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親藩・普代・外様 大名の区分け
江戸時代の大名の区分けに、「親藩・普代・外様」があります。 これって、当時も制度として存在した呼び名なのでしょうか?それとも当時の民衆や後々の歴史家が作った区分けなのでしょうか? 将軍拝謁時の待合室である「伺候席」、朝廷から頂く「官位(官職・位階)」は制度として存在したことは存じ上げています。 よろしくお願い致します。
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- D-Gabacho
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幕府によって編纂された『寛政重修諸家譜』に「譜代」「外様」は使われているので、公式な呼び名といえると思います。 仙石政明 「これよりさき御譜代衆の列たりといへども、このとき柳間に定めらる」 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1082719/1/347 柳沢吉里 「十二月朔日侍従に任ぜられ外様大名の順次にしたがふべきむね仰を蒙る」 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1082717/1/495 「親藩」は公式な呼び名ではなさそうですが、桜田門外の変の「斬奸趣意書」に使われているので、呼び方自体はあったようです。 「御親藩を始め公卿衆大名御旗本に不限讒誣致し」 http://sybrma.sakura.ne.jp/110zankansyuisyo.html
- f272
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御譜代という言葉はあった。外様という言葉はあまり使われないがあった。しかし親藩という言葉は当時は使われることはありませんでした。御三家,御三卿,御家門,御連枝などという言葉を用いました。
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遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。 「譜代」「外様」はあったが、「親藩」は後世の歴史家が付け加えた、ということですね。
- eroero4649
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Wikipediaによると「柳営秘鑑」や「三河物語」にも「安生譜代」や「三河譜代」という言葉があるそうですから、少なくとも江戸初期からそういう言葉はあったということでしょうね。 そして江戸初期の文書に記載があるということは、室町時代には既にそういう言葉があったと考えるのが自然なのかなと思います。 出自や血筋、家の格なんてのは江戸時代や室町時代より鎌倉時代のほうがずっと重要でした。源頼朝が武士の棟梁になれたのは、頼朝が優秀だったからではなく、清和源氏の正統な血筋だったからです。 また武田信玄は自分が清和源氏の末裔であることに大変な誇りを持っていたようで、そのため自分の息子にさえ「お前は正統な後継者じゃないからな」とやったほどです。そのため勝頼は「武田家の正統な後継者」と認められずに苦労して武田家の滅亡に繋がってしまうほどでした。 血統としてどっちが上でどっちが下かみたいな序列は、現代人の想像をはるかに越えて重要だったでしょうね。
お礼
遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。 「譜代」という言葉は存在していた、で確定のようですね。
- kyokoma
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豊臣秀吉死去後の関ケ原の戦いで石田三成を破り実験を握り、 徳川幕府を開き、 この時幕府が様々な制度を制定したうちのひとつです。 既にご存知かと思いますが、 親藩は徳川家のいわば親族で、 そのうち家康直系にあたるのが御三家です。 譜代は関ヶ原合戦以前からの根っからの家来です。 外様は関ヶ原合戦以降に徳川家に組従ってきた、 言わば「その他」です。
お礼
遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。 親藩、譜代、外様の意味は分かるのですが、これが何時から使われたか、なんですよね。 当時から制度として存在したのか、後世の歴史家が付けた名なのか。
お礼
遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。 やはり「譜代」「外様」はあったが、「親藩」は後世の歴史家が付け加えた、ということになりそうです。