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地獄

地獄は、本当にあるのでしょうか。あるとすれば、仏教のような有期刑でしょうか。キリスト教のような無期刑でしょうか。

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  • kettouti
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回答No.12

確か、シェイクスピアが、 「赤ちゃんは、どうして泣きながら生まれてくるのか?それは、地獄のような、この世の中に生まれてきたくないからだ」 という事を書いている物語があったと記憶しているのですが・・・。 言われてみると、声を出しながら生まれてくる事が生きている証だとしたら、なにも泣きながら生まれてこなくても、笑いながら生まれてくれば良いのにと感じます。 それから、この世の中に生きていると、良い事もあるでしょうが、嫌な事・悪い事がスゴク多いように感じます。(自分だけか?) 火事・放火・事故・事件・人的災害・自然災害・様々な事に対するストレス等。 仏教的に考えると、地獄とは「酷熱、極寒、飢餓、渇、剣樹、鉄釘、脳血、沸屎、石磨などの恐ろしい場所」と言われます。 しかし、これらの事はこの世で起きている様々な出来事が当てはまるように感じます。 ですから、地獄とは、この世の中の事ではないかと感じています。 シェイクスピアの考え方に自分としては同意出来るかなと・・・。

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございました。

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  • tokytime
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回答No.14

No.13です。 スエーデンボルグはキリスト教史上最大の神秘主義者です。 以下を参考にして下さい。 エマヌエル・スウェーデンボルグ(1688~1772) 科学者スウェーデンボルグ キリスト教神秘主義最大の思想家であり、スウェーデンの最高、最大の学者でもある。ウプサラ大の神学教授の息子としてストックホルムに生まれ、84年の生涯の前半を科学者、後半を神学者として過ごす。 科学者としての才能は豊かで、天文学・機械工学・数学・宇宙論・解剖学・生理学・鉱山学など多方面の分野で先駆的な研究をし、当時としては驚くべき先見性を有した発見の数々がある。本職は鉱物学者でスウェーデン鉱山局に籍を置き30年弱勤務、研究をする。 神学者への転向 52歳ごろから幻視体験をいくどとなく体験するようになり、1745年4月、ロンドンでキリストの幻視を体験する。キリストが現れ、「人々に聖書の霊的内容を啓示するためにあなたを選びました。この主題に関して何を書くべきかを示しましょう」と語った。それ以来彼は霊界の探訪者・神秘主義者へと転身し、一切の世俗的な著作活動を放棄して霊的な研究へと進み、霊界探訪に基づく膨大な量の神学的著作を残す。 神学者への転向は彼の科学者としての名声を曇らせるものであったことは間違いない。転向後の彼を精神的な病にかかったものと見る人もいるが、霊界探訪に基づく膨大な著作には終始科学者としての理性的で冷静な目が貫かれ、緻密な整合性が見られる。カントが「それが霊界についてであるという点を除けば、これ以上理性的な本はないくらいである」と述べたほど、その内容からうかがえる著者の精神は健全そのものである。83歳で、予告通りの日にこの世を去る。 スウェーデンボルグが影響を与えた人々 スウェーデンボルグについてはその巨人的な才能や霊界探訪者としての側面ばかりが強調されがちだが、人物としては愛の人であったことを多くの人は知らない。その神学的な反対者たちでさえ、彼の誠実で勤勉で親切な人柄を攻撃することはできなかったという。 スウェーデンボルグの思想は特に後世の文学者たち(コールリッジ、ブラウニング夫妻、イェイツ、エマーソン、ヘレンケラー、リンカーン、バルザック、ボードレール、ドストエフスキーなど)を中心に大きく影響を及ぼしている。現在スウェーデンボルグ研究の中心地はアメリカであり、1850年設立のスウェーデンボルグ財団(Swedenborg Foundation)という非営利団体(1993年にニューヨークからペンシルベニア州ウェストチェスターに移転)やその他の有力な研究機関がある。ロンドンではスウェーデンボルグ協会(Swedenborg Society)が、ドイツではチューリヒのSwedenborg Verlagが著作を扱っている。 日本では、賀川豊彦や無教会主義の内村鑑三、さらに禅学の大家鈴木大拙がアメリカ留学中にスウェーデンボルグの思想に接し、影響を受けている。日本語訳はアルカナ出版と静思社が扱っている。(『スウェーデンボルグの思想』高橋和夫・講談社現代新書より要約)

参考URL:
http://swedenborgian.hp.infoseek.co.jp/Swed..htm
noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.13

NO.10です。 以前、エマニュエル・スエーデンボルクの著書を読んだときに、面白いことが書いてありました。 「地獄に投げ落とされる・・」と人は表現するけれど、彼らは決していやいやながら落とされていくのではない。 むしろ彼らは喜んで、歓喜に浸りながら地獄に飛び込んでいくのである。 なぜならば、地獄こそがかれらにとって最もふさわしいところ、最も自分の信条と一致したところ、最も楽しいところだからである。 地獄の残酷さ、醜悪さこそ彼らが慣れ親しんだものであり、生前にいつも行動した続きを継続できるところであり、気持ちが同調できる住人たちばかりが巣食っているところであるからだ。 彼らは天国になぞ死んでも行きたくないのである。 天国の清らかさ、慈悲深さは、彼らにとって地獄の炎や針の山よりも、もっと毒である。 彼らがその聖なるエネルギーに触れたならば、死ぬほど苦しみ、ちりぢりになって逃げていくだろう。 だから、彼らは心からよろこんで地獄の方へ向かって飛び込んでいく。 間違っても天国の方になぞ飛び込まない。 この様子を天界の住人から眺めると、まるで地獄に投げ込まれているように見えるだけなのである。 如何でしょうか。 スエーデンの宰相まで勤め、当時の天文学、科学、数学、物理学、医学・・全ての分野で最も優れた研究者だったエマニュエル・スエーデンボルクの膨大な「霊界日記」や「天界と地獄」などの著書は大英博物館に保管されています。 彼は60過ぎからしばしば就寝中に霊界を訪れ、その記憶を持って帰り、ひたすら記したのです。 自分がすべての学問の分野に精通した理由は霊界で体験したことを客観的に判断し、世の人々のためにその情報を提供するためだったと晩年に気付いた、と書いています。 興味のある方は読んでみてください。 参考になれば、幸いです。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%A
noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#69788
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エマニュエル・スエーデンボルクはカトリックですか、プロテスタントですか。

noname#30044
noname#30044
回答No.11

こんにちは 簡単に、一例をあげてみると。 仏陀、釈迦無二の高弟、マハーモッガラーナ(って、知ってます??)は、釈迦無二が、地球に居た時、に同様に、地球に生まれていました。 (そこで、解脱、悟りを得ましたが。) この方、別の宗教団体に頭を割られ、涅槃したとか。 この方の前生(ひとつ前??)は、地獄だったと言われてます。 (これは、有名な話です。) だから、期間は有限と考えます。 なお、有限といっても、仏教の場合、いまの地球みたいな、時間、年の感覚、観念が、違い、カルパということばの単位を主に使います。 これは、01カルパ=宇宙が、創造され、破壊にいたるまでの期間をいう。 したがって、有限ではあるが、人間的な感覚では、無限ともいえるかもしれません。 上記の"前生(ひとつ前??)は、地獄"で、次の生は人間で解脱した。 その理由は、その前の前生に、やはり別の宗教団体に属し、仏陀の頭を割って殺した。このカルマによって、一度、地獄へ落ち、次の生では、逆に仏陀の弟子となる。そして、同様に過去世のカルマの開放により、頭を割られ涅槃したと。 キリスト教と仏教の違いは、宇宙に関する考え方、到達地点の違いだけで、あとは、ほぼ一緒だと思うので、同様に有限と考えますが。 以上

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.10

storm50さま、 地獄について私なりに理解しているものは以下のようなことです。 地獄も天国も、決して、神やその他の存在から与えられる刑罰でも報償でもないと思います。 死後の世界は、自分自身の感情のエネルギーが物質化(霊的物質)する世界です。 ですから怒り、おごり、妬み、恨みなどどいう負の感情は負のエネルギーを持っているので、負のエネルギーから生まれた負の物質となって表現されます。 例えば、他者に対する狂おしいほどの燃え上がる憎悪は、どす赤黒い炎となって自分自身を苦しめます。 この様子はちょうど炎熱地獄のように見えますが、勿論物質的な炎で焼かれるのではなく、自分自身の憎悪そのものが自分を焼き尽くすように苦しめるのです。 消えない炎であり、死ぬことができないので、その苦しみは実際の焼死とは比べることができないくらい辛いようです。 他者へ送った負のエネルギー(感情)は、それそのものが自分自身を苦しめることになります。 その負のエネルギーはありとあらゆる自分自身の障害となって表現されます。 他者に対して微塵も憐れみや慈悲を感じなかった人は、その潤い一つ無い、不毛の感情によって、草木一本生えない、全くなにもない、不毛の砂漠にたった一人で自分が居るのを発見するかもしれません。 そして、他者への愛情が湧かない限り、いつまでもその状態が続くでしょう。 逆に他者に慈しみと奉仕を捧げてきた人は、その愛情、慈悲、優しさのエネルギーから表現される、人を引き付けて癒す美しい自然や、整然と美しく整った町に自分を引き寄せていくでしょう。 そして、同じように美しい心を持った善人(善霊)たちと共に充実した日々が送れるでしょう。 どちらにしても自分自身の生前の感情とそれに伴った行いによって自分自身 を表現した結果が死後の世界を決定するのだと思います。 ですから何時まで地獄にいるのか決定するのは他ならぬ自分自身です。 たとえ、どん底の地獄でも、そこで心を入れ替え、他者に対する愛情と慈しみで心を一杯に満たしたならば、即、地獄から脱出できるでしょう。 そんな慈悲深い人は、地獄の暗いエネルギーの波長と合わなくなるからです。 そして、心の愛情の度合いにふさわしいレベルの天国にきっと行けるでしょう。 心に向上心があれば、愛情と慈悲に満ちた善霊たちがきっと助けてくれることと思います。 この様なことから、他の方も言及されていることですが、地獄、天国が心の中にある・・というのはたとえ話などではなく、真実だと思います。 又、生前だけではなく、死後もその行いによってどんどん負のエネルギー(悪徳)を積み重ねる人もいれば、心から負の感情を排除していって徳を積み上げ、どんどん高い霊界に上っていく人もいるでしょう。 結局、生前、死後に関わりなく、人は常に自分自身の感情のエネルギー(心の中の思い、他者への気持ち)によって自分自身を苦しめたり、幸福にしたりするということでしょうね。 それが死後の方が端的に表されるということでしょう。 参考になれば幸いです。

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#24295
noname#24295
回答No.9

カトリック信者です。 まあ信者といっても、信仰は薄いので。。。 地獄は、あります。 「この世」です! イラクやパレスチナやダルフールなど、この世には地獄がいっぱいです!!! 日本にも、地獄はいくらでもあります!!!

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#69788
質問者

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では、どうして人は、この世に子供を作るのでしょうか。

  • kigurumi
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回答No.8

私の理解ではイエスには地獄という概念は無かったと思うのですが。。。 しかも天の国は来ている と今でいうなら完了形になっているはずです。 イエスが言った死人とは、信仰心が無くなった人のことだと思います。 死者のよみがえりとは、かつて信仰心があったが、なくしてしまったので死者となり、再度信仰心を持ったことでよみがえったということだと思います。 カトリックには煉獄という概念があったと思います。 他の宗派には無かったと思います。 煉獄とは今でいうなら裁判所みたいなところで、イエスで例えるなら、慈悲と峻別の天秤にかけられ、いわば宗教裁判のような状態になり、あまりにも信仰心が無い場合は、信者を剥奪して追放。 永久に信者として認めないし関係も一切絶つ。 これが最後の審判。 信仰心が無くなった状態が地獄 と考えられていたんだと思います。 ラザロの復活とは、信仰心を取り戻したということだと思います。 恐らく宗教裁判にかけられ、一時禁固刑をくらったと思われます。 そしてイエスが彼を救った。 彼の信仰心の欠如を病人として例えたくだり。 聖書にはイエスの奇跡が載っています。 目が見えない人 足がなえた人。  全て信仰心が極端に欠如した人たちのことだと思います。 従って文字通り 盲目の人を一瞬にして肉体的に目が見えるようにしたわけではなく、信仰心が無くなり宗教的に盲目 つまり 見えなくなったしまった人に 光を与え、目が見える つまり信仰心を取り戻した という話。 金持ちの家の前のラザロの話もしかり。 口先だけは立派だが、実態としては信仰心が無い人=金持ち。 金持ちが死んだ後、(信仰心が全くなくなったとき) 神に兄弟にせめて信仰心を持てと言わせてくれといいましたが、「既にモーセと律法がある。 それがありながら貴様は信仰心が無くなり死んだじゃないか」といいましたよね。 既にあるものを無いとする。 エセ信者にとってはまさに信仰心が無い=死です。 だったら、最初から生きるな=信者になるな ってことだと思うんですね。 信仰心があると宣誓した以上、その信仰心の明かりを消すようなよそ見はしちゃあ いけないと思うんです。 「あなたは神を信じますか」 これただしくないです。 「あなたは神が存在すると信じますか」が正しいです。 存在するという認識があれば、神は存在しているわけです。 疑うと信仰心が消えだすわけです。 神の存在が消えるわけです。 かつて信者だった人が信仰心をなくすと、生きながら死者になるわけです。 破門 追放されるまで信仰心が無くなった人が復活はあるのか? よほど 信仰心がなくならない限り、破門は無いと思うんですね。 少なくともイエスの考えでは。 イエスが属していたとも一部言われるクムラン宗団。 赦しの規則がある。 信仰心が無くなった程度に応じて、罰則がある。 数日の禁固から、数ヶ月、最悪もう救いようが無い場合は、破門して追放。 それがパウロに起こった。 数ヶ月の謹慎処分ではすまないとんでもないことをしでかした。 ほとんどの律法を否定してしまった。 神を愚弄するにもほどがあるので、クムランではもっとも重い罰が与えられた。 破門 追放。 パウロはかなり頭にきたでしょうね。 イエスの思想殺し やりまくりました。 書き換えて改ざんしてしまった。 そして自分の思想をイエスの思想だと塗り替えた。 パウロの鳴らす音楽を聴かず、イエスのならず音楽を聴いていれば、一度誓った以上 信仰心の明かりは消えないと思います。 羊は主人の声を聞き分ける ハズですから。 どちらを主人だとしていますか? パウロ それとも イエス? イエスを主人としていたら地獄という概念は持つはずがない。 パウロを主人だとしませんでしたか?

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#69788
質問者

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煉獄とは、地獄に堕ちるほどではないは、罪を犯したものが有期刑の罰を受けるところというのを見たことがあります。

  • gellgugu
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回答No.7

有期刑だと思います。 そもそも仏教でもキリスト教でも仏典や聖書というものは聖者当人が書いたものではありません。 本当に神と対話し、真実を知ったのは聖者当人ではないのでしょうか? 例えば仏教は釈迦ですが、彼はバラモン教での苦行はおかしいと説きました。そして経文を読むだけで幸せは訪れると。 しかし後々仏教には難行苦行が復活しています。滝を浴びたり断食をしたり。 キリストは戒律を戒めました。そしてこう言います。神はあらゆる罪を咎め、あらゆる罪を赦される。 この言葉を信じるとしたら、大きな罪を犯して地獄に行った人も赦され救われる筈なんです。 恐らく無期刑という概念ができたのは勝手な予想ですが、地獄に落ちることも恐れなくなっては犯罪が減ることは無いと懸念した構成の人々が付け加えたのではないでしょうか? また仏教にて地獄に落ちる場合閻魔大王にて審判が行われ、浄玻璃の鏡に照らされるとあります。そこで犯したあらゆる罪をまざまざと見せ付けられるようです。そのことを考えると普通の人ならものすごい反省をします。また恥ずかしいと思うでしょう。その反省の念を持っていく先に地獄があるのだから、仕方ないと諦めることでしょう。つまり地獄とは自分に見合ったところへ行くのだから思ったほど苦しいところではないと思うのです。もちろん苦しいでしょうが仕方ないと思いながらの生活です。普段この世の生活で失敗を犯したときに「罰としてこれこれをしなさい」といわれてもやむを得ずそれをすると思います。これは苦しくないですよね。何もやっていないのに「おまえやれ」といわれると不満も出て苦しいと思います。そういう感覚の場所ではないかと私は考えます。

  • 1katyan
  • ベストアンサー率18% (147/800)
回答No.6

完全に神様から見放された状態であると何かの本で読んだことがあります。 聖書的な考えならば 完全に見放されるという事もありません 絶えず どんな悪い事をした人でも神の愛は等しく そしてすべての人に平等にあります。 神様は絶えずどんな人でも救いたいと言う事でイエスキリストを私達の 弁護者として送られました。 救いというのはイエスを信じること ただこれだけです。

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • 1katyan
  • ベストアンサー率18% (147/800)
回答No.5

無期刑ではありません。 すべてを支配している神様 やはり地獄にも神の愛は届いてます。 (はっきり言いまして まだ見たことも行ったこともありませんのでわかりませんが) 地獄という概念から離れどうすれば天国 極楽にいけるのか?を考え その反対の事したら行くものだと思ってください

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございます。地獄とは、完全に神様から見放された状態であると何かの本で読んだことがあります。

回答No.4

地獄ですぁ。あるんでしょうかないんでしょうか。私なんかも何度かお世話になっているでしょうが、記憶が無いもんですからなんともいえないのが正直なところですね。  ご存知かもしれませんが、地獄に関するお話でこんなものがあります。  あるお侍さんが、禅のお坊さんと所におもむき日ごろからもっていた疑問を、頭を深々と下げながら問うてみました。 「お坊さん地獄と極楽は本当にあるんですか?」 するとそのお坊さんは 「えーえー。ありますとも。」 とおっしゃりながら、深々と頭を下げるお侍さんを持っている扇子でパチンとたたきました。すると、お侍さんは刀にてをかけ、 「こちらが頭を下げて聞いているにもかかわらず、頭をたたくとは何事か?」 と、ものすごい形相でお坊さんの顔をにらみました。するとお坊さんはお侍さんを指差しながら、 「ほれ、それが地獄じゃよ。」 とおっしゃっりました。それを聞いて、お侍さんは自分の心の中に地獄があると気づき、なんだか恥ずかしくなって、 「申し訳ありませんでした。」 とまた深々と頭を下げると、お坊さんはまたお侍さんを指差して、 「ほれ、それが極楽じゃよ。」 とおっしゃったそうです。 出典は何だったか忘れてしまいましたが(知ってるかたいれば教えてください)、結構有名な話です。このお話の中では、地獄も極楽も心の中にあることを示します。  このお話は、唯心論(唯職なんかがそうですかね)の影響が強いように思います。唯心論はあらゆる存在はただ心の現われに過ぎないと見る見解で、仏教はもともと唯心論的傾向が強いようです。『華厳経』というお経の中において「あらゆる現象世界はただ心でしかない」と説かれたことで、三界唯一心(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天を三つに別けたものを三界といいそれは全て心の現われである)という思想展開を見せます。  その華厳経の思想に大きな影響を受け、「唯識」という新たな学派が誕生します。唯識は外界の事物はみな「空」であり、あらゆる存在はただ自己の心(識)にすぎないと見る学派です。ヨーガ(瞑想等の心身統一法)を実践することにより、唯識を観ずることから「唯識瑜伽行派」とも呼ばれます。この唯職という思想は後に法相宗や禅宗等々多くの宗派に影響をあたえていきます。  しかし、またそうでないという見解もあるのも確かです。地獄はサンスクリット語では〈naraka.niraya〉となり、「奈落」や「泥黎」と音を漢字に当てて訳したりします。悪業を重ねたものたちが堕ち、さまざまな責苦を受ける世界の総称です。  経典には多くの地獄のありようが説かれています。有名なところですと、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄(無間地獄・無限地獄ではありません。「苦しみに絶え間に無い」ということです)の八大地獄(八熱地獄)や、頞部陀地獄、尼刺部陀地獄 、頞听陀地獄、臛臛婆地獄、虎々婆地獄、嗢鉢羅地獄(青蓮地獄)、鉢特摩地獄(紅蓮地獄)、摩訶鉢特摩地獄(大紅蓮地獄)の八寒地獄 (←漢字が難しくて読み取ってもらえないようですからネットで「八寒地獄」と調べれば出ると思います)があります。また、他にも八つの場所にそれぞれ付随する「増地獄」「副地獄」というものもあり、地獄の各地には「孤地獄」という地獄が散在しているようです。  『正法念処経』や『倶舎論』などの経典や論書は地獄ということを組織的に説いています。もちろんこう言った地獄に関する考え方は一時的に成立したものではありません。たとえば先に述べた「八寒地獄」はもともと寒冷とはかかわりを持たず十種類の地獄として説かれていたそうです。それがヒンドゥー教の影響下により成立した「八大地獄」との対比で「八寒地獄」となっていったようです。  いずれにせよ、古代インドにおける行ないに応じて輪廻(業報輪廻)が決まるという世界観の定着とともに、仏教では早くから地獄の思想を取り入れ悪業の報い(悪因悪果)として地獄に堕ちることの恐ろしさを説き、善行の報い(善因善果)として生天(昇天ではありません)することができるとし、また輪廻という地獄を含めたすべての苦しみに世界からの解脱(抜け出し)ができると説くのです。  日本において地獄の思想が人心を深く捉えたのは恵心僧都源信の『往生要集』に八大地獄が詳細に述べられてからであり、日本浄土教の隆盛の要因にもなったといわれます。またそれだけではとどまらず、三途の川や賽の河原、地獄谷等々の多くの信仰を生み日本文化に多くの影響をあたえたようです。 長々説明してきましたが、質問の中の >>地獄は、本当にあるのでしょうか。 というものに関して言えば、どちらともいえないというのが正直なところでしょう。 しかし、浄土宗のお坊さんでこのようなことを言った方がいます。 「地獄があると信じている人には地獄は無い。地獄無いと思っている人にはある。」 地獄というものを捉えるときには、「心の中の地獄」と「実際にあるかもしれない地獄」という二つの視点が必要であると思います。今の言葉をそう考えて見ますと、 「地獄があると信じている人はその地獄を畏怖することで、できる限り地獄には行かないように善行をしようとします。そんな人は地獄には行かない。しかし、地獄が無いと思っている人は、お構いなしで悪業も犯すでしょうからそういう人は、地獄に堕ちてしまう。」 という解釈と 「地獄があると信じている人はその地獄を畏怖することで、できる限り地獄には行かないように善行をしようとします。そんな人の心の中には地獄は無い。しかし、地獄が無いと思っている人は、お構いなしで悪業も犯すでしょうからそういう人は、心の中が地獄でもお構いなしです。」 と二つの解釈が可能です。きっと浄土宗のお坊さんが言ったことですから前者の解釈となるのでしょうが、前者は前者で「地獄があると信じている」ということは心の中に地獄があるのではないかという解釈もできます。けれども、「地獄があると信じている人」にとっては実際にあるわけで、それをどうこう言うのもおかしいように思います。  結局は自分自身がどちらがわかりやすいか、どちらが納得できるかだと思います。「地獄は実際にあってそんなところへは行きたくない」と思うか「私の心の地獄をなくしていこう」と思うかどっちが納得できるかですよ。私は両方総合的に考えられればいいなぁとおもっていますが、しかし単純な私は「実際に地獄があってそんなところ行きたくなぁーい」という考えよりですけどね。難しいところですね。少なくとも宗教というのは、一つの考えに凝り固まることではなく「たくさんの視野」をもてるようにするためのものであるとおもいます。  厳しいことを言うようですが、あなた自身にわからないことは私も分かりません。地獄が在るのか無いのかに関してもどういうものであるか自分で結論を出す必要があると思います。もちろん知識は必要ですが、それを自分自身で考える力も必要です。  また、質問の中なかの >>あるとすれば、仏教のような有期刑でしょうか。キリスト教のような無期刑でしょうか。 ということに関して言えば、私は仏教徒でキリスト教のことはよくわかりませんが、仏教の視点から言わせていただくと、有限刑なんですか ね。  ただ、有限刑といっても非常に気の遠くなるような長い時間です。 蓮如聖人というお坊さんの書いた『御文』というおてがみによれば「人間の五十年を考えてみると、四王天という天の一日一夜に当たる。また、この四王天の五十年をもって、等活地獄(八大地獄の一番軽い地獄)の一日一夜とする。」なんてなことが書いてありますから、永遠ともいえる長い時間です。ひろさちやの『仏教の知識百科』なんて本を読むと、等活地獄にいる時間は我々の時間に直せば一兆六千四百二十五億年なんて書いてありますし、それが地獄が一段階深まるごとに苦痛も十倍増え続け、阿鼻地獄に限っては千倍増しなんてこともあるそうです。  有限といってもえらい長い時間のようですね。それを有限といってよいのかな??って思ったりします。 長々駄文を連ねました。見当外れな答えになっていないものだったかもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。   合掌 南無阿弥陀佛

noname#69788
質問者

お礼

ありがとうございます。

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