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蔵屋敷を持っていた大名
外様大名で江戸に蔵屋敷を持っていた大名はどこの家があるでしょうか?
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尾張名古屋藩尾張徳川家(愛知) 619,500石 28,465 蔵屋敷 中央区築地 東京中央卸売市場 (築地市場) 海舟・西郷隆盛会見之地碑-【薩摩藩蔵屋敷】 江戸開城をめぐる勝・西郷会談が行われたのは、慶応4年(186 8)3月13、14日(江戸開城は同年4月11日)。13日が高輪 の薩摩藩下屋敷、14日が芝の薩摩藩蔵屋敷で、この蔵屋敷跡に記念 碑か建てられた。 田町の三菱自動車の本社は、旧薩摩藩蔵屋敷跡である。この地で官軍 の江戸総攻撃前夜、西郷と勝海舟が会見を行ったとされている。 http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/tamachi.htm 取り敢えず、「江戸」「蔵屋敷」「大名」で上記の情報が集まりましたが、 ご参考に、、、、 江戸にあるのは、殆ど「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」ですね。 ここが詳しいです。蔵屋敷以外、、、 http://www.viva-edo.com/daimyouyasiki.html
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- mabomk
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「蔵屋敷」は一般的には「年貢米」を「現金化」する為の 「藩商業部出張所」であり、江戸にあったのは「上屋敷」 「下屋敷」などの「藩政治部出張所」です。江戸にも「蔵屋敷」 的なものはあったと思われますが、主には「大坂」(当時は 大阪ではなく大坂」でした。 以下は引用です。 大坂が「天下の台所」といわれたのは各藩が蔵屋敷を大坂に設けたこ とに起因する。年貢米、その他各藩の特産品は蔵屋敷で払下げられ、 売却されたがこの代金は各藩の財政上大きな比重を占めていた。江戸 時代、蔵屋敷は交通の便の良い所、つまり河川に面したところにその 殆んどが設けられた。更にその中の殆んどが堂島、中之島付近に設け られたという。文化11年(1814)には中之島に41、堂島に15の蔵屋敷 が、また天保年間(1830-1834)にはこの地区に125の蔵屋敷があった と伝えられる。 碑の建つロイヤルホテルの地は讃岐高松藩12万石の蔵屋敷があった ところである。蔵屋敷には舟が屋敷内へ直接入れるよう水門が設けら れていた。明治5年、廃藩置県のときそれら蔵屋敷は払い下げられた が、その数135にも及んでいた。 ============================= この頁です。 http://www.ncs.co.jp/nakanoshima/index.htm
お礼
ご回答ありがとうございます。 仰るように大名家の蔵屋敷は大坂に集中していましたが、一部の大大名は江戸にも蔵屋敷を拝領していたようです。 今、Yahoo!のスクロール古地図に凝っているので、今回は江戸の蔵屋敷について質問させて頂きました。
- mercykt
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基本的に、大名になると参勤交代が義務とされます。 そして大名の妻は江戸に住むことが原則です。 そのため、外様・親藩の関係なく、参勤交代をする大名=必ず江戸に屋敷(藩邸)を持っています。 上屋敷、中屋敷、下屋敷と分けるのが一般的だったようで、上屋敷は江戸在留中の大名の住居になります。 基本的に大名は上屋敷以外のみを使用します。上屋敷が使えなくなった緊急時などには中屋敷を用いますが、下屋敷においては大名がやって来ることはまずありません。 そのため、夜になると下屋敷の中元たちが屋敷を賭場にしてしまい(博徒から場所代を貰って座敷を貸してやり、そこで町人達が博打を打つ)小遣い稼ぎをする、なんて事も珍しくなかったようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 上・(中)・下屋敷が基本形のようですね。 他にも抱屋敷・添屋敷・蔵屋敷なども持つ大名家も多かったようです。
お礼
やはり薩摩藩などの一部の大藩が拝領していたようですね。 ご丁寧な回答、感謝致します。 ありがとうございました!