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決定論2
大学のレポートです。主人と奴隷との関係を例にして回答していただけると理解しやすいと思います。 (1)意志の自由(自由意志を持つこと) (2)(自由意志に基づく)行動の自由 (3)(自由意志に基づく)行動の実現 (1)と(2)の2つの概念をきちんと区別したうえで、さらに(3)という概念を区別して理解したうえで、(3)が我々の経験する世界において実際に達成されるためには、(1)と一見したところ矛盾するように見える「決定論」が成立していることが必要条件であることを論証すること。 メッチャややこしいですよね(汗) 要は、(1)(2)(3)の違いを明確にし、(3)が達成されるためには『(1)と「決定論」と言う矛盾した関係が成立すること』が必要条件なんだよ。 っていうことを述べれば良いと解釈しています。 見解をお持ちの方、参考になるサイトをご存知の方、回答よろしくお願いします。
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- miko-desi
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欲望のない時は意志の中に自由も不自由も感覚の中に生じていませんが、 人間は欲望とは別の「理想概念」を持てます。 自由意志は単に可能か不可能かを検討出来るだけでなく、快を求めるもの。 理想概念は個にとっても類にとっても義務的(習慣)になっていったり、 理想を捻出しうる時間も予見も見出せないといけなくなる。 生物学的決定論の「性質に表象も固定されている」というものと違って、 人間様には可能的事態を想像するシュミレーション能力(予見能力)があります。 量子コンピューターが実用化すれば、情報の並列処理が出来て シュミレーションにかけるエネルギーを大幅に節約できるようになるそうですが、 人間だって生きてるだけで結構な情報を並列処理し実行し結果として生きてきてますし 矛盾を探してない時に突然閃いて達成させてしまうなんてこともあります。 結果論と自由意志の専門的な回答でないこと、 つまりあまりアテにならないことをお詫びしておきますが、 自由意志には報われようとする悪意はないです。 しかし理想概念は必然的に報われようとして意志されるものでしょう。
- miko-desi
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ワクワクしたり、ショボーンとしたり、これはまだ感覚としてで、 後付けで理由を説明出来るようになって (1)意志の自由(自由意志を持つこと)となる。 (2)(自由意志に基づく)行動の自由は、感覚を自由に体現することですね。 泣いたり笑ったり、感心したり、充実したり。 これは感覚を共有しうる対等な相手だから起こる感覚で、 もし自分は奴隷であったらもっと強い自由意志でもって (3)(自由意志に基づく)行動の実現を主人に示す必要が出てきます。 意志が強まると逆に感覚を否定していかなきゃならなくなります。 泣きたいのを堪え微笑んだり、やめたくても留まろうとしたり。 「礼節」は自由感覚を犠牲にしても尊ばれる自分への対価になりうるからです。 決定論は自由な感覚でもって体現させたものか 感覚を対等ではない主人への礼節に交換したものと違いが現れると思います。
お礼
わかりやすい回答をありがとうございました。 最後の「決定論は自由な感覚でもって~」は、自由な感覚でもって体現させたものは(1)意志の自由からの(3)行動の実現であり、主人への礼節に交換したものは(2)行動の自由を制限された(3)行動の実現ということでしょうか? 上記の2つの(3)行動の実現の両方に決定論が関わっているということでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 私も自分の見解を持てるように勉強します。