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地球は生物の密度が高すぎませんか
今日、畑で雑草を抜いていました。雑草を抜くということは殺すということなんですが、できれば殺したくはありません。 雑草ももっと少なければ抜かずにほっとけるんですが、あまりに数が多すぎるために根絶やしにするつもりで対処しなければ作物に影響が出ます。作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。 そこで、 この地球は生物の密度が高すぎるのではないか。 なぜ殺さなければ生きていけないのか 生物学的、宗教的にはそれらしい答えもあるのでしょうが今ひとつ釈然としません。どなたか私を納得させていただけないでしょうか。 ちなみに、無除草栽培の方法を聞いているわけではありません。
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- kigurumi
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>百姓はそれをよく知っていますので、殺す事はそれほど難しくありません 百姓というのは差別用語なので、農家の方という表現の方がいいと思います。 私の家は農家ではありませんが、あることを知っています。 それは 雑草は抜いてもまだ根が残っている ということ。 それがやがてまた伸びてくるということを知っています。 しかし、成長した植物ほど養分を取らないので、目に見える自分の利益に添わない雑草は必要であれば抜きます。 そして自分の目的であるチューリップの成長を助けるでしょう。 エゴですが、私にとってチューリップを育てる楽しみにより、チューリップの養分を取る雑草は抜くでしょう。 チューリップと共存しているとみなせば、抜かないでしょう。 >自然は人間のエゴも全て了解済みなので、多少の殺生は気にするなというご意見でしょうか。 いえ。 「神を畏怖せよ」 これって神に対する昔からの警告ですよね。 日本人の神って自然のことですよね。 人間が自然を支配できていると思っていたら間違いです。 生かされている だけ。 雑草を抜いたから神になったかのように思っても、真実は違いますよね。 雑草は抜かれても根が残っているから、また生えてくるわけです。 抜いたから根絶したと思っても、真実は違う。 人間は見えている部分が全てだと思いがちになる。 これは有限でもある私にも言えることです。 >しいて言えば雑草との融合が必要だと。 いえ、自然を畏怖することを忘れると、とんでもないことになるってことです。 >私が知りたいのは、殺すという行為の意味と、もっと生物密度が低ければ殺さずにすむ命もあっただろうという事ですがその問い自体が無意味なのでしょうか。 言っていることはわかります。 殺生をするものが少なければ、それだけ殺されるものが少なくてすむってことですよね。 わかりますよ あなたの言っている理論が。 中国で川が逆りゅうする現象があり、一人の見物客がそれに飲まれてなくなった。 それを見た人が「中国は人口が多すぎるから一人減ってよかった」といいました。 あなたが言っていることは、これと同じですよね。 人口が増えればそれだけ密度も増し、その人たちを養うために多くの家畜が必要になり、家畜を養うために多くの飼料が必要になり、それで計画的に農耕をする。 人が増えなければ計画的に畜産は営まれないので、その分だけ家畜は殺されないし、生まれないし、植物も計画的に作られないので、無いものは殺されなくて済む。 めでたし めでたし。 こういうことですよね? もっとすごい考えの人は、自分は他者を滅することで生きながらえているので、それをする人が減ればそれだけ命が救われるので、自殺するというもの。 なんか 違うんですよね。 まず、生けるもの全ては他者を滅する存在である。 じゃあ 生物全てを消してしまえばいいのか。 そっちの方向に傾くと、一気に解決するためには、災害が起こり、日本が沈めば、消費する人も減るわけで、少しは地球に優しい思想となるのか。 災害は起こりそうもないから、核爆弾で有害と思える国を殉滅させればいい? 誰が死ねばいい? それとも計画的に産まないという選択をすれば、他者の生命を宿命を負った生命が誕生しないので めでたし めでたし? それとも国で計画的に一家で何人までと妊娠コントロールを法律で決めます? 制限を越えて生まれた子は、政府により殺します? 産んだ人は死刑にします? 子供を持つ権限を奪い、国で強制的に子供ができないように手術を受けさせます? その目的はなんですか? 地球のためですか? 宇宙のためですか? この世のためですか? それとも生きている自分のためですか? 他者が滅されないように滅する。 もしくは他者を滅する宿命を負った生命体の誕生を法律でコントロールします? 結局、他者を滅する行為は自分のためだし、生命を誕生させないのも自分のため。 産むのもエゴだし 産まないのもエゴだし、他者の死を望むのもエゴだし、自分以外が少し死ねばいいと思うのもエゴですよね。 私はそっちの方につきつめても答えは出ないと思うんです。 納得いくのは、自然を畏怖し、生を楽しみ、自分は生きている限り他者を滅しているということを知ること。 それをとことん知ることにつきると思います。 解決策を探すのではなく、自分の存在をとことん知ること。 それを知らないと、八方塞になります。
- wwooww
- ベストアンサー率12% (1/8)
wwoowwです。 ■□あなたの質問□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 宗教的、社会的、道徳的に無益な殺生はいけないといわれます。 私も同感ですが、ここで矛盾が生じてしまいました。 命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか。 宗教的、或いは哲学的な問いがここで生まれました。 私の質問は”命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか”の一点です。 □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 宗教的、社会的、道徳的には「命の大切さ、尊さ」を説いてます。 殺生というのは再三でてきてる食物連鎖ですね。 そもそも宗教、社会、道徳というのは人間が便宜上作り出したもの。 食物連鎖は自然界の変更不可能なルールです。 この2つを対にして「矛盾」と捉えて良いのでしょうか? 確かに「殺す」という行為には苦痛が伴います。ですが、「殺す」 という行為なくして人間は存在していけないのも事実です。 ならば、「殺す」=悪と短絡的に捉えるのではなく、その先にあるもの を考えないといけないのではないでしょうか? 食物連鎖という自然界のルールは変更不可能なファクターです。 ですが「殺す」という行為の理由づけは変更可能です。 雑草を抜くのは農作物を得るという理由があります。 隣人を殺すのとは同じ殺すでも意味が違うのです。 あなたは「殺す」=「いけないこと」という風に定義づけをしています。悪人の命も雑草の命も同じ生命と考えれば尊さは一緒ですが、 死の後に得られるものは違うはずです。 この世の生命は何らかの役割があります。中には「死」を役割のひとつとする生命もあるでしょう。 ただただそのまま生かしておくことが優しさではないはずです。 結局人間が考えたルールというのは人間が理解し解釈していくし かないのではないですか? 矛盾というあなたの疑問も「殺す」=「いけないこと」という風な定義からはずしてしまえばもはや矛盾ではなくなるのです。 あなたがまず考えなければいけない事は「なぜ殺生をしなければ生きていけないのか」ではなく、「殺す」=「苦痛を伴う」ことの中にある 意味なのでは。「雑草を抜くこと」=「苦痛」から一歩進んで見なければこの問いに答えはないですよ。 もし、「殺す」=絶対悪であるならば、戦勝国なんて全部悪ですよ。 アメリカが世界の警察なんて大手を振って威張ってるのは何故?「殺し」=絶対悪ではないからですよ。所詮、人間が考え出した宗教的、社会的、道徳的なものなんてのは食物連鎖という自然界のルールと比べ て矛盾を感じるというような絶対的なものではないことを悟りましょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、wwoowwさんらしいご意見ですね。 >宗教、社会、道徳というのは人間が便宜上作り出したもの 確かにそうでしょう。しかし、人のやさしさや自然への慈しみは人間が作り出したものでは無いと思うのです、むしろ自然が作り出したといったほうが近い気がしませんか。 「殺す」=「悪」を取っ払ったとしても、殺したくないは残るのではないでしょうか。
- baihu
- ベストアンサー率31% (114/357)
お百姓さんでらっしゃる shift-2007 さんは、畑で農作物を育てていらっしゃるわけですよね。収穫のため、ある程度の密度に作物を植えて、大きく育ったら鎌などでざくざくと刈り取られることかと思います。 > この地球は生物の密度が高すぎるのではないか。 > なぜ殺さなければ生きていけないのか ご自身の生業について、ご自身の問いを発するなら、どのようにお考えですか。雑草を抜くのと、農作物を収穫するのと、生命を奪うことに関して何ら違いを感じませんが、同じ思いをお持ちでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >雑草を抜くのと、農作物を収穫するのと、生命を奪うことに関して何ら違いを感じませんが そうですね、目的は違いますが命を奪うという意味では違いはありませんね。私の問いが自己矛盾しているのではないか、と思われて回答していただいたのでしょうか。今思うとだいぶはしょっているようなので再度私の質問を記載します。 私は百姓です。 花や草や虫や鳥が好きです。 だからなるべくなら殺したくはありません。 しかし、生活のために作物を育てて、その過程で多くの命を奪います。 もちろん毎日の食事でも命あるものを口に入れなければなりません。 そうしなければ生きていけないし、人間を含め生物とはそのようにできているというのは十分理解しています。 一方で宗教的、社会的、道徳的に無益な殺生はいけないといわれます。 私も同感ですが、ここで矛盾が生じてしまいました。 命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか。 宗教的、或いは哲学的な問いがここで生まれました。 私の質問は”命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか”の一点です。 思うところがあれば再度のご回答をお願いいたします。
- namu-namu
- ベストアンサー率25% (128/506)
難しいことはよく解りませんが、私なりの見解を。 >一方で宗教的、社会的、道徳的に無益な殺生はいけないといわれます。 >命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか。 それは私たちが“人間”だからなのだと思います。 そもそも宗教や政治・道徳的理念は根本に私たちが“人間”と言うところがあると思います。 “殺す”“生かす”と言う考えも私たちが“人間”だから考えることですよね。 理性=心というんでしょうか。慈悲か感情コントロールなど、私たちは生きていく上でなんらかの付加価値を求めたがる動物ですよね。 根本は他の回答者さんが仰っているように、地球という限られた枠の中で生きるには殺生をしないと生きられないようになっているからですね。 誰がなんと言おうとそれが事実であり、そこを変えることは出来ません。 ですが人間は生命に付加価値を付けたがる生き物です。 単にそこにいる生命を「大事」に思ったり、「意味」を見つけたり。 生命事態に意味を持たせようとしていますが、コレが果たして私たちが生存している「自然界」に必要なのでしょうか? 人間界ルールでは感情は切っても切れない条件ですが、それを自然界に当てはめるのは人間のエゴだと思いますね。 とはいいつつその自然界を不必要に汚しているのも人間であり、また上記のように宗教などによりその考えを戒めているのも人間ですね。 人間と言う動物に生まれてしまった以上、そうした矛盾には常にぶち当たると思います。 「何故殺生をするのか」「なぜ矛盾なことをいうのか」 人間が人間であるから考えることなんですね。 だからといって人間の思想がそのまま自然界にとって正しいことなのか?と言われると違う気がします。 >”命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか” 命を大事に思うのは人間に感情があるから。 無駄な殺生を好んで行うのも、生存するために不可欠な殺生に心を痛めるのも同じです。 この問題は答えは出ないんじゃないかな? 私たちが人間と言う弱く、恐ろしい動物であり、その一種の思想を元にこちらにいったり、あちらにいったりと考えても所詮“人間様”の枠を出ることはできないですよね。 …そんなこと書いたら哲学の何もなくなっちゃいますね。 逆に質問者さんに丸投げしてしまってますね。 不愉快にさせてしまったらスミマセン。
お礼
気を悪くしたらごめんなさい。女性でそこまで言い切る人は珍しいのではないですか。たいていは”そうですよね、よくわかりますよ”というような共感型だと思ってました。それともその開き直りは女性的なのでしょうか。 私は自然と人間を切り離しません。人間特有の見方、考え方、感じ方はありますが、それも自然の一部だと思っています。なので私の問いも自然の一部だと思います。でなければ変人の戯言にこんなにたくさんの人が回答するはずが無いのではないでしょうか。namu-namuさんも含めだれもが一家言を持ってこの回答を記載しているのではないでしょうか。人間様の枠がnamu-namuさんには見えているのであれば、逆にその先には何があるのだろうとかと思いませんか。
21,28です。あなたのご質問と対話の形をとることができて幸いです。30よりあたらしい他の回答に目をとおしきれませんがご容赦ください。 わたしも思います。記憶の形成は何の意思でしょうか。宇宙意思という便利な答えもあります。 神という言葉を避ける言い回しのひとつにすぎないかもしれませんが、少なくともこれは、宇宙の外の法則ではなく、宇宙の中の法則としておくことができます。 おっしゃるようにたしかに古代思想に同じものがみとめられますが、不思議なことに未来の思想でもあります。記憶は、情報の蓄積です。生死を超えて、長い年月を超えて、情報はやっとどうにか書かれていくのです。 あなたが生き物を殺すことも、宇宙から見ると、地球のパランス情報か太陽系のバランス情報、ということかもしれません。 ではようするに何かにいいように使われているのでしょうか? 宇宙意思は命をとりかこむ物語を記憶装置のように利用して、ただ、情報を蓄積しているのでしょうか? これに対して、自由意思というものがあります。自由意思についての学問はとても高度なものです。宗教を問わずすべての神学のなかには、自由意思への問いが秘かに含まれています。 はっきりいうと、問い続ける権利というものが、自由意思のなかでただひとつだけ保証されているようにも思えます。けれども、自由意思はたしかに存在し、仮に宇宙意思としますとその大きな意思に影響を与えるだけの力があります。 わたしが、アカシックレコードの質問に参加することがあるのは、占いやメンタルトレーニング上の価値があるなどのためではなく、情報の蓄積についての研究、記憶の研究が必要だからです。 占いの世界では命(めい)という言葉がありますが、命はもちろんいのちです。足されるものと、引かれるものを両方含み、認識の中で物語化される「何か」なんですね。 これはメカニックではない。記憶も形成しますが、予測も形成するんです。カルマという概念もいくつかの古い宗教にあるものですが、命やカルマは、結果の或る相か、副産物にすぎない。。。原因ではないでしょうね。 「なぜ殺さなければ生きていけないのか」という質問には21,28,今回とも愚直にこたえました。わたしは研究者のはしくれであって哲人でも占い師でも導師でもないです。あなたのためを思ったり、はぐらかしたりしてはいません。 解答を要約で求め急ぐと、それは徴(しるし)になってしまいます。徴はいつでもはがすことができるものでしかない脆弱なものです。疑問と応答をゆっくりスルメのように味わってもらいたいと思います。
お礼
宇宙意思、古代思想が正しいとか正しくないとかを超えて何か考えさせられる物がありますね。一つの事象はいろいろな側面を持っている、或いは見る事ができるという事を皆さんの回答を通して強く思います。 amaguappaさんも私もこういう答えのない問いをするのが好きなのでしょうかね。いつまでも愚直でありたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
すいませんが、勝手に補足させて頂きます。 生命は、他から何かしらのエネルギーを得て生きている。なにも他の生命である必要はありません。無機物をエネルギーにする生物も居ます。 しかし、複雑な生命体(俗に高度な生物)になると無機物だけでは生命活動を維持する事が出来ず、エネルギーを摂取する対象が他の生命になった。だからヒトは他の生命をエネルギー源にする。 そして知恵を得たヒトは特定のエネルギー源を育成する事も覚えた。 これが現実です。科学的にはこれ以上の理解は成し得ません。 「なぜヒトは生きているのか?」自己中心的に考えれば哲学の分野になります。これにも「何故ヒトが存在するのか」と言う問に答えるには限度があると思います。(現在も進行中なのですが) そして「何故ヒトは生かされているのか?」「何故ヒトは存在させられているのか」と置き換えたものが宗教、或いは宗教哲学ではないでしょうか。(これは私見です) その解釈は様々あるのでしょうが、いずれも万民が納得する結論は出ていません。極論を言ってしまえば「それを解読するために生きている」と言う人も居ますし、「自分で答を見つける事」と開き直っている人も居るでしょう。 他の生命を奪って自らの糧とする事への謝罪と感謝の念を持っている事が大切な事。それを何とか形に表したいというもどかしさが供養や感謝祭と言う表現方法で僅かばかりの意思の穴埋めにしているのだと思います。(それでもしないよりは遥かにマシだと思います) そして、更に謝罪と感謝を顕わす為に、ヒトとして真っ当な生き方を考える。或いは完全隔離の環境で農業を考えるのも一つの答です。 ただ、人も他の生命も、完全に棲み分けされてしまい、一見無駄な草取りなどのストレスから開放されたら、脆弱で栄養を持たない野菜や人間になってしまうのも事実です。現実に私達が必要とし、動植物から摂取している多くの物質は他の侵略から身を護るための物質である事はご存知でしょう。また、麦は踏まれるというストレスを糧として強く立派な麦になります。 ヒトも他の生命も、お互いの適度なせめぎ合いがあってこそ向上があるのです。そして、その「適度」がどこにあるのかを見定める事がヒトの出すべき答であり、甘受しなければならない限界だと思います。
お礼
真っ当な生き方をするというのは共感致します。 ”お互いの適度なせめぎ合いがあってこそ向上”ですか、我々人間もふくめ生命間においては殺される事もある種合意ができているのでしょうかね。「適度」を定義した物が宗教や倫理という所でしょうか。 ご回答ありがとうございました。
- transaction
- ベストアンサー率65% (75/114)
#29のお礼欄で述べられていることが端的なまとめになっているのだと思います。 > 科学的ポジションから見ると理由は無い或いはその問いに意味が無いでしょう。 > しかしmichael-mさんも命は大事だと思うはずです。 > この2つの事実の間にある溝をどう埋めるのでしょうか。 1) どうして「命は大事だと思う」のか どうして「命は大事だと思う」のでしょうか。それが大切なポイントだと思います。 思うに、生命に対する慈しみは、家族⇒近所の人たち⇒人間全般⇒ペット⇒人間に近い動物(類人猿やサル)⇒動物全般⇒植物を含む生物全般と広がっていくのだと思います(ここまで直線的ではないでしょうが)。もっと単純化すれば人間⇒動物⇒植物と拡張されるということです。もし、生命への尊崇が人間に留まるものであるなら、動物や植物を殺して食べても、何も問題はありません。 ・なぜこのような拡張が起きてしまうのか。 ・このような拡張が起きたことで問題は起こるか。 この順で答えていけるようにしたいと思います。 2) どうして人間の生命を大切だと思うのか。 これにはいくらでも答えようがあると思いますが、私の意見を。 人間は社会的な動物です。ほかの霊長類と区別して、高度に社会的な動物といってもよいほどです。社会的知性のみならず、さまざまな道具を使うなど操作的知性や、そのほかにも物理的知性、博物的知性も持ちあわせています。それだけ悪賢ければ、相手の考えていることを先回りして予想し、さまざまな手段を講じて殺してしまうことも可能です。 一方、動物では、人間に比べると、他者の殺害を周到に準備するには知性が発達していないと考えられます。動物(とくに類人猿)で殺害がないとはいえませんが、人間と比べたら、小さいものでしょう。 そのような人間の過剰な残虐さを抑制するために、外的には法、内的には道徳感情があるのだと思います。頭で考えるのではなく、直接的に生命を大切にしようという感情が湧きあがることは、それに一役買っています。法や道徳感情は、社会的動物である人間の社会生活の基盤です。 3) 生命以外の基準は大切にしていないのか 下で触れますが、「なぜ人間以外の動物だけを動物舎に入れるのか」という問いともつながります。 どうして、何者かを大切にする基準が生命なのでしょう。基準が生命でなければ、慈しみが生物全体に広がることはなかったはずです。たとえば、言語コミュニケーションがとれるものを大切に思うのであれば、植物はおろか、ほとんどの動物、いや類人猿でさえも、大切にはされなかったでしょう。 しかし、生命以外の基準がはたらいていないわけではありません。たとえば、言語コミュニケーションのとれない動物は、安易に檻に入れてしまいます。これは、説得できないためにこちらに身の危険が及ぶためでしょう。また、たとえ檻に入れたところで、彼らが文句をいうことができないからでしょう。逆に理性的な、言語コミュニケーションの発達したわれわれ人は、檻に入れられずに生活させてもらえます。 そして、このさまざまな生物の種を区別する基準は、千差万別です。基準によっては、ニューカレドニアガラスだけがすばらしい生物で、人間など残りものの1種だということにもなるでしょう。この基準すべてが道徳感情にかかわっていると主張するわけではありません。しかし、人間にかかわる基準は、多少なりとも道徳感情にかかわってくるのだと考えます。 奴隷を解放する際にも、女性を解放する際にも、さまざまな基準がはたらいてきたのでしょう。人間全体が平等になるためには、この理性をもち、言語コミュニケーションを用いて生活しているという基準が必要だったでしょう。 これらの人間とは何か、あるいは生物とは何かにかかかわる諸基準のいくつかは、道徳感情の基準となることはわかっていただけると思います。 4) どうして人間以外の生命を大切だと思うのか。 では、生命という基準については、どうでしょう。上で述べてきた諸基準のなかでもっとも壮大な基準は、生物と無生物とを分割する基準です。この基準は、何らかの道徳感情の基準となっているでしょうか。またその道徳感情は意味のあるものでしょうか。 実際に道徳感情の基準になりうるのは、質問者さんが実感しているところだろうと思います。動物愛護、動物福祉なども、これにもとづくところがあります。大なり小なり生命への尊敬がなければ、動物の愛護も実感の湧かないものとなってしまうでしょう。質問者さんの感情は、これが最大限広げられたものなのだろうと思います。 生物を大切に思う気持ちは、あくまで共感の拡張でしかないと思います。ただ、その共感が生物全体に及ぶのには、意味があるだろうと思います。2) で述べたように、共感の及ぶ相手への攻撃は、抑制されます。人間の活動で自然環境が破壊されつづけていますが、それを抑制するためには、生命の尊重が実感としてあることが大事でしょう。頭で自然保護が大事だと理解していたとしても、やはり実感にまさる動機はないでしょう。また、自然保護が人間のエゴでしかないという議論があります。他方、やはり生態系を守ることが生命全体にとって大事なんだという議論もあります。この対立を乗り越えるのも、やはり生命への共感なのだと思います。これは、生命讃歌ということでロマンティックであると同時に、共感が拡張したものにすぎないということでロマンティックでないものだと思います。 5) このような拡張が起きたことで問題は起こるか 上からすると、農家でいらっしゃる質問者さんが、そのような後ろめたい感情を抱くのは、当然のことだと考えます。生命の尊重の裏返しだと思います。私は上で、そのような感情は人間のもつ過剰な暴力の抑制だろうと述べました。もしそうだとすると、そのような感情は、何か行動を起こすための出発点なのでしょう。 それを出発点とせず、嫌だなと思うだけだったり、感謝して終わらせたりすることもよいことだと思います。絶対に何らかの行動を起こさなければならないわけではありません。 一方で、それを出発点としていろいろな行動を起こすことはできると思います。野菜は仕方ないとして、たとえば、世界に残存する豊かな自然を保護するところまで連想してもよいと思います。農業をきっかけに生命への尊敬の感情を抱いた、という出発点にふさわしいゴールだと思います。この自然保護運動の例は、極端かもしれませんが、それ以外にもさまざまな可能性があると思います。ひょっとしたら、これをきっかけにまったくちがうことに興味が移るかもしれません。たとえば、植物や動物の生態に詳しくなりたいというのも、ひとつのゴールだと思います。 したがって、そのような感情をもつことで悩みは起こるが、それは出発点ができたという意味である、と考えます。 5) まとめ 私は、質問者さんに与えられた状況を分析するだけでは、絶対に答えは出ないと思っています。どんな感情についてもいえると思いますが、感情は出発点であり、出発点自体は答えではないからです。また、人間の行動はずいぶんと自由であるので、出発点を分析しても答えは出ません。 結局、答えがないというありきたりな回答になってしまいましたが、生産的な「ない」だとご理解いただければ幸いです。 *) 素朴生物学 人間が生物に対して抱いてしまう素朴な考え方を、学問の生物学と区別して、素朴生物学と呼びます。子どものなかで素朴生物学がどのように発達していくかは、発達心理学の重要なトピックです。そこでは、意図のような明らかな意識でもなく、かといって機械的なものでもない、生気現象の捉え方が問題となります。 稲垣佳世子・波多野誼余夫 (著・監訳) (2005). 子どもの概念発達と変化: 素朴生物学をめぐって. 日本認知科学会 (編), 認知科学の探求. 東京: 共立出版. http://www.amazon.co.jp/gp/product/4320094417/
お礼
自分の心理についてきちんと理解することはとても重要ですね。 質問しておいて申し訳ないのですが、生物密度に関しては私の愚痴であるということに気づきました。食物連鎖の底辺にある草や虫の数が多いのは当たり前のことですよね。 ほかの回答者の方からも指摘されましたが、自分自身の感情や感覚に振り回されないように気をつけたいと思います。 素朴生物学という言葉は始めて聞きました。リンクの本はちょっと高いですが、自分なりに調べてみたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
より強く生を意識するには「生きている喜びを持つこと」が必要です。 この喜びの実感が足りないと心の存在を理解できる人間ですら妄想に支配され生きているのか死んでいるのかわからなくなります。 人間に限って生きているとはどういう事かお話しましょう。 がん細胞というのは自然の摂理を無視して無限に増殖します。したがって大学等の研究室には患者はとっくの昔に亡くなられているのにそのがん細胞だけが培養されて生きていたりします。人間の生と死について考えたときこのがん細胞が存在するからといってその人が今も生きていると考える人はいないでしょう。 生きているという行為にはこのように自覚が必要です。 それは何でも良いのではなくプラス思考の喜びを伴うものでなくてはなりません。 また必要ある死をもたらすことが罪かと言うとそうではありません。 人の犯す殺生について言えば食べるために殺した生命の数以上に腸の中で細菌を育てうんことして毎日出産しています。個体数の増加で言えば圧倒的に殺した数以上の生命を産んでします。このようにお話しすると冗談めいて聞こえると思いますが、詭弁ではなくそれが輪廻であり生命のサイクルです。この全ての生命が一体となる感覚を自覚するには煩悩を全てなくすよりありません。そうすると真実の人間らしさとはすなわち「仏」ですから背負っていた殺生の罪も偽物であり所詮妄想に過ぎないとわかるはずです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >真実の人間らしさとはすなわち「仏」ですから背負っていた殺生の罪も偽物であり所詮妄想に過ぎないとわかるはずです。 これはどこかの経典の引用でしょうか。それとも煩悩をすべてなくしたprimeapeさんの言葉でしょうか。
もう一度いろいろ目を通して見ました。 ・・・が、やはり何を求めているのかがわからない。 「なぜ殺さなければ生きていけないのか?」とは、どういう意味の質問なのでしょうか? 1:システムの説明が欲しい→自分の感覚(利害)に関係なく理解したい ・世界を作った人(便宜上、神と呼ぶ)がいないとして、なぜ殺さなくては生きていけないシステムになったのか が知りたい ・神がいるとして、なぜ殺さなければ生きていけないシステムにしたのか、そうすることで神がどういう意図を持っていたのか等 についての説明(推測?)が欲しい 2:殺したくはないが、殺さざるを得ない自分の「正当性」が欲しい ・殺すことについての罪悪感がどうしてもぬぐえないから、そのための「生きるために殺すことの正当性」→理由 を教えて欲しい (そもそも「正当性」なんて物理現象の説明で出てくるものではなく、人間の感覚で決めるものです。りんごが落ちることに正当性も何もないように。) 1と2の区別は大切です。shift-2007さんが求める回答の種類が変わってきますから。 納得とは何をさすのかが解りづらいのですが、どうも「正当性」を求めているように思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 同じ質問を受けたのでコピペで申し訳ありませんがご回答させていただきます。 ####### たくさんの回答を頂いてそれに対してお礼を書いていたら、元々の質問はなんだっけ?という気分になりました。なのでもう一度初心に帰りたいと思います。 私は百姓です。 花や草や虫や鳥が好きです。 だからなるべくなら殺したくはありません。 しかし、生活のために作物を育てて、その過程で多くの命を奪います。 もちろん毎日の食事でも命あるものを口に入れなければなりません。 そうしなければ生きていけないし、人間を含め生物とはそのようにできているというのは十分理解しています。 一方で宗教的、社会的、道徳的に無益な殺生はいけないといわれます。 私も同感ですが、ここで矛盾が生じてしまいました。 命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか。 宗教的、或いは哲学的な問いがここで生まれました。 私の質問は”命は大事といいながら、なぜ殺生をしなければ生きていけないのか”の一点です。 ご回答いただいた中には、だからこそ感謝が必要なのだという説明もありましたが、感謝すればそれでいいのか?無益な殺生というが、そもそも殺生を無益と有益に分けることができるのだろうか、などなど次々と疑問が出てきて、なおかつ生物学的な回答にも私が哲学的な不満をぶつけたために本来の疑問とは路線がずれてしまったようです。その結果、何が納得できないのか分からない、となってしまったようです。 ####### 答えはどんなものでも納得できればいいと思ったため、少し質問の核をぼかしてしまったかもしれません。 ご迷惑をおかけしました。
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
私達は生きるために、毎日何億という命の犠牲を伴っています。 身体の中では雑菌と細胞との戦いが繰り返されているのです。 そして食べ物として命を取っています。 食べ物を得るためや生きるためのテリトリーを護るために他の命を排除したり奪っています。 そこには理由などありません。理由は人間だから考えるだけです。 動植物なら他のテリトリーを侵食し、侵食し尽くしたら死ぬだけ。或いは取りこぼしによってのみバランスを保っているだけです。 例えばイグアナは自らの意思で陸と海とに棲み分けているのではありません。住めないから分れているだけです。 逆に言えば、人間は人間だからこそ「住み分け」という行動が出来るのです。 人間は知識と知恵を持ち、その気になれば意識的に他の生命を根絶やしにする事も出来ます。しかしだからこそ『命を考える事でセーブされている』のです。 …と、私は考えています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 科学的ポジションから見ると理由は無い或いはその問いに意味が無いでしょう。 しかしmichael-mさんも命は大事だと思うはずです。 この2つの事実の間にある溝をどう埋めるのでしょうか。或いはそれとこれとは違うと考えるのでしょうか。 私はこの2つが別々のものとは思えないのです。つまり元がどこかでつながっているように感じるのです。そしてその元が何かを知りたいのです。
お礼
あーー百姓って差別用語だったんですか。確かにWebで調べたらそう書いてありました。ちょっとショックです。百姓という言葉は好きだったので。 自然への畏怖、kigurumiさんの言う”それをとことん知る”というのは自然への感謝とも置き換わりますね。 生物密度の件は確かに私のエゴでした。ただ、私は解決策を知りたいわけではありません。科学が言うようにいまさら植物連鎖を否定しても意味ないですから。kigurumiさんの言うとおり自然への畏怖を忘れないことは基本中の基本で、そこから次への問いを発するならば何か見えてくるものがあるのかもしれませんね。 私にとって問うことは常に窓を開けておくという感じです。答えがほしいというよりは、何か予想もつかないものが飛び込んでくるのではないだろうかという期待が大部分なのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。