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「心」って何ですか。
「心」って何ですか。 脳ですか。体の一部ですか。 体から離れることのできる「心」が、別のところにあるのですか。 「我思う ゆえに 我あり」の「思う」をしているのは、どこですか。 うれしい悲しい淋しいと「感じる」ことをしているのは、どこですか。
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#13です。 「心って何?」について、最も重要なことを書き忘れていました。 忘れた理由? 多分、ご質問が「哲学」のカテでなく、「心理学」のカテだったため、と人のせいにさせていただいて... 最も重要なこととは? それは、「心」は「全ての創造の源泉」だということです。 このことがないと、そもそも何故我々が生きているのかの「意味」がわからなくなってしまいます。 そこで、「心って何?」の回答を改めて書かせていただくと、 心とは、この世界という「こと(情報)」の束が現れる「場」であり、全ての「創造」の源泉です。 この世界は固定された「物質的秩序の繰り返し」ではなく、日々新たに創られていくようなものです。「物質的秩序」からの「精神的自由」こそが「心」の原初的な衝動だと思います。「物質的秩序」というのは、文字通り物理的・肉体的秩序(制約)を含みますが、それだけではなく、人間自身が生み出した制度や道徳や常識などの無形の秩序も含まれます。それらからの「精神的自由」を確保して、「日々是新た」を生み出すのが「心」が持つ「創造」という運動だと思います。 何故、「心」はそのように「できている」のか? 何故なら、 「世界<外なる世界と内なる世界の両方>は”課題”として心に現れる」からです。 ”課題”として現れるとは、どういうことか? こうなって欲しいのにこうならない。 あーなって欲しいのに、あーならない。 どうなって欲しいかわからない。 ということです。 もし、世界が「課題」として「心」に現れないとすると、それは、何を意味するのか? それは「精神の自由がない」ということです。すなわち、自動機械であるということです。物質的秩序に従うということです。きちんと管理されたロボットとして生きるということです。 世界が課題として「心」に現れることによって初めて、「精神の自由」の可能性が生じます。すなわち、物質的秩序に従うのではない新たな「創造」の源泉になるということです。 何故、「私」は「私」であって、「他の人」ではないのか(「私の心」が他の人と分離されている理由)? それは、そうなっていることによって、「私」の特異性、唯一性を確保できるからです。 もし、「私」の特異性、唯一性がなければ、「私」の「創造」ということもなくなります。「私」の人生の意味もなくなります。「私」の特異性、唯一性があるから、64億人の人に、64億の人生の意味があるということです。 これは”特異性、唯一性”は意識的に確保する必要がるというような道徳論ではありません。意識的しようがしまいが、”特異性、唯一性”はいやでも確保されるように「心」のありようが初めからそうなっているということです。 こんな感じです。 そして、私が「すごいなぁ」と思うのは、以上のようなことが、決して、我々が意図してそうしたのではないということです。「そのように出来ちゃっている」ということ、これが、私は「すごいなぁ」と思います。
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- hakobulu
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#3です。ご返事ありがとうございました。 >そうすると、その化学作用(感じ方)を意図的に変えるのは難しそうですね。 :確かにおっしゃるとおりなのですが、たとえば「痛み」という感覚を例に取ると、 これは「痛みを感じる化学物質」が神経間で受け渡しされるためだということのようです。 化学作用という観点でこの物質の発生を完全に抑えることはできないかもしれません。 しかし、「意志する」ことによってこの物質の量を制御することはできるのではないか、と個人的には思っています。 では、その意志はどこから出てくるのかということになってくるでしょう。 ご存知と思いますが、脳には海馬という記憶を司る部分があります。 意志は、ここに蓄積されている記憶とDNAに保管されている生まれる以前の記憶とを材料にした、前頭前野の働きによって生まれるのではないか、と考えます。 全くの素人なのでこの辺になると推測の域を出ませんが、 少なくとも「心」に関する事柄には全て脳が関与している、というか脳の引き起こす現象に他ならない、と考えて良いのではないかと思います。
お礼
再びご回答ありがとうございます。 >「意志する」ことによってこの物質の量を制御することはできるのではないか・・ >意志は、ここに蓄積されている記憶とDNAに・・ :新しい経験を取り込む→新しい記憶が生まれる→それを材料に加えた新しい反応の仕方 が生まれる→感じ方が変わる・意識に上る部分が変わる・「感」の流動の速度が変わる、と いうことはありそうですね。 >少なくとも「心」に関する事柄には全て脳が関与している・・・ :「感」とか「思」は自分の中でしか起こりえないということは、ぼんやりと分かりました。 ありがとうございました。
- ri-zyu
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科学的の言ったら脳の中の色々な物質の作用なんでしょうけど。 禅っぽく言うと、理屈(智)では解らないもの。 「我思う ゆえに 我あり」→たぶん禅では我思う前(分別する前)の自分が真実の自我なんでしょう。(自分に囚われていない)
補足
ご回答ありがとうございます。 「理屈(智)では解らないもの」を「解ることができる」ところも、体の一部ですか。 「我思う前の自分(自分に囚われていない)」は、どこですか。何モノですか。 また、そういう部分が「ある」と認識しているのは、やっぱり体の一部ですか。 つっこみまくってすみません。
- myrrb
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今のところ、心は何かという答えは出ていないと思います(というか検証する方法がないような・・・)。人間の行動のよくわからない部分を心と置いているような気が私はします。議論を恐れず、自分なりに回答します。 >「我思う ゆえに 我あり」の「思う」をしているのは、どこですか。 >うれしい悲しい淋しいと「感じる」ことをしているのは、どこですか。 これは脳でよいのではないでしょうか。ある行動を行ったと判定するためには、ある行動を行ったという認識をする必要性があると思います。思う・感じるといった行動をしたと自分が再認識できる機構はおそらく脳にしか存在していないのではないかと認知科学については、ズブの素人なのでそのように認識しております。 蛇足です。 「心」って何ですか。の問いには、心はありますがどのようなモノですか。の意味にとることができるのですが、果たして心というモノが実際にあるのかどうかは分かりません。私は、心というモノ自体はないのではないかと思っております。人によって、同じ出来事でも、うれしい悲しい淋しいと感じる違いが生じるのはその受け取り方・解釈の仕方が異なるのではないかと。それは、心ではなく、頭でやっていることだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >心はありますがどのようなモノですか。 実際そんな意味で質問しました。 「頭がやっている」ことの結果、発生した、感情、考えなどを、便宜上「心」と名付けて いる、ということですね(解釈、合ってますかねえ・・)。 ありがとうございました。
- hakobulu
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>「我思う ゆえに 我あり」の「思う」をしているのは、どこですか。 多分、「前頭連合野」ということになるのでしょう。 http://tmin.ac.jp/medical/10/frontal1.html >うれしい悲しい淋しいと「感じる」ことをしているのは、どこですか。 大脳辺縁系の一部である「扁桃核」ということだと思います。 http://trauma.or.tv/1nou/1.html http://www.shuyukai.or.jp/shikumi_dainouhenenkei.html ただ、いずれの場合も、 そこでの化学作用によって生じる認識を「心」と呼ぶことになると思うので、 上に上げた場所は「心を作り出す場所」と言っても良いかもしれません。 私としては、「心」は単なる概念にすぎないと考えるほうがわかりやすいと思っています。 まず、何らかの(あらゆる意味での)刺激を受けて脳に化学作用が起こり、その結果のひとつとして思ったり、感じたりするのでしょう。 同じ刺激を受けても発生する化学作用の内容が異なっており、それが個性などと呼ばれていくことになるのではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご紹介いただいたサイトは全て拝見しました。とても参考になりました。 >同じ刺激を受けても発生する化学作用の内容が異なっており、 それが個性などと呼ばれていくことになる 化学作用ですか。そうすると、その化学作用(感じ方)を意図的に変えるのは難しそうですね。 「感じたことについて思うこと」が違うのも、化学作用のしわざなのでしょうか。
- cse_ri2
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私が知る限りでは、この質問を心理学で答えるのはおそらく無理かと思います。 この質問に対する答えを有するのは、宗教・哲学といった分野ですね。 もっとも、それを信じるか信じないかは質問者の方次第ですが……
補足
ご回答ありがとうございます。 実感として理解できるかどうか、確信できるかどうか、ではなくて、信じるか信じないか、ですか? 体という物理的なものに支配されずに、恒常的に何かを求めている「心」のようなものがあるのではないかと、 ぼんやり思っていたのですが、私は、そこについて、わりと必死で「分かりたい」と思っています。 ご迷惑でなければ、入り口だけでも教えていただけませんか。 ずうずうしくてすみません。ありがとうございました。
- aqa2006
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私の好きな本に書かれている言葉です 「心はかたちもなければ存在もしないよ」 「心ってちゃんとあるわけじゃない 波がたつように ただ起こるだけ」 あまり書くと著作権に触れるかもしれないので興味があるなら参考URLをどうぞ
お礼
ご回答ありがとうございました。
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お礼
たびたびありがとうございます。どこまで理解できたのか不明ですが、再び感激しました。 ごちそうさまです(+合掌)。 すみません、哲学の知識がないので、(なるべく自粛して)感覚で書きます。 ここは「メンヘル」のカテではなく「心理学」のカテなのですが(笑)、私はメンタルわずらいです。 自分感(?)とか当事者感(?)が著しく希薄です。精神的卒乳が出来ていない、とも言います。 >「物質的秩序」からの「精神的自由」 :これを得るのが回復だと言われています。 「『物質的秩序』からの解放」という願望を消せるわけないのに「物質的秩序」にしがみついている、 とも言います。「心」が怖くて消そうとしていたとも言います。 実際、少し前まで、自分が生きていることを理解できず、自分はロボットだと思っていました。 自分はラジコンカーで、操縦する人(物理的・肉体的秩序+人間自身が生み出した制度や道徳や常 識など)がいないと動かないものだと思っていました。今は、ようやく「解放される願望」を受け 入れる訓練中で、まだ「心」が自分に馴染んでいない感じで、よちよち歩きなのですが。 >日々新たに創られていくようなもの :私は今のところ「日々是喪失」という感覚の方が強いです。 >特異性、唯一性 :すみません、うまく実感できないのですが、当たり前に、もともと持っているということですね。 私は、「物質的秩序からの解放」という願望が、消えないで(消えるわけないですね)、ちゃんと病 気になったことを、すごいな~と思います。 以前、「17歳のカルテ」という映画(ご存知ですか?)の中で、アンジェリーナジョリーに「どう して殺してくれないの?」と言われて、ウィノナライダーが「とっくに死んでるからよ。あなたは 心が死んでるわ。」と答えるのを見て、「私のことか?」「心って何?」と気になっていました。 とても参考になりました。長くてすみません。ありがとうございます。