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烏帽子親の死と偏諱

後北条氏の北条氏繁について書かれたものを読んでいたところ「北条氏康死去を契機に康成から氏繁と改名し」とありました。 これは烏帽子親の死に伴って偏諱を返上したということでしょうか。 家康が今川義元から受けた「元」の字を今川家との決別後に捨てたのはよく知られていますが、氏繁のように同じ家に仕え続ける者でも偏諱を返上するようなことはよくあったのでしょうか。それともむしろそのようにするほうが一般的だったのでしょうか。 加えて「氏繁」の名には「康成」の時にあった通字(?)の「成」もありませんが、そういうことはあまり重要ではなかったのでしょうか。偏諱や通字など以外ではどういう風に諱を選んでいたのか、非常に興味があります。

みんなの回答

noname#26663
noname#26663
回答No.1

こちらの方に主因があると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%B9%B3%E6%B0%8F 北条早雲 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2 北条の名前自体が重かったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%B6%B1 氏は誰かに授かったのでは?

mapato
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 北条の名前が重かったというのは氏繁にとってもということでしょうか? 私も「氏」は北条家が氏綱以降通字的に用いているので新しく主家からもらったものかもしれないと思いましたが、氏政の「政」ではなく「氏」のほうをもらうというのは「一門衆としての絆をより強める」というような意味合いを込めたものだったりするのでしょうか。

mapato
質問者

補足

>こちらの方に主因があると思います。 申し訳ありません。リンク先を見てもご指摘の意味がよくわからなかったのですが、ご面倒でなければもう少し説明を頂けないでしょうか。

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