※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《言語記号の恣意性》は 神話である。)
言語記号の恣意性とは?
このQ&Aのポイント
言語記号の恣意性は、自然と文化が切り離された人間の歴史において、人為と自然がつながっていることを否定する仮説です。
構造主義は、人間が社会的な行為関係の中で無主体として生きると主張しています。
構造主義の議論の中心には、自然と人為の繋がりや個人の自由な意志行為の後におこる縁起の過程があります。
これは 構造主義の基礎に横たわる仮説である《歴史は 無主体の過程である》という見方をくつがえしたいという目的のもとに問うものです。
これについて結論づけるところまで行ければよいと考えます。
《恣意性》説は じんるいの歴史において《自然》と《人為(その意味で 文化)》とが切り離されたと見るものです。
この見方がくつがえれば 人為と自然とがつながっているということ。たとえ本能がほとんど壊れてしまっていてもなお 自然の痕跡は残っていて ひとは 生物としての存在性そのものである《自然人》でありうると見ることになります。
構造主義は この自然人であることから切り離された文化人(その意味での社会人)として〔のみ〕生きる生物種たる人間は もはや一人ひとりが互いに 社会的な行為関係とその構造の中であたかも無主体として生きるほかないと言おうとしていると考えます。
(あたかも 主体無き《縁起》の過程をあゆむと言っているとも見られます。そう言えば 通俗的にはブディズムも さとりを説いていてもけっきょく 《ひとり》としての人間は無力であり社会の縁起過程に従うのみだと言っているかにも聞こえます)。
すでにこの議論は 二度おこなっています。最初のはわたし(= noname#80116 )の質問で 次のには 或る質問に寄せたわたしの議論があります。
【Q:言語記号の恣意性は正しいか】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2944701.html
【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html
議論の中身としてかなりの程度まですすんでいるかとも思います。結論を出したいという思いで改めて設問します。
きっかけ(たたき台)は 次のごとく最初の問いと同じものを用います。
*
/ nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。
(1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・
心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・
これが消滅する というシニフィエとなっている)
(2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。
nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる)
naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる)
naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く)
naga-i 長い (障害なく延びた状態にある)
(3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。
nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態)
nago-mu 和む (障害が消滅していく)
nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる)
negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求)
nega-u 願う (障害の消滅を希求)
*
こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。人間は《自然人かつ社会人》であると言えると思われます。
《自然人》としてかたちづくる――つまり 感性にもとづく――《好き嫌い⇒ くせ⇒ 価値観 ∽ それにかかわった意志行為》が 人間をして経験有限相対的な存在であるかぎりでの《主体》たらしめる。《無主体の過程》というのは この個人としての自由な意志行為のあとの相互に作用して錯綜する構造つまり縁起の過程総体のことを言うと見られます。
どうでしょう?
お礼
主体性という場合 わたしとしては 意志行為を取り上げたいのですが そこではけっきょく《答責性(説明責任)》ということを外すことができない。これを言いたいと思ってのことです。 だいたいこんなふうだと考えます。 ソシュール関係は 過去にいくらかの質問が出ているようですし 現在もひとつ挙がっています。ですから 人びとの関心が薄いとも思われないのですが あまり投稿は来ないようです。いまのところ。さあ どうなりましょうか。
補足
fishbowl66 さん ご回答をありがとうございます。 (1) 例外の問題 これは 案外はっきりとしているはずです。 例外は例外としてきちんと規定されているというかたちです。 赤ん坊が発音しやすいマ行の音などは 母なら母という意味の語にどの言語にも共通なかたちで現われるようだ。であるとか あるいは 擬音語・擬態語 これらは 音素に意味がないとしても やはり各言語に共通になったりするかも知れないし また一つの言語の中で 音素と対応する意味を持つ場合がありうる。であるとかだったと思います。 これをはずして 《音素と意義素とのつながり》を証明してみせれば 仮説を破ることができると言えると思います。 (2) 音素と意義素との関係 ★ シニフィエとシニファインをコインの裏表、というような比喩的表現をせざるを得ない点 ☆ 申し訳ないけれど これは 誤解です。シニフィアンとシニフィエとはつねに裏表のごとく一体です。ただそのつながりには 何の合理的な形式も見出されないと言っています。 ですから 趣旨説明に挙げた語例で 両者のあいだに合理的なつながり関係があるのだと言おうとしています。 ○ シニフィアン∽シニフィエ ・・・これは 趣旨説明に挙げる語例が 例証になります。 ○ 音素 ∽ 意義素 (ここでは 子音のみを示します) / n / :否定相を帯びている。 / k (g ) / : 〔ここでは〕移行相・過程相を帯びている。 / nV-k(g)V / :否定されるものの過程ないし移行を表わす。 (3) 丸山さんと構造主義について そうですね。たしかに構造主義は すべての価値(つまり 文化の発展度合いですとか そこに見出されると思われていた価値や価値観)を相対的なものだと見ますから ★ これ自体は善悪の概念とは無関係な事実の問題ですね。 ☆ そうして それだけならいいと思うのですが どうも現代の思想なりその価値観というのは 価値の相対主義だけではなく その価値がそれぞれの文化様式ごとに付与されているというときその価値を付与している人間の行為――これは 一般に意志行為ですね―― この意志行為の意味もほとんど無いと 暗黙のうちににしろ 言っているようなのです。 これが 《無主体の過程》という仮説であり そういう見方に立っているようなのです。早く言えば すべて相対主義のもとにあるのだから 個人の意志行為と言ったところでやはり相対的なものだ。だからそれは意志の主体だとは考えられない。ロラン・バルトでしたかは もはや《作者はいない》と言います。あるのは読者だけだと。 これも確かに いわゆる神に直結した(もしくは 世界精神の現象としての)人間なる主体という仮説を批判しているものらしいのですが ここから一歩も二歩も踏み出して ひとの意志行為は あって無きがごときものだという見方に発展しているようなのです。 極端な話をすれば ぢゃあ犯罪行為もすべて 一人ひとりの人間の意志行為であるのではないというのならば それは何の罪にもならない。責任はいっさい負わないということになるではないか? と切り返すことができるはずなんですが どうもこの事態は また別だと言うのでしょうか 一向にこの無主体説は退いて行きません。 ★ フーコーなんかは、構造を権力に結び付けて、そこで批判しているのでしたか ☆ という別の事態にも《発展》しているようです。 ○ 【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html 丸山は 人類の誕生のあとは・つまり言分けして現われた人間は 自然の生物としての自然人状態は壊れてしまい 言葉をともなった文化状態(つまり 社会人状態)だけであると言います。 自然人状態が壊れたということは 要するに 《いかれている》つまり狂乱状態こそが図と柄で言えば図であると言います。そのカオス状態という世界の中で ノモスという科学概念ないし倫理規範を見出して生きている。自然の欲求ないし生理的なおこないも 図柄としてのこの《カオスとノモス》なる世界の中での現象であると。 だから 主体だとか意志行為だとか言っても それは仮象でありすべてはそのように仮想してみづからは《現実》だと思っているに過ぎない。こう見ているのだと思います。