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大東亜共栄圏・・・
大東亜共栄圏での、日本の東南アジア占領のようすはどのようなものだったのでしょうか??
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>大東亜共栄圏での、日本の東南アジアの占領‥‥ というご質問ですが、これ等の地域はタイを除いて欧米列強の植民地下にあったわけで、現地の人々はその統治下でどれだけ耐え忍んでいたか、ということと比較しなければ公平な評価ができないでしょう。 また、日本占領時というのは戦争の時代でしたから、これも考慮する必要があるか、と思われます。 その観点によって概略説明しますと、 マレーシア、インドネシアの場合は、イギリス、オランダの直接統治者からプランテーションでほとんど農奴なみの扱いを受けていました。NHKで放送されたドキュメント『映像の世紀』のなかでもイギリスの婦人がインドの現地人たちへ食べ物を餌のように放り投げるシーンがありましたが、それが日常だったです。 さらに、華僑によって経済の実権を握られていましたからいわゆる二重支配下にあったといえるでしょう。(今日でも東南アジアで華僑への焼き討ち事件が起きている) 日本の軍政下では、まず華僑を取り締まることで現地人から歓迎され、義勇兵の養成によって武器を保持することが許され、教育の実施によって文盲追放が図られました。 インドネシアでは獄中のスカルノを解放し援助便宜もはかりました。たしかにスカルノは親日一辺倒でなかったかもしれませんが、それは彼らが日本敗北後も生き延びるための知恵だったのです。 ただし、戦時下のゆえスパイ容疑で華僑を処刑したことや、労働者としてニューギニアへ派遣され過酷な環境下で命を落とした人々が多く出ましたし、教育も日本語の強制とといった側面があったことも事実です。 ボルネオ島(カリマンタン)では、戦前から日本からの移民や殖産企業が進出していた関係から、治安は安定していましたが、戦争末期には現地住民による反乱事件(例えばアピ事件)が発生しました。 フィリピンの場合は、アメリカが多大の経済援助をつぎ込んでいたため、大地主を中心に比較的社会資本は恵まれていました。 そして米軍撤退後も残置員を中心にゲリラ部隊を編成し、日本軍の後方攪乱に活躍しました。末期には日本軍を上回る火力を有し、マッカーサー反攻を側面から支援しました。 日本軍政は、独立を与えたもののアメリカほどの福祉を供与する力がなかったので、フィリピン人は幻滅しました。日本軍も日夜ゲリラ戦に追われ無実の人びとを殺害することもありました。戦後はアメリカのフィリピン解放とゲリラ戦を大いに宣伝し日本軍は悪役とされましたが、ようやく近年になってアルフォンソ・P.サントス 『フィリピン戦線の日本兵 ・草の根証言集』 石田パンリサーチ出版局という書物のように占領時の日本兵と現地の人々による多くの交流があった事実が語られるようになりました。 ヴェトナム、カンボジアは、内政をフランス、軍事防衛を日本という支配体制をとっていましたが、戦争末期に日本軍がフランスを武力で破りました。ぞくに日本占領下ヴェトナムで百万単位の飢餓死者がでたというデマが今でも飛び交っていますが、そういう事実は確認されていません。むしろ戦後ヴェトナム人がフランス軍の進駐を敵意を持って迎えたため、代わりに日本軍が治安を維持した事実があります。これもさきの『映像の世紀』に出てきます。 こうしてみると、戦時下の異常事態であったにも拘らず、全般に現地の治安は安定していた、というのが事実であったと思われます。
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歴史に面白おかしく学ぶ事が大切です。 現代に置き換えてみました。^^ 大東亜共栄圏をかかげた企業の 資本力は低く、 工場の設備も古く、極めて小さい物でした。 (町の工場) 土地は増やしましたが田舎の3等地で農地のままです。 (無意味) 一流企業に太刀打ち出来るはずがありません。 大東亜共栄圏には、必ず儲かる投資方法と書いてありました。 嘘は明白でした。^^; また、国際連盟(マーケット)の賛同も得られません。 国際連盟(ニーズ)は不必要と断言していました。 マーケティング無視で自社論の押し売りをはじめます。 これでは売れるはずがありませんでした。 山本五十六は、2年でこの会社は破綻するのは分かっていました。 しかし、命をかけて会社の為に働きました。 実際は、出来る訳ねーだろが本心でした。^○^; 結果は、企業の破綻、社員は路頭に迷います。 下請けは良い迷惑で保障が欲しいとおもいました。 日本はアメリカ先生から、一個一個、ここが間違い、ここも間違いなんだと殴られながら「曲がった根性を直しました」 でもがんばりました。^_^; アメリカ商法(昭和30年代)を学び、基礎から勉強しました。 ついにアメリカ先生を抜きました。^○^ 喜んでくれると思ったら先生は喜びませんでした。^^; 元の下請けも良く思っていないようです。 現在、生徒は非常に困っています。^^; 今度は、人間関係に置き換えてみて下さい。 また、#11のURLのどこがおかしいのか良く考査してみて下さい。 分からない場合、文章(人の上に立つ)で生きられない可能性があります。
- sudacyu
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枝葉にこだわり、戦争の本質を見ない、「日本は悪いことをした」「日本はアジアに貢献した」的な判断では、過去の歴史の本質を掴むことができません。 日本が選択した、「戦争を始める」と言う判断が正しかったかどうか、から物事を押さえなければなりません。 日中戦争や太平洋戦争の、国土が焼け野原になり、数百万の日本人の命を犠牲にした「開戦」の選択が、「政治判断として正しい」と考えるなら、中国や韓国などの言う「日本が再度攻めてくる可能性がある」と言う彼らの主張は、正しいと言えます。 彼らの日本が「再度軍隊を大陸へ進めてくる」と言うのは、当然ながら空論に過ぎません。「開戦」の政治判断は、誤りであったのですから。(焼け野原になって、多数の死者を出し、占領されるというのは、明らかな政治的失敗です。) 日本人が「戦争を始めた原因」を十分に認識するなら、「再度軍隊を大陸に進める」ことはありえません。 ですから、日本人としては「失敗の原因が何処にあったか」徹底的に検証し、同じことを繰り返さないために、その点を次の世代に伝えなければなりません。これは、戦争で亡くなった多くの人たちに対する責任でもあります。 この「原因」を掴まなければ、何でもかんでも責任があるという自虐史観(日本人としての自立心を失わせます。)や、責任を認めない戦争責任放棄史観(中国や韓国の言う歴史認識がないことを証明してしまいます。)となってしまいます。 何でもかんでも当時の日本は悪かったと言う論も、悪い所はないという論も、共に「失敗の真の原因」を把握していない点では同じで、どちらも日本にとって有害です。 歴史をしっかり調べ「失敗の真の原因」を掴むことによって、同じ原因による失敗を繰り返さない未来を選択することが、はじめて可能になるのですから。 大東亜共栄圏などについて論じるときには、「戦争をはじめる」という大きな間違いの原因を把握せず、またはそれを明らかにしないまま、「副次的に発生した戦争の良かった点」「悪かった点を小さく評価」する論だけを主張するのでは、日本の将来の判断材料になりません。 特に、中国・韓国の主張に対して反論するためには、「ここまでが問題点で日本に責任がある」だから、「ここからは、責任がない」との論を展開せず、「責任がない」点だけを述べても、無責任・歴史認識がないと判断され、あしらわれるだけですし、日本の中だけでしか通用しません。
- nacam
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「大東亜共栄圏」というものが、そもそも考えの中にしか存在しないものでしたので、質問の直接の回答は存在しえません。 また「大東亜共栄圏」という言葉を使われていますので、既にご自身の回答を持っておられる事でしょうが。 日本の東南アジア占領政策に関しては、かなりのバラツキが有り、一言で回答する事はできません。 日本の統治が比較的うまくいったのは、ジャワ島の占領政策でした。 ここは、オランダの支配が他国にくらべひどかった事もあり、現地住民の協力も得られました。 逆に劣悪であったのがフィリピンで、アメリカの支配を望む人が多く、住民を敵としてしまい、まともな行政ができませんでした。 シンガポールも占領政策が失敗したくちです。 ミャンマーに関しては、日本が占領政策に積極的であったかどうか疑問です。 マレーシアでは、中国人(華僑)の権限を剥奪しそれをマレー人に与えたため、軍票の乱発などの問題は有りましたが、それほど大きな失政はありませんでした。 ただし、中国系の人からは、かなりの反発を買っています。 インドシナ3国に関しては、目だった動きはありません。 ただ、日本の占領が長引けば、占領地の行政に関しての経験を積んでいない軍人支配のため、相当な混乱が起こったと思われます。 基本的に日本が解放軍ではなく、欧米の利権を横取りしたにすぎないためです。
- hinode11
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質問者様へ #3です。追加回答です。 下記のサイトも参考にして下さい。 http://shupla.w-jp.net/datas/flash/vip1219.html http://www.jiyuu-shikan.org/faq/asia/A03_1.html (史実をねじまげ、あるいはウソの史実をでっち上げ、日本人の祖先を冒涜し、日本の名誉を毀損する左翼のサイトが多いですから充分に気を付けて下さい。そのような左翼とは、本当に日本人なのでしょうか。)
- a-koshino
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#2ですが、内容に史実と矛盾する点はないと判断し、サイトを紹介しました。戦争だからしょうがなかった、との立場ですが、賛美するには史実を曲げなければならないかと考えます。名目がどうあれ、外国軍に支配されるのは、住民にとって楽しいわけがありません。 大東亜共栄圏の存在目的は、聖戦遂行のため資源等を日本へ送ることでした。そうでなければ、占領する意味がなくなります。従って、飢餓輸出が行なわれても当然です。
- sudacyu
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ヨーロッパの植民地時代、東南アジアの地域社会は、ある意味安定していました。 ヨーロッパ列強の植民地政策は、「植民地となる以前と、出来るだけ変化が少なくなるように」と言うのが基本方針といってよいでしょう。 彼らは、如何に少ないヨーロッパ本国人で、植民地を効率よく管理し、そこから利益を上げるかに、知恵をしぼりました。 現地社会を植民地となる以前と大きく変化させると、その反動が起きて管理しにくくなるからです。 彼らの具体的政策は、 1.植民地になる前のその土地の支配層の温存 2.間接支配(徴税・治安維持など嫌われる仕事は、他の植民地の人間を連れてきてやらせるなど。) 3.民族・宗教対立の利用による、現地の人の分割支配(団結されると、少ない人間では管理できないので、植民地に昔からあった民族対立・宗教対立を利用し、植民地に住む人が小さなグループに分かれ、お互いに牽制し合う状態を変えないようにしました。) 日本軍の占領後は、同じアジア人がヨーロッパ人を追い出したこと、戦争遂行とイギリスの反撃に対する協力を得るため、東南アジアのフランス・イギリス・オランダなどの旧植民地の人々に有利な政策を取ったため(現地の人の政権ではなく、日本軍の軍政下)概ね歓迎されました。 ただ、少数のヨーロッパ人の代わりに、大勢の日本軍が来たために、日本軍の駐屯が長かった場所では、戦争後期に日本国内からの補給がほとんどなかったために、物資不足が深刻化しました。 日本軍は、これら現地調達の物資を軍票(日本軍政下で通用する日本軍発行の紙幣)で支払いましたが、これらの軍票は、結局日本の敗戦で紙くずとなりました。(現在は、日本人向けのお土産で、売っているところがありますよ。) 日本が、欧米と講和したとしたら、これらの軍票の支払いや軍事費は、旧植民地地域で日本企業が上げる収益で賄われたでしょう。(アメリカのイラク侵攻と似た構図です。) また、日本軍政下で日本と協力関係にあった植民地の人々は、ヨーロッパ植民地時代の旧支配階層というよりも、民族意識・独立意識の強い、進歩的な知識人達が中心でした。(植民地であった時代に、教育を受ける機会があった人々ですから、旧支配階層と重なる部分があるのですが・・・) もし日本の東南アジア支配が長引いていたならば、日本が東南アジアで利益を上げることで(そうしないと、日本政府の財政が破綻します。)、「日本人もヨーロッパ人と実質的には変わらない」との認識がこれらの進歩的な人々の間に生まれていた可能性が高いでしょう。 ですから、日本の支配が短期間であったことは、今の日本にとって幸運であったと考えています。 尚、私がミヤンマーで聞いた話では、日本人は暑い時に「お風呂」に入るため、大量の薪を消費しやたら木を切り倒し困ったと言う話も聞きました。(現地の人は、もっぱら水浴びで、お湯は使いません。)
- caesar-x2
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まず大東亜共栄圏という言葉は、 戦争(1931年~)も半ばを過ぎた1940年7月に 第二次近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する 松岡洋右外務大臣の談話に登場して、以後に流行したフレーズで、 翌年、1941年1月31日の「対仏印・泰施策要綱」以来 公式な外交政策となったものです。 (ちなみに仏印とはベトナム+カンボジア、泰施はタイと読みます) だから実は、日本は拡張政策は明確な外交指針がなかったわけで、 (北部)仏印進駐のほうが、大東亜共栄圏よりも先です。 戦争はそれよりはるかに前に始まっていて、 内閣の承諾を得ずに、軍部の一部が独走して、 無計画に戦線を拡大したということが、ここからもよくわかります。 大東亜共栄圏は、日本の東南アジア支配のスローガンとされましたが、 これがただの建前で、空虚なプロパガンダなのは明らかです。 端的にいえば、西欧列強の植民地だったこれらの地域を 日本を宗主国とする支配圏に組む込もうというだけのことです。 目的は資源。石油、木材、ボーキサイト、米、ゴムなど 日本がすでに十年を経た戦争を”継続する”のに必要な物資の 供給地とせんがためです。 ちなみに太平洋戦争の開戦動機も、「戦争の完遂」である公式に延べられています。 戦争をやりとげるための戦争だったというわけ。 東南アジアの人々の独立とか、アジア人の自立なんてのは全く念頭にありません。 もちろん政治的に揺さぶりえる植民地国は、そのイギリス、オランダなどの 宗主国に対する抵抗運動を日本軍も利用しましたが、 それはお互い様で、連合軍も日本軍支配下の住民にゲリラ戦をやらせています。 だからま、日本も含めた列強にとって、これらの地域は搾取の対象であっても 支援の対象ではなったということです。 この立場はこの前の通貨危機などでも明らかなように ごく最近まで続いていたと言っていいでしょう。軍事支配が経済支配に変わりはしましたが。 日本の東南アジア支配は、一言でいうなら、”軍政”ということです。 この軍政は日本第一主義で行われ、すべては日本に資源を供給することを目的とし、 現地の経済は(日本本国と同様に)崩壊します。 だから日本のプロパガンダ、解放軍という”嘘”に 多少なりとも期待をしめした東南アジアの知識人も すぐに現実を理解し、率先して抗日運動に加わっていきます。 ベトナムなどでは食糧不足の日本に送るために 過剰に米の収奪して大飢饉が起こりました。 戦況が”悪化”した1943年になると、現地民の反日抵抗運動を懐柔するために それらの国を独立させ、傀儡政府に支配させますが、 英米に支援されたゲリラの抵抗は激しくなるばかりで、日本軍は手を焼きます。 対ゲリラ戦術というのは、日本に限らず、どの国がやっても凄惨なものになりますが ゲリラ鎮圧のために日本軍も厳しい報復を行いました。 スカルノは、インドネシアで苛烈な支配をやっていたオランダへの敵愾心から 対日協力を行いましたが、裏では抗日運動やサボタージュにも関与していて、 結局、両方に出て行かせようとしていただけです。 フィリピンでは日本が作った第二共和制は国民から支持されず、 共産党を中心にする抵抗運動が盛んで日本軍の放逐に貢献しますが、 アメリカは約束どおりに独立させるものの共産党/社会党は弾圧されます。 ベトナムでは、ベトナム独立同盟(ベトミン)を率いる ホー・チ・ミンが対仏闘争と抗日戦線の両方展開します。 インドのチャンドラー・ホースの自由インド政府(どうみても傀儡だが)は、 悪名高いインパール作戦の惨めな失敗で、あっさりと消滅します。 このほかの土地でも、日本の軍政は憎悪の対象で、住民の支持を受けません。(あのやり方なら当然ですが) 結局、東南アジアの人々は、イギリスやオランダ、フランスなど 帝国主義国に出て行ってほしいと同じく、日本人にも出て行ってほしかったわけです。 独立したいんだから当然ですよね。 すべての国で日本軍に対する抵抗戦線があり、日本軍の放逐に功した経験が 戻ってきた旧宗主国を追う払うおうという勇気を与えたとはいるでしょう。
- hinode11
- ベストアンサー率55% (2062/3741)
日本が始めた戦争の目的は、欧米の植民地体制を破壊して東アジアの人々を解放し、”大東亜共栄圏”を建設することにありました。日米開戦後、 (1)昭和18(1943)年8月にはイギリスの植民地だったビルマ(現、ミャンマー)を独立させ、 (2)同年10月には、アメリカの植民地だったフィリッピンを独立させました。 (3)また、イギリスの植民地だったインドのチャンドラ・ボースを支援してインドの独立に協力しました。 (4)オランダの植民地だったインドネシアのスカルノ(※)を支援してインドネシアの独立に協力しました。 (5)そのほか略 日本は戦争に負けましたが、アジアの人々の独立への熱意はますます燃え上がり、日本が降服した2日後の昭和20(1945)年8月17日、スカルノはインドネシアの独立を宣言、昭和25(1950)年1月 にはインドが独立しました。欧米の植民地の独立への動きはアフリカにも波及し、エジプト、ガーナなど多くの新興の国が誕生したのです。日本は戦争には負けたが戦争目的は達したのです。 ※テレビで活躍するデビ夫人はスカルノ元インドネシア大統領の側室(第三夫人)です。
- a-koshino
- ベストアンサー率23% (102/441)
↓こちらがまとまっていて読みやすいでしょう http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm
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