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言語記号の恣意性は正しいか
反証例を掲げますので 自由な意見を述べてください。 / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアンが同じなら シニフィエも同じく《障害の除去》だという例です。 (1)/ nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・これが消滅する というシニフィエとなっている) (2)《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) (3)《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求)
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- fishbowl66
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こんにちは 言語記号の恣意性には、私も関心をもっているのですが、 その理由は、最初の回答に書きかけた、音素(音韻)と感覚の繋がり・関連に興味が有るからで、そのような意味で、まるっきり恣意的な言語記号と言うのも、問題があるのかも、と考えているのです。 例えば、怪獣の名前に「ガギグゲゴ」が多いことは、言語記号に音と感覚、発話の際の語感などが関わっているような気がします。こう言った部分は、ご質問者様の指摘と微妙な違いは有っても、共通する点も有るのかな、と考えています。 それでも、丸山さんの解説は私には荷が重い 最初の引用は、難しいところですが、ソシュールの言語学で言うと、シニファインは物質ではない、として、パロールと区別している点が気になります。例えば誰かが「ハナ」と発話します。その音は人によって違いがありますし、聞く人の状態によって、聞く人の耳の奥で、どのように翻訳されるかは解りません、それでも、意味が伝わるし会話が成立事と関係しそうな気がします。私の場合はベルクソンの「収縮としての記憶」と関連付けて、ひとまず、解ったような気になっています。 《言語主体の意識は 辞項の差異と関係しか知覚せず したがって 別々に分けられたシニフィアン シニフィエとか 個々の辞項といった 他の辞項との関係から切り離された個別抽象体は意識の領域に達しません。つまりそんなものは もともと存在していないのです。》(丸山:同上 p.167) 丸山さんもソシュールもこんな感じの言い方するんですね、極端に表現すると「言語記号は差異しか存在しない」という言い方です、これは、私も実際、良く解らない。 言語記号の意味は文章の他の言葉や配置の関連で変化すること等から、この様な表現が出てくるのですが、はなはだ難解ながら、まったく間違いでもないのかな、といった感じですね。 実際、シーニュ・シニフィアン・シニフィエにパロール・ラングが絡んでくると、パロールとシーニュ・シニファインの区別なども訳がわからなくなります。 先の回答に引用した 「シニフィアンとシニフィエは、別々に存在しているものが結合されるのではなく、価値の体系からシーニュが切り出されると、シニフィアンとシニフィエとが同時に生まれる。」 これなども、何処から生まれる、同時とは、と、突っ込みたくなるものです。 さて、問題意識がずれてはいますが、イコールの問題について。 昔、私も質問したような気もするのですが、言語記号の体系を分析する場合、ポリフュリウスの樹や形態素のデーター分析など図形や数式にしないと、直感的に把握できません、しかも、広辞苑の中には二十二万語もの言葉がありますから、ソシュールとアナグラムみたいに、とんでもない挫折に陥るかもしれません。この様な方法では、蓋然性すら確立できないのではと、残念ながら思っています。 ご質問者様の例を喩えると、 商品A=100円・商品B=100円・商品C=100円、したがって、商品A・B・Cはイコールという訳ですが、価格は確かにイコールですが、表されている意味は、商品一つ一つが違いますし、かといって、商品A=100円を分析しても、商品A自体からは100円の価格が付く理由は、何処を探しても見つかりません、商品A=100円の価格が付くのは、他の商品B・Cとの比較(尤も、擬制としてこの様な事が可能だという仮定の上で)によって、差異や同等性から、商品A=100円という価格が一般に承認されることになります、ところで、この理屈は、ゲームみたいにトートロジーになるのですが、それでも一般に通用すれば通用する、言語とお金の不思議な共通点です。 この比喩が的を得ていないかもしれませんが、私に書ける事はこのぐらい、 お役に立ちませんでしたが、これにて失礼致します。
- fishbowl66
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補足拝見しましたが、かえって、混乱しました。 正直よく解らないのですが、 そもそも、言語記号の恣意性を批判するために どのような方法が、有効なのかがもう一つ解りません。 それらしき、例をいくら挙げても、 偶然を排除出来ないと、説得力がありません。 もう一点、言語の共時的分析を中心にされるのでしょうが 通時的と言って良いのか、起源や歴史の過程で、 共通項や比喩と言った派生の言葉も、区別しなければなりません。 それと、記号と意味の関係で漢字を使われます、 表意文字としての日本語の特性は区別できるでしょうか。 一般に言語の恣意性の議論は、表音文字の西洋言語が中心です この辺の、基本的な部分をもう少し精細に考察して 反例が効果的かどうかの検討が必要ではと思いますが 素人ですので、見当違いかもしれませんが、 すっかり混乱して、理解できずに困っております。
補足
nakanonanakoさんからのご指摘が重要だというのは 次のような丸山圭三郎の見解のことです。 《私たちの意識に到達するものはシニフィアンとシニフィエが一体となったシーニュであり ある音のイメージは否応なしにある特定の概念を担っています。・・・ しかし この二項の間の絆が必然的なのは それがあくまでも非自然的な歴史・社会的実践によってもたらされた文化的化石である限りにおいてであり 言いかえれば シニフィアンとシニフィエの絆が必然的なのは それが恣意的(=非自然的)である限りにおいて必然的なのです。》(丸山圭三郎:ソシュールを読む 岩波セミナーブックス 1983 pp.201-202) こういうことだと理解します。すなわち / nVgV /なるシニフィアン=《障害の除去》なるシニフィエだと言っても そしてあるいは 音素/ n /=意義素として同定相だ否定相だと言っても これらの等号じたいの必然性は 何もないではないかというものです。 言いかえると / nVgV /が《障害の除去》なる意味を持つのは 他の/ mVgV /などすべての音韻とちがっているからであり それだけの理由によるのだというものです。同じく音素/ n / が同定相を帯びるのは 音素/ m / など他の音素とちがっているから 恣意的=非自然的に割りふられているだけなのだと。/ n / や/ g /など それ自体には 語の構成にとって何の意味もないと。 ですから これら音素じたいに その調音のあり方によって それぞれ意義素となるような性質があるのだと反証したものです。シニフィアンとシニフィエとの絆は 恣意的にではなく 発音の事情という自然的な事態によって 成り立つと批判したものです。 なお 共時態・通時態については ソシュール側の人びとのために ひとこと但し書きしたもので わたくし自身は 特に重きを置いていません。 丸山の文章で 問題となるところを 掲げておきます。 《言語主体の意識は 辞項の差異と関係しか知覚せず したがって 別々に分けられたシニフィアン シニフィエとか 個々の辞項といった 他の辞項との関係から切り離された個別抽象体は意識の領域に達しません。つまりそんなものは もともと存在していないのです。》(丸山:同上 p.167) / na / =名 あるいは / n /=同定相といった《個々の辞項・・・他の辞項との関係から切り離された個別抽象体は意識の領域に達しません。つまりそんなものは もともと存在していないのです》とのこと。つまり《文化的化石》なのだと言っています。 たしかに わたしたちの日常の会話や読書において 《意識の領域に達し》ていないかも分かりません。また それは 現代日本語ならそれとして《共時態》で議論せよという自分のほうからの制約条件を出していることとかかわっているとも思えます。 もう一度まとめますと 補足をさらに加えたのは 《/ nVgV /=〈障害の除去〉や / n /=〈同定相〉の例示をいくら挙げても そのイコールと言っていること自体には必然性がない。》 という理論のようだからです。イコールであっても そしてそのイコールの事例がいくら出ても そのイコールの成り立ちには 必然性がないのだと。
- tenntennsevengoo
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アイディアですが1音(子音,母音)でその漢字や音をすべて書き出して その組合せで統計的に障害除去であるということを示したらどうでしょうか? 例 --------------------------------------------- na=菜,名,南,納,奈,那,茄,無,泣,・・・・ この中で動詞と名詞と形容詞に分け 動詞(無、泣、鳴・・・) 障害除去80% 名詞(菜、茄、南・・・) 障害除去50% 形容詞(・・・・・・・) 障害除去50% という具合にして よって障害除去的な割合180/300より 障害除去的な割合6割このことからnVgVが障害除去の傾向性を持つ その理由としては・・・・・的可能性が考えられる。 ・・・・・・を見ても・・・・・・・でありこれは・・・・・いう理由で障害除去的な使われ方をしたものと思われる。 ---------------------------------------------------------------- 参考までに。
お礼
tenntennsevengooさん まいった!です。 いまの今まで 統計処理は思い浮かびませんでした。 思えば この恣意性説批判は もうすでに二十五年経ちます。 はじめ 数人の学者に郵便にて伝えましたが ほとんど取り合わずでしたので ひととおりまとめた後は 放っておきました。(わたしは 研究者であろうとする人たちの風上に置けない者でした)。 しかも この三年前までは その十年間ほど仕事のために 一般の書物も読まずにいたほどです。空白が多いという事実経過です。 名前を出してもいいと思いますが 菅野盾樹という先生(大阪大学)がそれこそ《恣意性は神話なり》と言って見解を発表しているのを知りました。さっそくメールにて伝えましたが 二便 こちらが三便のやり取りのあと 途絶えました。わたくしにはわけの分からない《学術的な》内容が述べてありました。 この恣意性説は 哲学思想に影響を及ぼしているように思われ その点 ささやかにでも 明らかにしなければいけないと思いました。 ですから しかるべき修正・訂正を望んでいますが しっかりした学問の領域での研究については もうその専門の人たちに任せたいと考えています。 こんなこたえでいいかどうか分かりませんが・・・。
補足
補足します。 (23)日本語における子音の相認識(仮説) / h /=順出・順定相;中心主題相・・・は(中心主題相=ハ格) ・〔対極として〕周縁主題相・・・は(端)・へ(辺) / k /=反出・反定相;疑問思考相・・・か(疑問法)・が(関係主題相=ガ格) ・変化過程相・・・は‐か(捗)・はか‐り(計・測) / n /=同定相・・・な=名 ・〔対極として〕否定相・・・な‐し(無) / m /=認定相・・・ま(真)・み(見)・む(意志法) ・〔対極として〕推定相・・・む(推定法) / r /=自然発生の相・自然発生と想定する相・・・み‐る(見) ・親愛称の相・一般代理の相など・・・わ(我)‐れ/我れ‐ら / s /=人為の相・・・み‐せ(見せ=店) ・指示の相・・・そ(其)・な‐し(無し) ・使役の相・・・め‐す(見す=召す) / t /=不定相(不定として一定だとする相)・・たれ(誰) ・隔定・完了の相など・・・と(戸・門・引用格) (24) 1 子音は 母音と違って その調音にあたり なんらかの障害が与えられる。 2 発音にあたって何らかの障害を加える子音のうち まずほとんど障害を加えず 息の音を出すのは/ h /である。または 両唇で軽く(F)あるいは強く(p) 息の音をさえぎって 発音する。これは 《順出》の相にかかわるものと思われる。 なお 順出・順定相ゆえの中心主題相に対して 対極の《周縁・境界》の相を兼ねる。 ha ハ(中心主題提示の格) hi 日・霊 ho・hi 火 ho穂・秀// ha 端 3 さらにあるいは 順出相はそのまま《頻出》の相と成りえ これは 《反復・習慣》の相(hu 経 -hu 倣―フ・学―ブ)を形づくる。 4 この順出相/ h /に対して 反逆を起こすのが 反出相/ k /である。喉の奥のほうで緊張点をつくり 強くさえぎって調音する。これが 反省・思考・疑問相を帯びさせるものと思われる。 ka カ(疑問法・詠嘆法など)・彼・処 ko 此・処 ki 来 ga ガ(中心主題に関係する主題を提示) 5 反出相/ k /からは 中心主題相の ha ハ と関連して 関係主題相の ga ガ が導かれる。 日本語の文は 基本的に 《Aハ Bガ Cナリ/スル。》という型式から成ると考える。このBは 第一主題Aの 関係主題だととらえられる。 相の認識内容が 反出・反定の知覚(kä気)に発しているなら 思考を促し 疑問を呈し 反省を加えることに結びつく。 順出相/ h /の時間過程としての相認識が 反復・習慣であるとすれば 反出相/ k /のばあいは 移行・変化の時間過程だと考えられる。(ku 来 iku 行ク) ha-ka 計・量・捗(中心主題haの経過ka) →haka-ri 計リ haka-ra-hi 計ラヒ haka-na-si 果無シ ho-ki 〔秀+過程〕祝キ→hoko-ri 誇リ ho-ke 〔秀の対極+過程〕呆ケ→boke 呆ケ〔有声子音の継続相は 強意あるいは負の強調として蔑視の色合いを帯びる〕 6 息の音をそれぞれ軽くさえぎって調音するところの / '(ア行子音)・y・w /は / h /=順定相の異種だと思われる。 / ' /=自称・自定相 / w /=強意の自同相。 前者はさえぎり方をむしろ軽く無くす(内向?)。後者は 逆に軽く過剰にする。 これらとは別に 発音に際して断層をつけるように邪魔をして調音するのは / y /=称定・実定相。 これは / h /の順定相を色濃くしているのだろうか。 'ono/'ana 己 wa 我 wo ヲ(対格) ya ヤ(呼格) yo ヨ(呼格・実定法) yo-bu 呼ブ yaya 稍(《いかにも事の度合が進み つのるさま》) yiya/yiyo弥・愈 7 / p ・ b / は / F /や/ w /をつうじて 息の音/ h /と 互いにおなじ相の仲間を形成する。 a-ha-re〔自同―中心主題―自然想定〕 → appare 天晴レ → aware 哀レ (つづく)
興味深く読ませていただきました。 ただ私の理解では、「/ nVgV /」という【記号】(シニフィアン)と「障害の除去」という【意味】(シニフィエ)の結びつきに必然性がないという点が、ソシュールが意図した「恣意性」です。 派生語群の中に一定の美しい法則が認められたとしても、依然として/ nVgV /とその意味の間には必然的な結びつきはないのです。 個別の言語においては、母音交替や接辞を伴って派生語が生じます。このような派生の過程と意味内容の交替との間の関係もまた「恣意的」です。 書記言語の場合には音声言語との乖離もあります。「長い」を「*流い」、「慰む」を「*和さむ」という表記が一般的でないのはこれまた「恣意的」な判断の結果です。
お礼
回答をありがとうございます。 (15)(番号をふって 味気なくてすみません)。そもそも 子音としての音素がそのまま意義素であるという仮説です。 (16)音素/ n /は 歯の先端が上の歯茎あたりに接触する度合いにおいて たとえば音素/ t /よりは濃くねちっこいかたちで調音されることから 同定相を帯びると推測します。 音素/ k /は 喉の近く・口むろの奥あたりに緊張点を作って 息の音/ h /を遮りつつ調音されるゆえ 《反出・反定》の相そして《反省・思考・疑問》の相さらには《変化・移行過程》の相だと捉えたものです。 その有声音/ g /は 母音の如く声を出現させることによって 無声音の持つ相(この場合 / k /の反逆相など)に継続の相を与えるように捉えます。 (17)この同定相の音素=意義素/ n /が 一般対象を同定して《na (名)》という語を作るのは 自然であり そのシニフィアンとシニフィエの間には 論理的な絆があると推し測られます。恣意的ではありません。ここから派生した《名‐る / 名‐す / 名‐り》が 《成る / 為す / 也》という語をそれぞれ作るのも 必然のことであり 恣意性は排除されています。 (18)/ r /は自然生成相あるいは一般代理相で / s /は指定相もしくは人為相だと想定します。/ na / =《一般対象のもの》が/ ru /=《自然生成する》なら 《成る・生る》だというのは 無理のない必然です。 (19)聴覚対象を同定した/ na(音) /から naru(鳴る)naku(泣く)が作られるのも 自然であり必然のようです。 (20)そして 日本語ではそうでも 他の言語ではそうではないというのは おっしゃるように まちがいなく 恣意性がはたらいています。 (21)ちなみに つぎの話は 愛嬌です。 インドヨーロッパ語族の言語では / n /は 英語name(名)やnumber(数値;日本語ne値))あるいは no / not(日本語:ぬ=打ち消し)のように現われています。 この例は偶然でしょう。言語によって 音素とその意義素のあり方は それこそ恣意性にもとづいて 成り立っていると考えられます。 (22)形態素としてまとめて / nVgV /=《障害の除去》というように捉えるのは たしかに分かりにくく 部分的な事例です。音素ごとに その音素=意義素(その意味で シニフィアン=シニフィエ)という大前提から出発するべきではあります。
補足
補足します。 (21’)この(21)項で 《言語によって 音素とその意義素のあり方は それこそ恣意性にもとづいて 成り立っている》 と書きましたが つぎのように考え〔直し〕ます。 《1.言語によって《音素( phoneme )=意義素( sememe )》という事態があるかどうか わからない。 2.極端には 逆に言って 日本語のいまの仮説が すべての言語にあてはまることさえあるかも知れない。 3.繰り返しになりますが 《/ n /=同定相》などの想定が 普遍的に有効であるかも知れませんし これは まったく日本語のしかも一部分での現象なのかも知れません。 4.ただし いま現在では 例外の現象だとは思われないというのが 正直なところです。 5.日本語での部分的な反証が 普遍性を持つのではないかとさえ思う理由としては こうです。――日本語は 《CV》 つまり《一子音+一母音》という原形的な〔と思われるような〕形態素( morpheme )から成っており それだけではなく それほど 音韻変化が 激しくなかったかと思われるからです。他の言語では そうではなく 平気で 核となる音韻を落としたり 跡をたどれなくなるような変化をしたりしているように見られます。 6.ですから (20)項にも《そして 日本語ではそうでも 他の言語ではそうではないというのは おっしゃるように まちがいなく 恣意性がはたらいています。》と書きましたが この場合の恣意性は それほど強いものではないかも知れません。 7.ちなみに 肉のほうを《ぎゅう》と言い 生きている動物を《うし》と言ったり 《 sheep 》と《 mouton 》とが その語の特定する範囲が違うと言ったりというのは 恣意性であるでしょうが たいした問題ではないと考えます。なぜ大きな問題であるかが わかりません。人は個性があって それぞれ異なるというのと大差ないと思います。 ・・・》 *《書記言語の場合に・・・「長い」を「*流い」、「慰む」を「*和さむ」という表記が一般的でないのはこれまた「恣意的」な判断の結果です。》との謂い。 これは nakanonanakoさんにしては 勘違いだと思います。意味にもとづく必然性 それほど無理がないと言える程度の恣意的な判断(人びとの受け容れ)があれば 《流い》がありえたかも知れず 《和む》はあり得るかも知れないと見ますが。
- tenntennsevengoo
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niは省いた方がいいかもしれません。 「逃げる」「逃がす」「濁す」「濁る」「苦い」「苦味」「握る」 このなかでは 「逃げる」「濁す」が辛うじて障害の除去になっていて他は 無理があるような気がします。 niの場合「鈍」「煮」「似」「荷」「憎」という言語があるので障害除去というよりかは変化傾向の方が強いと思われます。 あとguruですねこれは「苦しい」を連想させます、ですから難しいかもしれません。 nVguruの中では「殴る」と「寝苦しい」の二つです。 「寝苦しい」は障害除去とは言い難いでしょう。 また「殴る」とかは障害除去の意味を持ちますがポジティブとは言い難いです。
お礼
~~~~~ もくじ ~~~~~~~~~ (1)~(3):質問欄 (4)~(5):No.1お礼欄 (6)~(8):No.2お礼欄 (9)~(11):No.3お礼欄 (8’)(12)~(14):No.4補足欄 (15)~(22):No.5お礼欄 (21’):No.5補足欄 (23)~(24-7):No.6補足欄 (24-8)~(24-12):No.3補足欄 (24-13)~(24-14):No.2補足欄 *音素/ h /=中心主題相←→周縁主題相:No.8お礼欄 *** *** (この場をお借りしました。あらためて回答者のみなさまに感謝申し上げます)。
補足
(8’)すでに記した(8)の分類整理に補足をします。 [1]一般対象の同定:na-ri(也=断定法); no/na(の・な=属格); ni(に=与格) [2]その類似相:ne(真・似); ni(荷)& no-ru/no-seru(乗る・載せる――類似相は AとB二つのものを比べて重ね合わせるごとくなので その様態が 荷・載るなどを連想させる) [3]聴覚対象の同定:na-ri(なり=《・・・だそうな》=伝聞法〔古語ですが〕);no-ri(宣り=法) [4]自然環界を同定:no/no-ra(野・野良);na/na-ra(地・地ら=奈良); na/ne(寝=横になる);na-re/nara-su(慣れ・均す=次の(12)にて説明) [5]否定相:na-si(無し) (12)《横たわる》という意味の na-su 寝・す/ ne 寝 という語があることから 《na-ra-su 平らす・均らす》 は 《na 地》と関連しているのではないかとも疑われます。 na-ra-su 平らす・均す・馴らす・慣らす na-ra-hu 慣らふ・習ふ・倣ふ na-re 慣れ あとの二例(narahu/nare)は 単に 一般的な同定相[1] もしくは 対象間の類似としての同定相[2]がかかわっているだけだとも思えるものの この場合 精神的にも 技術的にも 凹凸や障害をなくして(つまり否定相[5]でもある) 平らな状態にする(つまり 平らす)といった捉え方も出来ようかとも疑われます。 (13)おっしゃるとおり 「濁す」「濁る」「苦い」「苦味」「握る」「鈍」「煮」「憎」「殴る」――これらは 必ずしも そして ほかにも多くが わかりません。 (14)人類の諸言語のなかに日本語があって 日本語において 一部の語の集団で 恣意性が成り立っていないとき これを例外であると証明するのは 恣意性説の側だと思います。すべての日本語で そして すべての言語で 恣意性説への反証が出されたあと やっと考えるというのでは 経験科学としての良心が疑われます。(ちょっと 不平たらたらでしょうか。)
- tenntennsevengoo
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とても面白かったので書かせていただきます。 noga-su 逃がす とかは捕まえたい意志を阻害している感じもしますね しかし目の前の対象が無くなるという感じでもあります。 あと nigo-ru 濁る なんてのは障害的かなとかも思いましたが目の前にある濁っていない対象が無くなるという意味合いでもありますよね n(V)g(V)-(V)u というシニフィアンがあったとするとある現象から別の現象への移行を意味するということになりませんか?
お礼
解釈が多種多様にひろがるということを学びました。回答をありがとうございます。 仮説のつづきという形を採らせていただきます。 (9)子音なる音素/ n /が同定相を帯びていると同時に 対極なる否定相をも帯びるという事態について次のように考えます。 たとえばAという人の代わりに留守番する人(=Bとします)のことを もともとは 留守と言ったはずなのに 従ってこの留守という語は 留守番係であるBの存在を同定していたはずなのに そのことが Aの不在つまりその在宅の否定をも 含意することからなのか Bの同定が 即 非BたるAの否定を意味するようになった このような事例によって 説明されうるかと考えます。 《 na 名》というふうに同定していたところ どういうわけか その《名》で表わされるもの以外の対象が 同定されて さらにそのあと この初めの《名》としての対象が 否定されるかたちで 同定された。それが 《 na 無》であると。 ただしたとえば 《そうだ‐ね》とか 《いい‐なぁ》というときの 《ね ne》 や 《な na》 は もともとの同定相によるものと考えられます。同定して いわば相手や自分に対して 念を押している相を表わす。 つまり だから 念押し法の《na な・なぁ ;ne ね・ねぇ ;no の・のぉ 》 だと考えられます。しかも その対極の 禁止法(する‐な!)や疑問法(する‐の?)の用法にもなります。 (10)/ k /については いま断定的に言って 反出相・反定相そして疑問・詠嘆・思考・過程・移行の相を帯びると想定し その有声音の / g /については 無声音の持つ相の継続相だという仮想です。(反出ゆえに思考し 思考ゆえに動きがある そんな相を担うのだと)。 (11)したがって 想定のかぎりで 《障害の除去》という意味の/ nVk(g)V /については / n /=否定相 / k(g) /=移行相だと捉えたものです。
補足
補足です。 (24)つづき 8 あらためて 有声音は それぞれの無声子音の持つ相内容の継続状態を表わすとする。この継続相ゆえ 必ずしも 語頭に立たない。相の継続は 強意になりうる。 so 其 → zo ゾ(断定法) sama 〔指定一般+認定一般〕様・状 → zama ザマ ika(厳)-si → do-ika-i →dekai デカイ→ do-dekai ドデカイ(to→doはなんらかの不定の対象) 9 語頭に立たないということでは 自然想定相/ r /が同じである。 自然想定相は 何らかの相を一般的に代理することが多い(たとえば -ru(‐る) 派生として体言等から基本的な用言の形態をつくる)。 もし代理する以前に立てられることはないとすれば その通り語頭には来ないのであろう。 この一つの傾向は 朝鮮語や そして満州・モンゴル・チュルク系・ツングース系などいわゆるアルタイ語族に一般的な特徴として指摘される。 10 この子音 つまり 舌先を口の中の天井のどこかに当てるようにして調音する──日本語ではただ一個の──/ r /は 息の音を遮ろうとする子音一般の現われを しるしづけるもののように見られる。 一般代理(子音一般の代理)と自然生成との二つが 基本の認識相だと考えられる。 wa 我→ wa-re 我レ→ ware-ra 我ラ hi 日→ hi-ru 昼 ma/ me 目・・・mi-ru 見ル→mira-ru 見ラル ta / te 手・・・to-ru 取ル→tora-ru 取ラル→toraru-ru-toki 取ラルル時 11 順出相/ h /にほとんど等しい/ F/p/b /と同じように 両唇の遮りで調音する子音/ m /は順出という如く 自体にかかわって認定する相だと考えられる。 両唇の遮りは 関係する対象つまりそれ自体のことを 自同律のごとく(=ʔ・w)表出しつつ しかも 収め・引き受けるような相を帯びると思われる。(ma 目・真 mi 見 mo/mu/mi 身) ただ その自体の認定が 単なる思い込みであったならば 口から出まかせになり 逆に推定相を導くかと考えられる。(mo モ〔疑問詞を承け 不確定な題目を提示するという〕) ma 〔身と身との関係が想像される場における〕間・際 mu-ku〔身+移行〕 向ク mu-su〔身+起動〕 生ス(→息子・息女) mu-ra 〔身どうしの関係の想定〕群・村 〔その対極=曖昧に推定された身として〕mu-ra ムラ(=不揃い) ho-mu 〔秀―認定〕褒ム yo-mu〔称定+認定〕 読ム(=数える haka-na-mu 果無ム aware-mu 哀レム 12 上のようにどちらかと言えば 自体にかかわる子音/ m /に対して 舌先と歯茎とで調音するとき その子音/ n /は遮り方が大きい。もしくは 内側の歯茎にあてた舌先のあり方によって 粘着性が現われる。 これが 同定相を呼び込んだものか。(na 名 ni ニ〔与格〕 no ノ〔属格〕) ただし より大きく遮ったゆえ 客体のほうにかかわっていくのだろうか。 しかも この同定(na 名 no ノ)が ついにその対極へ突き抜けてしまうなら むしろ客体の否定相が現われる。(na 無) 否定のかたちで 同定するわけである。( na ナ〔禁止法〕 nu ヌ〔打消し法〕)。
- fishbowl66
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興味深い質問ですね。 それと、時々有るのですが、たまたま本を読んでいると、 その関連の質問が、ぴったりのタイミングで投稿されたりします、 素人がない知恵を絞って、回答に挑戦したくなってしまいます。 最初に、ソシュールの言語学との関連も有るかと思いますが、言語の恣意性は、#1様のご指摘の通りの、言語(日本語は複数形がないので、判りやすく言い換えるとthe言語sとa言語の違い、うむ~わかり難いか)の違いによる恣意性が有りますね、例えば、ソシュールは言語の恣意性について「多くの言語が有る」事を証拠にしています。その様な恣意性があることを前提として、以下引用です。 「言語記号の恣意性」 「シニフィアンとシニフィエは、別々に存在しているものが結合されるのではなく、価値の体系からシーニュが切り出されると、シニフィアンとシニフィエとが同時に生まれる。シニフィアンとシニフィエはシーニュの二面である。だからシニフィアンとシニフィエの結合関係を実体的に考えることは無意味である。そしてソシュールはシニフィアンとシニフィエの関係が「恣意的」であるというのである。 この恣意性を第一の恣意性とするなら、それはシーニュ内部のシニフィアンとシニフィエの関係が恣意的だということである。だがもう一つの恣意性がある。丸山氏の言葉を借りると、第二の恣意性は、個々の辞項のもつ価値が、その体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性であり、前者の恣意性はその結果である。どうして恣意性がソシュールの問題意識にのぼったのか。すでに歴史的であるラングの中に人間は生まれるのであり、その拘束のなかで生きているわけだが、もし人間があらたな歴史を創造することができるとすれば、言語はつくりかえることのできない自然のようなものであってはならない。恣意性は言語が自然のように不変のものではない条件であり、言語が歴史的、社会的なものでしかないことを意味している。その使用のなかで人間は文化を創造することができるのだから、言語には差異しかないという考えは、むしろ人間が歴史をつくりだすことをひそかに孕んでいたのである。おそらくこの二つの恣意性のなかでは、第二の恣意性と呼んだものの方が重要である、つまりシーニュ間の差異の方である。そうでなければ言語活動によって、人間は自らのまわりに文化的な世界を構成していくことはできないのである。」(『雑学者の夢』 多木浩二) 昨夜、付箋をつけた部分ですが、私の関心は前半の最初の改行まですが、真ん中辺りが、ご質問者様の問題提議に関わる、恣意性と言う事でよろしいでしょうか。特に第一のもの恣意性に対する、批判の反証としての実例を挙げられたのではと考えます。最後の方は、とりあえず、削除せずにコピペしましたが、前半同様、無視しておきましょう。 さて、言語は恣意的であるという命題に対して、反例を一つあげれば、否定できるわけですから、なぐ・naguが、/ nVgV /のパターンとして、ア・プリオリな排除の意味内容を言語の上記引用部の第一の恣意性の反例となるかどうかが問題ですね。う~ん、大変面白い着眼ですね、う~ん。 素人の個人的考えですが、此方の方が影響力が強いのかな、と。 つまり、音韻と感覚の関連性と言うのでしょうか、笑い声や泣き声などが、一応、各種の言語使用に関わりなく、ほぼ共通の音韻が使われています、そこで、言語の恣意性の反例と言うより、もっと根本的な、意味の抽象化に、理論や比喩、類似性や共通性と言った、概念把握以前の感覚感情の繋がりが存在すると言う方向からも、考察可能ではないのかな、と。まぁ言語以前の記号・象徴作用にア・プリオリな感覚の影響についての事例・・・う~ん、ここ書き過ぎですね、自分でも良く判らないし、意味が伝わらなくなりそう(笑。 ともかく、面白い視点ですし、私はしょっちゅう質問を読み違えたりしていますので、見当違いかもしれませんし、慌てて書いた為、回答も長くなりました、直接の回答は大変難しく、恣意性に関する三点と、反証のさらなる検証の参考程度に書いておきます。 少々、引用で長くなりました、大変失礼しました。
お礼
回答をありがとうございます。 この恣意性については ソシュール自身の言うことがわかりにくく わたしは 丸山圭三郎の説を対象にして論じているのですが その点は 逆にあいまいにして みなさんの見解を伺いたいという魂胆です。 《反例を一つあげれば、否定できるわけですから》とおっしゃっていることに心強さと刺激とを受けています。一般にそれが通用するかどうかは 別のようにも感じてきたのですが。 ただし 擬音語・擬態語のたぐいでの批判は あたらないとわたしは思います。それらは むしろはっきりと例外だとされていたかと思います。《書き過ぎですね》とおっしゃっていますが。 仮説の説明をさらにつづけます。 (6)音素が意義素を兼ねていると思われる日本語の事態として 《音素/ n / = みずからの意義素として 〈同定相〉 を持つ》 と想定します。 (7)たとえば 《 na =な(名)》 これは 対象をふつうに一般的な対象として《同定》して 成り立った語だと捉えます。 《 na-i > ne =ね(値)》 これは やはり一般的なのですが 数値として・数量的な価に限って 《同定》した結果というかたちです。母音は いま別として 子音/ n /が 《同定》という意義をもつから そういうことばの成り立ちだと想定してみるものです。 (8)そうすると 次の四つないし五つに分けられます。 1.対象一般の同定 = na (名);na-ru (成る);na-su(為す) 2.対象間の類似関係としての同定 =na (真・似・ぶ=学ぶ); ni-ru(似る) 3.聴覚対象の同定 = na(音?)/ ne(音); na-ru (鳴る)/na-ku (泣く) 4.自然環界たる対象の同定 = na (地/ 中); ne(根); ni (土) 5.同定の対極相として否定 = na(な=禁止法);nu(ぬ=打消し法) 途中ですが 以上のごとくです。 ちなみに na(名)はむしろ na(音)が初めにあって 出来たかとも推測されます。
補足
(24)の補足のつづきです。 13 上の/ n /と同じような調音のしかたで しかも舌先の解き放ちがより素早い子音/ t /は 客体にかかわりつつ粘着性が少ないゆえ 不定の相で同定するものと思われる。不定として一定する。 不定指示からは 隔定・放出・完了などの相を帯びると考えられる。 to ト → toto トト・too-san 父さん cf. haha 母 to-i > te → tete テテ baba 婆 > ti 父 → titi チチ kaka 母 to 門(出入口)・戸(出入口の隔て)/ 外 to-ki 時 〔不定相の経過〕 to-ki 解キ・溶キ・説キ〔不定相の状態へ移行させる=ゆるめる・緩めて液状にする。また 氷解するのなら 解明・説明するの意〕 to-boke ト-呆ケ to-ho(不定相のもの〔へ〕の順定)→toho-si 遠シ・toho-ru/-su 通ル/ス to-hi 問ヒ(不定相のものの中心主題化) tohi-tu 問ヒツ(解き放つ相〔t〕での完了法) cf. ki-nu 来ヌ(同定/到達相〔n〕ないし消滅相〔n〕での完了法) 14 舌先を 上記/ n・t /と同じような位置に・ただし軽く置きつつ なおも上下の歯を閉じ 閉じ続けるのは 子音/ s /である。 歯を閉じ続ける形で息の音を遮りつつ しかも出そうとするのであるから その息の音の子音/ h /の順定相が 強い指定の相(so 其)を伴うものと思われる。 動態つまり用言に適用されるなら 一般に人為の相(su 為)を帯びるはずだ。 *nakanonanakoさんから指摘を受けたように 同じシニフィアン(その派生)について すべてうまくシニフィエの内容がやはり同じであっても その両者のあいだに どのような関係があるかが 問題なのだと思います。 つまり シニフィアンがどういう成り立ちであるから これこれのシニフィエを導いているのだという実態です。 (23)~(24)項は それを 子音の調音のあり方に焦点をあてて とらえたものです。これなら 自然の絆があると考えました *通時態と共時態とを 混ぜてあつかったかたちですが。
- nabayosh
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一応言語学に詳しい大学で、言語学入門の講義を受けたことのある身です。 言語学のカテゴリがないからここでのご質問ということですね。 なるほど、脱ぐ(障害となる身体を覆うものの除去)などもありますし、いかにもその説は正しそうに見えます。 しかし、言語の恣意性ってそういう話だったかなあ、と思ったのが率直な感想です。 恣意性というのは、確かひとつの言語だけを比較するものではなかったと記憶しています。 「A」と呼ばれるものは、どんな言語でもAと呼ばれなければならないということはない、というのが恣意性では。 つまり、投げるという動作のことを、どんな言語でも「なげる」と言わなければならない必然性はない、というのが恣意性だったはずでは、と思うのです。 私の記憶が間違っていたなら、忘れて下さい。 しかし、同一言語内での現象として見ると、その/ nVgV /は面白い発見だと思います。 イ段で調音点が変わる「逃げる」「濁す」なども、障害から距離をおくことでその障害をないものとして扱うことだという風にも取れますが、このへんはどうなのでしょうか。どこまで定式化できるか、という問題が必ず付きまとうはずですので、牽強付会にならないような証明の仕方が必要になるでしょう。
お礼
回答をありがとうございます。《逃げる》を指摘してくださったように さらに例証があります。 有声音と無声音とを同列に扱うとしますと / nVgV /の事例に/ nVkV /を加えることができます。 (4)naki/ naku 無き/無く (否定。障害の消滅) (5) niko にこ(和・柔) (障害の消滅した状態) niko-niko にこにこ(微笑む状態) (同上) niko-ya-ka にこやか(同上) (同上) nuku/nuke-ru 抜く/抜ける (障害・邪魔の除去・離脱) noku/noke-ru 退く/除ける (障害・邪魔の離脱。除去) nugu/nuge-ru 脱ぐ/脱げる (同上) nugu-u/nogo-u 拭う (同上) nige-ru/niga-su 逃げる/逃がす (同上) noga-su/noga-reru 逃す/逃れる (同上。ただし 障害や邪魔は 離脱する者のほうではなく ほかの者の側に 設定されている。) noko-ru/noko-su 残る/残す (同上。上の補注と同じように 視点の移動が見られる。消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく 以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに焦点が移ってしまった。) *《濁り・濁し》は どうでしょうか。《澄み》の反対で その澄みは むしろ障害が除去された状態のようですので・・・。 *音素(いまは子音です)が同じなら 意義素(シニフィエ)も同じだという恐ろしい仮説です。 *あらゆる言語をつうじて 通用しなければならないという見方については さらに検討します。
お礼
いい考えが浮かびました。音素の持つ意義素には ふつうの相のほかに 対極の相が伴なわれているという事態(仮説上の)です。そうであれば その音素じたいに何らかの自然的な――《個別抽象体》としての――実質があると見なければならなくなります。 (A) / h /=〔息の音ゆえ〕中心主題の相→突出相・秀逸相 ho 穂・秀・帆 → ho-ide > hiide 秀出(ひいで) ho-ki 祝(ほ)き / hoko-ri 誇り ho-si 欲し / ho-ri 欲り(欲り‐す→欲す) ho-me 褒め / homa-re 誉れ ha-tu 初 hi-to 一 (B) / h /=対極として 周縁部分の相 ha 端 →ha-gi 剥ぎ/ ha-si 端 / ha-ta 端→hata-su 果たす・ha-te 果て / ha-da 肌・膚 hu-si 節(《つなぎ目》として周縁部分の相) hu-ti 縁・淵 / hu-ta 蓋 →huta-gu 塞ぐ ho-to-ri 辺・畔・際 ho-ka 端‐処=外・他 he 辺・端・方;重 →he-ri 縁・he-ri 減り・he-gi 削ぎ/ he-ta 蔕〔→下手?〕 bi-ri ビリ *この場合の対極は 突出の相から 周縁・境界部分の相へとつながると思われる例ですが。また ha-simeハ‐占め→hazime初め・始めの《は》は 同時に Aの突出相でもありBの周縁相でもあるようです。 このように同じ音素が 両極の相を帯びるのは その音素じたいに 自然の性質としての内容があるからだと推測されるという見解です。 他の音素(シニフィアン)との違いからのみ割り振られている意義(シニフィエ)ではないと捉えられるというものです。いかがでしょうか。
補足
(あ) 音の感覚とことばとのつながりは とても面白い課題だと思っています。そしてそれは 恣意性の問題とは関係なく 分野を形成しているはづです。何の問題もないと思います。(追究してゆかれるといいと思います)。 ちなみに 《にこにこ》などは 実際には擬態語でしたね。この場合 《ピカッ》という擬態語から普通の語《ひかり》が出来ていて この光りのほうは 語例に挙げてよいように ニコニコも挙げました。 (い) 多木浩二さんの本を拾い読みしました。丸山圭三郎の説にきちんと基づいて議論していると思いました。その説が十全に成り立つかどうかです。 ベルクソンにとぶとわたしには 残念ながら いま手が出ません。 (う) うまい譬えとまでは行かないのですが 次のように考えてみました。 いま仮りに 一個につき一円・十円・百円の三種類の金属貨幣があるとします。恣意性説を当てはめうるものならば当てはめてみると 仮りにそれぞれが 銅・銀・金で出来ていたとしても その素材にかかわらず その貨幣の意味は 互いと互いとの差異によって成り立つ そしてその差異によってのみ成り立つということになると思います。 このとき 素材である金・銀・銅のそれぞれの金属としての性質などが ある程度において個々に注目され そしてその値打ちが決められているという物言いをわたくしは提出したのでした。金ゆえに百円に関係づけられるという形において 《個別抽象体》が存在しうるというものです。 金貨一枚=百円という決まりは あくまで 金銀銅の互いの差異とその相互関係からのみ出てくるのだと反論してくるかと思います。この世の中ですから 相対性の世界であることにまちがいないとは思うのですが・・・。 (え) それにしても この恣意性説にもとづけば 世の中すべて 差異と関係性からのみ成り立っていて 個としての我れといった個別の存在はないとか言うようで 自由意志はどうなのかとか 気になります。