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何か知識が付く事が寂しい
雑学が好きです。博物館やら新書やらジャンルを問わず当たっていた時期がありました。知識が増える事で、自己を認めたいと言う心があります。逆に言うと、今のままじゃろくでもないという否定的な思いがあります。 なにか知識が付くと安心充実する反面、それを誰かと共有できないと言う事態にぶつかって、かえって知識を得ないときよりも「寂しい」と言う感じがします。アウトプットのない苛立ちと悲しみと言う感じです。 こういう感覚は何かおかしいと言えるのでしょうか。
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そうなんですよね、おかしいというより、 動機と目的の距離が遠くなってしまうことがあるのでしょうね。 知識欲があるということは、 求めるのは知識を共有する喜びであるのに、 それを満たすものが選択肢に用意されていて、 利便的な合理性ゆえ、知識が生きるのに必要以上にあってしまい、 知識欲が加速して上回る,処理に忙しくが故に 共有しうる人間関係にまで回す暇や手間がなくなったり、 積極的に人間関係から知識を得ようとする 本来の知識の目的から反れてしまうことがあります。 識字率の低い土地柄の人達は信頼出来る情報も人頼みです。 コミニュケーション≠知識の共有というシンプルだったのです。 価値観の相違も情報が限られて少ない為あまりないと思います。 価値観が多様化して分業が進むと、 共同体や家庭でさえ無用にしてしまう現実があります。 しかし、価値観の相違を感じられる程幸せとも思います。 絶対的な人生の目標というのは「生きるか死ぬか」の問題だけで そんな場合価値観や知識量どころではなく、 どんな人とでも(人以外とでも?)共有するものがあるのですから。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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No7.です。こんにちは。 気になったのでP.S.です。 「顕示欲」が「悪いもの」だと言っているのではないです。 顕示ザウルスちゃんは、必要だから、bossambaさんの中に住んでいるのだと思います。 必要でなくなれば、いなくなると思います。 憶測ですが、bossambaさんは、承認・賞賛・肯定などを求めておられるのではないですか。 「人とつながること」を求めておられるのではないですか。 そして、そういったものを求めることに、抵抗を感じておられるのではないですか。 だから、「bossambaさんご自身」ではなく「知識」をアウトプットしようとしている のではないですか。 bossambaさんが求めているものを得るための「道具」として、たまたま「知識」を 選んだのではないですか(この「道具」は、人によって、お金であったり美貌であったり、 いろいろだと思いますが)。 >生きたもの、感情のあるものに自分の感情をかかわらせることができない :ここまで自覚しているなら、解決は始まっているように思います。 感情と感情でかかわることができないのはどうしてか、考えてみるとよいと思います。 >またそれは別の質問で・・ :そうですか。私に分かることがあれば、一緒に考えたいと思います。
お礼
そうですね。なにか生活に飢餓感を感じているので、何かのはけ口的に知識欲が来るのかもしれません。 感情をかかわらせることができないと言うのは、そういう状況にないといいましょうか、家族友人関係その他が貧しいからと言う事とか、私自身が軽自閉症気味だとか、あまりにポーカーフェイスに慣れてしまっているとか、そういう心の乾き見たいのがあるからでしょうかね。大げさに言えば「命」とのふれあいが足りませんね(これは極端に言えば、動物を飼うことから援助交際まで当てはまると思いますけどね)
- sgi1962
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知識は人生を楽しくさせますね。 それでいいじゃないかな、、私も大のwikipediaマニアです。
お礼
wikipediaにキャラクターまであるんですね。 確かに私にとってもマニアな喜びと言うのはそれはそれで大切なものと感じています。
- hakobulu
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「>アウトプットのない苛立ちと悲しみ」とおっしゃっていますが、 アウトプットすることで解決できるとは私には思われません。 アウトプットした後で虚しいと感じることもあるのではないか、ということですが、 それは「>今のままじゃろくでもないという否定的な思い」が、実は知識の獲得によって払拭できるようなものではないからに相違ないでしょう。 つまり、bossambaさんは全てわかっておられるわけですが、 「>こういう感覚は何かおかしい」ということはなく、至極当然のことのように思います。 つまり、知識は本来手段にすぎませんが、それが目的になってしまっているわけで、本質的な目的(のようなもの)を求めて彷徨っている(多分)という現状からは何ら抜け出せていない、ということになります。 そのことに今さらながら改めて気づかされるために「>寂しい」と感じるのでしょう。
お礼
そうなんです。そこまで読み砕いていただいて、まことにありがとうございます。わたしが「無意識に」行間で書いたことを、見事に言い当てられているようです。 問題はかなり深刻なようです?いや些細なことなのか深刻なのか私には正直わかりかねる、という感じで。こまりました。 まさに、何が人生で大事なのか、さまよっている状態で、さまよってばかりいてもしょうがないのでとりあえず知識を得ておけば得ないよりいいと思っているだけの話なんですね。それがマンネリ化してしまうと思考が麻痺してしまってきますね。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんにちは。 手に入れた知識は「その人の持ち物・付属品」であって、「その人の一部」ではないと思い ます。ですから知識を手に入れることによって「その人が身にまとう蓑・鎧」が頑丈に なったりはするけれど(そのことによって安心充実感は得られるでしょうね)、 「その人自身」が変化するわけではない、と思います。 あくまで「あるじ」は人であって、知識が人を支配・操作することはないと思います。 ~~~※※※~~~※※~~~※※※~~~※※~~~ ところで質問者様にとって、知識を収集する目的は何ですか。 ~~~※※※~~~※※~~~※※※~~~※※~~~ >知識が増える事で、自己を認めたい :これを自覚していて、しかも白状することができるということに、感心します。 素晴らしいと思います。 >逆に言うと、今のままじゃろくでもないという否定的な思い :質問者様に価値があるのは「知識を持っているから」ですか? 「人の価値」は、知識やお金や地位や美貌を持っていることに左右されるのですか? もともと全ての人に(裸の状態で)価値があるのではないですか? 自分の価値を、自分で否定するのは、自分に対して失礼なのではないですか? 人は「商品」ではなく、世界は「市場」ではないです。 ~~~※※※~~~※※~~~※※※~~~※※~~~ 安心したい→「身にまとう蓑・鎧」を頑丈・高級にしたい→知識を収集する→ 「顕示欲」が生まれる→「顕示欲のぶつけどころがない」→「満たされない」→「淋しい」 ということでしょうか。 もうひとつ頭に浮かんだのは、何かを手に入れたときの喜びは、永久に続くものではなく、 流動して消えます。そのときの「喪失感」が「淋しい」のでしょうか。 もうひとつ頭に浮かんだのは、人以外の動物は、「生存に必要な知識」以外の知識を大切に 持ち歩くということをせず、だいたい本能に従って行動します。自然の営みの中で、自然 と一体化しています。知識を手に入れることによって、本能に従うことを抑制することが 増え、自然の営みから外れ、自然から疎外される、ということが「淋しい」のでしょうか。 もうひとつ頭に浮かんだのは、知識を手に入れることによって、特定の角度からしか物事 を見なくなり、「見方」の選択肢が減り、思考の自由度が減り、新しい発見が減り、感じる ことが減り、それが「淋しい」のでしょうか。 いろいろ考えられると思いますが、質問者様の「淋しい」の感覚を、正確に理解すること はできないので、実際のところ、何が原因でどうしたらよいかは分かりません。
お礼
ありがとうございます。 ご回答の最終段 >知識を手に入れることによって、特定の角度からしか物事を見なくなり と言うところ以外はすべて当てはまっています。 結局情緒の問題があります。なにか生きたもの、感情のあるものに自分の感情をかかわらせることができない、それが「知識」という無機的な価値観しか自分の中に見出せないということのようです。 つまり、私は感情的な人生の問題を抱えていますね。それを自覚しつつあるところです。またそれは別の質問でしないと収拾つかなくなるので考え物なんですけど。
- nekokitoru
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知識が付くと、虚しい、と言うのは、逆に「向上心の現れ」で、無意識的に「もっと知識を得て、理想の自分になりたい!」と感じる「理想と現実のギャップ」に悩んでいるのではないか、と、質問から見受ける事が出来ました。
お礼
そうですね。ただ、段階と言うものがあって、昔はいまくらいの状態になりたかった。そしてそれが努力で達成された。で、また更なる高みへと言う不満は発生しますが、以前のような脅迫的に自己否定的になることはないんですね。ですので、確かに達成していけばあせりのような欲求は減るみたいです。
- kobarero
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>知識が増える事で、自己を認めたいと言う心があります。 「自己」とは、この世界を対象化できる分離・自立した何かではなく、この世界における「出来事」の発生現場だと思います。この「出来事」は、「自己」の意志によって起こるのではなく、「自己」を含めた世界の運動の絡まりによって起きるのだと思います。だから、我々にとって意味のある知識は、「知識一般」ではなく、”この私”という”特異な現場”において、世界の運動の絡まりが具体的にどのように発生しているのかに関する知識ではないかと思います。 「寂しい」と言う感じは、あたかも「自己」がこの世界を外から客観視できる何か自立したものと捕らえるところから発生するのではないでしょうか。
お礼
そのとおりです。しかし、知識と言うものはそういうものではないでしょうか。そしてそれを愉しむとか、半脅迫的に覚えこみたいとか言う本能的?ともいえる欲求が普遍的なのも確かであるように感じます。
- ANASTASIAK
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共感。
お礼
そうですか。助かりますね。
おかしいなんて思いません、わかりますよ。 友人と普段の会話のネタにできるものはいいけれど、そうでないものは自分だけで。なんか暗いかな、つまらないなさびしいなと思ったりすることが…でもそれだけご自分の中にいろんな知識がどんどん蓄積されていくのですから。悲観的に思わなくてイイです。 ブログを書いてはいかがですか? 自分の知識を整理することもできて、また閲覧してくれる人もあったりすると楽しいですし、また他のこともたくさん知ることができて、いいと思います。
お礼
そうですね。HP日記風は前にやっていましたが、やはりだめでしたね。たまに人の反応があっても突いてきてほしいところに突いてくれないとか、やはり、孤独が募っていくように感じます。
ごく普通のことですよ。 知識を必要としている人が今の段階でいないだけです。 雑学もその他の事でも、 確定され変更修正されない物に関しては問題ありませんが、 情勢の流れで変わって行く物も沢山あり、 過去そうだったが、 今は違う事も沢山あります。 知りたいと思ったら調べる、 それで良いと思いますよ。 私がそうですから・・。 共有などはなから考えて居ません。
お礼
そう、必要な人がいない。個人プレーと言うところの抵抗がありますね。必要な事をするか必要ないことをすると言う点がキーだと思います。
- Mr_Holland
- ベストアンサー率56% (890/1576)
その気持ちは共感できます。 私も何かを学んだり何かを知ったとき、それについて誰かと話したくなります。 しかし、現実はそういうことを話せる相手はなかなかいない・・・ そこで、思い直しました。 きっと自分と同じように思っている人は他にもいるだろうと。それからは、誰かが話したくなったときまで取って置くことにしています。自分が話したいときに話すことより、誰かが話したいと思ったときに同じ話ができるようになっていることの方がきっと役に立つだろうなと思い・・・ そのせいか、以前に比べて「人間として幅が広がったね」と人から言われるようになりました。 自分が学んだそのときに話ができればそれに越したことはないですが、もし周囲に話せる相手がいない場合には、それが必要になるまで、じっくり寝かせておくのも良いのかなと思います。その方が学んだ直後よりもより深く理解していることが多いですしね。
お礼
やはりそうですよね。せっかく頭に入ったものが何もアウトプットされない悲しさはどうしようもないですね。なにか発散させてくれる機会があればいいんですが。金を払って演説公演させてくれる場とか。 「その日」のために励むのがいいでしょうね。私もそういう心積もりで思います。
お礼
現代生活はどうもますます自然から遠ざかりつつあるきがします。その反動付けのようなものが、ここでも共感を得てもらえる理由なのかなと。マニアックとか付録が多くなっていくほど、楽しみと寂しさは同時進行なのかもしれないですね。