《無記(アヰヤークリタ)》とは どういう現実か?
《善でも悪でもない》というだけではなく 言わば《善悪の彼岸》なる境地であって 人びとの思惟および意志の行為における善あるいは悪の内容じたいはこれを受け留めつつ それらを――すでにこの生身の実存において――超えている。相手の善や悪には それなりに影響を受けつつ しかも左右されないのである。これは 飛躍して 慈悲につながるか?
こう見たのですが――すなわち 岩井昌悟:現代仏教塾 《初期仏教の輪廻思想》を ようつべで見たあとそう考えたのですが―― 次のマールキヤプッタの物語にちなんで 表題の問いを問います。ご見解をおしえてください。
▼ (ヰキぺ:無記) ~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
§ 仏典記述
パーリ語経典中部63経『小マールキヤ経』では、有名な「毒矢のたとえ」と共に、「十無記」について記述されている。
釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、
1. 世界は永遠であるのか
2. 世界は永遠でないのか
3. 世界は有限であるのか
4. 世界は無限であるのか
5. 生命と身体は同一か
6. 生命と身体は別個か
7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。
マールキヤプッタ尊者は、これらの疑問に釈迦が答えてくれるなら修行を続けるが、答えてくれなければ修行を放棄しようと考えつつ、釈迦にこれらについて問う。
それに対して釈迦は、「私の下で修行すればそれらについて説くと私は話したか、またマールキヤプッタはそのような期待でこの修行を始めたのか」と問い返す。マールキヤプッタ尊者はどちらも違うと否定する。
釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期(寿命)を迎えてしまうことになるだろう」「例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が
『私を射た者が王族(クシャトリヤ)であるか、バラモンであるか、農商工業者(バイシャ)であるか、奴婢(シュードラ)であるかが、知られない内は、矢を抜くことはしない』
『私を射た者の名や姓が知られない内は・・・』
『私を射た者が長身か短身か中くらいかが知られない内は・・・』
『私を射た者の肌は黒いか褐色か金色か知られない内は・・・』
『私を射た者がどの村・町・市に住んでいるかが知られない内は・・・』
『私を射た弓が普通の弓か、弩(いしゆみ)であるかが知られない内は・・・』
『弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は・・・』
『矢の羽がワシの羽か、アオサギの羽か、タカの羽か、クジャクの羽か、シティラハヌ鳥の羽か、知られない内は・・・』
『矢幹に巻いてある筋繊維が牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるか知られない内は・・・』
『矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は・・・』
といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」
「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」
「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。
マールキヤプッタ尊者は歓喜し、釈迦の教説を信受した。
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☆ マールキヤプッタは どのようにして納得したのか?
四聖諦は けっきょくさとりに到る道もしくはすでにさとりの状態を外形的に問題にしているのだから それが分かったところで おそらくまだ無理である。玉ねぎの芯にはまだ到らない。
むしろ ゴータマ氏が 直接に問いに答えるかたちを採らなかったところに問題があって それはそのまま 《無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta , アヴィヤークリタ)》のことに帰着するのではないか。無記が何であって 何をそこから広がって指し示そうとしているのか これを理解することによって物語を解く鍵があるのではないか?
ご教授ください。
お礼
完璧な御回答有り難うございました。 URLも大変参考になりました。