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ベルグソン
ベルグソンは自由の意志をどのように考えていたのでしょうか。 ラッセルの「外部世界はいかにして知られうるか」の中に出てくるのですが詳しくは述べられていません。
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ベルクソンの自由を簡単に説明します。 http://spartan.ac.brocku.ca/~lward/Bergson/Bergson_1910/Bergson_1910_03.html のページの真ん中あたり、176に奇妙な図がありますね。 この図を見てください。 (サイトは『意識に直接与えられているものについての試論』の英訳です。ここでは図に注目してください) 起点Mがあり、中間地点にOがあり、XとYに分かれている。 たとえばある状況があって、わたしたちが行くべきか(X)、行かざるべきか(Y)と悩んでいるとする。 わたしたちの心情は、Mからスタートし、Xにより、Yにより、ふらふらしながら、O点に到着して、そこでわたしたちが決断をする。 そこで、Xに、あるいはYに、わたしたちの意志決定がなされる。 こういうのが、人間の心情をあらわすと常識的に考えられている図であるとベルクソンは言うわけです。 そうして、「常識」は地点Oに立って決定をくだすのが「自我」である、とする。 その結果、たとえばO-Xのルートをとったとしても、O-Yのルートは残っている、と考える。「わたしたちは、あのときYを決定することもできたのだ」という具合に考える。 そうして、因果律が支配する、と考える人は、因果律によって、あなたはXを取ることに定められていたのだ、という。 けれども、実際には、わたしたちを取り巻く状況に、このふたつの筋道があるわけではない。 実際には、混沌とした状態があるだけです。 それらの状態の中から、X、Yというふたつの筋道を見つけたのは「わたし」なのです。 実際にはふたつの傾向やふたつの方向性があるわけではない。 ベルクソンはこの図は、まさに渦中にある人が取っている心情の図ではなく、なしとげられた行動、つまり、すでに取ってしまった行動について、遡航的に意識化した図に過ぎない、と考えます。 この図形は行われつつある行動ではなく、なしとげられた行動である。だから、自我がMOを通ってXの方向へ向かうことを決めたとき、Yの方を取ったらどうなるか、と考えることには意味はないのだ。というのも、線MOも、点Oも、道OXも、方向OYも、存在しないものだから。 ところがわたしたちはあたかもOまで戻って、OYの道筋を取り直すことができるように考えてしまう。これは時間を空間化して考えている、とするわけです。 因果律というのは、このなにもないところに事後的に見出した「道」を、あたかも、もともと存在するものであるかのようにいうものである。 ここまで、とりあえず大丈夫ですか。 さて、ベルクソンはもう少し、時間と空間の話を説明しています。 因果律というものがもし存在するならば、仮にわたしたちがある人物のあらゆる情報を持っているならば、その人物がこれからいかなる行動をとるか、予測することができるはずです。 そこで、さっきのサイトのもう少し下、191の図が出てくる。 わたしたちは、ある人物の生涯を、運動体Mが空間のうちに描いた軌道MOXYという形で理解する。 そうして、「予測」というのは、この曲線のOXYを消して、MOを知っていれば、つぎの曲線OXを前もって知ることができるだろうか、という質問をたてる、ということにほかならないわけです。ここでも「来るべき時間」を「線」という形で空間化することが起こっている。 けれども、曲線MOだけでは、つぎのOXがどうなるか予測するには不十分だということは、すぐにわかります。 MOを外から眺めているだけでは、つぎがどうなっていくかわからない。わたしたち自身が、曲線全体を描くMになって、一緒に運動をしないかぎり、その軌道というのは理解することはできない。 そうして、ラッセルが問題にしているのは、そのつぎの部分です。 ただ、ラッセルはベルクソンの鍵概念である「持続」についてふれていません。 わたしはラッセルは知らないので(件の「現在のフランス国王は禿である」だけ)、なんで「持続」をあえて落としたのかちょっとわかんないんですが。 ベルクソンの「持続」にふれずにこの部分をとりあげるのは反則かな、という気がしますが、持続を説明し始めると、ほんとうに終わらなくなっちゃう。だから簡単に言っちゃいますね。 わたしたちはほんらいならば連続して流れているものを、知性によって分断し、空間化してとらえている、ベルクソンは考える。 上であげたのもわたしたちがいかに意識を「空間化」してとらえているか、ということなのです。 そうして、意識に直接あたえられているものを時間性においてとらえること、つまり、「直観」によってとらえることが重要である、というのが、ベルクソンの『試論』の趣旨です。 こういうものだと簡単に頭に入れて、あとはサクサク行きましょう。ちょっと疲れてきた。 > 同じ原因は繰り返されると同じ結果を生み出さす、という主張である。 もうちょっとベルクソンの言葉通りに言うと、同じ内的原因が同じ結果を生むということは、同じ原因が何度も意識の舞台に登場しうるということを想定している、ということになります。 『試論』からこの部分を引用してみましょう。 「ところで持続についてのわれわれの概念は、もっぱら深い心理的事実は根本的に異質であり、二つの心理的事実は人生の二つの異なった瞬間を構成しているのだから、完全に似ていることは不可能だと主張しようとする。外的対象は流れた時間のしるしを帯びることがなく、こうしてさまざまの瞬間があるにもかかわらず、物理学者は同一の基本的な諸条件をふたたび前にすることができるであろうが、持続の方はその痕跡を保存している意識にとっては実在的な事象であり、ここでは同一の条件について語ることはできないであろう。というのも同じ瞬間が二度あらわれることはないからである。……心理的諸要素はたえず生成しており、同じ感情はくりかえされるというだけで一つの新しい感情である」 (引用は市川浩『ベルクソン』所収の『試論』抄訳部分 p.153) さらにこの部分はこのように続いていきます。 「無数の定理は定義のうちに前もって存在している。……要するにデカルトの自然学、スピノザの形而上学あるいは現代の科学理論をつきつめれば、原因と結果とのあいだに論理的必然の関係を確立しようとする同じ偏執〔固定観念〕がいたるところにみいだされるであろう。この偏執は継起の関係を内属の関係に変え、持続の作用を無にし、みかけの因果生を根本的な同一性によって置きかえるという傾向によって表現されるのがわかるだろう」(p.154) さらに、わたしたちの意識ということを考えていくと、わたしたちの意識は漠然と「これにつづくもの」を思い浮かべてはいます。けれども確実なものではなく、一種の「可能態」にしかすぎない。そうして、そのなかには「努力の感情」という独特なものも入りこんできますが、この観念―努力―行為というのはきわめて連続的なもので、どこから行為が始まるか、とはいえない。そう考えると、結果は原因の中に与えられているとはいえない。 ベルクソンの「記憶」は、また『物質と記憶』のなかに出てくるもので、またこれもいろいろあるんですが、ここでは疲れました、やりません。 で、結論に入ります。 「具体的自我とその自我がなしとげる行為との関係が自由と呼ばれる」(p.156) ベルクソン自身が「この関係はまさしくわれわれが自由であるがゆえに定義しがたいものである」と言っています。自由を定義づけようとすることは、時間の空間化にほかならない。 過ぎ去った時間は、先のふたつの図のように空間化することができるけれど、流れつつある「いま」という時間を空間化することはできない。そうして、自由行為というのは、流れつつある時間の中で生みだされるのである。 さっきも言ったみたいに、なんでラッセルが時間の問題にふれないで、因果関係だけを取りだしたのかよくわかりませんが、ともかく、この自由の問題は、ベルクソンの時間の概念と密接に関連するものです。純粋持続の概念とか、けっこうわかりにくいんですが。 たいして知ってるわけではないので、補足質問くださっても答えられるかどうかわかりませんが、くださったら、ない知恵を絞ってみましょう。 ということで、読み返すのもイヤなくらい長い回答なんですが、とりあえずはここらへんで(笑)。
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- yajiro-bay
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補足拝見しました。「物質と記憶」の記述と関係ありそうですね。 「因果の原理は、ベルグソンによると、同じ原因は繰り返されると同じ結果を生み出さす、という主張である。」 これは、物質に関する作用反作用の性質を言っていて、物質に関しては当たり前の事ですね。 「しかし、記憶がある為に、この原理は心に関する事象には適用できないのだとベルグソンは論じている。すなわち、見かけ上同じ原因であっても、繰り返されると、単に繰り返されたということのために変化してしまって、同じ結果を生み出すことはできないのである。」 ところが、上記の主張は生命には当てはまらない、と言う事では。 同じ原因が、人によって感じ方が違ってくるし、同じ人でも繰り返しで慣れる事はありますし。 「ベルグソンは、さらに、過去の事象には、心に関する事象を想像させるような、それに似たものが含まれていないから、心に関する事象はいずれも、過去の事象から予測できないような純粋に新しい事象である、と論じている。」 この表現は微妙ですが、このような意味のことは確かに書いてあったような気がします。 簡単に書き換えると、心の意志のようなものは常に生成するもので、その意味で新しい、かな? 「そして、これにもとづいて、ベルグソンは、意志の自由は論争の余地のないものであるという結論を下すのである。」 そうすると、ラッセルは意志の自由を否定するのでしょうか? ベルクソンの自由に関しては、できるだけお答えしますが、ラッセルの考えは分かりません。
お礼
すいません、訂正させていただきます。 下人は⇒原因は 私たちが望まないようなことをむりやりに望ませるようなことをむりやりに望ませるような⇒私たちが望まないようなことをむりやりに望ませるような どうも失礼いたしました。 疲れが溜まっていまして(笑)。
補足
お礼が遅れてすいません。 ラッセルの見解は、どういう種類の行為が行われるか大きな誤りがなければ細かい色合いは実際上ほとんど興味のないことである、というものです。 ちなみに、要点のみになりますがラッセルはこう述べています。 「ベルグソンの論証には、どのような種類の行為が行われるか予測できないということを示すようなものは何も含まれていない。」 「因果律に関するベルグソンの主張が不十分であるもうひとつの点は、下人は一つの事象でなければならないという仮定に存する。ところが、実際は原因は二つ、あるいはそれ以上のじしょうであってもよいし、ある連続的な過程であってもさしつかえないのである。」 「ベルグソンが根拠としているような種類の実例は、実際的あるいは感情的に興味があるという場合に限ると予測は不可能である、と言うことを示すのには不十分である。」 と述べています。 (この実例と言うのは詩の朗読の時の感情の例のようですが。) 最後にラッセルは絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物を想定して、それらの生物に自由意志と呼ばなければならないような何かが備わっていることが可能であるかどうか問題にし、こう締めくくっています。 「要するに自由がなんらかの価値をもつ限り、私たちの意志はまさに私たち自信の願望の結果ではあるが、私たちが望まないようなことをむりやりに望ませるようなことをむりやりに望ませるような外からの力ではないということが、こういった自由によって要求されるにすぎないのである。それ以外のことはいずれも、知識は、こと未来に関しては、それによってわかることを無理に引き起こすのだーー過去に関しては知識にこのような都からがないということは、すぐにわかることであるーーという感じにもとづく思考の混乱にすぎない。したがって 、自由意志は、ただ一つの形式においてなりたつことになるが、自由意志が大切なのはこの形式に限られるのである。そして他の形式が望まれるのは、単に分析が不十分であるからにすぎない。」 たいへん真摯にご回答いただきありがとうございました。
- yajiro-bay
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バートランド・ラッセル、アンリ・ベルクソン聞いたような名ですね。 ベルクソンの自由は何処かで書いた気がするのだが、ラッセルとの関連は知りません。 ベルクソンの自由について書いてみます。 一般にベルクソンの主著は以下の三点で、それに即して自由を考えて見ます。 『時間と自由』ライプニッツ等の決定論に対して、持続の概念からAではなくBを選択する自由を説明します。曰く、 「混迷はすべて、両方ともが熟考を空間内の動揺という形で思い描いているところからきている。というのも、現実の熟考は力動的な過程であって、その過程において自我と諸動機そのものは、本当の生き物がそうであるように、連続的生成のうちにある」 つまり、言い換えると、運動としての思考を空間に並置してしまう事による誤解を指摘しているのでは。 『物質と記憶』純粋知覚における自由の問題、これ解りにくいです、曰く 「この意識は、障害を取り除き、現実的な全体からせん潜勢的な一部を抜き出し、意識に利害関係を持ったものを選択し最後により分けるだけでよかったのである。しかもこの意識のうかに立ち会うと同時に、われわれは非常に単純な形態においてではあるが、自発的で予見不可能な運動のできる生命体が姿を現すのを見ることになる。」 純粋な知覚は物質の作用反作用で説明できますが、知覚と記憶の結びつきはそれ以上の可能性があると言うような意味でしょうか。 『創造的進化』カルノーの熱力学第二法則からの自由 この件は、以前いい加減に書きましたね、今でもあの程度です、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2333290.html ラッセルは論理主義的な人ですよね ベルクソンの哲学はノーベル文学賞を受賞したように、詩的な部分がありますから、 それらの部分に対する批判ではないでしょうか?
お礼
どうもありがとうございました。 たいへん参考になりました。 また次回もお時間がございましたら宜しくお願いいたします。
補足
どうもご回答ありがとうございます。 ラッセルはこう述べています。 「因果の原理は、ベルグソンによると、同じ原因は繰り返されると同じ結果を生み出さす、という主張である。しかし、記憶がある為に、この原理は心に関する事象には適用できないのだとベルグソンは論じている。すなわち、見かけ上同じ原因であっても、繰り返されると、単に繰り返されたということのために変化してしまって、同じ結果を生み出すことはできないのである。ベルグソンは、さらに、過去の事象には、心に関する事象を想像させるような、それに似たものが含まれていないから、心に関する事象はいずれも、過去の事象から予測できないような純粋に新しい事象である、と論じている。そして、これにもとづいて、ベルグソンは、意志の自由は論争の余地のないものであるという結論を下すのである。」
お礼
すいません、訂正させていただきます。 私たちが望まないようなことをむりやりに望ませるようなことをむりやりに望ませるような⇒私たちが望まないようなことをむりやりに望ませるような 過去に関しては知識にこのような都からがないということは⇒過去に関しては知識にこのような力がないということは たいへん失礼いたしました。 かなり疲労がたまっているもので(笑)。
補足
お礼が遅れてすいません。 >自由を定義づけようとすることは、時間の空間化にほかならない。 ここが一番重要ですかね。 ちなみにラッセルが言いたいことは、No2さまへの補足にもちょっと触れさせていただきましたが、こういうことです。 「仮に、未来のことを、過去のことを見るのと同じような方法で直接見ることができるとするならば、いかなる種類の自由意志がその後も残りうるであろうか?このような種類の自由意志は、もしそれがあるとすると、決定論とはまったく無関係であろう。すなわち、このような自由意志は、因果関係があまねく全面的に支配しているという見解とさえ矛盾しないであろう。」 そして、ラッセルは絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物を想定して、それらの生物に自由意志と呼ばなければならないような何かが備わっていることが可能であるかどうか問題にし、こう締めくくっています。 「要するに自由がなんらかの価値をもつ限り、私たちの意志はまさに私たち自信の願望の結果ではあるが、私たちが望まないようなことをむりやりに望ませるようなことをむりやりに望ませるような外からの力ではないということが、こういった自由によって要求されるにすぎないのである。それ以外のことはいずれも、知識は、こと未来に関しては、それによってわかることを無理に引き起こすのだーー過去に関しては知識にこのような都からがないということは、すぐにわかることであるーーという感じにもとづく思考の混乱にすぎない。したがって、自由意志は、ただ一つの形式においてなりたつことになるが、自由意志が大切なのはこの形式に限られるのである。そして他の形式が望まれるのは、単に分析が不十分であるからにすぎない。」 やはり一見真面目な質問には真面目な回答が寄せられますね(笑)。 どうもありがとうございました。