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心がどこにありますか?
心がどこにありますか。脳、それとも胸? よく言われていますが、なかなかわかりにくい”心”とは、一体何を意味する のでしょうか?
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ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。 上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関係にあるのか、また、「身体」「肉体」などとの関係はどうなっているのか、というようなことも問題になります。 しかし、この質問は、日常的な言葉の用法に見られる、例えば、「真心をこめて」とか「こころが感動する・こころが痛む」などの「真心」とか「こころ」は何か、どこにあるのか、というような質問だと考えられます。これも心理学の問いだということになります。 「こころ」の用法としては、その他にも、「ああいう殺人犯は、人間でない、こころなどないのだ」とか「こころのこもっていない言葉」とか、「こころから感動しました」などがあります。 あまり厳密な話でありませんが、「こころ」は、胸、大体、心臓のあたりにあると考えた方が妥当です。この場合、心臓のあたりに「実体としてのこころがある」のでは「ない」のです。人間を解剖すると、心臓のあたりに「こころ」が見つかるという話ではありません。 phantom limb という概念があります。日本語では、「幻肢」または「幻覚肢」といいます。これは、怪我や手術などで、手や脚などが切断されてない人が、何かの折に、生き生きと存在しないはずの手足が「ある」と感じる現象です。ないはずの手足が痛むこともあり、これを「幻肢痛」といいます。 どうして、こういうことが起こるかというと、人間の大脳のなかには、「身体図式」と大まかに言うのですが、「身体の姿」についての記憶の形があり、普段は、実際の身体から送られる感覚などと、この身体図式の身体の認識が重なっているので、身体図式は分からないのです。 しかし、手や脚などが失われた場合、身体図式は、かなり安定したものらしく、手足の喪失に応じて身体図式は変わりません。それゆえ、何かのきっかけで、身体図式の方の足や手が認識されたとき、失われているはずの手足が、存在するような感覚が起こり、これを、「幻肢」というのです。 「幻肢」について述べたのは、心が胸にある、と言ったとき、この「胸にある」というのは、一種の「幻心」のようなものとして、胸のあたりに感じられる・認識されるということです。心が大脳にあるのか、精神や霊という、肉体を超えた実体にあって、それを大脳が認識し、更に、胸のあたりに位置つけているのか、はっきりと分かりません。ここは昔から議論されているのです。 しかし、「幻心」とか言いましたが、日常的な体験で、「心」が胸のあたりにあるように感じられる、感じるというのは事実なのです。従って、こころは胸あるいは胸のあたり、心臓のあたりにある、と考えて差し支えないということです。 どうしてそうなるのかといえば、「心身相関」というものがあり、感情的に強く心が動かされると、身体にも生理的変化が生じ、内臓などにも変化が起こるのですが、第一によく感じられるのは、心臓の鼓動であり、これと関係して胸の筋肉などに、ある程度の感覚が生じるためだと思えます。 「胸がときめく」というのは、比喩ではなく、実際に心臓が動悸するのです。「胸に痛みを感じる」というのも、「思考や感情レベルでの認識」に応じて、胸のあたりに、痛みの感覚が実際に生じるのです。 この場合、「心臓の鼓動」は、胸にある心臓という臓器の活動で、はっきり胸で感覚が起こっていることになりますが、「胸が痛む」場合は、胸の筋肉が実際に痛みをもたらしているのか、大脳の感覚運動-感情心理システムのどこかで、胸の痛むが生まれているのか、場合場合で違うことになります。 「胸が痛む」とは「大脳のなかのできごとだ」というのは、多分そうなのかも知れませんが、ここまでいうと、精神機能はどういう機構で成立しているのか、精神や魂は、何が実体化という問題になってきます。 そういう問題に入らなくとも、「こころが痛む、胸が痛む」というのは、実際に、胸や心臓が痛むのであり、そこから、もっと広い意味で、比喩的に、別に胸など痛んでいない評論家などが、「こういう事件を聞きますと、胸が痛みますね」などというのですが、こういう表現の起源は、やはり、感情的に痛切なことがある場合、「胸が実際に痛む」ので、成立したのだといえます。 キリスト教では、人間を四元論的に捉えると述べて、その具体例を説明した文章があります。以下の参考URLです。 この場合、英語については、「魂」に対し、mind, soul と二つ書いています。実は、mind も soul も、「魂」というよりは、日本語でいう「こころ」に近いものです。「魂」と「心」はどう違うのかという話は難しいですが、大体、おおまかな所では、「魂」は、生命の根拠である何かの実体で、これが失われると、人は死ぬか、または、「魂の抜け殻」というような表現があるように、その人固有の「人である根拠」が消え、あたかも、身体だけが残っているようになるというようなものです。 それに対し、「心」は、「魂」の持つ機能だとも考えられるのですが、魂の働きで、主に調和的で、健全な働きを行っている場合の魂の状態、あるいは、そういう状態の魂の特定の位相、見え方だといえます。 「魂がない人」は死んだ人ですが、「心ない人、心のない人」は、「魂のない人」ではなく、無論、死んだ人でもないのです。(魂の働きが不調和な人、健全でない、マナーに合わない人ということになります)。 「こころ」があるかないかは、人と人との交流、関係で、その言動などが、「広義のマナーにかなっているかどうか」の問題だということになります。そして、「広義マナーにかなっているかどうか」というのは、自然な感じ方では、例えば、愛する人が亡くなったりすれば、「心が激しく痛む」のです。あるいは、「憐れみの心」というのか、不幸な人や悲惨な目にあっている人を見ると、「同情の心」が起こり、これはやはり「胸の痛み」として感じられるのです。 ラテン語で、心を、cor といいますが、これはフランス語の coeur(クール)という言葉が派生していますが、クールは、ラテン語の元の意味がそうであるように、「心臓、胸、心、心情、本心、真心、勇気」などの意味があります。「勇気」も、やはり、心臓の鼓動に関係するのです。 フランス語で、cordial(le) という形容詞が cor から派生してあり、副詞もあります。英語はこれを受けて、cordial とか cordially という形容詞、副詞があります。これは「心から」というような意味になります。 「心ない人」とか「真心をこめて」などの「心」は、ラテン語やギリシア語では、内臓器官としての「心臓」と同じ言葉になります。英語でも、heart というのですし、「ハート」は、心臓の意味と、心の意味の両方があります。ドイツ語では、これに当たるのは、Herz といい、これも心臓と真心などの心の両方を意味します。 「魂」という概念を出すと、「心」と「魂」は連続しているように把握され、英語の mind とか soul は、前者は、「心の機能、魂の機能」などを主に意味するラテン語の mens から派生したのですが、「魂」の意味ももつのです。soul は、英語というか、ゲルマン語族に固有の独特の言葉で、「魂」とも「心」とも言え、かなり難しい微妙な概念の言葉です。 しかし、soul(ドイツ語では、Seele)は、やはり、心臓・胸のあたりにあると考えられます。 「こころ」は、胸のあたり、心臓のあたりにあるのです。この場合、「ある」というのは、「あると感じられる」のです。心が感動するとき、痛むとき、茫然として心が失われるとき、実際に、胸や心臓で、そういう感覚が起こるのです。 それは、みかけの話で、実は、大脳にあるのだ、というような話は、「心の実体」「心の機能の実体」の所在を問題にしていることになり、それは色々な説や解釈があるのだということになります。 こころとは何か、というのは、人には意識や感情があり、心身の相関で、それはまた身体にもあるとも言え、意識や感情を感じる機能が「こころ」であるということになります。 そして、このような意味での「こころ」はどこにあるのか、と言えば、それは胸や心臓のあたりにある、というのが答えです。 (「冷血」というような言い方は、心に衝撃を受け、心が消えるような体験の場合、心臓や胸のあたりが、実際に、冷たくなるという経験があるので、そこからこういう表現が成立したのだとも考えられます。「冷血漢」というのは、血液が冷たいのではなく、心臓=心が冷たく、それゆえ、血も冷たいので、「心ない人」「心の冷たい人」と同じような表現だと考えられます)。 >No.361230 質問:キケロの格言の原文 >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230
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- winkler
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”心が痛い”とか”心が晴れる”とかいうとき、実際物理的に痛かったり気分的に晴れたりするのは頭ではなく胸の辺なので、心は胸にあると思います。最近気が付いた事は、悲しかったり切なかったりするときは心臓近辺が痛いんですが、緊張したりストレスを感じたりするときは胃のあたりが痛いんですよね。 頭(脳)で考えて心(胸)で感じている気がします。
医学的とか何とか的とか難しく言うと、脳にあるんだそうですね。 失恋したり、辛いことがあったとき、胸がズキッと痛むので、 なんとなく胸にありそうな感じをうけます。
感情は脳の中の分泌ホルモンによって湧き起こる したがって脳にある。
- til
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心はどこにありますか と、いう一文をみて一番最初に思ったのは、胸かな~ でも、よくよく考えてみると、別に心というものが胸にあるわけでもなく いったいどこにあるのでしょうね(--) 心って、いったい何なんだろ?? 感情?気持ち?う~ん、、難しい こころって、人それぞれだと思うし(--)う~ん でも、絵をかく時は、こころ(ハート)って胸のところにかきますよね こころは、心臓??やっぱり気持ち?? それさえわからなくなってしまったです でもきっと、「こころ」は人間の体のどこかにあるのでしょ~ 「こころ」ってきっと、人の真ん中にあるものなんだと思います 頭で考える!だから心は頭(脳)にあるっていうのも納得だけど、 その頭で考えるのはいったいどこからそれが考えられるのか?? その脳で考えられる指令される考え、感情はどこからくるのだろ?? きっと、それが「こころ」からなんだろうと思いまする 書いててなんだか、わけわからん文章に。。。 わたくし論でした
- tokoteku
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こちらからどうぞ。
お礼
確かに、”心”でものを見よ、と哲学の賢者達にはよく言われているような 言葉ですが、この場合の”心”の意味は、明らかに生理的、社会日常的に使わ れているな意味と違っています。これで、”心”は実体のないような超越的な 存在となっているような感じもします。 これは学問的な”心”ですね。この場合で、この”心”を感じること、理解 することはだれでもできるようなものではない感じがします。また誰にもわ かるように説明することも難しい感じがしますね。
この質問を、まぁ40人位の教室で、したとします。 7割の人は、頭を指差します。 2割位の人が、胸を指差すでしょう。 ところが、あと1割位の人は、どこだろうか?と迷うと思います。 この、即座に、ここ!と指差す事ができず、迷っている人を理解してあげること。これが、“心”ではないでしょうか。 人を、理解する(理解しようと努力する)ことを、意味すると思います。
お礼
>2割位の人が、胸を指差すでしょう。 普通の社会では、相手に何かの”心”からの意を表すとき、殆ど手を胸に 当てますね。ある意味で、日常的な生活では胸(?心臓)が心の代わりに使 われているような感じもします。 >人を、理解する(理解しようと努力する)ことを、意味すると思います。 そうも言えますね。動物と違って、ある知能的な要素も”心”の一部の感じ もします。 ご返事ありがとうございました
- tyoukaifusuma2
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脳です。 何かを感じたり考えたりという機能がある器官は 脳以外に存在しません。 恋をすると食欲が無くなる、胸が痛くなるなどの 諸症状が現れますが、それは自律神経のせいです。 その自律神経は脳が司ってます。
お礼
ご返事ありがとうございました。 生理的にみれば、脳以外ないでしょうね。脳に例えどんなに小さな損傷的な ものはあれば、人格を含め、体全体に影響を及ぼしますね。
お礼
>でも、絵をかく時は、こころ(ハート)って胸のところにかきますよね >こころは、心臓??やっぱり気持ち?? >それさえわからなくなってしまったです う~ん、私もそう感じています。 ”人生いろいろ”とのタイトルの歌の中に”…あなたの心がよくわから ない…”の言葉に非常に共感しています。時に、自分が一番大事にしていて、 よく感じて(?使って)いる自分の心さえわからないのに、他人の心をわかる ことは簡単ではないでしょうね。”心”が体の魔女みたいな存在のときもあり ますね。 >でもきっと、「こころ」は人間の体のどこかにあるのでしょ~ それぞれの個体としての存在を超えて、知性を持つ人間の共通的な要素とし ての姿で、”心”が現れてくることですね。 人間と人間、人間と自然の調和・共存していくのに、必要とする人間の友愛 や、文化などの作り出しには、この人間の”共通的な心”は大きく寄与してい ると思われます。 ある意味では、人間がいるところに心がある、心があるこそ、人間として存 在し得る、とも感じますね。