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山月記
袁さんが、「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」といっていますが、欠けるところというのは率直に言うとどこなのでしょう? 色々調べてみたのですが、あまり良く分からなくて困っています。 分かる方がいましたら、解答お願いします。
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ものすごく簡単に言えば、天才と秀才の違いです。 李徴は秀才だったけど天才ではなかった。 天才と秀才の差は袁サンのような凡人には僅かな差にしか見えない(だから袁サンは「何処か(非常に微妙な点において)欠けるところがある」としか表現できなかった)、しかし李徴当人はこの差は絶望的なものに見えます。 それゆえ、 凡人に比べれば才に恵まれている→尊大で傍若無人に振舞う 天才とは決定的に差があるとの自覚がある→猛烈な劣等感にさいなまされる ということになります。 この辺の事情がわかりにくければ、「アマデウス」という映画をお勧めします。 古い映画ですが名作ですし未見でしたら一度ご覧あれ。 「アマデウス」の主人公サリエリ氏は自他共に認める大作曲家でしたが、モーツァルトに接して初めて、モーツァルトこそ真の天才であり自分はたんなる秀才に過ぎないと気が付きます。 しかしこの差をはっきり認識しているのは当のサリエリだけで(モーツァルトは最初からサリエリなど眼中にないので気にも止めていない!)、周囲は気がつきません。 サリエリは今までどおり大作曲家として振舞いながらも、モーツァルトに対する嫉妬と劣等感に苦しめられ、とうとう…。 この映画のサリエリ氏の最期を中国伝記小説風に表現すると、「虎になった」になるのでしょう。 さて、ではこの天才と秀才の差、袁サンが「何処か欠ける」と表現したものは何なのか? これを言葉で説明するのはやはり難しいです。 でも確実に存在するのですよ。 文学でも音楽でも美術でも何でも、それなりに真剣に取り組んだことのある人間には明確に把握できます。 そしてそれを把握できた人間の大多数は「ああ、自分はどんなに頑張ってもこの域には達することができない。つまり自分は天才ではないな」とはっきり認識することになります。 若いころ、この苦い思いを味わったことのある人間にとっては、「山月記」は非常に分かりやすい、そして身につまされる小説なのです(苦笑。
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- kitasan2
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「山月記」のテーマに関わるものだと考えることができます。後で、李徴が虎になった原因について語る部分がありますよね。それとの関連で、一流になるために欠けている「非常に微妙な点」が考えられるのではないでしょうか。 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、李徴の考える虎になった原因ですが、これは、現代人の誰もが持っている心のあり方だと考えることができます。そして、誰もが「孤独な人食い虎」のような人間になる可能性があることを示唆しています。 そういう人間が書いた詩には、その「人間の心のあり方」が反映して、「どこか(非常に微妙な点において)欠けているところがある」というわけでしょう。 具体的には、いろいろと考えられますが、これだと限定できるものではないので、あえて書かないでおきます。考えてみてください。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 難しいですね・・・。 でも少しずつですが分かってきました。 山月記をもう一度読み直してみたいと思います。 回答有難うございました。
国語教師です。 ちょっとだけ前の部分から見てみましょう。 長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁さんは感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。 彼の詩風が格調高雅で意趣卓逸な事から、彼自身が才能にあふれ、非凡な人間だと分かります。 ところが、その彼の作品は、「第一流の作品となるのには、何処か欠けるところがある」わけです。 つまり、人物的には詩の才能があるけれども、実際の詩は一流ではないと言っているのです。(その理由は彼の性格、彼の過去の行動にあるわけですが。) では、どこが一流になるために欠けているのかということですが、ここでは「非常に微妙な点において」としかありません。 作者は具体的な詩も具体的な欠けている点も示していないのです。 袁さんが「漠然と」感じていることで、しかも「何処か」というふうに表現していますので、ここは素直に「何処か」で解釈します。 つまり、何処がというふうにはっきりいうほどの欠点があるというわけではなく、本当にほんの少し…つまり非常に微妙な点において、惜しくも一流と呼ぶには今ひとつ足りない詩だとえんさんは感じたというわけです。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 納得がいきました。 もう一度そのことを踏まえて読み直したいと思います。 分かりやすい回答有難うございました!
- toko0503
- ベストアンサー率36% (886/2437)
作品は、草むらの中から聞こえてくる李徴の声(朗読?) なので、目に見えて(書面で)「欠けるところ」を指摘することは 出来ませんよね。ただ、その後、李徴は、自暴自棄風に、 "自分の詩集が一流文士の机に置かれている夢を見ることがある、 嗤ってくれ" と言っています。 そして旧友の袁参(←字が出ませんが)が、 昔の李徴の自嘲癖を哀しく思い出す、という場面が続きます。 なので、 聴いていた作品の中に、李徴の非凡な才能を感じつつも 微妙な点で、何か、そういった自嘲癖の片鱗が 見え隠れしたのではないでしょうか。 全くの私観ですので、参考までにね。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 漠然と見えてきたのですがもう少し、といったところです。 もう一度最初から読み直してみようと思います。 回答有難うございました!
- mugen0509
- ベストアンサー率0% (0/2)
りちょうがトラになることにより人間的というよりも動物的になっているのではないでしょうか?それに、彼の詩は独学ですし自分が一番的なところがあったのではないかと思います。それでもわからなければ、国語の先生に聞いて下さい。絶対話して下さるはずです。理系なもので、無責任ですみません。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 何となくですが少し見えてきたような気がします。 回答有難うございました!
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 アマデウスは去年生誕250周年のときに観ました。 あれに当てはめてみると分かりやすいですね。 山月記をもう一度読み直して考えてみたいと思います。 分かりやすい回答有難うございました!