自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?
《自己主張》を含まない哲学の文章はあり得ません。そうでない資料を得たいのなら 百科事典を担うヱブサイトを見れば済むことです。
なのにそのような自己表現のかたちをなじるクセが この哲学のカテゴリにおいて見かけます。いったいどういう事情でしょうか?
むろん なじることも 自己主張のたぐいです。そしてこのカテで見かけるナジリは 自己主張をするなという中身つまりそういう自己主張であるものが多いようです。
これは 日本人のくせであると捉えますが さらにその事情について明らかにしてくださいませんか?
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重ねて説明を添えます。
哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。
ならば 自分の考えあるいは自分の境地までをも回答の中に はっきりと明らかにする場合はもちろんのこと 暗黙の内にでも含ませたことになることは 議論の余地のないことだと考えます。
あるいはつまり ほかのカテにおけるような知識情報の供給であっても そもそも文章はすべてその人の自己表現であるはずです。
その自己を出すな・抑えろというのは 前へならえ! 右向け 右! のまぼろしの号令がなおも人びとの耳の奥には聞こえていて 勝手に手足が動いてしまうのでしょうか?
ひとつの解釈を提出しましたが 話の手がかりに 極論を考えてみたものです。
つまり 詳しい説明をせずに言い出すのですが たとえば何の根回しもせずに 権限を持つ者が突然重要な発表をするかたちを取るというのは そのあとの四面楚歌を覚悟の上の或る種の《右向け 右!》であると捉えられなくはない。こういった見方にもかかわりましょうか?
つまり四面楚歌の部分では ぎゃくに《右向け 右!》の亡霊のような号令に対して おまえはすでに死んでいる おまえの居場所は墓場なのだよと言って 追い返していることになるかも知れません。たしかにそれなら 《民主》党です。
どうぞ自由なご見解をお寄せください。