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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の最後の1段について

 日本語を勉強中の中国人です。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を愛読します。お伺いしたいのですが、全文の最後の景物描写の役割は何でしょうか。極楽の世界の美しさを口を極めて誉めたいのでしょうか。何かこの景物描写の意図はいまひとつよくわかりません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか。次は役割がよくわからない景物描写です。  「しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」  『蜘蛛の糸』の全文はこちらのほうへご参照ください。http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • toko0503
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回答No.2

せっかくお釈迦様が慈悲の心をかけて救おうとしたカンダタでしたが、 結局、いざという時になると、私利私欲に走って、お釈迦様の期待に 答えることは出来ませんでした。お釈迦様はとても悲しく思いましたが、 そんなカンダタのような人間なんて、この世にごまんと(たくさん)居ます。 「ああ、やっぱりカンダタもそんな1人であったか」と、失望しつつも 極楽は、そんなことには全く頓着しないように(無縁であるかのように)平和な日常が続いている、…… という、何とも皮肉な、ことほど(それほど)人間の身勝手さは珍しくもない、ありふれたことなのだ、ということを、 極楽の平和で美しい情景描写と対峙(対比)させて、暗示的に強調したかったのではないでしょうか。 全くの私見ですが、書いてみました。

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になっております。  ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。とても深い主旨とつながっているのですね。とても参考になりました。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>そんなカンダタのような人間なんて、この世にごまんと(たくさん)居ます。 >ことほど(それほど)人間の身勝手さは珍しくもない、ありふれたことなのだ  上の2点は全文のどこから窺えるのでしょうか。

その他の回答 (3)

  • toko0503
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回答No.4

#2です >そんなカンダタのような人間なんて、この世にごまんと(たくさん)居ます。 >ことほど(それほど)人間の身勝手さは珍しくもない、ありふれたことなのだ > 上の2点は全文のどこから窺えるのでしょうか。 本文に 「やがて陀多(かんだた)が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、 またぶらぶら御歩きになり始めました。」 とあります。 この描写から、お釈迦様は、陀多1人にいつまでも係わっている様子がありません。 せっかくのお情けに報いることができなかった自己中心者は、再度、地獄に落ちても仕方がない、まさに救いようがない、という お釈迦さまの諦め(あきらめ)の境地が悲しい御顔に見て取れます。 このように、 どんな罪人も慈悲の心で救われ得るのに、自分1人だけが助かろうとするエゴイズムが、 結局、他の人はおろか自分をも自滅に導いてしまう、という人間の利己主義の切なさ(悲しいことにそれは一種の真理でもあるのですが) を描いていると思われます。

awayuki_ch
質問者

お礼

 再びありがとうございます。とても難しいです。私の理解はまだ浅くて、もう少し考えさせていただきます。  本当にありがとうございました。

  • hum-00
  • ベストアンサー率27% (22/80)
回答No.3

私の意見は他の方とほとんど同じなのですが、違う視点から考えてみたいと思います。 「極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」 という表現がありますが、蜘蛛の糸の最初に、 「極楽は丁度朝なのでございましょう。」 と書いてありました。 そして、小説の中ほどには、 「しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦(あせ)って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる中(うち)に、とうとう陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。」 という表現があります。 ここから推測したことなのですが、 カンダタが一生懸命糸を登っている間、まるで何日も経った様に感じていたことでしょう。(もしかすると、経っていたのかもしれません) しかし、その時間は天上では、朝から昼になったほどの時間だった、ということではないでしょうか。 しかも、お釈迦様はその間、美しい蓮の花に囲まれながら、カンダタの様子をご覧になっていた。 人間が地獄や地上で血のにじむような努力をしても、天上のお釈迦様にとっては何の感慨もないのだ、ということを表現したかったのではないかと考えました。 個人的な意見ですが・・・。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。奥深いです。ただ、何かご回答はまだ終わっていないような気がします。もう少し「人間が地獄や地上で血のにじむような努力をしても、天上のお釈迦様にとっては何の感慨もないのだ」から出した結論を書いていただければありがたく思います。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>人間が地獄や地上で血のにじむような努力をしても、天上のお釈迦様にとっては何の感慨もないのだ  ですから?

noname#24129
noname#24129
回答No.1

意図的であることは明らかですね。地獄の暗い様子だけだと、全体が重くなります。読む人はそのような作品を好きにはならないでしょう。明暗のバランスをとったというところですか。最初と最後に明るさが配置されていることは、読む側にとっては救われるものです。とっつきやすく、後味もよいといいましょうか。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。明暗のバランスをとったというところなのですね。参考にさせていただきます。  本当にありがとうございました。

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