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哲学は今でも学問の中心だと思いますか?

哲学は今でも学問の中心だと思いますか? 哲学は今や数学的手法の論理学や、或いは心理学、社会学などに手法的な面で分割されてしまっていて学問としての実体があまりないような気がします。 又、哲学に答えが出るのかというと、そうでもなく、単にいくつかの善く生きるための選択肢を提示しているだけに思います。

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回答No.6

 哲学が学問の中心とは思いません!学問とはあくまでも「真理の探究」であり、哲学はその 手法の一つである、と捉えています!最近の科学の進歩、特に、分子生物学の飛躍的解明 は、IS細胞による自己再生、脳の研究等は、それを手がかりに、宗教、芸術、心の成り立ちまでも 解き明かそうとしています!難しい「存在論」は人を迷路に誘い込み、本質的に、真理を導くことは 出来ないと思います!

参考URL:
http://questionbox.jp.msn.com/answer/submit
kratia
質問者

お礼

唯物論的ですね。私も近い意見です。 科学的事実が哲学に干渉することに加えて、哲学は実験に基づく科学的思考方法をとるのか、数学的な純粋論理思考方法をとるのかで、他の様々な学問に手法的に分割されていくと思います。それを統合するのが哲学なのかもしれませんが、不可能に思います

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その他の回答 (9)

回答No.10

>しかし他の学問は人間的でしょうか  言葉足らずですいません。ここで人間的といったのは、人道などのことではなく、  視点が常に人間にあるという意味です。科学の客観性においても、人間の視点が限界です。  学としての哲学の限界は言語や記号表記にあるかもしれませんが。

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  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.9

原子爆弾を投下した、1945年8月6日と8月9日から、人類の歴史は、核兵器をどうするか?という課題と向き合ってきました。 核兵器の廃絶、これは、現在の仕組みを何も変更することなく、実現することができます。 生物多様性条約も、地球温暖化も、このままの仕組みでは、地球と地球上の生物は、存続できないとことを示しています。 「哲学」もなにも、あったものではありません。地球上に生物が存在しなくなれば、「哲学」が学問の中心だ!と叫んでみても、何の応答もありません。 「哲学」は、人類のあとを、追いかけてくればよいのです。 「問題」「事件」は、地球という現場で起きているのです。 「哲学者」が、いろいろ考えているあいだに、事件は解決しているでしょう。 解決したあとに、のこのこやってきて、「こうすれば、地球は救われる」と、のたもうのです。 いらないものが、いっぱいあります。そういうものは、やがてなくなるでしょう。 日本の自動車は、30万kmくらいは、走れるそうです。でも、10万km以上、乗り続ける人が、どれくらいいるでしょうか? 資本主義的「商品」は、寿命がなくてはならないのです。短ければ短いほどよいのです。 交通事故が起きない自動車が開発されました。遅すぎる。製造物責任ですね。飲酒運転がなくならない? そんなことはありません。簡単な装置で、飲酒運転は、なくなります。そうすると、交通警察が仕事がなくなるでしょう? 最近でてきた、充電式乾電池は、千回充電可能だそうです。毎月充電しても83年間使える計算です。 近い将来、寿命のない「商品」ができるようになるでしょう。むだのない、循環型の社会です。 当然、江戸時代よりも、高度な社会でしょう。労働時間の短縮で、いろんなことが、自由にできる社会です。 事業仕分けなどしなくても、必要なくなる仕事が、たくさんあります。病気やけががなくなれば、医者もいらなくなります。もっと、単純な社会になりそうです。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

哲学は今でも学問の中心だと思いますか? ○哲学(宗教も含む。)はいつの時代でも学問の中心でいなければいけないものなのです。 なぜなら、どのような道具や便利さが開発され・実用化されようとも人間の世界の綾は解決できないのです。便利になれば、それを包含する新しい価値観が必要になりますし、またその価値観に対する評価基準も必要になるわけですね。科学ではその価値観を提示できないのですね。 例えば、科学技術が進んでクーロン人間を大量に生産できることになったとしましょう。 あなたは、それらを人間として扱いますか? 奴隷として扱いますか? はたまた家畜として扱いますか? このような問題に科学は答えようがないのですね。かってオッペンハイマーという「科学者」が名誉のために原爆を作りました。そのもたらした結果を彼は責任取るでもなく清算できるわけも無くですね。この愚かな科学者を作ったのは政治家の責任でもあるわけで、その責任は人類の未来に持ち越されているでしょ。 つまり、科学は道具でしかないのですね。その道具をどのように評価し、未来のためにするかは哲学の仕事なのですね。 過去現在未来は同じではないですね。常に新しい価値眼が生まれ、新しい考え方が生まれ、新しい法律、新しい秩序が必要になってくるのです。科学はそれらの原因にしかならないのですね。 昨今、尖閣列島の問題が騒がれていますが、哲学者にとって小学生程度の問題が科学万能の時代に解けないのですね。何故かは簡単ですね。「哲学しないからですね。ブッラクホール解けても領土問題処理できないと国は存在しないね。 科学ジプシーになるしかないでしょ。」 

kratia
質問者

お礼

あなたのいう哲学というのは問題解決のための思索を指しているようですが、その思索の過程、手法を問題としているんです。 さらに様々の手法の結果を統合し、最終的な選択肢を検討するのは、別に哲学者だけのものではないです。そこには様々な立場があります。哲学者が領土問題を解決したと思っていても、彼が判断の基盤としているであろうものを他人に押し付けるべきではない

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  • k_kota
  • ベストアンサー率19% (434/2186)
回答No.7

まあ、中心でいいと思いますけど、 中心よりも先端の方がおもしろいと思います。 要するにブラックホールみたいな収束していく中心ではなく、 爆発して飛び散っていくビッグバン的な中心な気がします。 学問のある部分を強く持っている分、それ以外の部分が非常に弱いです。 個人的には、純粋なだけに透明で見えないのでみたいとも思わない。 あくまで、趣味的なものだと思います。

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回答No.5

かつては、宗教が思想であり、科学であり、法であった時代 (&地域)がありました。 その中で、科学や数学は、明確で普遍性を持った手法により、 そうした先入的な“原理”とは一線を画する現象的な知見を 拓き、それに応じて、その原理性&総合性としての哲学が、 重要な位置を占めるようになった、と言えるかも知れません。 ただし、この世界を構成する情報に科学だの哲学だのといった 区別はなく、人間の情報処理能力の限界によって、仮に分断 して扱っているに過ぎません。 先のような感じは、人間の認識が及ばない先入的な“第一原因” に全てを押し付けていたのが、徐々に明確な本質的因果関係の 把握によって、自律的な自我意識が可能になる過程だと言えます。

kratia
質問者

お礼

数学と同列に、科学を宗教と区別するのはあまり賛成できません。 科学は最も確からしい宗教なのであり、真理を独占しているわけではなく、その違いは、自然や社会などの解釈だけでなく、科学は自ら実験を行い、見かけ矛盾のない根底理論を導くことだと思います。 では、それらの観測事実はホンモノなのか、というと哲学の領域に入る。科学が観測事実を絶対とすることには変わりないのだから、哲学が科学に影響することはなさそうです。実証論と実在論の対立も、科学にはそう大きな問題ではないように思います。 又、観測事実を真とするか,それを疑うかで科学と哲学は徹底的に分かれると思います

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  • sotom
  • ベストアンサー率15% (698/4465)
回答No.4

何を以て学問の中心と考えているのか?寧ろ、それが疑問ですね。 学問それ単体では事を為し得ず、何かと結びついて価値を得ます。 他の学問と同列だと思いますよ。 一口に哲学と言っても、様々な種類があります。 論理的考証の繰り返しを満たしているかどうかを再確認しましょう。

kratia
質問者

お礼

確かにそうですね。今更ですが、中心というのはあまり実体のある意味ではありませんね。強いて言えば、全ての他の学問に深く関わっているもの、 例えば論理展開の面では数学 でしょうか[自問自答。。。] 鋭いご指摘ありがとうございます。 むしろ質問したかったのは、哲学に以前のような、カテゴリーとしての手法的・対象的統一が保たれており、学問としてうまく機能しているのかということです。過去の哲学思索の数々は価値あるものですが、所詮それはもう発展性のない過去のものであって、さらに発展させたり、応用させたりするためには、他の学問の手法に依らなければならないのでは です

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回答No.3

哲学が学問の中心に位置するのは、他の学問が悪い意味で人間的であるのに対して、哲学の核心は唯一良い意味で非人間的だからです。

kratia
質問者

お礼

ありがとうございます。なんだか宿題が増えた気がします しかし他の学問は人間的でしょうか

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  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.2

哲学が学問の中心かどうか、それはわからない。 生物多様性条約COP10のテレビ番組を見ていると、今、絶滅の危機にたっている地球上で、もうけが少なくなる、新薬の製造のために、根こそぎ資源を取り尽くす、18世紀、19世紀の植民地主義を思い出します。 日本は、江戸時代に二百数十年、対外貿易を制限して、循環型のすばらしい経済を発達させました。 テレビ番組で、先住民の知恵をぬすんで、新薬や、難病の特効薬をつくり、ますますもうけていく製薬会社の姿がありました。 人間は、同じ過ちを繰り返すものです。「先住民の知恵」をいうのなら、いままでやってきたことを、反省する、謝罪するところから始めるべきです。 「先住民の知恵」といっても、もうけを生み出す「知恵」にしか関心がないのです。 アメリカ合衆国で、先住民といえば、インディアンというより、白人が後からやってきて、根こそぎ略奪して、殺戮してしまったのです。 生物多様性とは、人間には適用されないのです。人間は、戦争で死んでいくのは、かまわないのです。 そういう論理で、地球を支配し続けるのでしょう。 哲学とは、人類的な課題を提起して、解決の方向を示し、実際に解決していく人類の運動だと思います。 課題は、具体的で、深刻で、目前にせまっています。 幕末、徳川幕府が、倒れるとだれが予想したでしょう?だれも、信じられなかった。 自由民主党の政権が終わる日がくるなど、だれが予想したでしょう?ほとんどの国民が信じられなかった。 大きな変化が始まっています。大いにお励みください。

kratia
質問者

お礼

あなたの考えた哲学は、アリストテレスのそれと同じだったでしょうか 要するに今では哲学は政治などに対して、いくつかの理想の正義、善い生き方のモデルを示すだけか、ということです。それはむしろ応用倫理学などではないかと思うのです。

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回答No.1

哲学は形而上学とも呼ばれ、すべての学問を終えた人が追求する宗教のようなもので、これに実体を求めてもしょうがないでしょう。あなたがどう思おうがどう考えようが学問としてキチンと成立しています。よく生きるための選択肢を追求するのは哲学だったでしょうか。答えが出たらとうこうします。

kratia
質問者

お礼

いや、デリダが形而上学をぶっ壊してますから、現代においてそれを考えるのは宗教家です。現代では哲学はもう役目を終えたのであり、例えば記号論は、言語学や論理学、社会学等に手法的に分割されて考えればよく、その知見を統合する人をわざわざ哲学者と呼ばなくてもよいのではないでしょうか。何故ならその作業の手法は、特定のものでないのですから そこで形而上学の生き残りとして現代における善い生き方が設定されて、政治哲学などに応用されているだけではないかという。 まあ学生ですので、実際の哲学の現場はあまり知らないのですが、今哲学者のやることといったらこれくらいかなぁと。

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