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スマンガラ僧正の公式書簡について

仏教の初心者の人間ですが、スマンガラ僧正の公式書簡を読んでいたらどうしても意味が分からない言葉があったので仏教用語に詳しい方ぜひおしえてください。書簡の中で「釈尊の楞迦山に三回降臨したまいその聖趾にてこれを潔め真理を吾等に明らかにしたまえり」という箇所があるのですがその中で「聖趾にてこれを」とあるのですが、この「聖趾」とはどのような意味なのか仏教に詳しい方おしえてください。また読みは「セイシ」と読むのでしょうか読みだけでもかまわないので仏教用語に詳しい方是非おしえてください。お願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

またまたANo.1です。 補足を読ませていただきました。 前の部分を併せて読んでみましたが、やはり、私は「聖なる場所」という意味にとりました。 補足部分を簡単に訳せば、 私は日本の僧侶、信者のために、この書簡をしたためる。 親愛なるみなさん、諸仏はこの現世に現われて無常の道理をお説きになった。 その最後の仏である釈尊は、その道理に従って、生老病死の法を示して、衆生を救うと説かれた。 諸仏の教えに従って進むべき道とは、訓誨と究極の道理を教え、これに従う衆生は必ず救われるだろう。 続いて問題の、 「釈尊の楞迦山に三回降臨したまいその聖趾にてこれを潔め真理を吾等に明らかにしたまえり」 ですが、“誰が”潔め明らかにしたのか、主語をはっきりさせれば、「聖趾」がおのずと明らかになると思います。 で、この解釈が正しいかどうかは分かりませんが、私の解釈を述べますと、 釈尊が、楞伽山に三回、降臨なされて、その降臨された聖なる場所で、これ(諸仏の説かれる道理?)を潔め、真理を我々に明らかにしてくださった。 となると思います。 「釈尊の」というのが主語になるのかどうかが、もう一つ確信が持てないのと、この文章に読点「、」が入っていないのと、さらには「これ」が何を指すのかはっきりしないので、解釈がしにくいのですが、私は上記のように解釈しました。 もし「聖趾」が「仏足跡」であるならば、「これを潔め真理を吾等に明らかにした」人物が釈尊以外でなければならず、しかも、「したまえり」と尊敬語を使っているところから、それなりの人物でなくてはなりません。補足にある文章中で尊敬語を使う人物は、「釈尊」以外には「諸仏」しかいません。 文章の流れからいって、「諸仏」とは考えにくいので、私は主語は「釈尊」であると考えました。 また、主語を「釈尊」、「にて」を「手段の助詞」ととらえることもできなくはないと思いますが、そうであるならば、「聖趾」は「仏足跡」ではなく、「釈尊の聖なる御足」ということになり、 釈尊が、楞伽山に三回、降臨なされて、その聖なる御足で、これ(諸仏の説かれる道理?)を潔め、真理を我々に明らかにしてくださった。 となり、「足で潔めた」という意味になります。「これ」がはっきりしないので何とも言えませんが、「足によって潔める」というのは、やはりあまりなじめない表現であると、私には思えます。 と、大変冗長な文章になってしまい、申し訳ありません。 私の解釈が間違っているかもしれませんので、皆さまのご意見をいただければと思います。

ooesyundei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。おかげでスッキリしました。わざわざこっちの都合ですべての訳までかいて下さって、本当に助かりました。貴重な回答本当にありがとうございました。

その他の回答 (4)

回答No.4

ANo.1です。 ANo.3さまの >仏足跡のことを「聖なる足」という意味で言っているのではないでしょうか。 というご意見を拝見しました。確かに、「趾」には足という意味もありますから、「仏足跡」という意味にも取れますね。 ただ、これは、もとの文章「その聖趾にてこれを…」の「にて」をどう解釈するかの違いだと思います。 私は、この「にて」を、「時・所・場所を示す」の助詞だと解釈しました。つまり、「聖趾という場所において潔めた」という意味です。 ANo.3さまの解釈だと、この「にて」は、「手段・材料を示す」助詞になり、「仏足跡を使って潔めた」ということになります。 前後の文章がないので、確かなことは言えないのですが、「仏足跡」を使って潔めるというのは、私には少し違和感がありますし、質問にある一文だけを読むと、この場合の「にて」はやっぱり場所をあらわすのではないかなぁと思います。 どちらが正しいかは、質問者さまが、前後の文章を見て、判断していただくしかないのですが。

ooesyundei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。最初の文章があるので載せようと思いますが、もし大変でしたら、回答はけっこうです。詳しい回答本当にありがとうございました。おかげでよく納得できました。

ooesyundei
質問者

補足

最初の文章はこのようになっています。「余はこの書簡を有名なる大日本の同縁の諸師および仏教信者たる我が同胞のために草せり 親愛なる同胞よ諸佛はこの現世に降りて無常の理を顕示せり 最後の仏なる釈尊はこの理に従って無常生死病苦の法を示し衆生を救う事を説けり 諸仏に従って往きし道は訓誨と究理を教えこれに従うて往く衆生は救わる可し 釈尊の楞迦山に三回降臨したまいその聖趾にてこれを潔め真理を吾等に明らかにしたまえり」

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.3

漢字の候補がなくてごめんなさい。「聖シ」の「シ」というのは「足」という意味ですね。仏教では、釈尊入滅後、長いこと、ギリシャ文明の影響で仏像が作られるまでは、仏足跡と言ってお釈迦様の足跡を礼拝していたわけです。ない場合は菩提樹の葉っぱなどを礼拝していました。そういうことでその楞迦山の遺跡には仏足跡があるのでしょう。その仏足跡のことを「聖なる足」という意味で言っているのではないでしょうか。仏足跡については、仏教遺跡などの写真集に載っていると思います。

ooesyundei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。仏足跡という解釈があるとは驚きました。たしかにそのような解釈もありえるように思えました。詳しい回答ありがとうございました。勉強になりました。

回答No.2

ANo.1です。丁寧なお礼、恐縮です。 少し、補足しておきます。 前回、「聖なる遺跡」というふうに書きましたが、「遺跡」というと、なんだか“古代遺跡”とか“ローマ遺跡”とか、世界遺産的なもののようなニュアンスになってしまい、ちょっと正確ではないかな、と思ったのですが、前回の回答の時には、他に上手い言葉が見つかりませんでした。 「趾」という字は、辞書を引いていただければ分かると思いますが、「あと」という意味ですから、ぱっと「遺跡」と訳してしまったのです。 質問者さまがお書きになっている書簡の中の“楞伽山”は、釈尊が『楞伽経』を説いた場所とされていますが、多分にそれは伝説的であって、実際、どうであったかは不明です。 ですので、その「趾」というのは、具体的な遺跡ではなく、そういう“故事来歴のある場所”という意味にとらえていただければと思います。 老婆心ながら、補足しておきます。

ooesyundei
質問者

お礼

わざわざ補足していただいて、ありがとうございました。よく理解できました。故事来歴のある場所と書いていただいて、いたれりつくせりの回答本当にありがとうございました。

回答No.1

仏教では、漢字の読みは、多くの場合、漢音ではなく呉音で発音します。 「聖」というのは漢音では「セイ」、呉音では「ショウ」と読みます。 「趾」は「シ」としかよみませんので、仏教的に読むのであれば、「ショウシ」と読むのではないかと思います。 ただ、「聖趾」という言葉は、仏教辞典には載っていませんので、特別な仏教用語というわけではなく、一般名詞ととらえてよいと思います。 意味としては、「聖」と「趾」の意味を組み合わせた、「聖なる遺跡」というようなことでよいと思います。 いずれにしても、「スマンガラ僧正の公式書簡」ということですから(寡聞にしてスマンガラ僧正という方を存じ上げないのですが、インドかスリランカの高僧だと推測いたします)、サンスクリット語かパーリ語からの訳文だと思われますので、「セイシ」と読んでもそれほど問題はないと思います。 (「ショウシ」と読むと、仏教読みっぽく聞こえるとは思いますが)。

ooesyundei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。聖なる遺跡だとはしりませんでした。詳しい回答本当にありがとうございました。これですっきりしました。貴重な回答本当にありがとうございました。

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