• 締切済み

地球は生物の密度が高すぎませんか

今日、畑で雑草を抜いていました。雑草を抜くということは殺すということなんですが、できれば殺したくはありません。 雑草ももっと少なければ抜かずにほっとけるんですが、あまりに数が多すぎるために根絶やしにするつもりで対処しなければ作物に影響が出ます。作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。 そこで、 この地球は生物の密度が高すぎるのではないか。 なぜ殺さなければ生きていけないのか 生物学的、宗教的にはそれらしい答えもあるのでしょうが今ひとつ釈然としません。どなたか私を納得させていただけないでしょうか。 ちなみに、無除草栽培の方法を聞いているわけではありません。

みんなの回答

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.5

植物にも生命を感じ取れるのであれば、もっと範囲を広げて微生物や細菌、ウィルスにも感じ取ってあげましょう。 貴方が生きている限り、例えば体内に取り込まれたウィルスは白血球によって殺されています。 生きている限り永遠に繰り返される訳で、それを避けたいのなら、今すぐ死にましょう。

shift-2007
質問者

お礼

私は百姓なのでこれからも多くの命を奪うでしょう。殺しを避けたい以上にその理由が知りたいのです。 ご回答ありがとうございました。

  • wwooww
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.4

密度の問題:では密度の低い地球とはどんな世界でしょう? ドラえもんにでてくる21世紀の科学の発展したような世界 でしょうか?そしてそのような世界が地球が誕生したときに 何故なかったか?という風に言い換えてもいいですよね? なぜなら、太古の昔は人の数は今とは比べ物にならない位、 少なかったですが、その分、植物も他の生物も世界至る所に 分布して、今よりももっと生物密度は高かったでしょうから。 逆に現代は人間だけが世界至る所に生息するようになっただけで そこにあったであろう森林やジャングル、海(海洋生物)、など、 人間の数とは比較にならないくらいの数の生物が犠牲になって生物密度 は低くなってるのですよ。 それとも、人間にとって一見不要と思われる生物(雑草とかゴキブリ とか)がたくさんいることによっての密度の高さを嘆いてい らっしゃるのでしょうか?いなければ殺さなくてもいいのにと? 結局、shift-2007さんは地球というものが人間のための惑星だと 思ってしまってるんだと思います。 人間にとっての不要な生物も自然界の食物連鎖のシステムの中では 必要不可欠です。 なぜ殺さなければ生きていけないのか? その食物連鎖の中で生きてる以上、あたりまえです。 最後に、生物の多様性こそがこの地球の魅力なのではないかとは 思いませんか?殺生することに躊躇する優しい性格をお持ちで あるなら、一見スポットライトを浴びないような些細な生物の 生にも存在価値を見出せるのではないかと思います。 あなたは、殺したくないために何故あなたは存在してるの?と 疑問を投げかけているのと同じですよ。殺すことよりも残酷です。

shift-2007
質問者

お礼

仰るとおり都会や里山でさえも人間が生活するために生物密度をさげていますね。それは私の畑で起こっていることと同じです。 雑草やゴキブリの価値は問うていません、たとえそこにバラやランが生えていても百姓は抜きます。冷酷なようですが、目的の作物以外はすべて雑草です。 >その食物連鎖の中で生きてる以上、あたりまえです。 まさにその当たり前を疑っているのです。私には納得できないのです。なぜ殺すことが当たり前なのでしょうか。地球の魅力が多くの生物の死の上に成り立っていることが不満です。 私が問題にしているのは存在価値ではなく、その数と生きるための”殺し”です。殺したくないと思っているのは私ですが、私だけの問題ではなく、なぜ蛇は生きるためにネズミを食べなければいけないのでしょうか。という問いです。

shift-2007
質問者

補足

お礼を言うのを忘れました。 ご回答ありがとうございました。

  • toturenzu
  • ベストアンサー率31% (623/2000)
回答No.3

わたしも雑草を抜きながら(単調でつまらないから)色々考えますが、殺生してるとは思いませんでした。 雑草も全部茹でて食べられたらいいのに、とは思いましたが。 確かにその草の下でしか生きられない虫もいたでしょうし、それを考えれば、草を抜くだけで多くの命を奪っていますね。 もしその草が10m向こうの空き地に生えていれば、抜かれることもなかったかもしれない。 もし、その草がスミレだったら、花の好きな人なら抜かずにそのままにしておくかもしれない。 その場所、その草だから抜かれるのであれば、選択の意志が働いて抜かれたと考えられます。 <作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。 宗教的に考えれば、多くの命を頂いて生きているのだから、感謝して無駄にしないように頂けばそれでいい、です。 確かに質問者様の畑だけを考えれば、質問者様の意志によって選択され滅ぼしてしまっているように感じられるかもしれませんが、もう少し大きな視野にたって考えれば、元々自然そのもののほうが冷酷と思います。 一つの島が台風で、地震であとかたもなく無に帰るのです。 畑を作るために雑草は抜き、新たな種を蒔く。 殺したとしても新しい種を育てているのです。 里山は人の手を入れるほうが植物が上手く育つと聞いたことがあります。 そして人は自然の一部です。 だからこそ死ねば土にかえるのではないでしょうか。 どんなに抗っても自然から抜け出て生きていくことができません。 自然の輪の中にいるだけかと思います。 そういう意味では、草も人も自然の前では同じかもしれません。 哲学的な答えになってないように感じます、失礼しました。

shift-2007
質問者

お礼

私の中では感謝と命の天秤が釣り合っていないのです。感謝が足りないといわれればそれまでなんですが。 自然とはある種ルールのようなものでしょうか。だとしたらこのルールは気に入りません。 ご回答ありがとうございました。

  • koko_u_
  • ベストアンサー率18% (459/2509)
回答No.2

生物同士の関係は殺す/殺されるだけではなく、つがいになったり、共棲したり様々な形態があり得ます。 植物であればなおのこと様々な交配が自然と行なわれているのではないでしょうか? ある程度密集していないと、生物同士の関係を構築できず、現在のようなバラエティに富んだ生態系に発展しなかったのだろうと想像しています。

shift-2007
質問者

お礼

できれば殺すという方法なしで発展をしてほしかったです。 ”殺す”は必要悪なのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。

  • ai-ueo
  • ベストアンサー率23% (13/56)
回答No.1

万物は流転するからだと思います。 目には見えなくても、水が流れるように、色んなものはものすごいスピードでぐるぐると回っています。 例えば流れる水の中に板をはさんで止めてしまおうとすると、すぐにその板のところで水が溢れてしまいますよね。 同じように、生き物の殺生も一つの流れができていて、どこかを止めてしまうとバランスが決壊してしまうのです。 全ての生き物は殺すべくして殺されると言ってもいいのかもしれません。 もしろん無益な殺生はいけないと思います。 それぞれの生物が必要なだけ殺して、その命を糧に生命を育むのが、生き物としての本分だと思います。 雑草も、それが生い茂りすぎることによって田畑を荒らし、結果shift-2007さんに害を成すというのならば、それもなるべくしてなったものなのではないのでしょうか。 イマイチ回答になっていないかもしれません。 申し訳ないです。

shift-2007
質問者

お礼

宗教的には無益な殺生はいけないといわれるのですが、はたして殺生を有益と無益に分けることができるのでしょうか。 個人的には流転や輪廻にピリオドを打ちたいんですよね。 ご回答ありがとうございました。

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