出来ない、証明できなくても、ホンモノの価値が蓄積されているのならば  それは 目に見えなくても 今 現在 質問者様の言葉や 人格にすべてが含まれているのではないでしょうか。 現実こそ すべての 答えだと思います

noname#37669
質問者

お礼

きちんとフォローいただきましたが、そのようなフォローがなくとも、 反感は覚えないと思います。鋭いご指摘だと感じます。 ただ、私自身の意識としては、 >世俗的な価値を放棄し、目に見えない人生の豊かさ、人間性を追求すること というようなことを、明確にしろ、おぼろげにしろ、感じたこと、考えたことはありません。(無論傍からみれば妥当な見方ですが) #5さんのお礼欄にも書きましたように、あちらを放棄し、こちらを追及・・・というような「あれかこれか」の主体的選択は私にはありませんでした。 けれども、あなたが嗅ぎつけた私のどこかナルシスティックな部分、自己愛性、自尊心の高さなど、 >人と異なっているのはいいけれど、劣っているのは少し我慢ならない。 などは、当たっていなくもないと思っています。 全体にかなり鋭い突っ込みであると感じています。 文章も明晰ですし。 ところで、全体の文章に興味を持ったので不明な部分をお聞きしたいのですが、 以下の部分 >そういった対外面での評価を気にする心や自尊心がなくなっている人は 「今の資本で未来に進めるだろうか」、という風には考えにくいと思います。そういった自己評価を下す余裕はなくなり、今よりひどい 未来にならないようにと ガムシャラになることが大事になってくるからで、つまり現実の損得を考えることの方が理に叶ってきます。つまり、せめて今から最低限やっちゃろうということです。 この部分がよくわかりません。 こちらの理解不足ですが、 興味があるのでよろしければ是非もう一度ご説明頂ければうれしいです。 わざわざ、書き込みをしてくださってありがとうございます。

noname#37669
質問者

補足

そのご友人のお話もお聞きしたいですね。 とても面白い文章です。 是非またお立ち寄りください・・・

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.6

#5です。 >「同類であること」、ではなく、「劣っていること」が苦痛です。 :何を以って「劣っている」とするのかその根拠がよくわからないのですが、私としては先に述べましたように「社会的自我性の欠如」を嘆いているとしか推測できません。 そして、社会的自我性など取るに足らぬものだという私見を述べさせていただきました。 『>そこには「あれかこれか」で選択した過去もなければ、 世間一般の世俗的価値もありません。』 とおっしゃる部分はそれを肯定していることにもなるように思われますが、私の解釈違いでしょうか。 「>蓄積されたものがあるのなら、それを知りたいと思っています。」 これは、他者から認められたいという欲求と同義のように思われますが(そうであってもごく自然なことだと思いますが)、ご自身ではどうお感じになりますか? いずれにしても、 「>私が感じるのは全くの虚無・空洞感でしかありません。」 とおっしゃるところから、本能の脆弱性を私は感じます。 loser_blueさんは超自我性が突出しておられるのではないでしょうか。 超自我は本能としてのエス(=イド=生来的な快)に禁制的に作用することによって人としての崇高性やより高い善を目指そうとする心理です。 目指すものはそうなのですが、超自我の本質は抑圧と言って良いと思います。 これが過剰に作用することによって、本能は勿論、自我(現実的な損得を司る心理)が相対的に脆弱化することになります。 真っ直ぐに天(=理想)を目指して高く伸びてはいるが、樹木の根(=本能)が張り切れていないために不安定で、現実的栄養分の摂取手段である枝葉(=自我)にも栄養分が行き渡っていない、といったような印象を受けます。 ですから、単なる推測に堕することを怖れずに申し上げれば、過剰な超自我性に問題の根幹があるのではないかという気がします。 次に、なぜそれほど過剰になる必要があるのか、また、それを強制しているloser_blueさんの(おそらく)無意識的記憶とはどのようなものであるのか、という点に焦点が切り替わることになるような気がします。 過去と現在はおっしゃるように確かにつながっているわけですが、過去を「明確なもの」として認識することによって現在と区別することが可能になります。 明確にされると、「確実な過去」として認識されます。 「確実な過去」であるということは、少なくとも現在や未来に決定的な影響を及ぼさないと考えることが可能になる、ということでもあるでしょう。 抑圧的に「過去は空白」とおっしゃっているうちは現在はいつまでも過去の継続でしかあり得ない、という、無意識的認識から脱却することは難しいのではないかという気がします。 大まかなレイアウトとして、「抑圧された過去(の部分)」が「蓄積された過去(の部分)」の存在を否定している、といった構図が漠然とですが浮かんでいます。  

noname#37669
質問者

お礼

お礼の文字数を超過してしまいました(苦笑) 改めてありがとうございます。

noname#37669
質問者

補足

相変わらず明晰な分析ですね。 >何を以って「劣っている」とするのかその根拠がよくわからないのですが、私としては先に述べましたように「社会的自我性の欠如」を嘆いているとしか推測できません。 我々(?)は一般に、「社会の中で」如何なる存在であるかを 人を判断する基準にしていないでしょうか? だとすれば、「エス」(本能)「自我」(社会性)「超自我」(超俗性) の中で、特に「社会的自我」が欠如していると言うことは、 一般に「不適合者」と言われるのも無理のないことではないでしょうか。 またそのような社会のフィードバックの中に身を置いて、 「そうか自分は劣った人間なんだ・・・」という判断(=自己イメージの形成)は、止むを得ないのではないでしょうか・・・ >超自我の本質は抑圧と言って良いと思います。 これが過剰に作用することによって、本能は勿論、自我(現実的な損得を司る心理)が相対的に脆弱化することになります。 この部分はよく分かります。 私は意識的な部分では反社会的で、体制順応を嫌うところが強いと感じていますが、一方で何故か子供の頃から抑圧のメカニズムに組み込まれていたような気がしています。 「超自我」というものが、所謂「通俗モラル」と同義であれば、 私は自己の抑圧と鬱積されたエネルギーの板挟みにあると感じています。 また「超自我」がもっと高い次元のものだとして、 確かに私は超俗的(超自我的)志向が強いのですが、 一方で、(或いはその反動で?) 世俗的な煩悩からも自由になれないのです。 >社会的自我性など取るに足らぬものだという私見を述べさせていただきました。 私の生き方はそのような軌跡を描いて来ているのですが、 「人に認められたいという欲求」「自己実現」或いはもっと下世話に言うなら「異性に関心を持たれたい」などの「本能」の濁流に時に押し流されそうになります。 このようにわたしという人間は、矛盾と分裂、葛藤のカオスを内に抱えた存在です。 >過剰な超自我性に問題の根幹があるのではないかという気がします。 これは正にご指摘の通りだと思います。 私はひとえに3者の調和を図りたいと望むのです・・・ ところでお聞きしたいのですが、 >「確実な過去」というのは、実質のある過去=空白ではない過去という意味でしょうか? 私は自分ではそういいながらも、「あなたの過去はやはりブランクでしかなかった」という「明確な過去像」を突きつけられるのに耐えられる自信がありません。 >「抑圧された過去(の部分)」が「蓄積された過去(の部分)」の存在を否定している、 「蓄積された過去」の存在・・・ それは何物かが「否定」しているのか、否定するまでもなくそんなものはないのか。 私には正直判然としません。 こういう言い方は失礼かもしれませんが、 ない頭を絞ってこのようなやり取りをさせてもらっていると、 頭の運動になるような気がしています。 繰り返し、ありがとうございます。 乱文ご容赦。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

社会的自我が欠如しているというようなことをおっしゃっているようにも見えます。 そして過去は空白であると。 過去の蓄積が無いということであれば、他人の私がそれを否定しても始まりません。 しかし、蓄積されるものは必ずしも一種類ではないでしょう。 loser_blueさんは、社会的自我以外のものを蓄積されてきたのではないでしょうか。 自我というのは基本的に損・得に関与する心理ですから、社会的損得を身につけていないのは色々な不都合が生じるかもしれません。 しかし、個人の人生にとってそれがどれほどの意味を持つでしょうか。 そして、多数の人と同類である必要があるかのようにお考えになっているようですが、それもどうでしょうか。 理解してくれる人、理解しあえる人ただ一人がいれば十分人は幸せになれるのではないでしょうか。 社会的自我などというものは不要とまでは言いませんが、それのみでしのぎを削っている結果が、この言いようもなく愚かしい現代の世相に反映しているということもまた事実でしょう。 現代へのアンチテーゼとしての「過去は空白」なのですか? それとも「過去は空白、と考えたい」ということなのでしょうか? 焦点が定まっていない印象を受けました。   

noname#37669
質問者

お礼

>現代へのアンチテーゼとしての「過去は空白」なのですか? それとも「過去は空白、と考えたい」ということなのでしょうか? 現代社会へのアンチテーゼとしての、「過去の不在」ということであれば、 このように強い自己否定感は生じないと思います。 それは主体的に選び取った過去であり、 ご指摘のように >社会的自我以外のものを蓄積されてきたのではないでしょうか。 と言える別の次元の自己が確立されているはずです。 しかし私が感じるのは全くの虚無・空洞感でしかありません。 そこには「あれかこれか」で選択した過去もなければ、 世間一般の世俗的価値もありません。 >「過去は空白、と考えたい」 のではなく、何かしら私という存在に過去と呼べるものがあるなら、 蓄積されたものがあるのなら、 それを知りたいと思っています。 「知る」というより実感したいと言った方が近いでしょうか・・・ >多数の人と同類である必要があるかのようにお考えになっているようですが、それもどうでしょうか。 「同類であること」、ではなく、「劣っていること」が苦痛です。 「異質」であることは寧ろ望むところです。 けれども「劣等」(下等)であることは・・・ ・・・なかなか水平思考には辿り着けず、 常に垂直思考に凝り固まっています。 自己と人との差異を「上下」「優劣」でしか捉えられないのです・・・ この際ですからhakobuluさんには遠慮なく考えていることを言わせてもらいました。 せっかくこうして何度も話に来てくださっているのに、 機嫌を損ねまいとの配慮で、お説ごもっともではもったいないと感じます。 いつもありがとうございます。

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