李徴の性格は、私には自虐的で露悪的と映ります。たとえば以下のような部分にそれを感じます。
・家族のことを繰りかえしねんごろに頼みながらも、「この頼みを最後にするような俺だから、虎になったのだ」と自嘲するところ
・己の即興詩を述べずにはいられないほど、詩作に誇りと執着を持っているにもかかわらず、それを「お笑いぐさついでに」などと述べずにはいられないところ
李徴は、自分の優しさをストレートに表現できません。照れから、あるいは過剰な自意識から、つい毒を吐いてしまうのです。
このような点はおそらく、「いい人」である袁さん(「人偏+参」ですね)の耳には、痛々しく、そして愛すべきではあってもどこかひっかかる刺をもって響いたのでしょう。だから作者はこのように書かざるを得なかったのです。
「成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。」
ここからは想像ですが、作者・中島敦もまた、「臆病な自尊心」に苦しめられた時期を(たとえ一時期ではあっても)持っていたのではないでしょうか。
李徴の言葉のなかでもっとも鋭く私の心をえぐったのは、以下のような部分でした
「己(をのれ)の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。」
以上がわたしの考えです。
原文のテキストは「青空文庫」様のサイトから引用しました。