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主観は論理的だと思いますか?
カテ違いかもと思いつつ投稿します。他に入れるところがないもので。 題の通りなのですが、主観は論理的でしょうか? 個人的には論理的だと思って考えてるのですが、回りの人に聞いても主観と論理が結びつくのがぴんとこないらしく、かんばしい答えがありません。 多分、宗教でも、哲学でも、心理学でもないと思っています。 あくまでも、主観は論理的な形成をしているかどうか、の問題です。 主観論理学、と言う学問を探してネットでいろいろ探したのですが、全く、もって、一つも出てきませんでした。なのでそんな学問なり研究をしている人はいないのかなーとも思ったりするのですが。 とにかく、まず人の意見を聴いてみようと思って投稿しました。 主観は論理的構成物である、と言われて、そうと思う方、あるいは違うとか、何か意見お持ちの方おられたらぜひ聞かせてください。 ずーッと昔に、やや似たような質問は一度したことがあるのですが、一人を除いてあまり反応がなく・・・。 ということで、よろしくお願いします。
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・生まれた場所 ・育った環境 ・親から受け継いだ遺伝 ・学んだこと ・経験したこと ・受けた愛情の程度と有無人格や性格 ・興味や関心 ・意欲や姿勢 などなど・・・・ これらを基準に培った価値観は、その人にとって全て主観に値します。 よって主観は論理的な形成をしてます。 この視点で考えれば、 論理的かと言えば、自分にとっては納得するための十分な理論となります。 ですが、他人にとっては「愚論」にもなります。 なぜなら、 全てに同じ条件で生きてきた人間はいないからです。 だから、十人十色なわけです。 主観は10人いれば、10通りの主観があります。 反対に、 10通りの反対論もあります。 客観というのは、第三者の立場の人の意見を言います。 自分を客観視できると、それなりの答えは自分で出せると思います。 ということで、 私と質問者のあなた以外の、 第三者の意見を待ちましょう。 良いお年をお迎え下さい・・。
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- fishbowl66
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補足とお礼、拝見しましたが。 困りましたね、主観は論理的かという質問は面白いのですが これは、脳細胞のレベルから、人格や規範という世界全体を網羅せねばなりません。 言語表現や記号表現としても、有機体や細胞レベルの生理学的な伝達記号と人間の精神による「言語」による伝達記号を同じレベルで理解しようとしているのではないでしょうか?この二つは別の世界と言っても良いかも知れません。 なお、ご質問者様の疑問に最も近そうなのが、心理学の分野の「行動主義」とか「新行動主義」といった分野ではないでしょうか、私は哲学も心理学も良く判らないのですが、行動主義では、脳のなかの生理的な記号は一先ずブラックボックスに入れておいて、感覚や行動を論理的に構成しようとしているようです。 以下の頁から見つかると良いのですが http://www.page.sannet.ne.jp/takakok/pages/8MASTER.htm 山本 信・今村 護郎・スキナー・ギャランター辺りがキーワードです。 >ほんとお詳しいですねー。 いえいえ、私もこのサイトでで勉強させて頂きました。 二つは別の世界と言いましたが、実は一つの世界とも言えます。 「どんな分野でも、いちばん奇妙なことを探し出して、それを探求するといい。」 ジョン・アーチボルド・ホイラー(「脳の中の幽霊」ラマチャンドラより孫引き)
お礼
>二つは別の世界と言いましたが、実は一つの世界とも言えます 僕もその通りだと思います。でもそれが科学的にか、あるいは科学の枠でなくても何らかの形で秩序だった形で証明されるのはまだ遠いかと思います。いずれは、将来はきっと宗教と哲学と心理学脳科学は同じゴールへたどり着くと信じてはいますが、それは21世紀ではないでしょうねー。 話変るのですが、夢の中の人格の話を書いたのですが、僕のスタンスとしては、唯心論なのですが、それは、夢を見ていたときの体験は現実のものだ、と言う例えでわかってもらえるかと思いますが、夢の中でも人格は存在し、そこで経験したことは自分の人格が賭けている以上、それは現実であると言うものです。逆に言うと、この言葉で、現実と言う単語の定義を僕なりにしているつもりです。それが夢であるか起きてる時の体験であるかの問題より、それが人格を賭した現実感覚を伴っているか、を最優先として定義する方法です。これは一例なのですが、こんなスタンスで気持ちの動きを見ることによって、下の方の書いていた主観の法則性を見つけたい、と言う感じです。(論理性より法則性のほうがいい言葉と思いましたので)自分の主観的な経験がすべてで、それが夢だろうが起きてる時だろうがそんなことは一切問わない、と言う立場です。僕はこんな感じなので、行動主義の人の考えとは、とても似たところもあるし違うところもあります。もっとも違うのは、現実の脳の仕組みを土台にしいていないところです。僕が土台にしくのは、主観的な自己の存在感覚です。それはいろんな方が言われてますが、 http://www.10000nen.com/koe/kagaya_k.htm の本などに書いてある、存在への安心です。それが僕なりの唯心論を取るときの基底となる概念です。僕なりに論理的に考えた末の結論だったのですが(これが土台と言うのが)、わかってみると多くの人が唱えてることでもありました。説明が下手ですみません。ニュアンスが伝われば幸いです。ちょっとやはり、書ききれませんねー全部は。こういう意味の主観、主観の定義、あるいは主観へのアプローチの仕方であり、そのアプローチ法を皆さんにどうかなと聞いてみたかったのです。でも下の方の書いてたように「意識も含んだ感情の法則性」でも全く同じことの表現になると思います。 興味を持っていただきお返事が頂けてうれしかったです。ありがとうございました。
補足
再びの回答ありがとうございます。 参考URL読ませていただきました。たっぷり2時間かかったーーです。難しいですねー大まかにはわかりましたが。脳のニューロンの回路を用いて認識や意識の問題まで取り上げてますねー。これは正直わからないです。 行動主義に限れば、確かに似てるかなーと思いました。本当に勉強されてますねー。内的な感覚でなく、現実の脳神経学的な成果を引用した話は、とても難しかったです。やっぱりちょっと餅は餅屋で自分の得意な方向で考えよう、と思ってしまいました。精神の複雑さが現実の脳の仕組みにどう対応しているのかはこのHP書かれた方や優秀な方がいずれ発見してくださることを期待してます。お礼へ続く、です。
>題の通りなのですが、主観は論理的でしょうか? いえ、非論理的です。 というのは世界は人間の視野にとっては無限の多であり、 逆に論理とは世界を有限的に限定しようとする試みであるからです。
お礼
言われることは非常に納得がいきます。全くその通りだと僕も思います。 回答いただいてる中でいわれてることについては僕には一つ仮説があります。 それは数学のフラクタル理論です。非常に単純な数式をただ回数を重ねて当てはめるだけで、信じられないような複雑で無限の多様性を持った図形が生まれます。 精神構造の多様さもこのようなものと思っています。心の基本となるベースの働きは非常にシンプルなものでありますが、その単調な働きが現実世界に働きかけ、無数の回数応用されることによって、世界ーつまり人の心の広がりと多様性は、全くありえないほど複雑な様相を呈すると言うものです。つまり、基本となる心の働きは、基礎となる数式同様非常にシンプルなもの(どうシンプルかはちょっと書ききれないですが)、が、その末端に至る現実に対応する部分の精神の働きは、人の想像力を超える複雑さを呈してくる、と言うものです。これは、ずっと未来に脳の機能の解明が進めば、嘘かほんとかはっきりする命題だと思ってますが、まーでもわかったとしても何百年も先の話だろうとー科学的に解明されることがあるとすればー思っていますが。 カオスやフラクタルは、全くのアトランダムで規則性論理性のない世界と、論理的科学的世界をつなぐ場所に位置する学問なので、たとえ話として理由付けに使うにはうってつけだと思っています。 とにかく、おっしゃられることは全くその通りで、全く同感いたします。 ご回答ありがとうございました。
- konagoo
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No6です。 論理的の反義語は心情的とか感情的です。どんな感情の発生も論理的ではありません。ご質問者様が主観が感情に基づいているとお考えであれば、主観は論理的ではありません。一方、客観を論理的に構築するのは主観であっても、客観の完成時に客観以外が主観という意味で主観も論理的と言えなくもないのですが・・・なんて書くとまたご質問者様に解ってもらえていないと言われそうですね。 ご質問者様のおっしゃりたいことは、主観客観ではなくて、感情を含めた意識の流れに法則性があるかどうかじゃありませんか。 これなら法則性があります。感情の発生も論理的かどうかわからない法則性に従っていることを実感します。
お礼
論理の反対が感情と言う定義は確かに世間にありますし、回答者様のいわれるとおりかと思います。 法則性~とはうまい言葉だなーと思います。論理より法則性のほうが普通の人には受けがいいんでしょうか? >主観客観ではなくて、感情を含めた意識の流れに法則性があるかどうかじゃありませんか。 そのとおりですねー。言葉の定義が人によって微妙に違ったりするのでなんですが、感情を含めた意識の流れに法則性を感じてるーと言われれば全くその通りで、主観が論理的かと言うのはそういう風に言い換えてもいい、もしくはそういわないと間違っていたのかもしれないですが。 論理的かどうかはわからない法則性ーここでの論理的って何か難しいですが、法則性と言う言葉は、なるほどと、より自分の実感にフィットします。 素敵な回答をどうもありがとうございます。
- fishbowl66
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♯2様の補足を見たのですが、もう一つご質問の意図がわかりませんが、 古典的運動制御モデルのような事をお考えなのでしょうか。 例えば、脳のなかに書庫があって、キーボードの操作、神経細胞の伝達、筋肉の伸縮、といった感じで、運動にせよ感覚にせよ、求心・指令の双方向の制御がされているという考え方の事です。 この件は、実はよくわからないですね。 哲学で言うと、ベルクソンが「物質と記憶」の中で、脳の障害者を調べて、個別の記憶が脳の障害により失われる事例が見つからないため、まず脳のなかの書庫のような考え方を否定しました。 哲学では、ベルクソンのような考えを、哲学にしては科学的過ぎるとして、その後は、認知心理や脳物理学の分野で、脳の中の研究が進められているようです。 そこで先の、古典的運動制御モデルに対して、#4様の指摘や、ベルシュタイン問題といわれる、このモデルで解決できない点が指摘されています。 最初に、自由度の問題、伝達制御の間に、選択の数が幾つ有るかという問題です。専門家によれば、ロボットで卵を割るように指令する場合、選択の数が多すぎて、普通人間の行う行動から考えると、古典モデルは神経の伝達速度の関係から物理的に不可能になるらしいのです。 もう一つ有るのですが、少し難しすぎて、ここで簡単には書けそうもありません。 誤解を恐れず、簡単に言ってしまうと、一対一の対応になっていない神経伝達も有るらしいのです。 脳物理学では、脳のなかに中枢機関の様な制御装置はないだろうというのが、すでに主流になりつつあるようです。とは言え、ペンフィールドの脳の地図のように、顔に対応するニューロンが有ったりして、役割分担が有るわけですから、少なくともカオス状態というより、構造的で論理的と言えない事も無いのですが。 主観の論理性は面白い考え方ですが、私見では、逆ではないだろうか? 脳のなかの機能や働きに整合しているから、論理的という順序の考え方の方が面白いかも。 それと、感覚とか意識とかは、氷山の一角のようなもので、それ以前に神経細胞は想像以上の多くの仕事を無意識のうちに行っています、例えば今、消しゴムを取ろうとします、消しゴムがどこにあるかとか気にすることなく、正確な広さに指を広げ、摘み上げます。鉛筆で細かな描写をするときは、リズムに合わせて、大脳皮質なんか、全く使っていない様な感じですね。
お礼
最後の意識と無意識に関しては、僕は人格と言う器があることを考えてます。多重人格の人の話からなんですが。意識無意識の区別とは別に、人間は現実世界に対応するために、人格と言う器の中に、無数にある心の要素の中から、対応に必要な精神的要素を詰め込んで作り上げたのが人格と言う自分だと言う考えです。(もうある考えかもしれませんが) と言うことは、人格の下に、さらに元となる本質的な自己が存在する、と考えるのが論理的に自然な推論ではないでしょうか? 実際僕は夢の中で、寝ている時に、自分で自由に発熱をコントロールした覚えがあります。風邪を引いてたんですが、普段起きてると熱は自然に出るのですが、その寝ている時は、寒くなってきたので、さあ!発熱をしよう、とはっきり思って熱を出したのを覚えています。熱の出し方もそのときの僕は知っていました。本来自律神経系のコントロールに関係することですが。この経験から、上に述べたように自分は人格と言う自分を創ってるわけですが、夢の中では人格構成要素の組み換えが起こってるのではないかと思ってます。簡単に言うと別の人格が発生している、と言うことです。多重人格では、複数の人格が記憶の分担をします。このことから類推して、夢の中の人格の自分と起きてる時の自分とは人格が違うのだろうと思いました。そう考えれば、夢を見ていたのに起きたとたん、夢の記憶、発熱を出す方法など、内容をきれいに忘れてしまうわけもきれいに説明できます。また夢を覚えていたりうろ覚えの時は、人格の組み換えが部分的であったり、起きてる時と同じ人格で夢を見ていたのだ、と考えることができます。いずれも科学的証明は難しいのですが、自分的にふに落ちる、科学的ではないが論理的な筋は大まかには通っている課と思います。この夢の人格の話はほんのほんとに一例なのですが、この話から、主観に論理性があるのか?と言う疑問の趣旨は伺ってもらえてるでしょうか?もしそうでしたらうれしいです。 それにしても、脳の話ずいぶん詳しく書いてくださって、ほんとお詳しいですねー。 興味を示していただいて、またいろいろアドバイス説明などご回答を頂いてうれしいです。 ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございます。またまた脳の仕組みの話でとても面白いです。 なんかテレビで、記憶は脳の一部にしまわれてもいるが、同時に脳全体に、確かホログラフィーのようにも広がっている、みたいな話があって、ほんといま脳のことってわかり始めたばかりの分野でいろんな発見があっておもしろいです。 >主観の論理性は面白い考え方ですが、私見では、逆ではないだろうか 興味を持ってもらえてうれしいです。逆のほうが説得力ありますかねー? 以下お礼で申し上げます。
- konagoo
- ベストアンサー率24% (67/276)
御質問者様の求められている疑問に論理的に答えられる人はいないのではないでしょうか。 というのは、主観なるものに対して、ようやくクオリアとは何かが何となく分かりかけてきた段階であって、主観自体が論理的?であるかどうかは何ともいえません。 直感的には、現行の論理や論理的思考を遙かに超越していると感じます。
お礼
ほんとですねーいまはまだ脳の仕組みはやっとわかり始めた、言ってみれば黎明期?みたなものですものねえ。 ただ、やはり下でも書きましたが、例えが悪かったなーと思うのですが、 >直感的には、現行の論理や論理的思考を遙かに超越していると感じます。 と言うのは、補足で書いた文をそのまま解釈されてのことだと思うのですが、下でも書いてるのですが、あれはあくまでも極論の例えで挙げたもので、現実に脳の機能と心の動きとを結びつけるようなことが事細かにできるのは何百年先になるかしれません。し、そういう方向性で考える気も全然ないのです。 実際いまの脳科学で感情や人に巻き起こるさまざまな感慨の証明などまだ到底ありえないと思います。 なのであの例えは、直接科学で感情が証明できるみたいな話でなく、感情に論理性があることの根拠としては使って使えないものではないんじゃないでしょうか?みたいな意味合いなのです。ただの引用でありまして、感情に論理性があるかどうか、と考えているスタンスはまた全然別のところにあります。そこが伝わりにくいのですが。たとえば、感情の動きにかかわる表現にしても、「それはふに落ちる、それは理にかなった結論だ、それはつじつまがあってる」などと、一般的に言葉を使いますが、これらの言葉の中に論理性を感じませんか、みたいな質問をしたらよかったかもしれません。感情の整理がついて出て来た結論としてでも、それは理にかなった結論だ!、みたいな言葉は、普通に使いますが、理と言う言葉はことわりとも読みます。つまり論理の理です。そこに論理性は感じませんか、みたいな問いだとどうでしょうか?わかっていただけるでしょうか?
論理的だから正論だとか、正しいとは言いきれません。 人間は感情の動物であってそれ程論理的な動物では有りません。 言葉の重要性は相手に通じてこその言葉です。 言葉は論理的である前に通じる事が重要です。 相手を納得(説得)させる為には、相手側の感情を納得させられなければ言葉すら通じません。
お礼
おっしゃることはひじょーによくわかります。 >相手を納得(説得)させる為には、相手側の感情を納得させられなければ言葉すら通じません 全くその通りです。特に人間は感情の動物であると言う部分は大賛成です。 ただー、いいにくいのですが、その感情に論理性があるのではないかなー、と言うのが今回の質問の中心になることです。 ご回答とあわせると、一見堂々巡りをしているととられるかもしれませんが、それは絶対に違います。感情(主観)と論理性は異質なものだと言う先入観が世の中では普通ですが、そうじゃないとは思いませんか?と言う質問なのですが、わかっていただけるでしょうか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>物質や化学反応の振る舞いは論理的に(原理としては)記述できるものですから、それに由来する感情主観も論理的に記述できるものではないか(#2さんへの補足より) :感情も主観も基本的にはニューロン間の情報伝達によって生じますが、当初電気信号として送られてきた情報内容がニューロン後部のシナプス部で化学物質(神経伝達物質)に変換されて次のニューロンへと伝わるものであることはご承知だろうと存じます。 発射された神経伝達物質(アセチルコリン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどを含む)が次のニューロンへ到達した段階で電気信号が生じて情報が伝達されるわけです。 ただ、ご質問の前提(の一部)としてこれらの現象を考える場合、 電気信号や神経伝達物質が「伝達されていく仕組み」はわかったとしても、「最初の信号は、なぜそのような仕組みを実行するようなニューロンに対して発生するのか」ということは(恐らく)解明されていないという点が問題になるような気がします。 ある人が主観によってある[判断A]を行なった場合、なぜ[判断B]をもたらすニューロンに最初の信号が発生しなかったのか、ということです。 同じ状況(刺激)に対して、他の人が[判断B]や[判断C]を行なうことは当然想定できるわけですから、結果として他の方もおっしゃっておられるように「異なる主観」はむしろ常態と言えるでしょう。 「主観は論理的」というよりは、 「主観といえども単に機械的過程を経ているにすぎない」ということを意図されているのでしょうか。 それであれば理解はできますが、やや結果論的な印象も受けます。 先に述べたように、なぜそのような主観に至るのかという点について何らかの意味を持つようには思われません。 たとえば、「人生で起こる事柄は全て必然である」というのは結果論的には事実としか言いようがないわけですが、そんなことを命題とする必要性が何処にあるのか、という点には疑問を感じるというようなことに似ているように思います。 私には難しくて、全体的な意図を理解することはできなかったのですが、「>根拠の一端、一部」について述べてみました。
お礼
脳のいろんな仕組みの話とても勉強になります。あまり詳しくないもので。 ただ、すみません、やはり脳の例えはあまりよくなかったような。そもそもカテが違うのにかかってしまうので、問題ありますし、極論と書きましたが、脳科学などに興味はあるのですが、実際考えるに当たってそういう科学的なものはほんの参考程度にしかしていないので、つまりことの話の中心の話題ではないのです。ただ、どうしても、やむを得ず、何か主観に論理性があることの根拠を挙げれば、補足に書いたようなことをいわないと仕方がないなーみたいなスタンスです。 根拠としてはありえても、たとえば大脳生理学や脳科学を元に主観を紐解こうなんていうことができるとも思ってませんし、少なくとも仮にできるとしても僕にはそんな才能もないです。なのでそういうアプローチの仕方をそもそも取っていませんので、まずいたとえだったかなーと思ったわけです。 ご回答の中の、一番大事なのは、 「主観といえども単に機械的過程を経ているにすぎない」ということを意図されているのでしょうか。 それであれば理解はできますが、やや結果論的な印象も受けます。」と言う部分かと思いますが、そういう風に解釈されても仕方ないかもしれないのですが、確かにそれだと結果論的な色合いを帯びるかもしれません。 ただ、主観が論理的かどうか、と言うのは、僕自身の中での考えでは、それらとはまたずいぶん違う話になります。そこをうまくお伝えできてない僕の文章のつたなさが大問題ですねー。すみません、難しいのでなくて文が下手なだけみたいです。でも文字制限もあるし1000文字では苦しいなー、みたいな。 脳の話、いろいろ考えて書いていただいてとても感謝します。面白かったですし興味深かったです。 回答どうもありがとうございました。
- nebura71
- ベストアンサー率23% (177/743)
釈迦に説法かも知れませんが、一応念のため。 なんとなくデカルト的な発想なのではないかと思います。 なんとなくですが。
お礼
回答ありがとうございます。 参考URL読ませていただきました。ものすごーく厳密ですねー。それプラス性善説に基づいているような印象も受けるんですが。 僕はこんなに厳密には考えないです。方法の違いかもしれませんが。 圧倒されますねー。 何とか読んだのですが、数学や論理学にも似たその厳密さに、デカルトさんの気持ち、発想、などついていくのがやっとで、だいぶ僕とは違うような・・。 なんか1つだけ書きますと、我思うゆえに我あり、と言われてるのですが、僕自身は、我あり、と言うだけでもう十分自明なこととして考えの土台におけるんじゃないかなーと、ちょっとおこがましいですが。自分が精神的に存在していることは、思っても思わなくても、だれもが自覚できる自明なものとして一種の公理のようなものとして位置づけられるのではないでしょうか?それは決して考えるあるいは把握する対象としての自己存在ではなく、赤ちゃんでも持ってる、自分がいる、と言う感覚です。つまり徹底的に主観的なものと言う意味ですが。 お返事ありがとうございました。
主観は論理的・・・?という表現自体おかしいと思います。 主観はその人、ただ一人の考え方 客観はまぁ大勢がだいたいこう考えるであろう考えかた。 論理的というのは筋道がきちんとたった思考、論かどうかです。 主観は論理的でもあり得るし、非論理的でもあり得る・・・と考えます。 例えば主観はただ一人の考え方そのものであっても それを論理的に説明し、説得できるものであれば論理的でしょうし。 どうやっても、第三者の納得を得られないのであればそれは非論理的であって 内容や、主観に置ける偏りの度合いだと思います。 私の考えは主観にも論理的なものもあれば、全く論理的に破綻してるものもある、というものです。 主観による主義主張を論理的に戦わせる それがディベートであったり、裁判であったりするのでは。 どちらも論理的に破綻した説明や演説は受け入れられないでしょう。 加害者、被害者どちらに回るかという時点で主観が入りますし 賛成反対も主観による物でしょうが 論理的でないディベートや弁護は(もちろん時々ありますが) あまり好ましくないので論理的になされようとしてるはずです。 主観は真実か?と言われればNOですが。
補足
回答ありがとうございます。 いわれることもっともだと思います。 ただ、本文の説明がちょっと少なすぎたかもしれません。主観が論理的か、と言う問いは、言い換えれば、主観の定義を、客観と相対するものでなく、それ以外の何か、とて意義付けたい、僕の願望から来ています。それなら言葉を変えろと言われそうですが。 感情といってもいいのですが、いずれにしても、ちょっと付け足していいでしょうか?。哲学で脳の話を出してはまずいかもしれませんが、主観、感情は、現在、脳の神経ネットワーク、シナプス、ニューロンなどに宿っている、そこから発生してると言えます。つまりあくまで物質の化学反応や、物質的なものに依存してる、あるいは完全に物質と一対一の対応をしてると推測できます。と言うことは、物質や化学反応の振る舞いは論理的に(原理としては)記述できるものですから、それに由来する感情主観も論理的に記述できるものではないか、と言うのが、僕のいってることの根拠の一端、一部であります。こういってしまうと僕的にもちょっと極論になりますが、おかしいでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 とっても冷静な答えを頂いてうれしいです。 うーん、お答えを拝見すると、主観についての定義づけが甘かったかなーと思わないでもないです。 そうですね、また他の人の意見も参考にしてみます。 本年もよいお年をお過ごしください。ではでは。