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日本のカタカナ英語の氾濫と社会心理
よく話題に上ることであると思います。 そのたびに、似たような議論が展開され、「漢語」との関係とか、言葉の可塑性とか変化しつつある自然な状況とか、印象度を図るだけの安易さはやはり問題だとかそういうところに落ち着く議論であると思うのですが、もうちょっと本質に迫ることもできるのではないかと思いました。 たとえば、今の流行雑誌なんて半分くらいカタカナ英語で閉められていて、それはつまり「なんとなくわかる」「なんとなく印象がいい」「そのほうが普通である」というような雰囲気です。つまりは、売らんがための方策が大きい。しかし、それには土台の問題があって、そういう言い回し表現が一般的になってきているという前提だろう。その前提を作っているものは何か。 それは、「対決」を避けるという由々しき問題なんじゃないでしょうか? つまり、何でもいいですが、適当な例かどうかはわかりませんが、こんな文章があったとすると 「とてもカジュアルでアットホームなヨーロピアンスタイルのブティックです」 これを30年前の雑誌だったらこういっていたと思います。 「とても気楽で家庭的な、ヨーロッパ(欧風)風のお店です」 ばっちりな日本語「家庭的」「気楽」「欧風」「店」など、少なくとも今現在は、まだ母国語感覚であて、そのものと向き合います。その「対決」を避けるという全体的な気風がこういう世の中の風潮になったのではないだろうか? なぜ、避けるのか、それはつまり、責任を負いたくない。「インフォームドコンセプト」なんてぼかして「説明了解」という物事ずばりの状況を避ける、明言しないという「現場配慮」の姿勢があるのではないでしょうか。しかしそれは所詮ごまかしです。でも、「ごまかしたほうがいい」という気風がこういうことになっているのではないでしょうか? その日本人的?心理というのは何なのでしょうか?悪なのか美徳なのか。 どういうことなのでしょうか?
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私見ですが、何故カタカナを多用するのか、という所から書いていきたいと思います。 1. まず相手に何かを伝えたい場合には、明確に表現するのではなく、適度にぼかした方が良いという事もあります。 「秘すれば花」というやつで、キーワードを与えて相手の想像で補完する、という手法でこれは全くの美徳です。 ただ、そうした日本語を書くのが大変難しいし、カタカナで書いた方が簡単に書けるという事情があるのでしょう。 そもそもカタカナで書く日本語や外来の言葉に重みが無いのも確かです。 「かかずらうもの多くなりにけり」とかの言葉を推敲に推敲を重ねて余韻に浸るよりも「ベストフレンドをゲットしちゃえ! 」という方が簡単でウケは良さそうですからね。 個人的には悲しいですが。 2. また、外来語の輸入に日本語化が追いついていないのが現実で、医療先進国のアメリカからその文化を輸入する事が多いので、英語が分からない私達からすれば、なんか小難しい事言って逃げてんじゃないの? という感覚になりますが、医者からすれば勉強してそうした言葉を身につけているのですよね。 文化的な生活を送る上ではカタカナではなく、日本語でごまかした方が良いと思いますが、 現実的な生活を送る上では極力分かりやすい日本語で話すべきだと思います。
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- yoshiakips
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↓向上心をひとつ入れておきましょう
- yoshiakips
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世界標準に近づきたいというあこがれ、願望かもしれません 高度経済成長を経て経済的には世界2位になったけれども ファッションやら文化的なものや学問的なものは世界制覇には遠かった それらを制覇するには欧米とかの価値観をとりこんでさらに新しいものを創らなければならない 「カジュアル」は「気楽」ですが、言い回しとかを考えると「カジュアル」が最も使いやすい 新しい訳語を作らない限り 「ブティック」も「店」とは違います 昔も中国という大国から漢字を輸入し発展させました でも今は大国は欧米 欧米の知識、センス(感覚)を身につけて そのなかで日本人が感じるものを練って練って いずれ(あるいはすでに)日本から欧米に通用する日本人だから考え出せる何かを発するという野望、への前段階としてのあこがれ、などが混ざっている時かもしれません そうした集団心理 これだけカタカナが広まるということは日本人にやはり強い集団性みたいのがあるんでしょう そして先の集団心理のもとにあるのは競争心、プライド・誇りの高さ、あるいは見栄をはりたがる、とか・・? よくわからなくなりました。
お礼
それはあるんでしょうね。 いままで、下で色々考えてきた要素(ごまかし、かっこつけ、ぼかし、無責任など)以外に、確かに憧れ羨望というものもあるかと思います。しかし、本当に対アジアに対するものはなくなってしまいましたよね。そういう意味で、感じを取り入れた歴史という心理も、現状と似たものだったような気もします。
kaitara1です。日本語(漢字)を使うと一般人にも容易に意味がわかってしまうのでカタカナ語が頻用されるのではないでしょうか。
お礼
そうですね。すごい逆説的です(意味がわかってしまう)言葉って、何かをなるべく効率よく伝えるためだと思うんですけどね。
- bananasand
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戦前の日本人に、 「とてもカジュアルでアットホームなヨーロピアンスタイルのブティックです」 は理解できません。大多数が戦後の義務養育等により理解できる様になったからこの様な表現が使われるのではないでしょうか。仰るとおり、その方が楽なのでしょう。由々しき問題とはいえ、その問題を解決する手だては言語の可塑性と不可逆性からいってちょっと見あたりませんね。 楽には、有用性がある一方、眉をしかめられるという両面があるのですが、それらの総和としてどちらかに傾いてゆくのでしょう。 ルー大柴は受け入れがたいがウケてしまっているということでしょうか。
お礼
やはり、眉をしかめるという層が、圧倒的に少ないことから、こういう事態になっているのではないでしょうか。一種の美意識というか、もうちょっと踏み込んだら、実直性というかモラルというか、そういうことをへとも思わない人が多いから。言葉なんて、自転車と同じで、乗り捨てておけばいいという感覚が多いんじゃないでしょうか。それは実は、かなり深層心理的、人間的にやばい状態に陥っているといっても過言ではないでしょう。
kaitara1ですが、カタカナ語の問題は意外に根が深いものだと思います。表音文字しかないアメリカなどでは一般の人が抱く専門用語に対する親近感が低いと言っている人がいます。日本では漢字を使っているので専門用語に対してかなり想像が利くのではないでしょうか。現今のカタカナ語は専門家が占有するという意味で問題になるのではないでしょうか。ここでは貴方のご印象と正反対のことが生じているようにも思えます。つまり現今のカタカナ語は専門家(あるいは権力者)が一般の庶民をけむに巻くことに利用しているというような感じです。
お礼
まさにそんな感じがしてます。 表音文字しかない欧米では、専門用語も日常用語も、表面上の印象は同じですから、当然親近感が沸くんじゃないでしょうか。大して日本語は難しい印象を画数の多い漢字に抱きます。 専門化が一般人を煙に巻くために、ということ、そのとおりだと思います。それと、グラデーションのようにいろんな階層があって、庶民的にただ意味もなくかっこ付けとか印象度だけで使うあるいは、責任を負わないためとか。この責任性の放棄という意味合いが、「煙に巻く」ということとかなり交わっている気もします。 おっしゃうるように、本当に根が深い問題を抱えているようです。それが、実はかなり汚れた根のような気もします。
ある面から見れば日本語の内在的造語力の枯渇ではないでしょうか。歴史的には漢字が入ってきたときにも本質的に同じことが生じていただろうと思います。当時は日本語自身が未熟だったため、むしろ漢字を基軸にして日本語が発展してきたのではないかと思います。この際漢字が表音文字でなかったことが幸いしたのかもしれません。漢字を用いる漢文によってその後の日本語の造語力は維持されていたと思います。このことは幕末明治の文明開化において明確になったと思います。和魂洋才という言葉も古く菅原道真が言った和魂漢才のもじりだそうです。今は和魂米才どころか米魂米才というところでしょうか。軍国時代に一部の軍事の独魂独才によって日本が破滅に連れて行かれたことが思い出されます。
お礼
「日本」という心意気みたいなものが、無意識的にも消滅しているという査証なんでしょうかね。ちょっと抵抗あるなぁと、カタカナ語を言う前に思うこともなくなってしまっています。 漢字を取り入れたときは、必要性があったでしょうかね。そして、漢字を操れるのは、学のある人間に限られていたのではないでしょうか。庶民には選択の幅はない。表音文字でないから、「音」は日本語を当てました。なんとも都合よいやりかたです。その同化はよかったですね。 でも、最近の事態は逆で、表意文字をすて表音文字化(カタカナ)している。これは、「意味」の重みを剥ぎ取る姿勢です。欧米ではアルファベットだからそんなことはないとしても、ここでそれをやると「意味」の希薄化を奨励していることになります。 つまり、漢文を日本語に取り入れる作業は基軸と文化がしっかりしていたのに、日本語を捨てカタカナ表記で(しかもアルファベットを取り入れるという努力もせず)代用するというのは、安易さの極致といっても過言ではないような気もします。
補足
「米魂米才」大変共感します!昔っからそうですね。戦前戦後一貫しています。戦前はお文化な日本に混じらせていてちょうどよかったんですが。しかし、「独魂独才」の時代って言うのは、実はなかったような気がします。もっとも同盟も短く、とても根付かなかった。フランス語はいろいろ根付いてもドイツ語はバームクーヘン以外何もありませんね。
最初、「対決を避ける」の意味がわかりませんでしたが、なるほど。 最近の日本語の「明言しない」「ぼかして責任回避する」風潮と確かに同じですね。 語尾を上げる反疑問形や「~みたいな」「~とか」などの言葉使いと同じで、そこには断定することを避け、解釈に幅を持たせることで責任の所在を曖昧にする心理があります。 (雑誌などのメディアや広告に使われるカタカナな、曖昧にすることでイメージを広げる目的もあると思いますが) 対決を避ける心理ですが、日本は自己主張するよりは自己を抑えて人との和を大切にする民族です。 これは集団で作業する稲作文化に由来するもので、「村八分」や「出る杭は打たれる」という発想は日本特有のものです。だから言葉も断定的な言い方をして、つまり自己主張してそれが集団の中で受け入れられなかった場合のリスクを考慮して、ぼかしてしまうのではないでしょうか。 古来から日本の文献は母国語であっても曖昧な表現は多かったのではないかと思います。 私は古文の授業は真面目に聞いてなかったのでその辺はわかりませんが。
お礼
語尾上げというのもありましたね!ああいうのって、深層心理というと大げさですけど、かなりやばい状態なんじゃないかという気がしています。民族的心理っていうのはどうも根深いですね。なにか、革命的変革がおきれば話は別になってくるとも思いますが、本当の意味で占領統治されたわけでもない日本にはそんな変化は期待できなかったし、内発的革命を起こす気風もなかった。戦前の価値観をまだまだ続けそうですね。
お礼
適度の暈しがいい場合もある。それは、自分も楽だという感じですし、まぁ相手にも表面的にはいいでしょうね。ただ、本質的には相手を思っていません。「歯にころも着せぬ」という人が、好印象は与えないけれども、内面は凄く実直だったりするかもしれません。 それと、「表音」文字としてのカタカナの楽さ。これって、感じだとどうしても「意味」を引きずって重くなりますから、それを剥ぎ取った記号性だけのカタカナは2重の意味で楽なんでしょうかね。 あとは、2で挙げられたような例もあるところにはあります。 おっしゃるように、「表音」の助けを借りず、日本語をこねくり回して角を立てないという「頭脳」作業が必要なんですが、世間はそう甘くないというか気が利きません。どんどん安易な方向へと傾斜していきます!