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公正明大な「悪」というものは存在するか
「悪」の定義にはさまざまだと思います。 私がイメージするのは、自己保全とか怠慢とかごまかしとかのもので、信念を持ったテロとかは除外したいと思います。 そのようなプチ「悪」という類のものは、公正明大ということはありえないのでしょうか。 こう思いましたのは、まえに 「雨に傘差して自転車乗るのはどう思うか」「最近言葉が乱れている風潮をどう思うか」 という類の質問をしたさいに、来る回答が90パーセント以上ことごとく「けしからん、現代の退廃だ、なげかわしい」というものだったのです。「傘を差すと危ないけど便利だ」とか「言葉は砕けているほうが気が置けなくていい」という意見はほとんどなかったんです。教えてgooをやっている方々がことごとくマナー優秀な方というデータがあれば話は別ですが、どうですかね? つまり、自分のやっていることに後ろめたさとか、コンプレックスを持ってやっているということなのでしょう。 こういう後ろめたさとかコンプレックスというものを持たないプチ「悪」というものが存在するのでしょうか。また持つ必要があるのでしょうか。むしろ開き直ったプチ「悪」のほうがまだ印象がいいです。
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「雨に傘差して自転車乗る」のは、人に当たるから悪なのですし、 「言葉が乱れている」のは、心も乱れているのであれば悪ということでしょう。 その仮定条件が常に満たされるとは限らない(満たされない場合が多い)ので【プチ】という注釈がつくのだと思います。 これらは、社会生活を営む上でのマナーに過ぎないのであって、マナーは他人に迷惑がかからなければ守る必要性の全くないものです。 そのような要素を無視して(気付かないで)金科玉条の如く振りかざす輩よりは、 「他人に迷惑がかからなければいいんじゃないの? 」という本質論を堂々と言える人の方が真理をついているわけですから、印象が良くなるのはいかにも、という気がします。 ただ、剥き出しの真理を適度に解釈して応用する能力が人類には未だ備わっていないので、 大げさに言っておかないと、歩道いっぱいに広がるような傘をさしたり、目上の人にタメ口を利いたりするような【正直な人】がたくさん出てくるかもしれません。 「プチ悪」はそれこそ「必要悪」と捉えるより止むを得ないような気もします。 憂慮されるべきは、恐らく示唆されているように、 「プチ」に気を使いすぎるために、「本質(的悪)」を見極める能力がますます衰えていくというジレンマでしょうか。
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- tulip-tree
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公明正大な悪、それは自分自身。 しっぽをくわえたヘビのようです。
お礼
開き直るということは出口がないということになってうしまいますね。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#3です。訂正があります。 ×「プチ悪」はそれこそ「必要悪」と捉えるより止むを得ないような気もします ○「プチ悪」に対する規制はそれこそ「必要悪」と捉えるより止むを得ないような気もします
お礼
そうですね。「悪」であると認識しない(あるいはごくわずかな認識しかない)プチ悪であれば、それを押さえ込むために規制するのは妥当な方法ですね。
- 3980
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時代劇に出てくる越後屋や悪代官はどうなのでしょう。 「そちも悪よのう」 「いえいえお代官さまにはかないません」 一度印籠を出され水戸のご老公。 と頭を下げたのちに「切り捨てろ!」の開き直り。 見てる分には娯楽ですみますが 私はこういう人と関わりたくないです。 自分自身が被害者の時、「印象がいいです」 そう言っていられたらすごいですね。 悟りを得た修行僧のようです。
お礼
ちょっと時間がたつと、最後まで開き直らない人よりよくなるかもしれません。私もいまだ実感はありません。
- tappara
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プチ悪は公明正大かというと微妙ですが、プチ悪を行っている段階ではプチ悪である認識がないということだと思います。 認識できない悪は存在していないと同じですから。 質問のような形でその行為を客観視して、さあどうだとやった時点で始めて行為に悪を認識することはとても自然なことだと思います。 また、一般論的な理解のうえでの悪と事故が実践する感覚的な悪では差があるように感じます。 かさをさして自転車に乗ってた人が、やってる時把握である認識がなかったとして質問で悪だと認識して、その後かさをさして自転車乗らないかというと疑問です。 自己の感覚として悪であることを開き直って行うことは良いとは思えません。 少なくても自分の中での善悪の判断基準には従ってもらいたいものです。(傘をさして自転車に乗る好意は一般的にはよくないと理解していますがそれは僕の中で把握に類する行為ではないので僕はかさをさして自転車乗ります。でももし他人がかささして自転車乗ることはいいことかと聞いてきたら悪いことじゃないかと答えます。それは相手は僕ではないので一般論で話をする必要があると思うからです。)
お礼
認識していないんですか!これは衝撃的で、いままで如何に固定観念に縛られていたかわかりました。故意であるかどうかというのが鍵だと思っていましたから。今回のご回答で、ひとつ利口になりました。
- ANASTASIAK
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そのプチ「悪」なるものと倫理観の欠如とをまったく混同しているね。
お礼
両者はかなりオーヴァーラップすると思っています。
お礼
プチといったのは、常に心の暗い面を伴っている行為だからだという意味でつけました。故意のということです。ただ、悪の度合いや影響力が小さいので、ただのプチなんです。本質的には大悪党とかわりません。 こういうことはもちろん私自身の中にもあります。道にたんを吐いたり、わかってやりますからね。 他人に迷惑かからないようなものはこの場合問題にしてません。自転車は危ないし、言葉遣いは不快感を催す。ぜんぜん無人島で何しようとかまいません。 #2さんの認識のように、プチ悪はそれを認識していないという面が多いのですね。これは本当に利口になりました。もしそれをプチというならばいままでは「本質的悪」を間違って評価してしまった気がします。