• 締切済み

地球は生物の密度が高すぎませんか

今日、畑で雑草を抜いていました。雑草を抜くということは殺すということなんですが、できれば殺したくはありません。 雑草ももっと少なければ抜かずにほっとけるんですが、あまりに数が多すぎるために根絶やしにするつもりで対処しなければ作物に影響が出ます。作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。 そこで、 この地球は生物の密度が高すぎるのではないか。 なぜ殺さなければ生きていけないのか 生物学的、宗教的にはそれらしい答えもあるのでしょうが今ひとつ釈然としません。どなたか私を納得させていただけないでしょうか。 ちなみに、無除草栽培の方法を聞いているわけではありません。

みんなの回答

  • wwooww
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.45

wwoowwです。 反論・・あります 笑 ぼくはどうやら攻撃的、強要的、自己中な感じの人間とsiftさんに思われてるようですね。間逆っだったのでちょっと嬉しくも感じました。男なのでそういうのに憧れる部分もあったので。 変な方向というのがどういう方向かは解りませんが普通の人間ですので ご心配なく。 そして次です。 僕は質問者のsiftさんに回答をしています。この質問に興味があるし、何故そういう考えに固執してしまうのかが解らないので。当然他の方の回答も全部見てます。そして解らないのが、他の方の回答もsiftさんに向けての回答がほとんどではないですか?それともどこか違う場所で回答者さん同士で質問・回答のやり取りが飛び交ってるところでもあるのですか?あと、他の回答者さんに優しい言葉をかけてるじゃありませんか?と書いてありましたがどこに書いてあるのかさっぱりわかりません。他の方と考え方が重複してる部分は多いですが、優しい言葉なんて 書いた覚えはないのですが・・?あればコピペでもしてくれませんか? そして次です。 社会、哲学、宗教は人間が便宜上考え出したもの・・・子供にそんなこといえますか? →言えますよ。というか言えない理由がわからないです。 長くなるので大雑把に書くと、人間は知能があるのでその力を持ってすれば地球を滅ぼしかねません。人間は欲深いので何も戒めがないと社会システム自体が機能しません。宗教とは人生の道しるべ、指標、支えと 考えます。そして哲学によって万物の存在の目的や理由などを考えることによって成長し、その上で成立している社会だと考えてます。 結局は強大な力をもつ人間社会が存続していく上で欠かせないものです。もし他の動植物同様、本能のままに生きたとしたら凄く殺伐とした 世界になるか成長しないか滅びるかだと思います。 人間には与えられた才能(知能)を生かして進むべき道があると思います。そのために必然的に現れたのだと思います。要するにすべての学問とは行き着く先は究極的には真理ただ1点なのだと思います。 なので子供には宗教や哲学だけじゃなくすべての学問は人が成長していく上で欠かせないのだと説明します。便宜上という言葉が引っかかるのかも知れませんが・・・。 そしてです次 みのもんたのくだりがありましたが・・・笑 siftさんの回答にがっかりする必要などないのですと書いてありましたががっかりしたのは正直な感想だと申し上げておきます。 でも納得してくれないのでがっかりしたと書いてるわけではないですよ。だからトラックを窓から入れようというような強引な気持ちなど 微塵もないです。一生懸命に考えた推論なので反論できる部分があるのなら反論して欲しい。そしてその論拠も書いて欲しい。その繰り返しが 答えの精度を上げていくことに繋がるのではないですか? 問題定義とはそういうものでしょう? siftさんに固執し過ぎでは?とありましたが先にも述べましたが質問者がsiftさんなのでsiftさんに回答を送っているだけです。何も数ある質問者の中でsiftさんだけに回答をしているわけではありません。 僕は他の回答者さんのも何度も読み返しましたが皆そんな形じゃないですかね?OKWAVEの質問コーナーは質問者さんに対して何らかのアドバイスや回答を送る場ではないのですか?掲示板なら話はわかりますが・・・ ちがったらごめんなさい。 最後に、他の方の回答の中にもしばしば質問の意味がわからないとか 求めるものがわからないとかわかったようでわからないだとか多いですね。siftさんは疑問形で回答することが多く感じますが、まずは回答者さんが一所懸命にタイプした推論に対して納得がいかないのならそれなりの明確な反論をしてから疑問形で返答するならしたほうがよいのではないですか?いろんな回答をみるのが楽しいという感じのことが書いてありましたが逆に回答者も質問者さんであるsiftさんに自分の推論の矛盾点などを突いて欲しいと思ってると思いますよ。少なくとも僕はそうです。 なのでただの1度もそんな内容の回答がないのでこちらはこちらで siftさんは意固地になってるだけではないのかという不安が芽生えてきます。現に他の回答者さんでもそんな内容の回答がありましたね。 siftさんの回答で意識が確認されてない云々のくだりがどこかでありましたね。あんな感じの回答は質問者さんもまたそのことについて考えますし発展的な回答だと思いました。 この反論に対してsiftさんがどういった回答をしてくれるのか凄く興味があります。 因みに全くの余談ですが、僕は理想と現実を区別して考えるタイプの人間です。真に平和な社会 が来ればという希望を持ってます。格差拡大が問題になってますが富める者が更に富んでいく今の資本主義経済はエゴの塊だと思います。でもそんな全体的にみたら少数の人達が巨大な力で支配する社会なのでなかなか変わっていかないのだと思います。富と名声は手放しがたいですから。資本主義経済では成長率をとめる事が致命的だといわれます。自然がなくなるという懸念を抱きながらも乱開発はとまることはありません。どう生きるかということよりもいかに利益をあげるかが問われる社会です。そんな中、雑草の生命の尊さを問うたsiftさんのような方がおられるのは嬉しい限りです。そして、siftさんに反論する僕も、同じように雑草を平気で踏めない人間であることを解ってくださいね。 ただ、雑草を抜くことを回避して得る幸せよりも雑草を踏んでしまった 心苦しさを感じながらもそれによって生命の尊さを学ぶことができる幸せ、感謝の気持ちを持てる幸せ、そんな風に捉える考え方の違いだけだと思います。宗教の話ではないですが、siftさんとは光る色は違っても同じ方向に向かって光は射しているのだと思ってます。

shift-2007
質問者

お礼

なんか、最後にふさわしい言葉をもらっちゃいましたね。 楽しかったですね、また哲学しましょうね。 たくさんのご回答本当にありがとうございました.

noname#51508
noname#51508
回答No.44

「命が大事」という結論に至っている場合は、厳密にいうなら「生き延びるためには何でもするような状態の生物」に対してもそのような認識ができるということでなければつじつまが合わないように思えます。 自分自身の内面では上記のような認識の分離があるため、ではこの「命が大事」というというものは何を指しているのかということについて考えてみます。 一般論的な「命」の認識は、それが「個」を持っているという認識に近いように思えます。 なぜかというと、もしも「命」が全体の一部という認識であったなら、全体が痛手を負わないものであったならそれほど悩む必要はないと思うからです。 雑草に焦点を当てて、その「個」についての認識内容を観てみた場合、「個」なるものの認識の根拠には、「太陽の光を求めているように見えること」「他の生態とのかかわりの中に自分という位置を見出しているように見えること」「時間の経過とともに形態が変化していること」というものがあると思います。 そうした「生」を存分にあじわいたいと思う「個の権利」を奪っているのではないかという所に(自分の内面では)「苦痛」が発生すると思います。しかしそれも、雑草が「個なる意識」を持っていなかった場合は、「個の権利」は意味をなさなくなると思います。 雑草が「個なる意識」であった場合には「生きる意味」が発生するので、自分が感受できる範囲内を思う存分に楽しみたいと思うかもしれませんが、「個の認識」は思考を必要とすると自分は考えるため、こういうことはないと思います。 もしもこれが「単なる意識」であった場合は、その意識は大地や太陽などにより「もたらされただけのもの」であり、雑草本人にとってもいつ死が訪れても文句は言いようがなくなりますし、人間からみれば「全体性の意向」を考慮しながらの食物の摂取をしていけばよいと思います。つまりこの場合は、大地や太陽にも意識があるということになると思います。 しかしながら、もしも雑草に意識も何もないのであれば、食物の摂取は自分自身の意識の形成となんら関係がないことになります。もしも関係がないのであれば、意識としては食物を食べなくても苦にしないはずだと思います。だから自分は、食物の摂取は意識が必要としていることだと思いますし、食べた後に満たされるのは摂取したものにそういう性質(意識)があるからだというようにも見ることもできると思います。 つまり自分は雑草には「単なる意識」があると思っていることになりますが、万物のエネルギーの進展という視点から見た場合、人間の食物の摂取はエネルギーの進展という風に捉えることが可能だと思います。植物の形態をとっていたエネルギーは、人間の肉体的欲求から意識の形成へと発展し、現段階ではその進路を模索している所だと思います。 ここで、その意識が活路を見出すために自然の形態を観察することは、一歩間違えると「自分の過去を見て自己形成すること」と何ら変わりがないようなことを行っているのかもしれないと思います。ここで自分が思うことは、命(意識)によって全てが動いていると考えるために命は大事だと思いますし、食物連鎖もその一形態であると思いますが、その全体性の視点(大地や太陽など)が考慮できていないために、結論には至っていません。 もしもこれを考えるための何らかの材料にできるなら使ってみてください、という意味で書きました。長文、失礼しました。

shift-2007
質問者

お礼

この時期に再回答していただく方の意見はさすがに濃縮された感じがしますね。123beさんの意見も含め、皆さんのご意見を時間をかけて吟味させていただきます。 またご縁があったらいっしょに哲学しましょうね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.43

簡単に 『なぜ』って言葉には2つ意味があります 1『なにを原因として』 2『なにを目的として』 人間はこの2つの違う『なぜ』の答えが ひとつになることを求めるものです つまり何らかの意志によって現象があるのだと 考えようとしてしまうということです また『正しい』と『善い』は違いますし 『正しい』にも『善い』にも複数の意味があります 人間はこのいくつもの違う答えが 同じになることを求めるものです だけどやっぱり違うんです だから人間はいろんな問題に 納得できる答えをいつまでも得る事はできません

shift-2007
質問者

お礼

あきらめたらそこでゲームセットだよ、と安西先生が言ってました.だからあきらめません。ていうか”出来ない”という理由が分からないだけなんですけど。 ご回答ありがとうございました。またお会いしましょう

noname#37508
noname#37508
回答No.42

すごく長文です。自分の筆力がなく短くまとめられくてすいません。 脳を破壊すれば意識はなくなります。 脳に物質的に麻薬を投与すれば意識は乱れ、ドーパミンを投与すれば多幸感が得られます。 意識が物質的な刺激でのみ左右されるのならば、それは物質からできていると考えて差し支えのないように思います。 仮に、原子の1万倍の大きさで原子とまったく同じ働きをする機構を作りそれを今の私の構造とまったく同じに組み合わせたら今の私とまったく同じ動きをし、 今の私とまったく同じ主張するのではないでしょうか? (そうではない状態が考えられません。) 本題から外れたかもしれません。 >>脳科学では~~~~~~~→ 書き方が悪かったです。 「人間が作った」よって「超人間的妥当性がない」、というのではなくそれは「人間が作った」かつ「妥当性がない」ということで、両方とも「命が大事」(=「それ」)に対する修飾です。 同じことになりますが、地球は放射能で汚染されようが生物(・・・と呼ばれている塊、と書きたいです)がいなくなろうがどうでもいいいことはわかりますか? 意識レベルが高いとも低いともいえませんが、人間と同列に事象をみる意識がないのですから。 同様に、世界の機構がそれらを「悪い」と判断する根拠はなく、人間が考えている人間特別視という価値観を無理やり当てはめてのみ、それらが「悪い」と判断できるということです。 同じく、「命が大事」ということについても人間が考えている事にのみ基づいていることからして、世界が「命を大事」と判断する根拠はないのです。 で、この投稿で一番言いたいところを。    「命は大事」という価値観が世界の構造に関係しているはずがない。 よって・・・・・ 後の私の主張はNO40の「世界の構造についての私の回答。」の部分と同じです。 >>派生していると・・・ 信条とは何か、価値観とは何か? どちらも経験と能力の掛け合わせから生まれるものです。 (原住民が焼いた芋虫を食べることは喜びますが、それを現代人がした場合嫌悪するなどから解ります。) 信条、価値観が受け継がれるにはそのバックグラウンドとなる経験と能力が受け継がれることが必要です。 しかし、サルの経験、祖父の経験、母の経験、などが受け継がれているとは思えません。(思わないことから自明ですね。) よって、信条、価値観が受け継がれているとは思えません。 したがって、価値観を自然が作り(自然がなんらかの意識体だとして)その価値観を自然がもっていて、さらにそれが人間に受け継がれている(自然があらかじめ作っておいた)とは思えません。 >>その前はサルだったのでしょう?、とすれば私たちの”思想”や”希望”は昔サルだったものが発しているてるわけじゃないですか。 この部分も上と同様で私たちの思想や希望を、昔サルが発していたとは思いません。 サルが発していた、とするのは「意識・信条・価値観は受け継がれていく」という決め付けからくるものです。

shift-2007
質問者

お礼

すごい自信ですね。 >原子の1万倍の大きさで原子とまったく同じ働きをする機構を作りそれを今の私の構造とまったく同じに組み合わせたら今の私とまったく同じ動きをし、 今の私とまったく同じ主張するのではないでしょうか? 興味あるのでこれを生物のカテで質問してみてください。 もし否定されたら私の勝ちって事でどうですか?

noname#32495
noname#32495
回答No.41

正面から当たっていないというのは、siftさんは「この殺すことの心の痛みをどうすればいいのか」という問いを発しているんですよ。そうでしょう?それを、他の回答者の方々は「まず、事実がこうなっているからだ。それを十分認識すれば、あなたの問いの答えになる」という理論でしょう(何例か例外はあったでしょうかね、ちょっと全部チェックし切れません) これって違いますよね? だから、確かに「事実はこうなっている」「地球の宇宙の生物の実態はこうなっている、優しさとか心の痛みは人間の付加価値だ」というもっともな「正しい」理屈になりますよね。ただそれは、siftさんの望みじゃあないでしょう? 心の痛みをどうやって取りますかね。 どうしても、世界が根本のところで「優しさ」にあふれているという前提を崩してはいけませんか?どうやらそうですよね。 なら、そういう仮定を覆さない考え方をしなくては。 私のは、siftさんの心の痛みに正面からぶつかったつもりでしたが、それは無用な試みと言うものでした。しかし、どうも私には「世界の根本にやさしさがある」とは思えないのです。

shift-2007
質問者

お礼

bossambaさんはとても人間らしいですね。 私の質問が分からないといわれることについて考えてみましたが、恐らく私の気持ちが分からない、ということなのでしょうね。文字では読み手によって解釈が色々できてしまうのは致し方ないのでしょう。 私の質問は罪悪感という心の痛みが発したものなんですが、私にはこれが人間に特有のもの、人間の感情が作り出した勝手な想像物とはどうしても思えないんです。今日、私の住んでいる所は桜が満開でした。とっても美しいと思いました。あの桜の美しさや美しいと感じる心が人間の付加価値とはどうしても思えません。自然、もっと言えば宇宙となんらかの関係がある、その一つに殺生も含まれる。これらを統一する答えがほしい、という感じですかね。 bossambaさんとこういう話ができるとはNo.7からは想像できませんでしたよ。人間って面白いなーと思いました(バカにしてるんじゃないですよ)。 ご回答ありがとうございました。

noname#32495
noname#32495
回答No.40

2回短文で登場したbossambaです。 「答えがない」と思っていて質問したのですか。それは残念です。 私は、どうしても「答え」をみつけるんだという意気込みで、ここまで粘られてきたと思っていたので。それに私自身これに対する、納得できる答えが出たらと思っていました。 もういちど、繰り返してよろしいですか。 最初のほうで「生命はたいしたものじゃないからだ」と言ったのは、能力的にたいしたものだが、倫理的にはそうじゃないだろうと言うことです。すくなくとも、倫理的になるほは相当高等な生物です。人間以外にもいますね、馬やら像やら・・・ですが、基本の単細胞のところでは、ただひたすらに生き延びるという、倫理観もやさしさもない状態です。これが生命の基本であると言うことです。 なんで、「神」がいるとすれば、あるいはそれを仮定すれば、どうしてもこの基本単位を作ったことは、「残酷趣味、冷徹」という姿が見えるのです。 質問当初は「納得」したかったのに、ちょっと疲れましたか? これほど情熱的で、でもちょっとsiftさんの問いに真正面から当たっていないようなものが続くと、そうなってしまうかもしれませんね。いえ、私にはどうもそう思えました。

shift-2007
質問者

お礼

私、bossambaさんに気に入られちゃいましたか? 人間に倫理というものを与えたことが残酷趣味の真骨頂の発揮という感じですね。 人間の問いには色々な側面がありますので、それを知るのはほしい答えのヒントになると前向きに考えたいと思います。

  • wwooww
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.39

■あなたの疑問□■□■□■□■□■□■□■□■□ >宗教、社会、道徳というのは人間が便宜上作り出したもの 確かにそうでしょう。しかし、人のやさしさや自然への慈しみは人間が作り出したものでは無いと思うのです、むしろ自然が作り出したといったほうが近い気がしませんか。 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ やはり殺すということから前に一歩進めませんね。 上記質問に対して僕の答えはNOです。 自然が人の優しさや自然への慈しみを作ったといえば聞こえが良いです。確かに。でもね、自然が作ったとしたらすべての生命にそのような ものが備わっていなくてはいけないとは思わないですか? 虎が環境保護を推進しますか?雄を食べる雌カマキリには優しさはありますか?感情があるから優しさはあるのですよ。もし仮に何の感情もない生命体がいたら自然が作ったと仰る慈しみは感じられないのです。 人間は感じます。もっと解りやすく言うと感じ取ってる気になれます。自然から感じ取るのではないです。 「古池や蛙飛び込む池の音」という有名な俳句があります。 静寂の中の一点の音に情緒を感じます。そこに情緒があるのか、人間が その状態で情緒を感じてしまうのか?ということです。 面白い話で、外国人の大半はこの俳句を聞いても何にも感じない そうです。それどころか続きに期待してしまうそうです。 ないと答えると何故そんな中途半端なところで終わるのか?と思ってしまうそうです。情緒もへったくれもありません。 日本人はとかく風情を感じる感覚が優れているようです。 そういえば日本人はお茶を飲めば茶道、剣を持てば剣道、花を生ければ 華道だとか何でもそこに究極の美しさのようなものを求めてしまう世界的にも珍しい人種だそうです。余談ですが。 あなたの言うように自然界から優しさだとか慈しみだとかが発せられる と仰るなら何故このような違いがあるのですか? 雑草をみて生命の尊さを感じる人もいれば生命だと思わない人も 当然います。それは何故ですか?雑草を見る人の立場、気持ち、性格 とかそういうもので判断するからです。 言葉も所詮人間が考え出したコミュニケーションをとる道具です。 人間はその知性でどんなものでも美しい言葉に変えてしまいます。 あなたのように。 でもそれは悪いことではありません。誰でも幸せを多く感じて生きたい と思うし、美を求めてもしまうし。前にあなたはどれもこれも現実を語ってるに過ぎないのですとか仰ってましたね。でも結局現実を美しい言葉に置き換えて語ってるのはあなたのほうではないでしょうか? 人間だから、いや、極端に言うと人間のみ自然から優しさや慈しみを感じ取ることができるのです。すなわち、現実的にいうと、人間だから自然の中の一瞬を切り取り美しいだとか優しいだとか慈愛だとかそんな美しい言葉に置き換えることができるのです。 今回のあなたの回答 >人のやさしさや自然への慈しみは人間が作り出したものでは無いと思うのです、むしろ自然が作り出したといったほうが近い気がしませんか。人のやさしさや自然への慈しみは人間が作り出したものでは無いと思うのです、むしろ自然が作り出したといったほうが近い気がしませんか。 という回答にはすこしがっかりしました。 あなたは何故・・・、どのあたりで「自然が作り出したといったほうが近い気がする」と思うのですか? ただそんな風に感じてしまうだけなのですか? 明確な回答があればお願いします。

shift-2007
質問者

お礼

ねえねえ、wwoowwさん気づいてます?この一週間あなたは私の質問にしか答えてませんよ。実はね私も人を見るんですよ、初めて回答を頂いた人がどんな人なのか知るために、どんなカテに興味があるのかとか、どんな回答をしているのかを見るんですよ、それをお礼の内容に反映させているんです。 何が言いたいかというと、wwoowwさんは少し私という人間にこだわりすぎではないですか?私は人生相談しているんじゃないんです。wwoowwさんもみのもんたじゃないでしょ? 宗教、社会、道徳というのは人間が便宜上作り出したものなんて言っちゃだめですよ、あなたにも普段の生活があるでしょ?恋人がいて結婚して子供ができたとしたら我が子に同じセリフいえます?あなたは別の人の回答に優しい言葉をかけているじゃないですか。 ほかの方の回答にも書きましたが、私の問いは常に窓を開けているような感じなんです。答えがほしいのはもちろんですが何が入ってくるのか楽しみでもあるんです。つまりこういう答えのない問いをするのが好きなんですよ。多分このカテの住人たちはそういう気持ちが多かれ少なかれあると思いますよ。私から見るとあなたはダンプを窓から入れようとして”何か間違っているか、何か反論があるか”といっているようなものです。受け入れろったってそりゃ無理ですよ。あなたが私にがっかりする必要なんてないんです。変人の戯言なんですから。 ね?たぶん反論もあるでしょうから次で最後にしたらどうですか。なにかこのままだとwwoowwさんが違う方向に行ってしまうような気がするんですよ。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.38

回答というおこがましい気分にはもはやなれませんが、もう少し感想を投稿してみたくなったので、再度おじゃまいたします。 素人の勝手な私見としてご笑納いただければ幸いです。 物理学的根拠があるかどうかはわかりませんが、 「存在する」ということは、何かが変わるということのように思います。 そして、「変わる」ためにはどのような形態にしろ他の何かを犠牲にしなければならないでしょう。 つまり、「存在」ということ自体が「非存在」の上に成立しているようにも思えます。 食物連鎖を持ち出すまでもなく、存在するということ自体が殺す(無くす)と同義なのではないだろうか、ということですが、これも単なる現状説明にすぎないのかもしれません。 なぜ、そういう仕組みになっているのか、ということは神ならぬ人間には分かりようもないかもしれませんが、なぜ人はそのことを憂うのか、という視点もあるでしょう。 個人的には、何かを殺すことによって何かが存在できるのであれば、他の何かのために自分も犠牲になるべき存在である、 ということを無意識的に理解してしまうからではないか、という気がします。 何の犠牲になるのかということはこれまたわかりませんが、それを感得してしまう。 (妄想的には、前回述べたように地球のバランスのため、あるいは宇宙というものが成立するための方便、といったところでしょうか。しかし、これとて、なぜなぜ、と追っていくと果てしのない混沌に行き着かざるを得ないのかもしれません。) 自らが生きるということは他の生命の代償が必須である。 これを認めるとすれば、なぜ人間だけがそのことを悩むのか という視点から考えてみるとまた違うものが見えてくるような気もします。 それは、想像力が属性として備わっているから、ということになりそうです。 他の生命が自分のために失われることに関する想像力は、精神3構造(本能・自我・超自我)のうちの超自我に分類できると思います。 そして想像力こそは、他者(他物)の立場に立つという超自我が成立するための源泉でしょう。 本能や自我とは、本質的には無縁のものだろうと思われます。 超自我規制が弱いと、本能的行動に矛盾を感じないでしょうし、 同様に自我の比率が超自我より突出していると、自己が自己以外に与える影響に悩む程度は小さくなるでしょう。 ご質問の場合、想像力による「自己の投影」が行われているように思われます。 草木の運命に自己を投影させるわけです。 投影とは他者(他物)に自己を見出す、ということでしょう。 つまり、これは強烈な自己愛の裏返しではないかという気がしてきます。 さらに言えば、自己による自己のための強烈な愛によって自己を慰謝する必要性が生じる時、この自己投影がなされるのかもしれません。 とはいえ、先の3層のバランスが取れていると精神的には安定するはずですが、ピッタリ安定したままだと面白味は無くなるとも言えるでしょう。 おっしゃるところの「なぜこのような仕組みになっているのか」は永遠の謎なのかもしれません。 ただ、 必要が無いのに滅ぼしているのではないか。 また、本当に滅ぼす必要があるのか、 あるいは他に方法はないのだろうか。 という視点を生み出す源としての謎なのでしょう。 さらに、そのような視点は、仮に人類の進化というものが想定されているのであれば、必要不可欠なものではないかという気もしてきます。  

shift-2007
質問者

お礼

すばらしいですね、本当ですよ、個人的には良回答をあげたいくらいです。この質問の終盤にふさわしい回答です、hakobuluさんがこのQ&Aを通してそれを感じたならやった価値がありましたね。 色々な意見がでて楽しかったですね。私のこの疑問に対して皆さんが一家言お持ちだったというのは問う価値があった証拠と自負しています。 また機会がありましたら一緒に止め処も無い哲学しましょうね。 ご回答ありがとうございました。

noname#37508
noname#37508
回答No.37

長くなるかもしれません。すいません。 「命が大事」の件について。一番重要かもしれませんので、最初に。 私が言っているのは「命が大事というのは理屈っぽいからだめ」というのではなく、「命が大事、自然が大事、慈しみが必要」というのは「人間が考え出したことで、超人間的な妥当性はない」ということです。 たとえば、「地球」は放射能で汚染されようが人間が絶滅しようが栄えようが、ターミネーターが世界を支配しようが、植物がなくなろうが、地球がスイカ割り的に二つに分裂しようがどうでもいい、ということはわかりますか? それらが世界のすべてにとって「悪い」というのは根拠のない人間特別視でしかないわけです。 で、世界ができた後に人間ができたわけですが、なのに世界の構造に人間の思想?希望?が関係しているとするのは因果関係の破綻です。 >これに対してAzathocomさんはどう回答するのですか。 >ちなみに、無神論者ではないならAzathocomさんの神はこの件に対してなんといっていますか。 この二つについて。都合上、神→回答です。 ギリシャ人の考えた神はギリシャ人の姿であり、日本人のは日本人、赤い目をしている人種の神は赤い目をしている。 あくまで発祥、という意味ですので現在広まっている「神」の姿は西洋人が主流ということは目をつぶってください。 このことについて考えてみれば(私は)宗教上の神(全能、完全、人間をなぜか特別視、とか?)は人間が考えた、いたらいいなという希望を込めた都合のいい考えにしか思えません。 そもそも、ほとんどの宗教で神は人間のすべてに「全能の神を信仰し敬うこと」を求めますが、本当に神が全能ならそんなことを人間に求める必要すらなく、世界を創造した時点でその中の塵ひとつとして神の求める動きをしないはずはないのです。 私の考える(信仰する、ではありません)神は、「世界ができた原因」というだけの意味で、聖でも邪でもなく(あるいは姿すらなく)、人間を見ている必要性も、あるいは世界を見ている必要性もありません。 ただ、世界ができた原因を感知不能な「神」と捉えているだけの事です。 ですので、私の神は何も言いません。 世界の構造についての私の回答。NO.10にかぶる部分が相当ありますので詳しくはもう一度NO.10を参照してください。 命というのは、人間が考えた観念である。(生物と呼ぶものと無生物と呼ぶものの違いは何もない。厳密には"何も"ではないが。) よって、それが無くなるというのも人間が考えた観念である。(生物が死ぬということは、風雨で山の斜面から石が落ちバラバラになることとなんら変わりはない。) 「生きるために殺す」ということは、「生きるために土の養分と水を吸い、光合成する」こと、「りんごが木から落ちる」こと、「光が直進する」こと等と特別な違いはない物理現象である。 そこに他の現象との差異を見出し特別化することに何の根拠もない。 以上です。

shift-2007
質問者

お礼

やはりAzathocomさんは節目にいらっしゃる。 そろそろこの質問も終盤に近づいてきました。もうしばらくお付き合いしていただけますか。 自分の回答を振り返ってみると、No.10の回答でまず私が感じたのは、考え方を変えることによって心の痛みは小さくなる、しかし問題なのは心の痛みじゃない、本当の理由が知りたいだけだ、と思ったわけです。しかし、本当かどうかをどうやって判断するのか、何をもって納得なのか、などの実際問題がありますね。とりあえず今の私ができることは自分の心に聞いてみて、これで納得できるか?と問いかけたわけです。その結果すべての回答に否定的な態度となったわけです。 >人間が考え出したことで、超人間的な妥当性はない。 脳科学では未だに脳内に”意識”を見つけることができません。生理学的に説明できないのです。つまり意識を説明できません。説明できないから存在しないのでしょうか。 科学、哲学はその意識が作り出したものです。科学が得意とする客観を使うなら、建物を建てているのだが、どこに立てているのか分からない状態です。我思うゆえに我ありの”我”が何なのか分かっていないのです。考えることが超人間的なのだと思いませんか。唯物論の不思議なところは意識がなにかを分かっていないのにそれは人間が作り出したものだと言い切るところなんですよね。 確かに地球の後に人間は生まれましたが、その前はサルだったのでしょう?、とすれば私たちの”思想”や”希望”は昔サルだったものが発しているてるわけじゃないですか。サルは自然が作ったのであればその延長上にある人間の思想も自然が作った、とは言い過ぎかもしれませんが、派生しているとは思いませんか。 本題とはずれましたがAzathocomさんの回答には何かそれを誘うものがあるんですよね。 今までたくさんのご回答ありがとうございました。

noname#37508
noname#37508
回答No.36

なるほど?またもやわかったような、わからなかったような。(コラ) >私の質問は”命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか”の一点です。 「殺生をしなければ生きていけない」ということの意味するところは、「殺さなければいけない」という拘束ではなく、「生きたいならば殺さなければならない、そうでないならば殺さなくてもいい(殺してもいい)」ということです。 それを踏まえれば、「なぜ殺生をしなければ生きていけないか」とは 「なぜ世界は「生きたいならば殺さなければならない、そうでないなら殺さなくてもいい」という構造なのか?」 という意味になります。 その問いに、「命は大事と言いながら」が関係するとは思えません。(命が大事というのは、世界の構造ができた後人間が生まれ、その後に人間が発想したことですし。) 本当に、何よりも(自分の命よりも)ほかの命が大事だと言うならば、何も殺さずに自分が死ぬしかないわけですが、そうしないということは、「自分の命ほどではないが、ほどほどに」他の命が大切、という価値観をほとんどの人が持っているだけのことです。 結局、問いに答えるのは世界の構造のでき方を淡々と述べるか、(人間的な感情や希望的観測から)神の存在を仮定してその意思を推測するかのどちらかではないでしょうか? ・・・ちなみに、私は無神論者ではありません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 面白いことをおっしゃる。 >「なぜ世界は「生きたいならば殺さなければならない、そうでないなら殺さなくてもいい」という構造なのか?」 これに対してAzathocomさんはどう回答するのですか。 「命が大事」が理屈っぽいのであれば「自然へのやさしさ、慈しみ」という言葉に置き換えたらなにか見えるものはあるでしょうか。 ちなみに、無神論者ではないならAzathocomさんの神はこの件に対してなんといっていますか。

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